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本編
26 ご自宅訪問
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馬車に揺られること数時間が経過した。辺りはすっかり暗く、セオドア様が日傘を差さずに外を自由に歩き回れる時間帯に差し掛かったとき、大きくて立派な門が見えてきた。
到着するとすぐに開門されて、馬車は屋敷の中へと進んでいく。長い中庭を数分走って、ようやく抜けた先に見えてきたのは……
「あれって、まさか……」
扉の左右に灯された松明の炎。その光に照らされたタコの銅像が三体。大きなタコと小さなタコが仲良さそうに並んでいる。
うち二体はおそらく夫婦タコと思しき銅像。そして残る小さな一体は子供のタコだろう。さらにその隣には布で覆われた、制作中の銅像が二体。おそらく新しいタコの銅像と思われる。
「タコ! ということは、ここは……」
「小屋にいるのはもう安全ではないからな。ここはうちの屋敷だ」
「スピアリング卿の!?」
R十八指定恋愛小説「愛と蹂躙の其方」に出てくるタコの銅像を、この目で拝める日が来るとは…………感動でうっすら目元に涙が浮かんでくる。が、
スピアリング卿には溺愛する奥様がいる。身重でこれから双子の出産も近いというのに……
「あの、私たちを受け入れて本当によろしいのですか……? 危険では……」
問いかけに、私の向かいに座ってるスピアリング卿があからさまに顔を顰めた。
「……確かに、妻の出産が近いこともあるが、何より……」
「何より?」
「あまり時間が掛かると、あの人のことだから心配して直接こちらに出向いてくる、くらいのことはやりかねない。と思うと気が気じゃない」
スピアリング卿が気難しそうに腕を組んだ。
「あの人……とはいったいどなたの事で…?」
「俺の妻だ」
奥様が乗り込んでくる……──え、妊婦がっ!? それも双子のっ!?
「それは、気がかりですね……」
「ああ、そうなんだ」
「「…………」」
儚い乙女とはいったい……どうやら小説と違い、スピアリング卿もユイリー様も実際とは少し違うようだ。
やっぱりスピアリング卿は苦労性な方らしい。しかしそのわりに、性格はさばさばしていて好感が持てる。根が真面目な方なのだろう。一時期はプレイボーイの名をほしいままにしていたと、聞いたことがあるけれど……どうやら奥様には頭が上がらないらしい。
「そもそも今は他の場所にいられるよりも、俺の屋敷にいた方が安全だ。何といってもローツェルルツの民の半数が、シンフォルースへ向かって押し寄せて来ているからな」
「半数!?」
私とセオドア様が小屋で隠れている間に、シンフォルースの情勢は急激に変わっていたようだ。
「国境付近で多発している小競り合いといい、ローツェルルツの民の大移動といい、タイミングが重なりすぎている」
「誰かが裏で糸を引いている。ということですか?」
「首謀者を見つけないことには埒が明かない。だから陛下自らが動かれたのだ。崩壊した国との外交というのもおかしな話ではあるが、致し方ないだろう」
私は気持ちを落ち着かせるため、私の膝上でお腹を上にグースカいびきをかいて寝ているアヒルちゃんのお腹を撫でる。ふわふわだ。
「捕らえていたオーガの内の一人が話した。国が崩壊したらシンフォルースへ向かえと、元ローツェルルツの王族である俺を受け入れた国だ。お前たちも受け入れてくれるだろうと、国王自らが逝去する前に、民にそう促したそうだ。そして押し寄せて来ている殆どの民が、シンフォルースへの滞在を望む事態となっている」
ローツェルルツの民はシンフォルースの人口のおよそ三倍。その殆どが奴隷出身で、民と言うより浮浪者に近い。
その半数が押し寄せているだなんて……そんな無茶苦茶な……
背筋にゾッと悪寒が走った。
「……あ、でもそんな最中にイヴリン王女が獄中死したと聞いたら……」
「裏切られたと思って民は憤るだろうな。その怒りはシンフォルースではなく、まずローツェルルツと遺恨のある俺たち家族に向かうだろう」
「スピアリング卿とユイリー様が狙われるということですか……それって逆恨みじゃないですか!」
