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本編
12 セオドア様の本命
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「あっ……」
──噛まれるっ!
反射的にそう思った。
人間の私より少し低い体温──首筋のひんやりとした唇の感触。その腔内に隠された鋭い凶器が肌に突き立ち、皮膚を食い破るのを想像して、私はギュッと目を瞑った。
けれど、実際に感じたのは首筋に触れた柔らかい感触。
痛く、ない……
セオドア様は私の首筋に優しく触れているだけだ。キスするみたいに顔をそこに埋めて、けれど背中に回された腕は思っていたよりも力強く、私を捕らえて離さない。
カーテンの僅かな隙間から覗く、夜闇に包まれた冬の外界からは、虫の声一つ聞こえてこない。暖炉と蝋燭の暖かい色が、今、ゆらゆらと揺れるロッキングチェアの上で、セオドア様の腕の中に抱かれている私と彼を甘く照らしている。
もしかしたらご飯にされそうなのに……吸血鬼なのに……セオドア様は怖くない……
真珠のように白く輝く肌。そこに映えるアイスブルーの瞳は、どこか虚ろで、心をどこかへ置いてきてしまったよう。今のセオドア様は、明らかにいつものセオドア様ではなかった。
お腹が空いている……?
吸血鬼の喉の乾きは尋常ではないと聞いたことがある。どのくらいの頻度で飲まなければならないのかは分からないけれど、そういえば、セオドア様はここに来てからお食事をどうしていたのだろうか。
てっきりスピアリング卿か院長先生が手配してくださっていると、思っていたのだけれど……
普段全然平気な顔をしてらしたから気付かなかった。もしかしてセオドア様は、ここに来てからまだ一度も血を飲んでいない?
「っ……!」
首筋に当てられていた唇が開いて、甘噛みされた。
そしてそれが、徐々に肌に食い込んで……
「ああっ! お義兄様待って、待ってください!」
ゾクッと全身が総毛立つ。怖くなって悲鳴のような声を上げると、食い破る寸前のところで、躊躇うようにグッとセオドア様の動きが止まった。
喉が渇いているのに極限まで我慢して、傷付けまいとしてくれているような、そんな気がした。
意識がないときでさえも、危うく特別大切にされていると錯覚しそうなくらい、丁寧に扱われている。それが不思議で嬉しかった。
私だけを特別扱いしてくれているわけじゃないわ。セオドア様はアヒルちゃんにも優しくしてくれたし、きっと人間のセオドア様は誰にでも優しい。私だけじゃないわ。だけど……
少しでも落ち着いてもらえるように、セオドア様の頭を抱え込むように抱き締めて、その綺麗な銀髪を優しく撫でる。こんなこと、セオドア様にしてもいいのかな……? と、緊張に指先が震えてしまう。でも、今の私にできることってこれくらいしかない。
すると、セオドア様の体がビクッと反応した。ハッと息を呑む気配がして、私の首筋から唇が離れて──
「……すみません。女性に対し無遠慮に触れるなど失礼なことをしました」
私を驚いたように見つめる。今のセオドア様は……
「良かった……! 気が付かれたのですね」
しかし、そうして喜んだのも束の間だった。
「ですが……君は少し無防備すぎる……」
「っ!」
まるで突き放すように、体を離された。
正気を取り戻したセオドア様の鋭い刃のような視線に射抜かれて、ゾクッと全身が粟立ち、動けなくなる。
先程までの夢うつつな表情とは違う。ハッキリとした意思の光を宿した、美しいアイスブルーの瞳。本来の、セオドア様の瞳の色だ。そしてセオドア様は本気だった。
──明確な拒絶。一瞬、セオドア様の記憶が戻ったのかと思った。けれど違うと分かる。
幼い頃出会ったセオドア様は、私のことを貴女と呼んだ。今の人間の記憶しかないセオドア様は、私のことを名前で呼ぶか、君と言う。
