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本編
13 外で頭を冷やしてきます
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ガラスの割れる音。そして突然の流血に、僕はらしくもなく動揺して、口元を押さえるようにしながら後ろにさがった。
今は彼女から一刻も早く離れなければならない。何故ならそうしないと、今すぐにでも彼女の首筋に牙を突き立て、その肌の下に通う温かい血を飲み干したいという衝動に駆られていたからだ。
「すみません……どうやら僕にはその匂いは刺激が強いようです」
エリカたちの夕食に参加して、アヒルに監視されながらも僕は、温かい雰囲気に呑まれてうたた寝をしてしまったようだ。
油断していた。彼女といると、どうにも気が緩む。普段眠ることのないはずの僕が……あり得ないことだった。
それも起きたばかりの、このタイミングで流血を目にするのは流石に不味い。
吸血鬼を相手にするとき、なにが一番不味いかというと、実は弱点に見られがちな就寝時が一番危険だ。寝起きの吸血鬼は本能のままに自らを守ろうとする。攻撃は最大の防御を実践するわけだ。
通常の倍の速度で動き、力も加減など一切しない。だからこそ、同じ吸血鬼同士は特に、寝起きの同族に近付いてくる愚か者はいない。
人間でもその手の界隈に精通する者以外、あまり知られていない知識だ。
もちろん、彼女は知りもせず、僕に近づいたのだろう。
僕も自分は睡眠とは無縁のものだと安易に考えていた。それが裏目に出た。
──血を飲んでいない影響が出ている。
人のときには感じたことのない、喉の渇き。しかし、渇望して理性を失うほどじゃない。まだ数週間は耐えられる程度に余裕はあったし、正直、吸血鬼の体には診療所で目を覚ましてから三日目には慣れた。
それでもあえて人間と同じ生活をしているのは、小屋の同居人であるエリカの監視をするのに丁度よいからだ。
この吸血鬼の体は、おそらく最古の吸血鬼に近い。そのせいか、普通の個体であったら耐えられない日中の日の光の中を歩くことができた。
眩しさは感じるものの、日傘を差せば問題ない。日傘はスピアリング卿と書簡のやり取りをしているときに、用意をお願いした。
エリカと僕が一緒に過ごすようになってから七日目、
記憶はなくとも生活様式とか最低限の知識は覚えているので、そう支障は無い。それよりも気になるのは……
何やら薄い小冊子を手に、アヒルと一緒にあらゆる物の陰からこちらを見ている。彼女のことだ。
書簡の内容からほぼ事態は把握したし、ほんの暇潰しだった。
いつもこちらを気にしているのに話しかけることもなく、物陰にいるあの二人。
なんとなく面白くなって、後をついてこようとしない彼女が後をつけたくなるよう、罠をしかけた。夕食を始める前の時間帯──いつもより少し早く、足元がまだ見える夕暮れ時に外へ出ると、彼女はついてきた。やはりアヒルも連れて。
それから、ほんのお遊びのつもりでアヒルとにらめっこすること一時間。餌につられて出てきた小動物を捕獲するつもりが……足が痺れて転がり出てくるとは思いもしなかった。
彼女の足が痺れていることは、地面に座り込んでいる彼女に手を差し出したとき分かった。何でもないと誤魔化すように笑ってはいるけれど、迷ったように僕の手を取ることを避けたからだ。
そこで内心悪いことをしたと、ほんの少し罪悪感が生まれた。それから吸血鬼になってしまった体には忘れていた感覚──冬は寒いということに、転んだ地面に座り込んだまま震えているエリカを見て思い出した。
人間は脆い。それも彼女は……新しい妹は特別弱いと痛感した。
僕の心は人間のままと彼女は勘違いをしているけれど、記憶はなくとも、僕はもう、吸血鬼の本能を理解していた。いざとなれば、力を行使することもいとわないだろう。
最初は単なる監視だった。
