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最終話
前編
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次の日、律は学校に来なかった。担任からは体調不良と説明されたが、その原因は恐らく自分にあるだろう。響介は空席になっている律の席を見つめながら、ひっそりと顔をしかめた。
『隣で音楽やってくれるんじゃ、なかったのかよ』──自分がそう突きつけた後、律の瞳がひどく悲しげに見開かれていたのを思い出す。響介は後悔していた。律に対して、一緒に舞台に立ちたいという欲求を捨てきれず、非難する形でぶつけてしまった。
逃げるように走り去った後、彼は何を思ったのだろうか。真面目な律のことだ、きっと今も自分を責めているに違いない。昨日は思わず感情的になってしまったが、次に会うときは必ず自分から謝ろう。いいや、今からでも連絡を取って、まずは彼を安心させてやるべきだ。
そう考えてはいたものの、響介は一体何と切り出せばいいかわからず、携帯電話のメール送信画面を白紙の状態で開いたまま、ぼんやりと呆けていた。
「……谷、成谷! 聞いてるか?」
「えっ? ああ、うん!」
いつの間にか話しかけられていたらしい。肩を叩かれて響介はようやく我に帰った。振り返ると沢根が心配そうに眉根を寄せて、廊下の方を指差していた。
「次、移動教室だぜ。成谷、お前大丈夫か? 顔色悪いぞ」
「ああ……俺は大丈夫」
かぶりを振ってみせる響介の肩を、沢根は再度軽く叩いた。
「埋め合わせするって言ったろ。俺が聞ける話ならなんでも聞くから、無理すんなよ」
響介は黙って頷いた。この状況は彼に話しても良いことなのだろうか。悩んでいるのを見透かしているように、沢根は笑みを作った。
「まあ、俺には逆に言いづらいかもしれねえけど……借りは返したいからさ」
沢根は言葉を濁しながら、気まずそうに先へ行ってしまった。察しのいい彼のことだ、響介が昨日の放課後のことを引きずっているのをわかっているのだろう。
「埋め合わせ……かぁ」
教室を後にする沢根の背を眺めながら、響介は小さく呟いた。
昼休みの時間、響介が自分から話しかけると、沢根は何故か意外そうな顔をした。いつも通り部長達と昼食を共にしようとしていた彼は、響介の話を聞くとすぐに彼らに断りを入れ、響介を連れて二人きりで中庭へと向かった。
「沢根、良かったのか?」
響介が尋ねると、沢根は歯を見せて笑った。
「ああ。あいつらとはいつでもつるんでるからな。それより……」
沢根の作り笑いが切なげに歪んでいく。やはり彼なりに思うところがあったようだ。
「この前のことだろ。だったら周りに誰もいない方がいいと思ってさ」
やはり見透かされていたらしい。響介は目を伏せた。
中庭は沢根の言う通り、殆ど人気がなく静かだった。中庭といってもあまり整備のされていない、湿っぽくて薄暗く、景色も環境もそれほど良くない場所だ。体育館と本館を繋ぐ程度の役割しかしておらず、通り過ぎる者はいても、わざわざここまで訪れて昼食をとる生徒は稀だった。
沢根は雨風に晒され続けてすっかり煤けた木製のベンチを、軽くはたいてから座った。響介も真似して隣へ並ぶ。やや気を張っていた響介に向けて、沢根は笑いかけた。
「先にメシ食おうぜ、成谷。話の内容によっちゃ、食えなくなっちまうかもしんねえ」
「あんまり笑えないぞ、その冗談」
けらけらとわざとらしく笑いながら、沢根はサンドイッチを頬張り始めた。響介も苦笑いしながら弁当箱を開き、昼食を済ませる。
食事の間は雰囲気が暗くなりすぎないよう、二人は適当に本筋から逸れた談笑を交わした。響介の弁当のおかずが自作と聞き、沢根は驚いた様子だった。頻度は多くないものの、響介は母が忙しい日は早起きをして、自分で料理をしていたのだ。
「ご馳走様。成谷の卵焼きウマかったわ。今度は金払うから、ちょっと多めに作ってきてくれよ」
満面の笑みで手を合わせる沢根に対し、響介はばつが悪そうに頭をかいた。
「あはは、お金払うほどのもんかなぁ、これ……」
思わず乾いた声で苦笑をこぼすと、沢根はまた響介の肩を叩いた。