人間のセオドア様に初めて注意されたショックに、羞恥に、唇が戦慄く。
言葉が、何も出てこない……
記憶が戻った訳ではなかった。けれど今、目の前にいるセオドア様は……昔、初めて出会ったときの、あの頃のセオドア様と同じ目をしている。
私は……過去も未来も、どちらのセオドア様にも失望されてしまった……
十四年経った今、こんな形で受けるとは思わなかった拒絶に青ざめ、体が震えた。
何が悪かったのか分からない。けれど……
セオドア様の様子が怖いけど知りたくて、その綺麗な顔をおそるおそる見返す。途端、セオドア様は気まずそうに目を逸らした。
……やっぱり、私なんかが触れてはダメな相手だったのに……
浅はかだった自分への失望に落胆して肩を落とす。
信頼を回復するチャンスすら与えられないくらい、私は自分でも気付かないうちに、何かとんでもないドジをやってしまったようだ。
幸いセオドア様の手は緩められていた。スルリとその腕の中から抜け出す。そうして急いでセオドア様から離れようとしたら、ロッキングチェアの横に置いてあったサイドテーブルに当たって、ホットミルクを入れていた空のコップが床に落ちた。
「もっ、申し訳ございません! すぐに片付けます!」
パリんと割れ音。更なる不手際に、半ばパニックになりかける。幸い中身は飲み干していて、床に中身をぶちまけることはなかったが……
床に両膝をついて、割れたコップを急いで片付けようとして──けれど、手を押さえられてしまった。
「怪我をします。僕が片付けましょう」
片膝を床につき、私の隣に屈むセオドア様に、私は慌てて首を横に振る。
「いいえっお義兄様にそこまでしてもらうわけにはいきませんっ」
混乱のなか、押さえられていない方の手で片付けようと破片に指を伸ばす。──が、
「イタっ!」
不注意にも指先を切ってしまった。といってもたいしたことはなかったのだけれど、問題はそこじゃなかった。
私の手を押さえていたセオドア様が、ご自身の口元を手で押さえるようにして立つと、後ろに下がったのだ。
立ち尽くした様子のセオドア様を見上げる。もう、目すら合わせてくれない。
ああ、私知ってる……
見覚えがある。その様相。
吸血鬼のセオドア様と同じ反応……私を視界に入れたくないと思っている。言葉にはなさらないけれど、人間のセオドア様もきっとそう思ってる。
そこでようやく、頭が冷えてきた。
「ごめんなさい……」
俯き、ポロリと謝罪の言葉が零れた。
吸血鬼の前で血を流すなんて……今度こそ、とんでもない大失態だった。
私、ほんとに何してるんだろう……
一人で慌てて馬鹿をやった。度重なる失態。
ほんと、私は救いようのないグズだわ……。
せめてちゃんとしなくちゃ。しっかりしなくちゃ。こんな私じゃダメなのよ。こんな私はいらないのに……
基準値未満の私に、泣く資格なんかない。寧ろ被害者は、馬鹿な義妹の不意打ちで血の匂いを嗅がせられたセオドア様だ。
だから泣くな私、泣くな、泣くな、泣くな、泣くな、泣くな、
「申し訳ございませんでした。直ぐに、出ていきますね」
あまりの申し訳なさに、謝罪の気持ちを込めて深く頭を下げる。涙を堪えて少し笑って、平然を装う。傷付いた指を押さえながら、セオドア様の返事も聞かぬまま踵を返す。
これ以上、セオドア様に悪く思われたくない。だから、自分にできる精一杯で、丁寧に冷静に落ち着いて話をした。そうしないと、きっともっと呆れられてしまう。
セオドア様にハッキリと拒絶されたことで、口調が知らず知らずのうちに硬く、他人行儀になっていた。まるで召し使いと主人のようだ。
ううん、本来のそれが私とセオドア様のあるべき姿なんだわ……。
優しくされて、セオドア様をお義兄様と素直に呼べることに喜んで、私は調子に乗っていたのだ。だから失敗した。
