サクリファイス

朧塚

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 そこは、所謂、彼が“自宅”と呼んでいる場所だった。
 山の中に立てた一軒家だった。此処からは海も見える。
 そこに、一人の女が住んでいた。
 此処が、彼にとっての世界の全てだった。
 彼は玄関の扉を開ける。
「ただいま」
 フローリングの床の上に脚を乗せる。
 一人の金髪の髪をした女が、毛布に包まっていた。
 もうすぐ、初老を向かえる年齢だ。皮膚は年齢相応の皺が刻まれているが、髪の色彩は未だ衰えていなかった。
 その美貌は、まだ健在なのだ。
 母は、虚ろな眼をしながら、ドミネートを眺めていた。
「あら、帰ったの……」
「稼いできた。花壇はどうなっている?」
 母親は答えなかった。
 ドミネートは、庭の方を見る。花は次々と枯れていた。
 家の中を調べていく。
 彼は冷蔵庫の中を開ける。食料品は腐っていた。
「……また錠剤だけで暮らしたのか…………」
 身体の健康には良くはないだろう。
 だが、もう彼女が生き続ける事に、どんな意味があるのだろう?
 母親は震えていた。
 どうやら、ドミネートが持ってきて、取り落としたナイフを見て、心的外傷のフラッシュバックを引き起こしてしまったらしい。まただ……。どうにもならない。
「いや、……、私の身体、挿れていいから。それを向けないで、……向けないで……」
 彼女は泣き続ける。
 ドミネートが生まれて、二十数年以上は経過しているのに、壊れた彼女の心は修復されていない。
 どうすればいいか分からない……。
 ドミネートは、意図的に母の心の傷を開いてしまう。それは“確かめる”為なのだろう。このような事をすれば、どれだけ母の心に負担が掛かるかも理解した上で、引き金を引いてしまう。それは、世界に対する呪詛を確かめる為だ。
 自分の生は、呪いであり、屈辱だった。
 ドミネートの母は、かつて強い能力者だったらしい。けれども、囚われの身となって、捕虜収容所に入れられて、毎日、男達に輪姦され、屈辱的な性行為をやらされて、心が完全に壊れてしまった。ドミネートは父親の分からない子供だった。幼い頃から、自分は何の為に存在しているのだろうか、と思わずにはいられなかった。髪の色は黒髪だ。瞳の色も違う。顔立ちは何処か似ている。
 一体、自分は何者なのか……?
「裸になる、裸になるから、その子の代わりに、私の…………」
「もう、いないよ。大丈夫。そいつらはいないから」
 ドミネートは、母の眼の前にある、ナイフを手にして隠す。このナイフを見て、母は何を“視ている”のだろうか? ナイフそのものによる脅しなのか? 拷問具を想起しているのか? それとも男性器を彷彿させるのか? 真実は彼女の中にしかない。包丁を握る事さえ出来ない。
 分かっている事実は。
 自分達は生きるに値しない命として、棄てられたのだ。それが、幼少期に嫌でも、ドミネートの中で心に根を張る禍根だった。幼少期の頃は、それでも、母親は彼に文字の読み書きなどを教えてくれた。……彼女の心の崩壊が加速したのは、彼が年齢を重ねていってからだ。色々な場所を転々として行って、蔑まれた。生活保護……、フード・スタンプなどで暮らすしかなかった。十代の前半から、ドミネートは自立する事、一人で生きる事を真摯に願っていた。誰からも蔑まれない為に……。
 何故、自分達は近所の者達から、嘲笑を受けるのか?
 何故、母親の身体中には、首から下に酷い虐待の痕や、プリンティングの文字や、性器の損傷などが存在するのか? 徹底して、人間扱いされなく、性玩具として、生きた実験動物として扱われたのだと、正気だった頃の彼女は言い続けた。
 ドミネートは、十に満たない頃から、皿洗いのバイトや工事現場などにも赴き、レジ打ちなどもして、肉体労働などにも勤しんだが、結局は裏の世界で生きるしかなかった。
それは“烙印を押されて生まれてきた者”。力を持って生まれてきた者の定めなのだと、理解するしかなかった。自分が弱者だと認めたくはなかった……。
 なら、力を持って、この世界と戦うしかないのだ。
 堪え切れない程の感情を抑えながら、ドミネートは、微笑みかける。
「リジー」
 母は、彼を呼ぶ。
「俺はドミネート……、<支配する者>、そんな名前だよ。ねえ、母さん、俺の本当の名前は決めてないだろ? この前はベベズと言ったね。昔はザッシュ、だっけ? 仕方ないから、俺は自分で、俺の名前を付けた。ねえ、母さん。いつも見ている女の子は誰だよ。一緒に閉じ込められていた子?」
 彼は優しく、彼女の頭を撫でる。
「ロロはいるかい?」
 その名前を聞いて。
 母の中で、人格の切り替えが起こる。
「ああ、ドミネート」
 ロロ、という人格は、別の表情を見せた。暗く陰鬱で、そして明晰そうな顔だ。
「ネメアは偉かったよ。仲間は裏切ったのに、ネメアは裏切らなかった。だから、こんなになっちゃったんだけどね。収容所の中は陰惨で、絶望的だった。みんな生きる為に、仲間を裏切るんだ。看守や拷問者達に媚びようとする。ネメアはそれをやらなかった。だから、集中してやられた時もあれば、完全に徹底して無視された事もあった」
「そうか、偉かったんだね、ネメア」
 ロロの証言が、何処まで本当なのか分からない。所詮は母であるネメアの創り出した、ストレスを緩和させる為の別人格に過ぎないのだから。彼女が外に出てくる時は、母はマトモに家事をする事が出来たり、生活の為にショッピング・センターなどに行き、買い出しが出来る。
 そんな時、とても不思議な気分、自分に娘が出来たような気分になる。
 そう言えば、母親はPTSDの症状が一番、苦しい時はよく笑っていた。
 収容施設の中でも、よく笑っていたと言う。強姦され、拷問を受けている最中にも笑っていた、と。
 それは前向きに生きようとか、生ぬるい感情からではない。
 悲しみ、苦痛、絶望、それらを通り過ぎて、ただひたすらに脳が限界を超えてしまい、人間としての人格が崩壊し、尊厳も何もかも奪われ、物体としての自分を感じ取って、ただ、死にたい、という限りない衝動として、笑い続けたのだ、と。…………。