「成谷、流石に落ち込みすぎだぜ。お前らしくねえよ」
「……そうかな」
そうは言いつつも、響介本人も自分で感じ取れるほど、気落ちしているのは事実だった。響介は昨日の放課後からずっと律のことを考えており、どうするべきかわからないまま、気持ちばかりを沈め続けていた。
「とりあえず、言いてえこと言ってくれよ。俺には借りがあるんだから、気なんか使わなくていいぜ?」
沢根がわざとらしく戯けて笑うのが、今の響介にとっては有り難かった。暫く経ってから、響介は恐る恐る語り始めた。
「俺、昨日酷いこと言っちまった。律のほうが、俺よりずっと苦しいはずなのに……」
自分の気持ちを吐露していくうちに、響介の心の中で改めて罪悪感が湧き上がってきた。律は、自分には想像もつかないほど苦しい状況にいて、それでも響介を舞台に立たせる選択を示していたのに。その提案をするのは、きっと律自身にとっても辛い選択だったはずなのに。
「俺、あいつのこと、嘘つき呼ばわりしちまった」
押し寄せる罪悪感に耐えられず、ついに響介は目蓋から涙を溢れさせて頭を抱えた。
「……どうしよう」
震える声で、喉から漏れ出るように呟く。彼の悲痛な胸の内を目の当たりにして、沢根は自身の両手をぎゅっと握りしめた。
何を言えばいいか、わからなかった。せめて友人への罪滅ぼしにと思いとった行動だったが、いざその心境を目の前にすると、何の言葉も思い浮かばなかった。
けれど確かに自分の中にも、あやふやながら心当たりがあるのだ。小学校から今の今まで、沢根は嫌になるほど律と同じクラスの生徒として縁にあった。自分よりも賢く、自分よりも恵まれ、常に自分よりも凛としていた彼は──そのうち何故か自信を失っていき、やがて背を丸めて下ばかり向くようになっていった。律の変化を、沢根は一番よく知っていた。
『舞台で失敗したことのない響介にはわからないよ!』──昨日の律の叫声は、沢根の耳にも届いていた。いつの間に、彼はあんなに卑屈な人物になってしまったのだろうか。自分がずっと妬んでやまなかった椀田律は、優れていることを当然のように振る舞い、弱った顔なんか見せやしない、十全十美の者だったはずなのに。
古傷が痛んだような感覚がして、沢根は息を詰まらせた。
「……ごめん。聞いてくれてありがとう」
隣の響介が弱々しく微笑んでみせた。その目は未だ赤く潤んでいたが、彼は心配かけまいと口角を上げ、歯を見せた。
「はは……嫌いなやつの話されても、困るもんな。無理しなくていいぜ、聞いてもらったおかげでもう落ち着いてきたからさ」
「……悪い」
後ろ暗い影に、足首を掴まれたような感覚だった。自分は友人一人をまともに元気付けてやることすらできないのだろうか。俯く沢根に、響介は首を振ってみせた。
「沢根、ありがとう。俺、やっぱり一人で舞台に立とうと思うよ。もう俺のわがままなんかで、律のこと苦しめたくないんだ」
響介の作り笑いは、軋む絡繰り仕掛けのようにぎこちない。沢根はまるで足元を纏う影が、ぎりぎりと殊更冷たく締め付けてくるように感じていた。
「律には明日、ちゃんと俺から謝るよ。一緒じゃないのはちょっと残念だけど……律の作った曲で俺が舞台に立てるなら、それはそれで嬉しいし……」
「待ってくれ」
沢根は額に手を当てた。その顔色はすっかり青ざめており、どこか痛むのか眉間に皺を寄せながら、彼らしくない下手な作り笑いを見せた。
「なあ、成谷。一度だけ俺に“チャンス”をくれねえか。舞台のことは、一旦その後考えてくれよ」
突然の言葉に響介は呆然とした。沢根が何を考えているのかはわからなかったが、歪んだ笑顔で「頼むよ」と言われれば、断るという選択はできなかった。
親が親ならお前もお前だよ──かつて律からかけられた呪い言は、数年経った今でも影のように纏わりついて、常に離れることがなかった。腹の底が重たくなるのを感じて、沢根は手提げ袋の持ち手を握りしめた。
手ぶらで赴くのも流石に悪いと思い、道中で適当に買った土産だったが、ただでさえ重い足に余計に重しをかけているようだった。椀田家に近づけば近づくほど、その重みは増していく。邸宅が遠目に見えてきたあたりで、沢根はついに立ち止まってしまった。