けれど彼女が愚劣な振る舞いをとるような人間でないことは、この七日間で気付いていた。それでも人間と同じ行動習慣を取り続けるのは、このひ弱な生き物が、僕も同じ人間の感覚でいると、そう勘違いしている方が安心すると分かったからだ。
彼女には恩がある。そして名ばかりとはいえ、彼女は僕の妹だ。守るべき対象にある。
事務的にそう処理しようとしていた。
しかしそんなときに起こったのが、今回の流血だった。
うたた寝している僕に襲われかけた癖に、彼女は無防備過ぎた。あまりにも簡単に他人を信用し過ぎる。彼女は僕の異変に気付いたにも関わらず、優しく僕の頭を撫でて落ち着かせようとしたのだ。僕を怖がっている癖に。彼女の手は震えていた。
頭を撫でる優しい手の感触にふと我に返って、
義兄妹とはいえ、腹を空かせた吸血鬼相手に、血を吸い付くされたらどうするつもりなんだと、一瞬目眩がした。
僕が彼女に何をしようとしていたか。気付いてないわけがないだろうに……
僕に無防備過ぎると注意されて、怯えた顔を見たとき、「逃げられたか……」と思った。
金と権力目的で擦り寄ってくる薄っぺらい感情。もちろん、自分の容姿があらゆる相手を魅了するモノだということは自覚していた。表面的なものに惹かれてやってくる他の女達と彼女も同じだ。僕がひと睨みすれば逃げ出す。
新しい妹は死ぬほど弱い。いつも何かに怯えていて、怖がっている。だからどうせ、彼女も自分にとって安全な場所──自室にでも逃げ出すだろうと、そう高をくくっていた。
が、彼女が選んだ先はそんな甘いものじゃなかった寧ろ、究極だった。
止める間もなく、彼女は自分を罰するように、外の世界へ去ろうとした。人間の身では冬の外界は寒いだろうに。しかし彼女は僕の前から消えることを、少しも躊躇わなかった。
おそらくは少しでも僕から離れるため。彼女は気付いていた。血の匂いに酔った頭で、まともな思考が働かないでいる僕に。
だからといって、そこまで簡単に自分の安全を捨てられるものなのか……。そんなことが躊躇なく出来る彼女は、本当に弱い人間なのだろうか……?
──驚いて、僕にしては珍しく言葉を失い、止めるのが遅れた。
彼女は義理の妹。そうは言っても繋がりなど殆どあってないようなものだ。だが、彼女の去って行く後ろ姿に、酷い喪失感と、彼女を守れという感情が押し寄せた。
これは今の僕ではない。本来の僕──五百歳を越える吸血鬼となった彼の感情だ。僕は彼ではないというのに。
その感覚は最初からあった。けれどここまで強くはなかったはず……
もどかしい。さっさと記憶など戻ってしまえばいいのに。と思うくらいに、彼女のことになると感情がかき乱されやすくなる。苛立ちに、彼女の視線すら最初は疎ましく思えたほどだ。
出ていこうとする彼女に追い付き、手を軽く扉に置くだけでいい。彼女は出られなくなった。出ていく必要はないと告げて、それで事をおさめようとした僕に、しかし彼女は聞いてきたのだ。
血を吸っていないのではないかと、
そして何より驚いたのが、彼女に僕が血を吸う行為に躊躇いがあることを見抜かれていたことだ。
気付かれていたか──と、感じた途端、急激に血への渇望に疼きが湧いた。だから聞いた。
「そうですか……では、以前の僕たちはどうだったのでしょうか?」
「以前の、私たち…………………………………………………………」
いったい君は僕にとってのなんなのだと。しかし──
やはり答えられないか……
確信的なことを聞いた。けれど彼女は想定していた通り黙ってしまった。だから次は別の質問をすることにした。彼女は今、自分のことで手一杯になっている。扉を背に僕に追い詰められる格好で、戸惑いを露にしている。可愛いと思った。
こちらのことなど見ていないのをいいことに苦笑して、それから一番聞きたかったことに話を進めた。彼女の反応がどうなるか、容易に想像はついたが、それでも僕は聞きたかった。