「それが民意というものだ。元ローツェルルツの王族である俺の屋敷は一番狙われやすい。だからこそ、陛下が自らの兵を割いて派遣されたのだ」
「国王直属の近衛兵団……では先程男たちを捕らえたのは、本物のお城の兵士なのですね?」
懐妊中のユイリー様とお子様の命が危ない。それが分かっているからこそ、スピアリング卿は私たちもまとめて受け入れたのだ。
狙われている者を分散するよりは、一か所にまとめた方が守りやすい。もちろんそれは敵も同じ。狙いやすく、けれど落としがたい牙城というわけだ。
シンフォルースの民と同等、もしくはそれ以上の人数の敵が徘徊する町中に身を隠すのは、もはや良策ではない。木を隠すなら森という時期はとうに過ぎてしまっていた。
「その通り。だから心配するな。貴女はここで守られていればいい──ああ、着いたな」
馬車が止まり、ドアが開かれる。まず先にスピアリング卿が下りた。私は相変わらず膝上で爆睡しているアヒルちゃんを片手に抱え直す。
エスコートするようにスピアリング卿から差し出された手に手を重ねて下りる。それからスピアリング卿に「あのっ」と、耳打ちする。
「スピアリング卿、以前おっしゃっていた通り、いたしましたが、その……」
書簡は男たちに取られてしまったから、体の関係を持ってもセオドア様の記憶が戻らなかったことは、スピアリング卿に伝わっていない。念の為コソッと「セオドア様の記憶は戻っておりません」とお耳に入れたところ……
「ああ、それか……百%とは言っていないからな」
「っ!」
ニヤッと悪ガキみたいな笑顔をされて気付いた。この方……もしかして最初から効果を期待していなかったの!?
次いで下りて来たセオドア様に聞かれてしまうと、急ぎ口を閉ざしたら、今度はセオドア様におやおやという顔をされてしまった。
「彼女をからかって遊ぶのはよしてくださいスピアリング卿」
「それは貴方がいつまでもエリカ嬢に本当のことを告げないから、こうややこしくなっているんだろう」
俺のせいではないと返すスピアリング卿に、私は首を傾げる。
「本当の事?」
「吸血鬼の聴力を舐めない方がいいという話だ」
「それはいったい……セオドア様?」
スピアリング卿が楽しそうな顔で、私の胸元で爆睡中のアヒルちゃんを引き取った。
「少し二人で話した方がいい。俺はアヒルと隅にでも控えている」
──と、言葉通り。スピアリング卿は扉の前の緩やかな階段に座って、のんびりと寛ぎ始めてしまった。アヒルちゃんのお腹を撫でているところを見ると、どうやらスピアリング卿もモフモフは嫌いではないらしい。
「エリカ……」
「は、はい!」
肩をビクリとさせてセオドア様を振り返ると、セオドア様が私の腰に腕を回して、引き寄せた。優しく頬を撫でられる。けれど何故だろう。酷く緊張するのは。
ここは開かれた景色が続くお屋敷の扉の前。私にはあまりにも場違いな場所にいるから、緊張するのはきっとそのせいだわ……と、無理矢理納得する。──が、
「嘘を付くつもりはありませんでした」
「セオドア様が私に嘘を……?」
いつの間に? と、目をパチクリさせる。全く身に覚えがないからだ。そもそも嘘とはどのような? セオドア様をそんな調子でジッと見つめたら、少し怯んだように、セオドア様が目を伏せがちにした。
「僕は最初から君が聖女だという事も、全て知っていたのです」
「全部、ご存じだった……?」
「吸血鬼の聴力は人間のそれを遥かにしのぎますから、扉を何枚か隔てたところで聞こえてしまうのです」
「私の内緒話は全て、筒抜けだった……ということでしょうか?」
「はい」
あっさりコクリと頷かれて、最初に湧いたのは──
「エリカ!?」
シュゥゥゥゥゥと顔がタコ茹で状態になって、セオドア様の腕から抜け出す。あまりの恥ずかしさに、この場から逃げ出すはずが……しかし私はそのまま地面にへたり込んでしまった。
「大丈夫ですか?」
セオドア様が珍しく慌てている。衣服が汚れるのも構わず地面に膝をついて、心配そうに私の様子を窺っている。
「どうして、教えて下さらなかったのです……?」
こそこそ院長先生と会話していたときのことも、スピアリング卿と聖女の体を使ってセオドア様の記憶を取り戻そうとしていたことも。セオドア様には全て筒抜け……。それも最初から……なのに私は、必死に隠そうとしていたなんて……!