セオドア様が落ち着くまで、私は小屋にいない方がいい。二、三時間は外で過ごして、様子を見て戻ろう。本格的な冬になっていないとはいえ、夜は冷えるけれど、セオドア様の外套をまたお借りする訳にはいかないし、
二、三時間くらいなら大丈夫だ。また暖炉で暖め直せばいい。とにかく今は、私がここにいない方がいいのはハッキリしている。それに……私は外で、もっと頭を冷やした方がよさそうだ。
そうして外に出る前から、ガチガチに震えながら夜空を眺めて外で待つ、自分の姿が目に浮かぶけど、仕方ない。自分が悪いのだから。
「役に立たない人間でごめんなさい」
ドアの前で、改めて頭を下げる。そしてドアノブに手をかけ、開こうとして──けれど、いくら押してもドアが開かない。開かないドアノブをガチャガチャと回し続け、もしやこんなときに結露した水がドアノブに入り込んで、凍りついているのだろうか? カッコ悪い。どうしよう……と、困惑に頭が一杯になったところで、私はようやく、私を背後からスッポリと覆う大きな影の存在に気付いた。
私はセオドア様にそっとドアを押さえられていた。
「お義兄、様……?」
「すみません……先程は酷い物言いをして、悪戯に君の心を乱してしまった」
振り返らないまま、緊張にドアの方を向いていたら、耳元で優しく囁かれた。
セオドア様の普段より少し低く沈んだ声にビクッと反応してしまう。自分の直ぐ後ろに立つセオドア様との距離が、息がかかりそうなほど近い。
少しの間、私が振り返るのを躊躇い、押し黙っていると、セオドア様が私から少し距離を空けた気配がした。
「エリカが出ていく必要はありません」
耳に心地よく響くセオドア様の声に、切なさが混じったような気がして振り返り、ハッとした。
ドアに手をかけ、こちらを見下ろすセオドア様のアイスブルーの瞳が、いつもの穏やかなモノとは違う熱を帯びていた。獲物を狙う獣のような鋭い瞳──虹彩が変化したわけでもないのに、別のものだと分かる。
ドアに置かれた手をグッと、強く握り込んで、目の色が変わったように、険しく爛々と光るアイスブルーの瞳。
普段凛とした表情を崩さないセオドア様の顔が、昏く闇を帯びている。しかしその翳る瞳の妖しさよりも、本能に支配されかけているのを極限まで抑えているような、そこから滲む痛々しさに、ズキンと胸が痛んだ。
「あ、あの……本当にごめんなさい……」
ここに来て、私の血を見てしまった影響で、吸血鬼の本能が目覚めてかけているのだ。私のせいで……
ドアを背に、怯えるように半泣きで縮こまる。
それに今のセオドア様は怖かった。手を胸の前で組んで、祈るように謝罪する。歯がガチガチと音を立てるくらい震える声で、許してほしいと懇願すると、セオドア様が目を瞬いた。
もしかするとこの方は、今まで女性からここまで怯えられることなどなかったのかもしれない。瞳孔を大きく広げて、目を瞠るセオドア様。
こんな年相応の十八の青年のような表情をする、大人の顔をしていない素直なセオドア様を見るのは、彼が目覚めたとき以来だ。
全身を小刻みに震わせながら、思わずほんの少し、セオドア様を見上げる角度を上げると……セオドア様が私の動きに反応して、フッと笑った。
「……そんなに怖がらないでください、僕は君に酷いことはしません」
自嘲気味に言葉を口にして、セオドア様がドアから手を離した。それからセオドア様の本能に支配されかけていた体の強張りが緩やかに抜けていき……
「どうやら今の僕に、その香りは刺激が強いようです」
「落ち着かれたのですか……?」
「ええ、もう大丈夫です。怖がらせてしまいましたね」
確かに、少し青ざめた顔に疲労の色が濃いけれど、先程までの険しい表情とは打って変わって、まるで毒気を抜かれたように穏やかな顔のセオドア様に戻っている。しかし何かが引っ掛かる。いつも余裕を絶やさないセオドア様らしくないような気がした。