「そして最後に一つ、……スピアリング卿の書簡で知りました。君は僕に家族を奪われたのだと」
一生懸命な顔が可愛すぎて、少しいじめすぎたかもしれない。彼女はもう、一杯一杯な顔をして泣きそうだ。
「僕から奪い返してやろうとは思わないのですか?」
だから、この質問にも答えられなかったとしても、僕は追及するつもりはなかった。けれど……彼女は僕が大切なモノを奪った酷い吸血鬼だと知った上で、僕を助けた。その理由がどうしても知りたいと、僕は思ってしまった。
*
「奪い、返す……?」
小屋の出入り口の扉を背に、セオドア様に見下ろされている……ガラスで傷付いた私の手を、ハンカチで包んで優しく握ったまま、セオドア様は動かない。
セオドア様の沈黙が、視線が、私の本心を知りたがっていることを感じて、もう誤魔化せないと思った。
「私は昔、ずっと男の子になりたいと思っていました。そうすれば少しでも、リアード様に近付けるんじゃないかと思って。お義兄様に引き取ってもらえるんじゃないかって……」
「…………」
リアードと一緒にいたくて、昔は取り戻そうとセオドア様の屋敷に通いつめたこともあったけれど……
「でもそうじゃないって気付いたんです」
「何に気付いたのですか?」
「お義兄様はリアード様の家族です。そしてリアード様はお義兄様の大切な家族です。そして私にとってお二人は……ただ大切な方たちなのです。だから幸せになって欲しい。だからきっと、奪うとかそういうことではないんです」
家族を失った寂しい気持ちはきっとずっと消えない。ずっとある。でもそれが今の私の素直な気持ちだった。だからちゃんと笑おう。そうすればきっと本心だって、セオドア様に信じてもらえるから。
「安心してください。私は自分の分をわきまえています。私が仮の家族ではいささか役不足だと思いますが、お義兄様が安心していられるよう頑張ります!」
「ですが君は……」
「それに、お義兄様が本当の家族の元へ……リアード様の元へ戻れるよう私もお手伝いします。だから大丈夫ですよ、お義兄様」
本来のセオドア様がけして門戸を開くことを許さなかった私が、家族の輪に入れないのは重々承知していた。
泣いている迷子の小さな子供がいたら抱き締めて、背中をさすって「大丈夫だよ」と声をかける。そして泣き止むまで傍にいて、安心させてあげたくなる。
きっとこれはそれと同じことだから……
「私にできることがあればなんでもおっしゃってくださいね」
偽物の家族の私にできるのは、ここまでだ。
人間のセオドア様が安心できるように、それを演じるまでなら、どうか今の関係を許して欲しい。──けれど、セオドア様に触れられていた手が、近い将来の別れを予感して震えてしまった。
「すみません、僕の手は……」
「あ、違うんですっ」
自分の冷たい手に触れていたせいで、冷えてしまったのかもしれないと勘違いして離れていく手を、私は咄嗟に掴んだ。
「大丈夫ですよ、お義兄様。ほらっ私の熱が移ってお義兄様の手も大分温かくなってます。もう少ししたら、お義兄様も私と同じくらいの体温になりますよ?」
にっこり笑って、今度は私の頬にセオドア様の手を当ててみる。恐らく、このことに人間のセオドア様は気付いてらっしゃらない。吸血鬼の肌は相手の熱を移して温かくなることを改めて説明すると、
「温かい……」
自分が温かくなっていること、それが不思議だというようにセオドア様が呟く。試すように軽く頬を撫でられて、くすぐったい。良かった。私の頬に触れるのは嫌ではなさそうだ。
「どうして君はそんなに……」
「お義兄様……?」
その戸惑っている様子に、私はふと一つ心当たりを思い出す。そっか、これはきっと……
「ふふっ私、焼き芋ではないですよ?」
アヒルちゃんに渡された草焼き芋で、セオドア様が手を温めているように見えたのを思い出す。それにしても、セオドア様に妹ではなく、焼き芋と思われるとは……なかなか新鮮な体験で楽しい。
「焼き、芋……」