 ドミネートは母親の為に戦っている。
 それ以外に、自分が存在している事に根拠が見い出せないから。いつか、母と離れ離れにならなければならないのだろうか。母の死後に、どう生きるべきかを、最近は考え続けている。
 何の為に自分は、この世界に生まれ落ちたのか?
 父親が誰かを知りたくもない。父親の顔を知れば、強姦魔が父親である、という屈辱に耐えられそうにないから。
 生きる事の意味を見つけたい……。
 ドミネートは信じるしかなかった。そういう理想のようなものがあるのだと。彼は自分という形象を、自分で創造するしかなかった。自分の人格は世界全てから否定されているのだ、だから、勝ち取って手に入れるしかないのだ。
 この世界では、力の無い者、負けた者は否応なしに踏み躙られる。
 所謂、社会的ダーウィニズムと呼ばれているものが、この世界を支配しているんじゃないのかと思う。それは極めてグロテスクな自然の掟の模造のようなものだ。適者生存、自分はこの世界という環境に適応出来なかった、受け入れられなかった。
 ただ今は、憎悪よりも、希望に可能性を見い出したいから……。
 ミソギと再び落ち合うのは、48時間を切っている。
 今日、一日くらいは、彼女の傍にいるつもりだ。…………。
 もしかすると、二度と、彼女に会えなくなるかもしれないから……。