今更彼の元へ訪れて、何を言うつもりなんだ。誰かが自分の内側から語りかけてくるようだった。何が埋め合わせだ。何がチャンスだ。今更良い奴ぶるのはやめろ──背を丸めた影が囁く。あまりの煩さに、沢根はまた額を押さえた。
チッ。衝動的に舌打ちをこぼし、俯いた。もう律の家のすぐ前まで来ているというのに、こんな所で怖気付いている場合だろうか。響介にあんな啖呵を切っておいて、何もせず帰るわけにはいかないだろう。わかってはいても、足は止まってしまった。
そうこうしているうちにも日は沈み始める。気づけば季節はもう秋を迎えており、日没が早くなっていた。冷えた風が寒さを運んでくるのを感じ、沢根は一人身震いした。
どこかから犬の吠える声が聞こえてくる。近隣住民の散歩帰りの時間らしい。自分も早く事を済ませなければ。そう思いつつも、やはり足は動かない。今更だ。もう今更だ。性格が悪いのも遺伝しているんだ。お前もお前だよ──影の囁きに気を取られ、沢根は迫り来る気配に気づかなかった。
「ワンッ‼︎」
「……えっ⁉︎ うわあ!」
背後から大型犬に吠えられ、驚いた沢根は盛大に尻餅をついてひっくりかえってしまった。
「ごめんなさい! 大丈夫? こらっフォルテ、やめなさい!」
大型犬のリードを持った女性が、吠える金色の毛の塊を一生懸命引いて抑えようとしている。沢根は放り投げてしまった土産の紙袋を気にしつつ、立ち上がった。
「大丈夫っす。ビビってちょっとすっ転んだだけなんで。はは、元気なワンちゃんですね」
フォルテと呼ばれた大型犬はなんの悪気もないらしく、口角を上げて尾を振っている。いきなり吠えられて驚いたが、悪戯をした無邪気な子供のような笑みを向けられては、怒る気にはなれなかった。むしろ先程までの緊張が解けたようで、沢根は安堵のため息をついた。
「本当にごめんなさい……やだ、あなた怪我してるじゃない。手当てとお詫びをしますから、うちまで来ていただけませんか?」
見ると、たしかに手のひらにかすり傷ができていた。転んで手をついた拍子に、コンクリートで擦ってしまったらしい。このくらい大丈夫だと断ろうとしたが、続く女性の言葉に沢根は思わず黙り込んだ。
「うちはすぐそこですから。お時間さえ良ければ、どうぞ上がっていってください」
彼女が手で差したのは、確かにあの椀田家の邸宅だったのだ。
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何もない自室が、いつもよりもずっと静かに思えた。窓の向こうで日が落ちていくのを、律はベッドで横になったまま、頬に受ける光の傾きで感じ取っていた。
体を動かす気にもなれない。頭の中は真っ白のようで、真っ暗だった。ただ一つだけ、響介を裏切ってしまったという事実が、彼の体を地べたの方へ、重たく引き寄せていた。
これからどうするべきだろう。響介のために何をするべきだろう──いいや、お前はもうだめだ。お前みたいな心の弱い人間は、何をやったってどうしようもない。脳裏で自分と自分の問答が始まる。律は昨晩から、同じことをずっと繰り返し考えていた。体はぴくりとも動かないのに、頭の中だけはぐるぐると回り続け、気分が悪かった。
そうして日はついに沈みきっていく。明かりをつけていない自室が、暗い影に包まれていく。もうこのまま時間が止まってしまえばいいのに。そう思った途端に、家のチャイムが鳴った。
来客だろうか。父は仕事に、母はフォルテの散歩に出掛けており、今出られるのは自分だけだった。律は重たい体を起こし、玄関へと向かった。
インターホンの画面に慣れ親しんだ母とフォルテの姿が映ったので、律は首を傾げた。
「あれ、母さんおかえり。どうしたの、チャイムなんか鳴らして……」
ドアを開くと彼女の背後にもう一人来客がいることに気づき、律は顔をしかめた。
「ただいま律。ごめんなさいね、フォルテが吠えてこの子に怪我させちゃって」
「……何で」
母の言葉が耳に入らないほど、律は抑えきれない嫌悪感を顔に表した。そんな律の反応をまるで知っていたかのように、沢根は苦笑しながら手を差し出した。