何故だかキョトンとした表情というより、珍しく驚いたような顔でセオドア様が呟かれたけれど、
普段なら寒そうにしている子がいたら、ブランケットや毛布で包んで温めてあげたくなってしまうところだが、暑さ寒さには強いとおっしゃっていたし。確かにセオドア様は冬にしてはいつも軽装だ。言葉通り、吸血鬼には寒さなど関係ないのかもしれない。でもあんまり軽装だと寒そうで少し心配にはなる。
「お義兄様が温まりたいときはおっしゃってください。私、基礎体温は高いんです。私がお義兄様の焼き芋になります……!」
焼き芋で暖を取るのは、庶民の間では冬定番だ。
でも、貴族様相手なのだから、湯たんぽとかにした方が良かっただろうか……
ちょっぴり驚いたような、不思議な顔をしているセオドア様の手にそっと手を重ねて、今度は私がハンカチみたいに包み込む。
「大丈夫ですよ、お義兄様。私がちゃんとご家族の……リアード様の元へお返ししますから」
そのためならなんでもします。とは言ったものの。実はどうやってご家族のところへお返しすればいいのか、何も考えていないどころか、何も思いつかない。
神童のリアードならこんなとき、ぱぱっと素晴らしい案を考えつくのだろうけど……やっぱり私は三流だった。
「ご親切にありがとうございます。エリカは優しい子ですね」
優しいとか言われた……気後れしてしまうし、何だかちょっと照れちゃう。熱くなった頬を両手で抑えながら、嬉しくてセオドア様に微笑みかける。けれどセオドア様は……
「あ、お義兄様? どちらへ行かれるのですか?」
「やはりスピアリング卿から血が届くまで、それまで僕には近付かない方がいい。僕は少し……外で頭を冷やしてきます」
そういい残して、セオドア様は冬の寒い外界を歩くにはあまりにも軽装な格好でドアを開け、出ていった。
*
「さっきは本当に血を吸われるかと思った……」
今さら自室に戻った後で床にへたりこむ。
ありがとうございます。とお礼を言われたとき、セオドア様が綺麗な微笑みを浮かべていたのを思い出し、ため息をつく。
首筋に歯を立てようとしたセオドア様の、あの虚ろで妖艶な眼差し……怖かったけど、でも……
夢見心地な顔をしていたセオドア様は、意識がハッキリしていなくても私を傷付けようとはなさらなかった。寧ろ……血を吸われてもいいと思ってしまった自分がいる。こんなことって……
女なのに理性がガラガラと崩れそうな気がして、困る。なんでセオドア様は……あんなに綺麗なの? 男の人なのに吸血鬼で理性的とか、セオドア様は信じられないくらい紳士で優しい。
そうして考え事に夢中になっていたら──ポフッと、柔らかいものが膝に降ってきた。
「あ、アヒルちゃん、ごめんね。起こしちゃった?」
ベッドで爆睡中だったオムツ姿のアヒルちゃんが、起きてしまったらしい。床でへたり込んでいる私の膝に嘴を乗せて、こちらを見上げていた。「どうしたの? 大丈夫?」と、心配そうに嘴を膝にポフポフ乗せてくる。
「アヒルちゃん、どうしよう……お義兄様は優しいの……すごくすごく、優しいの……」
アヒルちゃんを抱っこしてギュッとする。丸くてフワフワで温かくて優しくて、ホッとする。
こんな役立たずの基準値以下の私に、今のセオドア様は笑ってくれる。本来ならその視界に入れてもらえる価値すらない私を、懐に入れてくれる。
セオドア様の記憶が戻ったら、私はそれを失うことになるのね……
奪われるのではなく、本来のあるべき形に戻るだけなのに……切なさにじわりと涙が滲む。
心配そうにアヒルちゃんが見つめてくる。何故だかアヒルちゃんも泣きそうだ。
「どうしよう私……お義兄様のこと、好きになってしまった……」
セオドア様は私が困ることを察しているのだろう。記憶を失ったセオドア様の唇を奪ってしまったことを、一度も話題にしない。逆に、責めるどころかセオドア様はずっと、こんな弱くて泣いてばかりの私に優しくて……
今のセオドア様にはこんな私でも必要なのかも知れない。でも……記憶が戻れば、セオドア様は元に戻って、私なんか必要なくなる。