顔を真っ赤に涙目で聞く私に、セオドア様は本当に心底困った顔で答えた。
「すみません、いつお話ししようかと思ってはいたのですが……」
確かに目が覚めて直ぐ。出だしから、聞いてはいけないことを止める間もなく聞かされてしまったのだ。タイミングも何もあったものではなかっただろう。
それも院長先生と会話をしていたあの時……
『そもそも、こんなふうにコソコソ話をしていても意味はな……』
と、院長先生が話途中だったのに、私がそのまま会話を突っ切り喋ってしまったのだった。院長先生は教えてくれようとしていたのに……
それにセオドア様だって、何も知らないと思っている私に恥をかかせまいと言えなかったのだろうし……
申し訳なさ過ぎて穴があったら入りたい。なければ自分専用の穴を掘り起こしたい。今すぐに。
「私がセオドア様と体の関係を持ったのは……その……」
記憶を取り戻すためだなんて、動機が不純だと分かっていて、どうしてセオドア様は私を抱いて下さったのだろうか。
「動機が何であっても、僕は君をそれで手に入れることができた。喜びこそすれ、責めることなどありえませんが」
当然とセオドア様が答えた。
潤んだ瞳で見つめていると徐々に互いの距離が近付いて……そして…………
──バタバタバタバタバタバタ
突然の羽音。が聞こえてきた。と思ったら、私の視界を遮るように、まっちろいフワフワの球体が出現。
それも一度じゃない。一か~い、二か~い、三か~いと、反復運動するように、下から上へ羽音を立てながら、その球体は地面と私の眼前までを行き来している。
これは……この丸くて白くて究極に可愛いフォルムは……見間違えようがない。アヒルちゃんのお尻……アヒルちゃんのお尻が宙に浮いている……スゴい……アヒルって空飛べたんだ……!
バタバタバタバタバタバタ
驚きから段々と感心へ変わっていく、流石アヒルちゃん……! 自力で飛ぶなんてすごい! これは沢山褒めなくては…………──ハッ!?
じゃなくて、これはいったい何事っ!? アヒルちゃんっ!?
さっきまでスピアリング卿のお膝で爆睡していた筈なのに……どうやらアヒルちゃんは、主人の危機──恥ずかしいの極地。で腰を抜かしてしまったのを感じとって、起きてしまったらしい。
それにしても……アヒルは飛べない鳥なのだ。なのになぜ、私は宙を上下するアヒルちゃんのお尻をドアップで見ているのだろうか? しかし疑問はすぐに解けた。
アヒルちゃんは水掻きのついた足で地面を蹴りあげ、その勢いで飛べない翼を広げて、私とセオドア様の間を懸命にバタバタと飛び上がっていたのだ。力業で。
きっとスピアリング卿との訓練で、脚力が増したお陰だろう。
「なんてストロングなおみ足なんでしょう……!」と、見る人みんなが絶賛して、普段なら褒めるところだけれど。もちろん私はそこまで空気を読めない人間ではない。
まっちろいお尻が宙に浮いている。きっとこれは、緊張している私を助けるためにやってくれているのだ。──が、私から見える部分がお尻ということは、すなわち、アヒルちゃんの顔はセオドア様に向けられているわけで……
アヒルちゃんはいったいどんな顔をセオドア様に向けているんだろう……と不安が過る。奇跡の飛翔にはしゃいでいる場合じゃなかった。
「──さて、話がまとまったところで、そろそろ行くか。晩餐の前に部屋を用意させるから、それまで寛いでいるといい」
スピアリング卿の一声で、アヒルちゃんは飛ぶのを止めた。満足そうに私の足元で「ぐわっ」と一吠えする。
え、今のでまとまったのですか……? アヒルちゃんのお尻で?
超ドアップのアヒルちゃんのお顔を拝見したセオドア様が、どんな表情をしたか知りたい。けれど、それよりも何よりも、私……スピアリング卿のいる前でキスしようとしていたの!?
恥ずかしいに歯止めが掛からない。
晩餐にウキウキステップなアヒルちゃんと違い、あまりの事態にまごついていると、今度は別方向から不意打ちが来た。──バアンッと、勢いよく扉が開き、
「あなたお帰りなさい!」
物凄い勢いで屋敷の中から走って来る、女人が一人……お腹の大きいあの方は………………──妊婦っ!?