「もしやセオドア様は……ずっと血を飲んでいらっしゃらないのではありませんか? 血を飲むことに躊躇いを覚えていらっしゃるのでは……」
今のセオドア様の心は人間だ。もしそうなのだとしたら……意を決して聞くと、セオドア様は困ったように目を細めた。
不味いことを聞いてしまったのかもしれない。おずおずと見つめると、セオドア様は慰めるように私の頭をポンポンと撫でた。目元の涙をそっと優しく拭われる。
「近々、スピアリング卿から血が届きます。少し遅れているようですが、僕の食事に関しては心配しないでください。君を襲うような真似は二度としません」
「そうですか……私の勘違いだったんですね」
胸をホッと撫で下ろし、「良かった……」と呟く。
すると、セオドア様が徐に、私の傷付いた方の手を掴んで、手慣れた様子でハンカチに包んでしまった。
「私に触れたりなどして……お辛くはないのですか?」
「はい、ですからエリカが僕のことに責任を感じて、心を痛める必要はないのですよ。これは、エリカのせいではありません」
言葉通り今度こそ完全に、セオドア様の顔から先程まで残っていた翳りが、嘘のように消えている。
まさか、自力でねじ伏せたの? 吸血鬼の本能を、喉の乾きを……この短時間で?
何でもないとでも言うように、にっこり爽やかに、そして淡泊な受け答えに安心する。もうすっかりいつものセオドア様に戻られている。
どれだけ強靭な精神力なのだろうと、驚かされていると──私の指をハンカチで包んだときの手をそのままに、私の手を握ったセオドア様が、改まった様相でこちらを見ていた。
「……エリカ、以前から少し気になっていたことを、幾つか質問してもよろしいですか?」
「はい、なんでも聞いてください!」
恩返しとばかりに勢いよく答えたものの。けれど私はこの後、セオドア様の質問に喉を詰まらせることになる。
「僕が孤児院の門前で倒れていたとき、かなりの重症だったとお聞きしましたが……傷の手当てをしてくださったのはエリカですか?」
「いえ、それは……」
おそらく、聖女の力です。と言うのは流石に憚られた。どんな反応をされるか検討もつかない。とりあえず孤児院卒業の記念の第一歩で、アヒルちゃんと一緒にセオドア様を踏み台にしてしまったことは内緒だ。踏みましたとは言えず、消えない罪悪感にセオドア様からそそっと目を逸らす。
「私ではありません……おそらく院長先生が……私は爆発に巻き込まれて気を失っていましたので……」
自分自身でもよく分かっていない聖女の力だ。それ以上は言えなかった。それに今のセオドア様は私にとても優しい。下手をしたらセオドア様は自分のせいで私が自爆の力を持つとんでもな聖女になってしまったと、ご自分を責めるかもしれない。私はその力で孤児院を半壊させてしまったのだから。
やっぱり明かすわけにはいかない。話せば記憶がないとはいえ、少なからずセオドア様の心に蟠りが生まれるだろう。
しかしそうして嘘をついてしまった罪悪感も加わって、二重で戸惑っていると、更なる追い打ちを掛けるように第二の質問が降ってきた。
「そうですか……では、以前の僕たちはどうだったのでしょうか?」
「以前の、私たち…………………………………………………………」
ピシッと固まる。長ーい沈黙の末、結局私は、セオドア様の質問に答えることができなかった。
しかしセオドア様は何事もなかったようにサラッと流して、次の質問を口にした。まるで私が、その質問に答えられないことを分かっていたかのように。
「そして最後に一つ、……スピアリング卿の書簡で知りました。君は僕に家族を奪われたのだと」
セオドア様の有無を言わせぬ真剣な眼差しに、この最後の質問は、他の二つと違い、誤魔化せないと気付いた。おそらく、セオドア様の本命はこれだったのだ。
「僕から奪い返してやろうとは思わないのですか?」
どうやらセオドア様は、もう私たちの関係性を殆ど全て、ご存知のようだ。
──噛まれるっ!