また元の、赤の他人同然の関係に戻ってしまうのが、今から寂しくてたまらなくなってしまった。
今は彼女から一刻も早く離れなければならない。何故ならそうしないと、今すぐにでも彼女の首筋に牙を突き立て、その肌の下に通う温かい血を飲み干したいという衝動に駆られていたからだ。
「すみません……どうやら僕にはその匂いは刺激が強いようです」
エリカたちの夕食に参加して、アヒルに監視されながらも僕は、温かい雰囲気に呑まれてうたた寝をしてしまったようだ。
油断していた。彼女といると、どうにも気が緩む。普段眠ることのないはずの僕が……あり得ないことだった。
それも起きたばかりの、このタイミングで流血を目にするのは流石に不味い。
吸血鬼を相手にするとき、なにが一番不味いかというと、実は弱点に見られがちな就寝時が一番危険だ。寝起きの吸血鬼は本能のままに自らを守ろうとする。攻撃は最大の防御を実践するわけだ。
通常の倍の速度で動き、力も加減など一切しない。だからこそ、同じ吸血鬼同士は特に、寝起きの同族に近付いてくる愚か者はいない。
人間でもその手の界隈に精通する者以外、あまり知られていない知識だ。
もちろん、彼女は知りもせず、僕に近づいたのだろう。
僕も自分は睡眠とは無縁のものだと安易に考えていた。それが裏目に出た。
──血を飲んでいない影響が出ている。
人のときには感じたことのない、喉の渇き。しかし、渇望して理性を失うほどじゃない。まだ数週間は耐えられる程度に余裕はあったし、正直、吸血鬼の体には診療所で目を覚ましてから三日目には慣れた。
それでもあえて人間と同じ生活をしているのは、小屋の同居人であるエリカの監視をするのに丁度よいからだ。
この吸血鬼の体は、おそらく最古の吸血鬼に近い。そのせいか、普通の個体であったら耐えられない日中の日の光の中を歩くことができた。
眩しさは感じるものの、日傘を差せば問題ない。日傘はスピアリング卿と書簡のやり取りをしているときに、用意をお願いした。
エリカと僕が一緒に過ごすようになってから七日目、
記憶はなくとも生活様式とか最低限の知識は覚えているので、そう支障は無い。それよりも気になるのは……
何やら薄い小冊子を手に、アヒルと一緒にあらゆる物の陰からこちらを見ている。彼女のことだ。
書簡の内容からほぼ事態は把握したし、ほんの暇潰しだった。
いつもこちらを気にしているのに話しかけることもなく、物陰にいるあの二人。
なんとなく面白くなって、後をついてこようとしない彼女が後をつけたくなるよう、罠をしかけた。夕食を始める前の時間帯──いつもより少し早く、足元がまだ見える夕暮れ時に外へ出ると、彼女はついてきた。やはりアヒルも連れて。
それから、ほんのお遊びのつもりでアヒルとにらめっこすること一時間。餌につられて出てきた小動物を捕獲するつもりが……足が痺れて転がり出てくるとは思いもしなかった。
彼女の足が痺れていることは、地面に座り込んでいる彼女に手を差し出したとき分かった。何でもないと誤魔化すように笑ってはいるけれど、迷ったように僕の手を取ることを避けたからだ。
そこで内心悪いことをしたと、ほんの少し罪悪感が生まれた。それから吸血鬼になってしまった体には忘れていた感覚──冬は寒いということに、転んだ地面に座り込んだまま震えているエリカを見て思い出した。
人間は脆い。それも彼女は……新しい妹は特別弱いと痛感した。
僕の心は人間のままと彼女は勘違いをしているけれど、記憶はなくとも、僕はもう、吸血鬼の本能を理解していた。いざとなれば、力を行使することもいとわないだろう。
最初は単なる監視だった。
けれど彼女が愚劣な振る舞いをとるような人間でないことは、この七日間で気付いていた。それでも人間と同じ行動習慣を取り続けるのは、このひ弱な生き物が、僕も同じ人間の感覚でいると、そう勘違いしている方が安心すると分かったからだ。