「ユイリー走るな! 危ないっ!」
「きゃっ!」
「ユイリー!」
階段の上で転けたその人を、泡を食ったスピアリング卿が寸でのところで抱き上げた。
救われて、お姫様抱っこされている女性──「愛と蹂躙の其方」のヒロインで主人公ユイリー・ケープハルト・ラ・フェリシテ・フィリスティアその人だった。
到着するとすぐに開門されて、馬車は屋敷の中へと進んでいく。長い中庭を数分走って、ようやく抜けた先に見えてきたのは……
「あれって、まさか……」
扉の左右に灯された松明の炎。その光に照らされたタコの銅像が三体。大きなタコと小さなタコが仲良さそうに並んでいる。
うち二体はおそらく夫婦タコと思しき銅像。そして残る小さな一体は子供のタコだろう。さらにその隣には布で覆われた、制作中の銅像が二体。おそらく新しいタコの銅像と思われる。
「タコ! ということは、ここは……」
「小屋にいるのはもう安全ではないからな。ここはうちの屋敷だ」
「スピアリング卿の!?」
R十八指定恋愛小説「愛と蹂躙の其方」に出てくるタコの銅像を、この目で拝める日が来るとは…………感動でうっすら目元に涙が浮かんでくる。が、
スピアリング卿には溺愛する奥様がいる。身重でこれから双子の出産も近いというのに……
「あの、私たちを受け入れて本当によろしいのですか……? 危険では……」
問いかけに、私の向かいに座ってるスピアリング卿があからさまに顔を顰めた。
「……確かに、妻の出産が近いこともあるが、何より……」
「何より?」
「あまり時間が掛かると、あの人のことだから心配して直接こちらに出向いてくる、くらいのことはやりかねない。と思うと気が気じゃない」
スピアリング卿が気難しそうに腕を組んだ。
「あの人……とはいったいどなたの事で…?」
「俺の妻だ」
奥様が乗り込んでくる……──え、妊婦がっ!? それも双子のっ!?
「それは、気がかりですね……」
「ああ、そうなんだ」
「「…………」」
儚い乙女とはいったい……どうやら小説と違い、スピアリング卿もユイリー様も実際とは少し違うようだ。
やっぱりスピアリング卿は苦労性な方らしい。しかしそのわりに、性格はさばさばしていて好感が持てる。根が真面目な方なのだろう。一時期はプレイボーイの名をほしいままにしていたと、聞いたことがあるけれど……どうやら奥様には頭が上がらないらしい。
「そもそも今は他の場所にいられるよりも、俺の屋敷にいた方が安全だ。何といってもローツェルルツの民の半数が、シンフォルースへ向かって押し寄せて来ているからな」
「半数!?」
私とセオドア様が小屋で隠れている間に、シンフォルースの情勢は急激に変わっていたようだ。
「国境付近で多発している小競り合いといい、ローツェルルツの民の大移動といい、タイミングが重なりすぎている」
「誰かが裏で糸を引いている。ということですか?」
「首謀者を見つけないことには埒が明かない。だから陛下自らが動かれたのだ。崩壊した国との外交というのもおかしな話ではあるが、致し方ないだろう」
私は気持ちを落ち着かせるため、私の膝上でお腹を上にグースカいびきをかいて寝ているアヒルちゃんのお腹を撫でる。ふわふわだ。
「捕らえていたオーガの内の一人が話した。国が崩壊したらシンフォルースへ向かえと、元ローツェルルツの王族である俺を受け入れた国だ。お前たちも受け入れてくれるだろうと、国王自らが逝去する前に、民にそう促したそうだ。そして押し寄せて来ている殆どの民が、シンフォルースへの滞在を望む事態となっている」
ローツェルルツの民はシンフォルースの人口のおよそ三倍。その殆どが奴隷出身で、民と言うより浮浪者に近い。
その半数が押し寄せているだなんて……そんな無茶苦茶な……
背筋にゾッと悪寒が走った。
「……あ、でもそんな最中にイヴリン王女が獄中死したと聞いたら……」
「裏切られたと思って民は憤るだろうな。その怒りはシンフォルースではなく、まずローツェルルツと遺恨のある俺たち家族に向かうだろう」
「スピアリング卿とユイリー様が狙われるということですか……それって逆恨みじゃないですか!」
「それが民意というものだ。元ローツェルルツの王族である俺の屋敷は一番狙われやすい。だからこそ、陛下が自らの兵を割いて派遣されたのだ」
「国王直属の近衛兵団……では先程男たちを捕らえたのは、本物のお城の兵士なのですね?」
懐妊中のユイリー様とお子様の命が危ない。それが分かっているからこそ、スピアリング卿は私たちもまとめて受け入れたのだ。
狙われている者を分散するよりは、一か所にまとめた方が守りやすい。もちろんそれは敵も同じ。狙いやすく、けれど落としがたい牙城というわけだ。
シンフォルースの民と同等、もしくはそれ以上の人数の敵が徘徊する町中に身を隠すのは、もはや良策ではない。木を隠すなら森という時期はとうに過ぎてしまっていた。
「その通り。だから心配するな。貴女はここで守られていればいい──ああ、着いたな」
馬車が止まり、ドアが開かれる。まず先にスピアリング卿が下りた。私は相変わらず膝上で爆睡しているアヒルちゃんを片手に抱え直す。
エスコートするようにスピアリング卿から差し出された手に手を重ねて下りる。それからスピアリング卿に「あのっ」と、耳打ちする。
「スピアリング卿、以前おっしゃっていた通り、いたしましたが、その……」
書簡は男たちに取られてしまったから、体の関係を持ってもセオドア様の記憶が戻らなかったことは、スピアリング卿に伝わっていない。念の為コソッと「セオドア様の記憶は戻っておりません」とお耳に入れたところ……
「ああ、それか……百%とは言っていないからな」
「っ!」
ニヤッと悪ガキみたいな笑顔をされて気付いた。この方……もしかして最初から効果を期待していなかったの!?