「お邪魔します。ちょっと話したいことがあってさ」
差し出された手に土産物と思われる袋が下げられていることに気づき、律は一旦口をつぐんだ。
「なんで来たの。君に話すことなんかないよ。帰って」
沢根を自室に迎えて二人きりになった途端、開口一番に律は言い放った。しかし沢根はそう言われるのも予期していたのか、全く動じる様子はなかった。
「俺の話なんか聞きたくねえのはわかるよ。けど、成谷のためだと思って聞いてくれないか」
響介の名前が出た途端、律はますます不愉快そうに顔をしかめた。
「何なの、響介のためって。響介の代わりに僕を責めにきたの?」
「違う。成谷はお前のことを責めたりなんかしねえ。あいつは底抜けにいい奴だよ」
へらへらと笑みを見せていた沢根の表情が、徐々に真剣な面持ちに変わっていく。暗然とした顔で続けられた言葉に、律は意外そうに目を見開いた。
「本当にいい奴だよ……俺なんかと違ってさ。成谷を引き合いに出さなきゃ、俺はこうしてお前に話に来ることすらできなかった」
律より高かった沢根の背が、見下ろせるほど低く下げられた。
「今までずっとガキだった。僻んだり妬んだりして悪かった。……本当に、ごめん」
「今更、どうして」
困惑する律の視線を受けたまま、沢根は続けた。今まで憎くて仕方がなかったはずの律へ、自尊心を捨てて自ら頭を下げているのにも関わらず、彼は不思議と胸がすくような感覚をおぼえた。
「“あの時”は俺の方から仕掛けたんだ。元々俺の方から謝るべきだった。それから……成谷のことだよ」
響介の話題に顔を青くする律に対し、沢根はあえて戯けてみせた。
「おいおい、変に不安がるなよ。多分お前が思ってるのとは真逆だぜ?」
「……どういうこと?」
律は不安そうに首を傾げる。彼も響介も、互いを想うあまり過剰に心配しているのだろう。相手のために心の底から悩み合える彼らの関係が、沢根は少しだけ羨ましいと感じた。
響介のぎこちない虚勢を思い出して、微かにため息をつきながら、沢根は微笑んだ。
「成谷はまだ、お前に期待してるんだ。あいつは……自分のやりたいことを抑えてでも、未だにお前のことを尊重しようと思ってる。体育祭のことだってそうだよ。本番で失敗したからって、練習したのをちっとも後悔なんかしてなかったぞ」
言いながら、やっぱり沢根は律のことを羨ましいと思った。彼は響介のことを聞いて何と感じたのか、切なげに目を伏せている。こんなに相手を尊んでくれる友人関係なんか、そうそういやしない。それなのに未だに響介を恐れている律に対して、沢根は僅かに苛立ちを感じていた。
律に対して、ずっと抱き続けてきた感情だった。彼は自分が欲しくても手に入らないものを、こんなにも持っているくせに、そのことに気づいてすらいないのだ。律の背を叩いてやるような心持ちで、沢根は話を続けた。
「椀田。お前は今までずっと、俺にとって目の上のたんこぶみてえな存在だった。お前はさ、俺が欲しいって思うモン全部持ってんだよ。頭は良いし、親からも大事にされて、成績なんかどの教科も常に一番で、おまけにピアノまで弾ける多芸ぶりでさ。それなのに……そんなに良いモン沢山持ってんのに、いつもずっとつまんなそうな顔ばっかしてたお前が、俺は心底羨ましくてムカついてたんだ」
「……何、それ」
沢根の唐突な自白に、律はようやく表情を緩めた。
「嫉妬してたなんて、そんなカッコ悪いこと自分から言えるのも凄いよ。僕……てっきり君からは、ずっと恨まれてると思ってた」
「恨んではいなかったぜ。嫌ってはいたけどな」
沢根も自嘲気味に口角を上げる。二人の間の空気が、わずかに揺らいだ気がした。
「俺だって本当は、お前は悪い奴じゃないって知ってたよ。いや、知ってたから余計に嫌いだったんだ」
認めたくなくて目を逸らし続けていた現実は、ずっと影のように彼の無意識下で纏わり続けていた。一つ一つ、それらを拾い上げるように思い返す。沢根の脳裏に、ようやく明かりが差してきたように感じられた。
「お前は本当に凄かったんだよ。試験の成績なんか、どの教科も全部できるくせに……俺の得意教科の数学でさえ、常に俺より上でさ。その上いつだって自分は『なんてことしてない』みてえな顔をしやがって……っつーか、その顔だって生まれつきの美形でさぁ」