反射的にそう思った。
人間の私より少し低い体温──首筋のひんやりとした唇の感触。その腔内に隠された鋭い凶器が肌に突き立ち、皮膚を食い破るのを想像して、私はギュッと目を瞑った。
けれど、実際に感じたのは首筋に触れた柔らかい感触。
痛く、ない……
セオドア様は私の首筋に優しく触れているだけだ。キスするみたいに顔をそこに埋めて、けれど背中に回された腕は思っていたよりも力強く、私を捕らえて離さない。
カーテンの僅かな隙間から覗く、夜闇に包まれた冬の外界からは、虫の声一つ聞こえてこない。暖炉と蝋燭の暖かい色が、今、ゆらゆらと揺れるロッキングチェアの上で、セオドア様の腕の中に抱かれている私と彼を甘く照らしている。
もしかしたらご飯にされそうなのに……吸血鬼なのに……セオドア様は怖くない……
真珠のように白く輝く肌。そこに映えるアイスブルーの瞳は、どこか虚ろで、心をどこかへ置いてきてしまったよう。今のセオドア様は、明らかにいつものセオドア様ではなかった。
お腹が空いている……?
吸血鬼の喉の乾きは尋常ではないと聞いたことがある。どのくらいの頻度で飲まなければならないのかは分からないけれど、そういえば、セオドア様はここに来てからお食事をどうしていたのだろうか。
てっきりスピアリング卿か院長先生が手配してくださっていると、思っていたのだけれど……
普段全然平気な顔をしてらしたから気付かなかった。もしかしてセオドア様は、ここに来てからまだ一度も血を飲んでいない?
「っ……!」
首筋に当てられていた唇が開いて、甘噛みされた。
そしてそれが、徐々に肌に食い込んで……
「ああっ! お義兄様待って、待ってください!」
ゾクッと全身が総毛立つ。怖くなって悲鳴のような声を上げると、食い破る寸前のところで、躊躇うようにグッとセオドア様の動きが止まった。
喉が渇いているのに極限まで我慢して、傷付けまいとしてくれているような、そんな気がした。
意識がないときでさえも、危うく特別大切にされていると錯覚しそうなくらい、丁寧に扱われている。それが不思議で嬉しかった。
私だけを特別扱いしてくれているわけじゃないわ。セオドア様はアヒルちゃんにも優しくしてくれたし、きっと人間のセオドア様は誰にでも優しい。私だけじゃないわ。だけど……
少しでも落ち着いてもらえるように、セオドア様の頭を抱え込むように抱き締めて、その綺麗な銀髪を優しく撫でる。こんなこと、セオドア様にしてもいいのかな……? と、緊張に指先が震えてしまう。でも、今の私にできることってこれくらいしかない。
すると、セオドア様の体がビクッと反応した。ハッと息を呑む気配がして、私の首筋から唇が離れて──
「……すみません。女性に対し無遠慮に触れるなど失礼なことをしました」
私を驚いたように見つめる。今のセオドア様は……
「良かった……! 気が付かれたのですね」
しかし、そうして喜んだのも束の間だった。
「ですが……君は少し無防備すぎる……」
「っ!」
まるで突き放すように、体を離された。
正気を取り戻したセオドア様の鋭い刃のような視線に射抜かれて、ゾクッと全身が粟立ち、動けなくなる。
先程までの夢うつつな表情とは違う。ハッキリとした意思の光を宿した、美しいアイスブルーの瞳。本来の、セオドア様の瞳の色だ。そしてセオドア様は本気だった。
──明確な拒絶。一瞬、セオドア様の記憶が戻ったのかと思った。けれど違うと分かる。
幼い頃出会ったセオドア様は、私のことを貴女と呼んだ。今の人間の記憶しかないセオドア様は、私のことを名前で呼ぶか、君と言う。
人間のセオドア様に初めて注意されたショックに、羞恥に、唇が戦慄く。
言葉が、何も出てこない……
記憶が戻った訳ではなかった。けれど今、目の前にいるセオドア様は……昔、初めて出会ったときの、あの頃のセオドア様と同じ目をしている。
私は……過去も未来も、どちらのセオドア様にも失望されてしまった……
十四年経った今、こんな形で受けるとは思わなかった拒絶に青ざめ、体が震えた。