 夜風がはためていている。
 過剰なまでに装飾された時計塔のビルの上に、男は佇んでいた。
 酷く、闇が、死の色が似合う男だった。
 夜を表象する者達は、様々な相貌を持っている、闇の色彩の中で、時には妖艶であり、時には眠りへの落下であり、犯罪者の狩り場であり、死への門のようでもある。
 戦場の臭いだ。
 紺色のスーツを着て、ミソギはビルの屋上で紫煙をくゆらせていた。
 彼は断片的に、昔の事を思い返していた。
 かつて、現役だった時代の頃をだ。
「子供の何名かは、お前が俺にくれた、汚れた利潤によって手にした金を受け取ったよ。……………、残りは俺の為に使わせて貰った。しっかり、お前の入れてくれたコーヒーは飲ませて貰ったよ。腐敗した砂糖入りで甘い味だよ……」
 ドミネートは、忌々しげに告げる。
 その腐食に、自分も飲み込まれているのだ。
「ドミネート。私には、敵も味方も無い。意味が分かるな?」
 死の商人は告げる。
 そして、自らの矜持を述べていく。
「この世界を回しているのは、金と権力だ。宗教も政治も、全て金にひれ伏す。そして、更に、もっとも金を産むのは、武器だ。他人の死だ。俺は、幼少時から、その真理を理解したんだ」
 まるで、幼子に教え諭すように、彼は言葉を吐いていく。
 支配者は、決して、彼の言葉に耳を傾けない。
「シグレは死んだ。……彼は最後に何を賭したんだろうな? 何を願ったんだろうな」
 彼は奥歯を噛み締める。
 眼の前にいる敵を倒さなければならないと思った。
 ドミネートはナイフを投げる。
 ミソギは。
 左腕で、ナイフを弾き飛ばしていた。金属音が鳴る。
 ミソギの手には、いつの間にか、拳銃が握られていた。引き金が引かれる。ドミネートは、走っていた。
 お互いに、間合いを測っていた。ミソギは動かず、ドミネートは走り続けていた。
 空から、何かが光った。
 黒塗りのガンシップから、黒塗りの弾丸が撃ち込まれる。……能力者は、鉛玉さえも見切る。だから、夜目でも、無効にされるように……。
 静かに、攻撃の発射音が鳴っていく。
 ガンシップの表面に、ナイフが突き刺さる。……いや、それはナイフというよりも、巨大なスピア……投擲用の槍へと変形していた。
 スキッドの部分に、鎖が巻かれていた。
 ガンシップが揺れる。
「本当はプロペラ部分……、メイン・ローターに巻き付かせて、墜落させるつもりだったんだけどな」



「ほう、俺の“ハイバーネイト”を射落とすつもりか?」
 狂王は興味深そうに、敵を凝視していた。
「俺は天空を制覇する者だ。ミソギ様の片腕だ。貴様ごときが相手になると思うな!」
 やりがいのある目標を見つけたかのごとく、彼は叫ぶ。
 彼は窓を少しだけ開く。
 そして。
 巻き付いた鎖も、突き刺したナイフも、機関銃によって破壊していく。



 ミソギは愉悦の笑いを浮かべていた。
 まるで、ドミネートとの戦いを、心底、楽しんでいるかのよう。
「戦場を思い出すよ。薬物よりも、より高度なトリップが出来るんだ。恐怖が快楽に変わる瞬間、万能感に変わる瞬間を思い出すよ」
 それは。
 煙が辺りに充満していく。
 むせ返る程の煙だ。このまま、脳に酸素が行かず、中毒死しかねない程の。
「ドミネート、支配者。この俺を本気で殺しにこい。どうせ、俺は幼少期から使ってきた薬物によって、肉体はボロボロだ。最新の医療機関でさえ、治らない。いや、治すつもりが無いのかもしれないな。何故なら、俺は自らの生まれた意味を肯定したいからだよ」
 今や、彼は両手に拳銃を握り締めて、引き金を引いていた。
 薬莢が飛び上がっていく。
 ドミネートは、ミソギの攻撃を避け続ける。
 空から。
 ナパーム弾が、バラ撒かれていく。
 白リン弾だ。水に浸かっても、その炎が消える事が無い爆薬だ。
 ミソギは、狂王に命じた。
 …………、自分を巻き込んでも、構わないのだ、と。
 狂王は、唇を震わせていた。ミソギは、命令だ、とだけ告げた。
 



 ドミネートは、ミソギの心の奥底が、何処となく分かっていた。
 あれは、元少年兵。……死に場所を探しているに違いない。この世界でどんなに栄華を極めても、彼の心を満たすものは、何も無いみたいだ。あらゆる国家を裏から支配出来る権力を有していたとしても、そんなもの、彼にとって幸せを感じられないのだ。
 そう、アレはもうこの世界を何となく、ただ、何の意味もなく生きているだけのような存在だ、死体が動いているようなものだ。
 ドミネートのように、不具ながらも、家族への愛があったのならば……。だからこそ、自分は此処で、彼の破滅願望に付き合ってやるつもりは無い。心が壊れた母親に、何かほんの少しでも、やり続ける事。それが自分にとっての生きる使命なのだから。
 この身体に流れている、母親の血がそうさせるのだから。
 ドミネートは、ビルの壁面にナイフを突き刺していた。周辺には、飛び移れるビルが存在しない。だが……。
 ……何よりも邪魔だったのは、彼の護衛だった。
 あのガンシップ、あの上に飛び移れないものか……。そして、まず空の蠅を地へと落としてやる方がいい。
 いや……。
 狙うのは、ミソギのみだ。
 他は考えなくていい。