律は黙ったまま彼の話を聞いていた。沢根は今、恥を忍んで自身の劣等感と向き合っている。律もまた、過去に置き去りにしていた自分の気持ちを振り返った。
あの頃、本当に自分は『なんてことしてない』と思って日々を過ごしていたのだ。律は自分の欠点にばかり目が向いて、それを埋めようと様々な努力を重ねてきた。しかしいくら別の部分を埋めようとしたところで、自分の嫌いな自分は消えてなくなったりはしない。何をしても満たされない──そんな自分のことが、ますます嫌いになるばかりだった。
「俺が好きだった子は、お前のことを好きになっちまうし。俺が一番頑張ってたコンピュータですら勝てねえし……中学のワープロ検定のタイピング、お前の方が数文字打った数が多くて、俺はやっぱり二番目で……もう、そんなしょうもねえことまで俺はしっかり覚えてる。全部、なんもかんも勝てなくて、だからお前の嫌なところを無理やり粗探しするしかなかったんだよ。あぁくそ、言ってて余計に惨めになってきた」
沢根の声がだんだんと震え始める。鼻をすすって目元を拭う彼につられて、律は自分も涙が出そうになるのを堪えた。
「とにかく、だからさ」
姿勢を正すと、沢根は律の目を見た。彼と正面から視線をつき合わせるのは初めてだった。
「俺が言いてえのは、お前は本当にすげえってことだよ。逆に俺なんか、お前のことを運動音痴を煽るくらいでしか上に立てなかったんだ。しょうもない粗を探すことしかできなかったんだよ」
「それ、さっきも言ったよ」
「歌で言うサビだよ。大事なことだから二回言ったんだ」
赤い瞳を潤ませながら、沢根はへらへらと笑ってみせた。
「だからさ。支離滅裂になっちまったけど、言いてえことは全部言ったからな、椀田。お前と成谷の舞台、“どんな形になろうが”俺は期待してる」
息をのんだ律へと向けて、沢根は挑発的に頬をつり上げた。
「どんな形になろうが、な。お前と成谷なら何をやったって絶対良いもんになるぜ。心底お前を嫌ってた俺が言うんだから、間違いねえよ」
やはり大事なことは二度言う主義らしい。念を押しながら、沢根は立ち上がった。
「そろそろお暇させてもらうぜ。ダチでもねえ奴の家なんかに、長居すんのも悪いしな」
律の前では悪態をつきがちなところは変わっていないようだ。彼は足早に部屋から去ってしまうと、見送ろうとする律の母を軽くかわして椀田家を後にしてしまった。あまりの手際、ならぬ足際の良さに、気づけば律は自分の部屋に座ったまま取り残されてしまった。
「どんな形になろうが、か」
静まり返った部屋で一人、律は呟いた。部屋の隅に、沢根の置き土産の紙袋がぽつんと残されている。呆然としながらも、律はひとまず紙袋の中を覗いてみた。
中身はクッキーの詰め合わせだった。しかし透明な袋に詰められたそれらは、開封しなくてもわかるほど粉々に砕けてしまっているのが見てとれた。よく見れば紙袋自体もところどころに土埃がついて汚れており、角のあたりは破れかけている。確かに“ひどい形の”土産に、律は思わず吹き出して笑った。
『どんな形になろうが俺は期待してる』──沢根の言葉を思い出す。響介だって、まだ自分に期待をかけてくれているのだ。これからどうするべきだろうか。どうするのが正解なのだろうか。思わずそう考える自分自身に、律は今一度問いかけた。
自分は、どうしたいのだろうか。どんな結果になっても良いのなら──律は紙袋を抱きしめ、立ち上がった。
『隣で音楽やってくれるんじゃ、なかったのかよ』──自分がそう突きつけた後、律の瞳がひどく悲しげに見開かれていたのを思い出す。響介は後悔していた。律に対して、一緒に舞台に立ちたいという欲求を捨てきれず、非難する形でぶつけてしまった。
逃げるように走り去った後、彼は何を思ったのだろうか。真面目な律のことだ、きっと今も自分を責めているに違いない。昨日は思わず感情的になってしまったが、次に会うときは必ず自分から謝ろう。いいや、今からでも連絡を取って、まずは彼を安心させてやるべきだ。
そう考えてはいたものの、響介は一体何と切り出せばいいかわからず、携帯電話のメール送信画面を白紙の状態で開いたまま、ぼんやりと呆けていた。