何が悪かったのか分からない。けれど……
セオドア様の様子が怖いけど知りたくて、その綺麗な顔をおそるおそる見返す。途端、セオドア様は気まずそうに目を逸らした。
……やっぱり、私なんかが触れてはダメな相手だったのに……
浅はかだった自分への失望に落胆して肩を落とす。
信頼を回復するチャンスすら与えられないくらい、私は自分でも気付かないうちに、何かとんでもないドジをやってしまったようだ。
幸いセオドア様の手は緩められていた。スルリとその腕の中から抜け出す。そうして急いでセオドア様から離れようとしたら、ロッキングチェアの横に置いてあったサイドテーブルに当たって、ホットミルクを入れていた空のコップが床に落ちた。
「もっ、申し訳ございません! すぐに片付けます!」
パリんと割れ音。更なる不手際に、半ばパニックになりかける。幸い中身は飲み干していて、床に中身をぶちまけることはなかったが……
床に両膝をついて、割れたコップを急いで片付けようとして──けれど、手を押さえられてしまった。
「怪我をします。僕が片付けましょう」
片膝を床につき、私の隣に屈むセオドア様に、私は慌てて首を横に振る。
「いいえっお義兄様にそこまでしてもらうわけにはいきませんっ」
混乱のなか、押さえられていない方の手で片付けようと破片に指を伸ばす。──が、
「イタっ!」
不注意にも指先を切ってしまった。といってもたいしたことはなかったのだけれど、問題はそこじゃなかった。
私の手を押さえていたセオドア様が、ご自身の口元を手で押さえるようにして立つと、後ろに下がったのだ。
立ち尽くした様子のセオドア様を見上げる。もう、目すら合わせてくれない。
ああ、私知ってる……
見覚えがある。その様相。
吸血鬼のセオドア様と同じ反応……私を視界に入れたくないと思っている。言葉にはなさらないけれど、人間のセオドア様もきっとそう思ってる。
そこでようやく、頭が冷えてきた。
「ごめんなさい……」
俯き、ポロリと謝罪の言葉が零れた。
吸血鬼の前で血を流すなんて……今度こそ、とんでもない大失態だった。
私、ほんとに何してるんだろう……
一人で慌てて馬鹿をやった。度重なる失態。
ほんと、私は救いようのないグズだわ……。
せめてちゃんとしなくちゃ。しっかりしなくちゃ。こんな私じゃダメなのよ。こんな私はいらないのに……
基準値未満の私に、泣く資格なんかない。寧ろ被害者は、馬鹿な義妹の不意打ちで血の匂いを嗅がせられたセオドア様だ。
だから泣くな私、泣くな、泣くな、泣くな、泣くな、泣くな、
「申し訳ございませんでした。直ぐに、出ていきますね」
あまりの申し訳なさに、謝罪の気持ちを込めて深く頭を下げる。涙を堪えて少し笑って、平然を装う。傷付いた指を押さえながら、セオドア様の返事も聞かぬまま踵を返す。
これ以上、セオドア様に悪く思われたくない。だから、自分にできる精一杯で、丁寧に冷静に落ち着いて話をした。そうしないと、きっともっと呆れられてしまう。
セオドア様にハッキリと拒絶されたことで、口調が知らず知らずのうちに硬く、他人行儀になっていた。まるで召し使いと主人のようだ。
ううん、本来のそれが私とセオドア様のあるべき姿なんだわ……。
優しくされて、セオドア様をお義兄様と素直に呼べることに喜んで、私は調子に乗っていたのだ。だから失敗した。
セオドア様が落ち着くまで、私は小屋にいない方がいい。二、三時間は外で過ごして、様子を見て戻ろう。本格的な冬になっていないとはいえ、夜は冷えるけれど、セオドア様の外套をまたお借りする訳にはいかないし、
二、三時間くらいなら大丈夫だ。また暖炉で暖め直せばいい。とにかく今は、私がここにいない方がいいのはハッキリしている。それに……私は外で、もっと頭を冷やした方がよさそうだ。
そうして外に出る前から、ガチガチに震えながら夜空を眺めて外で待つ、自分の姿が目に浮かぶけど、仕方ない。自分が悪いのだから。