次いで下りて来たセオドア様に聞かれてしまうと、急ぎ口を閉ざしたら、今度はセオドア様におやおやという顔をされてしまった。
「彼女をからかって遊ぶのはよしてくださいスピアリング卿」
「それは貴方がいつまでもエリカ嬢に本当のことを告げないから、こうややこしくなっているんだろう」
俺のせいではないと返すスピアリング卿に、私は首を傾げる。
「本当の事?」
「吸血鬼の聴力を舐めない方がいいという話だ」
「それはいったい……セオドア様?」
スピアリング卿が楽しそうな顔で、私の胸元で爆睡中のアヒルちゃんを引き取った。
「少し二人で話した方がいい。俺はアヒルと隅にでも控えている」
──と、言葉通り。スピアリング卿は扉の前の緩やかな階段に座って、のんびりと寛ぎ始めてしまった。アヒルちゃんのお腹を撫でているところを見ると、どうやらスピアリング卿もモフモフは嫌いではないらしい。
「エリカ……」
「は、はい!」
肩をビクリとさせてセオドア様を振り返ると、セオドア様が私の腰に腕を回して、引き寄せた。優しく頬を撫でられる。けれど何故だろう。酷く緊張するのは。
ここは開かれた景色が続くお屋敷の扉の前。私にはあまりにも場違いな場所にいるから、緊張するのはきっとそのせいだわ……と、無理矢理納得する。──が、
「嘘を付くつもりはありませんでした」
「セオドア様が私に嘘を……?」
いつの間に? と、目をパチクリさせる。全く身に覚えがないからだ。そもそも嘘とはどのような? セオドア様をそんな調子でジッと見つめたら、少し怯んだように、セオドア様が目を伏せがちにした。
「僕は最初から君が聖女だという事も、全て知っていたのです」
「全部、ご存じだった……?」
「吸血鬼の聴力は人間のそれを遥かにしのぎますから、扉を何枚か隔てたところで聞こえてしまうのです」
「私の内緒話は全て、筒抜けだった……ということでしょうか?」
「はい」
あっさりコクリと頷かれて、最初に湧いたのは──
「エリカ!?」
シュゥゥゥゥゥと顔がタコ茹で状態になって、セオドア様の腕から抜け出す。あまりの恥ずかしさに、この場から逃げ出すはずが……しかし私はそのまま地面にへたり込んでしまった。
「大丈夫ですか?」
セオドア様が珍しく慌てている。衣服が汚れるのも構わず地面に膝をついて、心配そうに私の様子を窺っている。
「どうして、教えて下さらなかったのです……?」
こそこそ院長先生と会話していたときのことも、スピアリング卿と聖女の体を使ってセオドア様の記憶を取り戻そうとしていたことも。セオドア様には全て筒抜け……。それも最初から……なのに私は、必死に隠そうとしていたなんて……!