 焔の中、ミソギは確かに空を見上げながら、嗤っていた。彼の脳内の中で、かつての記憶がフラッシュバックしていく。地雷やゲリラの恐怖。夜のジャングルの戦闘。眼の前に迫ってくる死。
 彼は少しだけ、ほんの少しだけ、昔の事が頭の中を過ぎる。
 何かが、投げられていく。
 ナイフだ。
「おい。ドミネート、なあ、ドミネート。そこにいるんだろう? もっと、俺の近くに来いよ。俺を楽にするんだろう?」
 彼は哄笑していた。
「これじゃ、俺を殺せない……」
 ナイフは。
 ブーメランの形へと変わり、ミソギの背後へと向かっていく。
 避ける間も無く。
 ミソギの背中が、えぐり取られる。
 更に。
 投げたナイフが全て、ブーメランへと変形して、ミソギへと向かっていく。空からの銃撃によって、他の全てのブーメランは叩き落とされる。
 プロペラが弾け飛ぶ。
 それは、巨大なランスだった。騎士の持つような槍だ。
 それは、一直線に、銛でも撃ち込むように、ガンシップのプロペラに突き刺さっていた
 あっけない程に。
 そのまま、黒塗りのガンシップは旋回しながら、落下していく。



 ……お前の居場所なら分かっている。
 狂王は、高層ビルの時計塔の辺りへと、弾丸を撃ち込んでいく。このビルは防弾ガラスでシャットアウトしていて、仮にガラスなどを破って中に入る場合、大音響が聞こえる筈だ。
 巨大な時計の針の後ろ。……、そこに、ドミネートは隠れていた。
 ガンシップは、落下していく中、確かに時計の針へと、ナパームの弾丸を撃ち込み続けたのだった。…………。




「いいか、ドミネート。覚えておけよ」
 まるで、命じるように、死の商人は告げる。
 彼の服の所々が、炎で焼けていた。煙が上がり続けている。
 まるで、死人が未だ彷徨い、歩いているみたいだった。
「この世界に存在するものは、俺達の住まう資本主義の世界では、全てが”商品”だ」
 彼は虚ろな声で、虚ろな言葉を投げ掛ける。
「命も人権も福祉も芸術も文化も、哲学も、全部、金で買えないもの、金と交換出来ないものなんて無いんだ。分かるな?」
ミソギは冷たく嘲る。
「人間は増え過ぎた。だから、優性思想、階級を欲したんだ。他者の命も自己の命も金と交換可能なもんなんだよ。感情とやらもな。最後には金と武器、そう、暴力に屈する。人間なんてそんなもんだ」
 彼は矜持を持って、告げる。
「S国では人間に記号標記のラベリングをして管理する、K国では労働価値の無いものは廃棄処分されて収容所に送られる。B国では、拷問が慢性的にビジネスと化している。何故、そんな事がなされるのか? 全部、金になるからだよ。どんな非人道的な行為も、商品になるからだよ。いいか、人間なんてそんなもんだ。商品価値の無いものなんて、この社会に無いんだよ」
 その声は、ただ何の感情も無い程に冷徹だった。
「そして俺は武器を、銃器を、爆弾を信仰している。強大な暴力のみが、商品価値のコントロールを一番に操作する上位存在なのだからな」
 焔の中、男はジッポで煙草に火を付けていた。黒い背広の裾に灰が落ちる。
 それは憎悪に満ちた瞳であり、声音だった。
 世界中のあらゆる生命を憎んでいるかのようだった。そして、嘲っているのだろう。
 ミソギは口から、紫煙を黒焔の中へと拭き掛ける。
「命は交換可能なんだ。俺もお前も、お前の母親もだ。そうやって世界は回っていくんだ。俺達が殺し合っても、お前が俺を殺したとしても、世界の構造は何も変わらない。分かるな? 下らない茶番だろう?」
 死の商人の顔は、煙で揺らめいて見えない。
 その輪郭はぼやけていく。
「ミソギ」
 ドミネートは告げる。
「それでも、……それでも、俺は……人間で在りたい。人間の定義が何なのか、今の俺には分からないけれどもな…………」
 武器商人の言っている事は、きっと正しいのだろう。
 自分は、そのような資本によって支配される世界の中において、つねに自らが犠牲にされ続けて生きているのだと感じているのだから。
「大切な肉親の為に、俺は生きて、戦っている。正義にはなれない。子ども達の中で、高潔な者達は金を受け取らなかった。俺は……彼らを尊敬する…………」
 だから、それでも、この世界に、この世界の価値に“否”と返すしかないのだ……。
「俺は商品じゃない、……交換可能な、この世界の部品じゃない。お前もなんだ……。俺の母も、未来を創る子ども……、命は商品じゃないんだよ。俺はそれを信仰している…………っ」
「そうか。貴様はビジネスマンには向かないな」
 ミソギは拳銃の引き金を引く。
 ドミネートも武器を変形させて、同じような拳銃へと変えていた。互いに引き金は引かれる。
 銃弾の音。
「そして、国家も文化も、人権も、芸術も……、資本の奴隷なんかじゃない。俺はそう信じて闘っている…………。武器は、命を殺す為の道具じゃなくて、命を勝ち取る為の道具だ。だから、俺の能力はあらゆる武器を創造するんだ……っ! 俺は俺の父親が何者か分からない、だから、俺は俺という命を自ら創造するしかなかったんだよっ!」
 彼は何もかもを吐き捨てるように、感情を剥き出しにしていく。
 夜は明け始めていた。