「役に立たない人間でごめんなさい」
ドアの前で、改めて頭を下げる。そしてドアノブに手をかけ、開こうとして──けれど、いくら押してもドアが開かない。開かないドアノブをガチャガチャと回し続け、もしやこんなときに結露した水がドアノブに入り込んで、凍りついているのだろうか? カッコ悪い。どうしよう……と、困惑に頭が一杯になったところで、私はようやく、私を背後からスッポリと覆う大きな影の存在に気付いた。
私はセオドア様にそっとドアを押さえられていた。
「お義兄、様……?」
「すみません……先程は酷い物言いをして、悪戯に君の心を乱してしまった」
振り返らないまま、緊張にドアの方を向いていたら、耳元で優しく囁かれた。
セオドア様の普段より少し低く沈んだ声にビクッと反応してしまう。自分の直ぐ後ろに立つセオドア様との距離が、息がかかりそうなほど近い。
少しの間、私が振り返るのを躊躇い、押し黙っていると、セオドア様が私から少し距離を空けた気配がした。
「エリカが出ていく必要はありません」
耳に心地よく響くセオドア様の声に、切なさが混じったような気がして振り返り、ハッとした。
ドアに手をかけ、こちらを見下ろすセオドア様のアイスブルーの瞳が、いつもの穏やかなモノとは違う熱を帯びていた。獲物を狙う獣のような鋭い瞳──虹彩が変化したわけでもないのに、別のものだと分かる。
ドアに置かれた手をグッと、強く握り込んで、目の色が変わったように、険しく爛々と光るアイスブルーの瞳。
普段凛とした表情を崩さないセオドア様の顔が、昏く闇を帯びている。しかしその翳る瞳の妖しさよりも、本能に支配されかけているのを極限まで抑えているような、そこから滲む痛々しさに、ズキンと胸が痛んだ。
「あ、あの……本当にごめんなさい……」
ここに来て、私の血を見てしまった影響で、吸血鬼の本能が目覚めてかけているのだ。私のせいで……
ドアを背に、怯えるように半泣きで縮こまる。
それに今のセオドア様は怖かった。手を胸の前で組んで、祈るように謝罪する。歯がガチガチと音を立てるくらい震える声で、許してほしいと懇願すると、セオドア様が目を瞬いた。
もしかするとこの方は、今まで女性からここまで怯えられることなどなかったのかもしれない。瞳孔を大きく広げて、目を瞠るセオドア様。
こんな年相応の十八の青年のような表情をする、大人の顔をしていない素直なセオドア様を見るのは、彼が目覚めたとき以来だ。
全身を小刻みに震わせながら、思わずほんの少し、セオドア様を見上げる角度を上げると……セオドア様が私の動きに反応して、フッと笑った。
「……そんなに怖がらないでください、僕は君に酷いことはしません」
自嘲気味に言葉を口にして、セオドア様がドアから手を離した。それからセオドア様の本能に支配されかけていた体の強張りが緩やかに抜けていき……
「どうやら今の僕に、その香りは刺激が強いようです」
「落ち着かれたのですか……?」
「ええ、もう大丈夫です。怖がらせてしまいましたね」
確かに、少し青ざめた顔に疲労の色が濃いけれど、先程までの険しい表情とは打って変わって、まるで毒気を抜かれたように穏やかな顔のセオドア様に戻っている。しかし何かが引っ掛かる。いつも余裕を絶やさないセオドア様らしくないような気がした。
「もしやセオドア様は……ずっと血を飲んでいらっしゃらないのではありませんか? 血を飲むことに躊躇いを覚えていらっしゃるのでは……」
今のセオドア様の心は人間だ。もしそうなのだとしたら……意を決して聞くと、セオドア様は困ったように目を細めた。
不味いことを聞いてしまったのかもしれない。おずおずと見つめると、セオドア様は慰めるように私の頭をポンポンと撫でた。目元の涙をそっと優しく拭われる。
「近々、スピアリング卿から血が届きます。少し遅れているようですが、僕の食事に関しては心配しないでください。君を襲うような真似は二度としません」
「そうですか……私の勘違いだったんですね」
胸をホッと撫で下ろし、「良かった……」と呟く。