顔を真っ赤に涙目で聞く私に、セオドア様は本当に心底困った顔で答えた。
「すみません、いつお話ししようかと思ってはいたのですが……」
確かに目が覚めて直ぐ。出だしから、聞いてはいけないことを止める間もなく聞かされてしまったのだ。タイミングも何もあったものではなかっただろう。
それも院長先生と会話をしていたあの時……
『そもそも、こんなふうにコソコソ話をしていても意味はな……』
と、院長先生が話途中だったのに、私がそのまま会話を突っ切り喋ってしまったのだった。院長先生は教えてくれようとしていたのに……
それにセオドア様だって、何も知らないと思っている私に恥をかかせまいと言えなかったのだろうし……
申し訳なさ過ぎて穴があったら入りたい。なければ自分専用の穴を掘り起こしたい。今すぐに。
「私がセオドア様と体の関係を持ったのは……その……」
記憶を取り戻すためだなんて、動機が不純だと分かっていて、どうしてセオドア様は私を抱いて下さったのだろうか。
「動機が何であっても、僕は君をそれで手に入れることができた。喜びこそすれ、責めることなどありえませんが」
当然とセオドア様が答えた。
潤んだ瞳で見つめていると徐々に互いの距離が近付いて……そして…………
──バタバタバタバタバタバタ
突然の羽音。が聞こえてきた。と思ったら、私の視界を遮るように、まっちろいフワフワの球体が出現。
それも一度じゃない。一か~い、二か~い、三か~いと、反復運動するように、下から上へ羽音を立てながら、その球体は地面と私の眼前までを行き来している。
これは……この丸くて白くて究極に可愛いフォルムは……見間違えようがない。アヒルちゃんのお尻……アヒルちゃんのお尻が宙に浮いている……スゴい……アヒルって空飛べたんだ……!
バタバタバタバタバタバタ
驚きから段々と感心へ変わっていく、流石アヒルちゃん……! 自力で飛ぶなんてすごい! これは沢山褒めなくては…………──ハッ!?
じゃなくて、これはいったい何事っ!? アヒルちゃんっ!?
さっきまでスピアリング卿のお膝で爆睡していた筈なのに……どうやらアヒルちゃんは、主人の危機──恥ずかしいの極地。で腰を抜かしてしまったのを感じとって、起きてしまったらしい。
それにしても……アヒルは飛べない鳥なのだ。なのになぜ、私は宙を上下するアヒルちゃんのお尻をドアップで見ているのだろうか? しかし疑問はすぐに解けた。
アヒルちゃんは水掻きのついた足で地面を蹴りあげ、その勢いで飛べない翼を広げて、私とセオドア様の間を懸命にバタバタと飛び上がっていたのだ。力業で。
きっとスピアリング卿との訓練で、脚力が増したお陰だろう。
「なんてストロングなおみ足なんでしょう……!」と、見る人みんなが絶賛して、普段なら褒めるところだけれど。もちろん私はそこまで空気を読めない人間ではない。
まっちろいお尻が宙に浮いている。きっとこれは、緊張している私を助けるためにやってくれているのだ。──が、私から見える部分がお尻ということは、すなわち、アヒルちゃんの顔はセオドア様に向けられているわけで……
アヒルちゃんはいったいどんな顔をセオドア様に向けているんだろう……と不安が過る。奇跡の飛翔にはしゃいでいる場合じゃなかった。
「──さて、話がまとまったところで、そろそろ行くか。晩餐の前に部屋を用意させるから、それまで寛いでいるといい」
スピアリング卿の一声で、アヒルちゃんは飛ぶのを止めた。満足そうに私の足元で「ぐわっ」と一吠えする。
え、今のでまとまったのですか……? アヒルちゃんのお尻で?
超ドアップのアヒルちゃんのお顔を拝見したセオドア様が、どんな表情をしたか知りたい。けれど、それよりも何よりも、私……スピアリング卿のいる前でキスしようとしていたの!?
恥ずかしいに歯止めが掛からない。
晩餐にウキウキステップなアヒルちゃんと違い、あまりの事態にまごついていると、今度は別方向から不意打ちが来た。──バアンッと、勢いよく扉が開き、
「あなたお帰りなさい!」
物凄い勢いで屋敷の中から走って来る、女人が一人……お腹の大きいあの方は………………──妊婦っ!?
「ユイリー走るな! 危ないっ!」
「きゃっ!」
「ユイリー!」
階段の上で転けたその人を、泡を食ったスピアリング卿が寸でのところで抱き上げた。
救われて、お姫様抱っこされている女性──「愛と蹂躙の其方」のヒロインで主人公ユイリー・ケープハルト・ラ・フェリシテ・フィリスティアその人だった。
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