彼女には恩がある。そして名ばかりとはいえ、彼女は僕の妹だ。守るべき対象にある。
事務的にそう処理しようとしていた。
しかしそんなときに起こったのが、今回の流血だった。
うたた寝している僕に襲われかけた癖に、彼女は無防備過ぎた。あまりにも簡単に他人を信用し過ぎる。彼女は僕の異変に気付いたにも関わらず、優しく僕の頭を撫でて落ち着かせようとしたのだ。僕を怖がっている癖に。彼女の手は震えていた。
頭を撫でる優しい手の感触にふと我に返って、
義兄妹とはいえ、腹を空かせた吸血鬼相手に、血を吸い付くされたらどうするつもりなんだと、一瞬目眩がした。
僕が彼女に何をしようとしていたか。気付いてないわけがないだろうに……
僕に無防備過ぎると注意されて、怯えた顔を見たとき、「逃げられたか……」と思った。
金と権力目的で擦り寄ってくる薄っぺらい感情。もちろん、自分の容姿があらゆる相手を魅了するモノだということは自覚していた。表面的なものに惹かれてやってくる他の女達と彼女も同じだ。僕がひと睨みすれば逃げ出す。
新しい妹は死ぬほど弱い。いつも何かに怯えていて、怖がっている。だからどうせ、彼女も自分にとって安全な場所──自室にでも逃げ出すだろうと、そう高をくくっていた。
が、彼女が選んだ先はそんな甘いものじゃなかった寧ろ、究極だった。
止める間もなく、彼女は自分を罰するように、外の世界へ去ろうとした。人間の身では冬の外界は寒いだろうに。しかし彼女は僕の前から消えることを、少しも躊躇わなかった。
おそらくは少しでも僕から離れるため。彼女は気付いていた。血の匂いに酔った頭で、まともな思考が働かないでいる僕に。
だからといって、そこまで簡単に自分の安全を捨てられるものなのか……。そんなことが躊躇なく出来る彼女は、本当に弱い人間なのだろうか……?
──驚いて、僕にしては珍しく言葉を失い、止めるのが遅れた。
彼女は義理の妹。そうは言っても繋がりなど殆どあってないようなものだ。だが、彼女の去って行く後ろ姿に、酷い喪失感と、彼女を守れという感情が押し寄せた。
これは今の僕ではない。本来の僕──五百歳を越える吸血鬼となった彼の感情だ。僕は彼ではないというのに。
その感覚は最初からあった。けれどここまで強くはなかったはず……
もどかしい。さっさと記憶など戻ってしまえばいいのに。と思うくらいに、彼女のことになると感情がかき乱されやすくなる。苛立ちに、彼女の視線すら最初は疎ましく思えたほどだ。
出ていこうとする彼女に追い付き、手を軽く扉に置くだけでいい。彼女は出られなくなった。出ていく必要はないと告げて、それで事をおさめようとした僕に、しかし彼女は聞いてきたのだ。
血を吸っていないのではないかと、
そして何より驚いたのが、彼女に僕が血を吸う行為に躊躇いがあることを見抜かれていたことだ。
気付かれていたか──と、感じた途端、急激に血への渇望に疼きが湧いた。だから聞いた。
「そうですか……では、以前の僕たちはどうだったのでしょうか?」
「以前の、私たち…………………………………………………………」
いったい君は僕にとってのなんなのだと。しかし──
やはり答えられないか……
確信的なことを聞いた。けれど彼女は想定していた通り黙ってしまった。だから次は別の質問をすることにした。彼女は今、自分のことで手一杯になっている。扉を背に僕に追い詰められる格好で、戸惑いを露にしている。可愛いと思った。
こちらのことなど見ていないのをいいことに苦笑して、それから一番聞きたかったことに話を進めた。彼女の反応がどうなるか、容易に想像はついたが、それでも僕は聞きたかった。
「そして最後に一つ、……スピアリング卿の書簡で知りました。君は僕に家族を奪われたのだと」
一生懸命な顔が可愛すぎて、少しいじめすぎたかもしれない。彼女はもう、一杯一杯な顔をして泣きそうだ。
「僕から奪い返してやろうとは思わないのですか?」