すると、セオドア様が徐に、私の傷付いた方の手を掴んで、手慣れた様子でハンカチに包んでしまった。
「私に触れたりなどして……お辛くはないのですか?」
「はい、ですからエリカが僕のことに責任を感じて、心を痛める必要はないのですよ。これは、エリカのせいではありません」
言葉通り今度こそ完全に、セオドア様の顔から先程まで残っていた翳りが、嘘のように消えている。
まさか、自力でねじ伏せたの? 吸血鬼の本能を、喉の乾きを……この短時間で?
何でもないとでも言うように、にっこり爽やかに、そして淡泊な受け答えに安心する。もうすっかりいつものセオドア様に戻られている。
どれだけ強靭な精神力なのだろうと、驚かされていると──私の指をハンカチで包んだときの手をそのままに、私の手を握ったセオドア様が、改まった様相でこちらを見ていた。
「……エリカ、以前から少し気になっていたことを、幾つか質問してもよろしいですか?」
「はい、なんでも聞いてください!」
恩返しとばかりに勢いよく答えたものの。けれど私はこの後、セオドア様の質問に喉を詰まらせることになる。
「僕が孤児院の門前で倒れていたとき、かなりの重症だったとお聞きしましたが……傷の手当てをしてくださったのはエリカですか?」
「いえ、それは……」
おそらく、聖女の力です。と言うのは流石に憚られた。どんな反応をされるか検討もつかない。とりあえず孤児院卒業の記念の第一歩で、アヒルちゃんと一緒にセオドア様を踏み台にしてしまったことは内緒だ。踏みましたとは言えず、消えない罪悪感にセオドア様からそそっと目を逸らす。
「私ではありません……おそらく院長先生が……私は爆発に巻き込まれて気を失っていましたので……」
自分自身でもよく分かっていない聖女の力だ。それ以上は言えなかった。それに今のセオドア様は私にとても優しい。下手をしたらセオドア様は自分のせいで私が自爆の力を持つとんでもな聖女になってしまったと、ご自分を責めるかもしれない。私はその力で孤児院を半壊させてしまったのだから。
やっぱり明かすわけにはいかない。話せば記憶がないとはいえ、少なからずセオドア様の心に蟠りが生まれるだろう。
しかしそうして嘘をついてしまった罪悪感も加わって、二重で戸惑っていると、更なる追い打ちを掛けるように第二の質問が降ってきた。
「そうですか……では、以前の僕たちはどうだったのでしょうか?」
「以前の、私たち…………………………………………………………」
ピシッと固まる。長ーい沈黙の末、結局私は、セオドア様の質問に答えることができなかった。
しかしセオドア様は何事もなかったようにサラッと流して、次の質問を口にした。まるで私が、その質問に答えられないことを分かっていたかのように。
「そして最後に一つ、……スピアリング卿の書簡で知りました。君は僕に家族を奪われたのだと」
セオドア様の有無を言わせぬ真剣な眼差しに、この最後の質問は、他の二つと違い、誤魔化せないと気付いた。おそらく、セオドア様の本命はこれだったのだ。
「僕から奪い返してやろうとは思わないのですか?」
どうやらセオドア様は、もう私たちの関係性を殆ど全て、ご存知のようだ。
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そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
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〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
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***
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