 あらゆる人気のヒーロー・キャラクターとコラボしたカジノ。
 市民運動家の拷問や収容に使われる、かつてのサッカー・スタジアム。
 過剰なまでに、一般市民を守る事を喧伝したテロ反対の看板。
 全部、ゴミクズで、全部が、自分を馬鹿にしているように思えた。
 この街の秩序は、何が腐っているのか分からない。
 ドミネートは、大金の前に、一度、ミソギに屈したのだ。そして、敵から貰った金を、未だ手放す事が出来ずに、母の精神医療などに使ってしまった。……自分は理想の下では生きられなかったのだ。
 この世界を支配しているのは、金であり、商品であり、金融だ。そして、その頂点に位置するものが“武器”なのだ。暴力の前に、みな、魂を売る。どんな理想も人間愛も、美学も、全ては金の前にはひれ伏して、全ては形骸化し、偽善となり、パッケージだけの空疎な御題目へと変貌するのだろうか。
 世界は空虚で、何もかもが嘘ばかりだ。
 かつての少年兵達は、いつ、この世界で生きる事を諦めるのだろう?
 彼らの名前は聞かなかった。でも、顔は忘れない。
 彼らは、これからも様々な選択をしなければならなくなるだろう。
 大きな理想の下に、彼らは生きる事が出来るのだろうか?
 ドミネートは、ふと、生前、シグレがよく常連をやっていたというバーに赴こうと考えた。…………。



 ドミネートは、アルコール度数の低い甘いカクテルを口にする。そして、ほろ良い気分で、バーの中にある、蓄音器を眺めていた。
 此処で、シグレは仕事と家族の事を考え、自分の人生を見つめていたのだろうか。
 何者かが、武器使いの方へと近付いてくる。
「お前、ドミネートだろ?」
 少年だった。彼から、ミソギに貰った金を受け取らなかった少年だ。
「ゼルドがあの死の商人の下部組織の一員になりやがった……」
 ドミネートは、グラスに口を付ける。
「また、……この俺を殴るか?」
「いや…………」
「あいつは、ゼルドという名だったか。お前は?」
「ギア」
「そうか。お前は今、何をやっている?」
「ゴミ溜めみたいな場所の清掃員。給料は安いよ。よく叱られる。でも、満足している……」
 そして、ギアは自らの収入と、仕事の内容を話す。
「そうか。俺にはとても、勤まらないな。お前は誇りを持って生きているんだな。なあ、今後、何がしたい?」
「親友が死んだ。覚えているか? 俺の隣にいた、赤毛の…………」
 ドミネートは、顔は思い出せないが、何となく、そんな少年を思い出す。
「何故、死んだ?」
「ミソギの企業を崇拝しているゴロツキ。そいつに足を撃たれた。……ミソギ自身はもう、俺達に興味が無いんだろ?」
「ああ、約束させた……」
「下っ端なんて、ろくでも無い事考えているよな。なあ、俺の親友、高熱で魘されていて、最後にやっぱり金を貰えば良かった、って、俺に怨嗟の言葉を吐き続けたんだ。足の治療くらい、金があれば出来た筈だ、って。でも、足からバイ菌が入って、医者にマトモに行けずに死んだ。ドミネート、お前、俺のやった事、正しかったと思う?」
「分からない。俺も、何が正しいのか分からないんだから」
 しばらくの間、二人は沈黙する。
 誰を、何を恨めばいいのか分からなくなる。
 二人は知っているから。ミソギも、この世界の金融という化け物の犠牲者の一人でしかない事に……。


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