だから、この質問にも答えられなかったとしても、僕は追及するつもりはなかった。けれど……彼女は僕が大切なモノを奪った酷い吸血鬼だと知った上で、僕を助けた。その理由がどうしても知りたいと、僕は思ってしまった。
*
「奪い、返す……?」
小屋の出入り口の扉を背に、セオドア様に見下ろされている……ガラスで傷付いた私の手を、ハンカチで包んで優しく握ったまま、セオドア様は動かない。
セオドア様の沈黙が、視線が、私の本心を知りたがっていることを感じて、もう誤魔化せないと思った。
「私は昔、ずっと男の子になりたいと思っていました。そうすれば少しでも、リアード様に近付けるんじゃないかと思って。お義兄様に引き取ってもらえるんじゃないかって……」
「…………」
リアードと一緒にいたくて、昔は取り戻そうとセオドア様の屋敷に通いつめたこともあったけれど……
「でもそうじゃないって気付いたんです」
「何に気付いたのですか?」
「お義兄様はリアード様の家族です。そしてリアード様はお義兄様の大切な家族です。そして私にとってお二人は……ただ大切な方たちなのです。だから幸せになって欲しい。だからきっと、奪うとかそういうことではないんです」
家族を失った寂しい気持ちはきっとずっと消えない。ずっとある。でもそれが今の私の素直な気持ちだった。だからちゃんと笑おう。そうすればきっと本心だって、セオドア様に信じてもらえるから。
「安心してください。私は自分の分をわきまえています。私が仮の家族ではいささか役不足だと思いますが、お義兄様が安心していられるよう頑張ります!」
「ですが君は……」
「それに、お義兄様が本当の家族の元へ……リアード様の元へ戻れるよう私もお手伝いします。だから大丈夫ですよ、お義兄様」
本来のセオドア様がけして門戸を開くことを許さなかった私が、家族の輪に入れないのは重々承知していた。
泣いている迷子の小さな子供がいたら抱き締めて、背中をさすって「大丈夫だよ」と声をかける。そして泣き止むまで傍にいて、安心させてあげたくなる。
きっとこれはそれと同じことだから……
「私にできることがあればなんでもおっしゃってくださいね」
偽物の家族の私にできるのは、ここまでだ。
人間のセオドア様が安心できるように、それを演じるまでなら、どうか今の関係を許して欲しい。──けれど、セオドア様に触れられていた手が、近い将来の別れを予感して震えてしまった。
「すみません、僕の手は……」
「あ、違うんですっ」
自分の冷たい手に触れていたせいで、冷えてしまったのかもしれないと勘違いして離れていく手を、私は咄嗟に掴んだ。
「大丈夫ですよ、お義兄様。ほらっ私の熱が移ってお義兄様の手も大分温かくなってます。もう少ししたら、お義兄様も私と同じくらいの体温になりますよ?」
にっこり笑って、今度は私の頬にセオドア様の手を当ててみる。恐らく、このことに人間のセオドア様は気付いてらっしゃらない。吸血鬼の肌は相手の熱を移して温かくなることを改めて説明すると、
「温かい……」
自分が温かくなっていること、それが不思議だというようにセオドア様が呟く。試すように軽く頬を撫でられて、くすぐったい。良かった。私の頬に触れるのは嫌ではなさそうだ。
「どうして君はそんなに……」
「お義兄様……?」
その戸惑っている様子に、私はふと一つ心当たりを思い出す。そっか、これはきっと……
「ふふっ私、焼き芋ではないですよ?」
アヒルちゃんに渡された草焼き芋で、セオドア様が手を温めているように見えたのを思い出す。それにしても、セオドア様に妹ではなく、焼き芋と思われるとは……なかなか新鮮な体験で楽しい。
「焼き、芋……」
何故だかキョトンとした表情というより、珍しく驚いたような顔でセオドア様が呟かれたけれど、
普段なら寒そうにしている子がいたら、ブランケットや毛布で包んで温めてあげたくなってしまうところだが、暑さ寒さには強いとおっしゃっていたし。確かにセオドア様は冬にしてはいつも軽装だ。言葉通り、吸血鬼には寒さなど関係ないのかもしれない。でもあんまり軽装だと寒そうで少し心配にはなる。
「お義兄様が温まりたいときはおっしゃってください。私、基礎体温は高いんです。私がお義兄様の焼き芋になります……!」
焼き芋で暖を取るのは、庶民の間では冬定番だ。
でも、貴族様相手なのだから、湯たんぽとかにした方が良かっただろうか……
ちょっぴり驚いたような、不思議な顔をしているセオドア様の手にそっと手を重ねて、今度は私がハンカチみたいに包み込む。
「大丈夫ですよ、お義兄様。私がちゃんとご家族の……リアード様の元へお返ししますから」
そのためならなんでもします。とは言ったものの。実はどうやってご家族のところへお返しすればいいのか、何も考えていないどころか、何も思いつかない。
神童のリアードならこんなとき、ぱぱっと素晴らしい案を考えつくのだろうけど……やっぱり私は三流だった。
「ご親切にありがとうございます。エリカは優しい子ですね」
優しいとか言われた……気後れしてしまうし、何だかちょっと照れちゃう。熱くなった頬を両手で抑えながら、嬉しくてセオドア様に微笑みかける。けれどセオドア様は……
「あ、お義兄様? どちらへ行かれるのですか?」
「やはりスピアリング卿から血が届くまで、それまで僕には近付かない方がいい。僕は少し……外で頭を冷やしてきます」
そういい残して、セオドア様は冬の寒い外界を歩くにはあまりにも軽装な格好でドアを開け、出ていった。
*
「さっきは本当に血を吸われるかと思った……」
今さら自室に戻った後で床にへたりこむ。
ありがとうございます。とお礼を言われたとき、セオドア様が綺麗な微笑みを浮かべていたのを思い出し、ため息をつく。
首筋に歯を立てようとしたセオドア様の、あの虚ろで妖艶な眼差し……怖かったけど、でも……
夢見心地な顔をしていたセオドア様は、意識がハッキリしていなくても私を傷付けようとはなさらなかった。寧ろ……血を吸われてもいいと思ってしまった自分がいる。こんなことって……
女なのに理性がガラガラと崩れそうな気がして、困る。なんでセオドア様は……あんなに綺麗なの? 男の人なのに吸血鬼で理性的とか、セオドア様は信じられないくらい紳士で優しい。
そうして考え事に夢中になっていたら──ポフッと、柔らかいものが膝に降ってきた。
「あ、アヒルちゃん、ごめんね。起こしちゃった?」
ベッドで爆睡中だったオムツ姿のアヒルちゃんが、起きてしまったらしい。床でへたり込んでいる私の膝に嘴を乗せて、こちらを見上げていた。「どうしたの? 大丈夫?」と、心配そうに嘴を膝にポフポフ乗せてくる。
「アヒルちゃん、どうしよう……お義兄様は優しいの……すごくすごく、優しいの……」
アヒルちゃんを抱っこしてギュッとする。丸くてフワフワで温かくて優しくて、ホッとする。
こんな役立たずの基準値以下の私に、今のセオドア様は笑ってくれる。本来ならその視界に入れてもらえる価値すらない私を、懐に入れてくれる。
セオドア様の記憶が戻ったら、私はそれを失うことになるのね……
奪われるのではなく、本来のあるべき形に戻るだけなのに……切なさにじわりと涙が滲む。
心配そうにアヒルちゃんが見つめてくる。何故だかアヒルちゃんも泣きそうだ。
「どうしよう私……お義兄様のこと、好きになってしまった……」
セオドア様は私が困ることを察しているのだろう。記憶を失ったセオドア様の唇を奪ってしまったことを、一度も話題にしない。逆に、責めるどころかセオドア様はずっと、こんな弱くて泣いてばかりの私に優しくて……
今のセオドア様にはこんな私でも必要なのかも知れない。でも……記憶が戻れば、セオドア様は元に戻って、私なんか必要なくなる。
また元の、赤の他人同然の関係に戻ってしまうのが、今から寂しくてたまらなくなってしまった。
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