「……谷、成谷! 聞いてるか?」
「えっ? ああ、うん!」
いつの間にか話しかけられていたらしい。肩を叩かれて響介はようやく我に帰った。振り返ると沢根が心配そうに眉根を寄せて、廊下の方を指差していた。
「次、移動教室だぜ。成谷、お前大丈夫か? 顔色悪いぞ」
「ああ……俺は大丈夫」
かぶりを振ってみせる響介の肩を、沢根は再度軽く叩いた。
「埋め合わせするって言ったろ。俺が聞ける話ならなんでも聞くから、無理すんなよ」
響介は黙って頷いた。この状況は彼に話しても良いことなのだろうか。悩んでいるのを見透かしているように、沢根は笑みを作った。
「まあ、俺には逆に言いづらいかもしれねえけど……借りは返したいからさ」
沢根は言葉を濁しながら、気まずそうに先へ行ってしまった。察しのいい彼のことだ、響介が昨日の放課後のことを引きずっているのをわかっているのだろう。
「埋め合わせ……かぁ」
教室を後にする沢根の背を眺めながら、響介は小さく呟いた。
昼休みの時間、響介が自分から話しかけると、沢根は何故か意外そうな顔をした。いつも通り部長達と昼食を共にしようとしていた彼は、響介の話を聞くとすぐに彼らに断りを入れ、響介を連れて二人きりで中庭へと向かった。
「沢根、良かったのか?」
響介が尋ねると、沢根は歯を見せて笑った。
「ああ。あいつらとはいつでもつるんでるからな。それより……」
沢根の作り笑いが切なげに歪んでいく。やはり彼なりに思うところがあったようだ。
「この前のことだろ。だったら周りに誰もいない方がいいと思ってさ」
やはり見透かされていたらしい。響介は目を伏せた。
中庭は沢根の言う通り、殆ど人気がなく静かだった。中庭といってもあまり整備のされていない、湿っぽくて薄暗く、景色も環境もそれほど良くない場所だ。体育館と本館を繋ぐ程度の役割しかしておらず、通り過ぎる者はいても、わざわざここまで訪れて昼食をとる生徒は稀だった。
沢根は雨風に晒され続けてすっかり煤けた木製のベンチを、軽くはたいてから座った。響介も真似して隣へ並ぶ。やや気を張っていた響介に向けて、沢根は笑いかけた。
「先にメシ食おうぜ、成谷。話の内容によっちゃ、食えなくなっちまうかもしんねえ」
「あんまり笑えないぞ、その冗談」
けらけらとわざとらしく笑いながら、沢根はサンドイッチを頬張り始めた。響介も苦笑いしながら弁当箱を開き、昼食を済ませる。
食事の間は雰囲気が暗くなりすぎないよう、二人は適当に本筋から逸れた談笑を交わした。響介の弁当のおかずが自作と聞き、沢根は驚いた様子だった。頻度は多くないものの、響介は母が忙しい日は早起きをして、自分で料理をしていたのだ。
「ご馳走様。成谷の卵焼きウマかったわ。今度は金払うから、ちょっと多めに作ってきてくれよ」
満面の笑みで手を合わせる沢根に対し、響介はばつが悪そうに頭をかいた。
「あはは、お金払うほどのもんかなぁ、これ……」
思わず乾いた声で苦笑をこぼすと、沢根はまた響介の肩を叩いた。
「成谷、流石に落ち込みすぎだぜ。お前らしくねえよ」
「……そうかな」
そうは言いつつも、響介本人も自分で感じ取れるほど、気落ちしているのは事実だった。響介は昨日の放課後からずっと律のことを考えており、どうするべきかわからないまま、気持ちばかりを沈め続けていた。
「とりあえず、言いてえこと言ってくれよ。俺には借りがあるんだから、気なんか使わなくていいぜ?」
沢根がわざとらしく戯けて笑うのが、今の響介にとっては有り難かった。暫く経ってから、響介は恐る恐る語り始めた。
「俺、昨日酷いこと言っちまった。律のほうが、俺よりずっと苦しいはずなのに……」
自分の気持ちを吐露していくうちに、響介の心の中で改めて罪悪感が湧き上がってきた。律は、自分には想像もつかないほど苦しい状況にいて、それでも響介を舞台に立たせる選択を示していたのに。その提案をするのは、きっと律自身にとっても辛い選択だったはずなのに。
「俺、あいつのこと、嘘つき呼ばわりしちまった」
押し寄せる罪悪感に耐えられず、ついに響介は目蓋から涙を溢れさせて頭を抱えた。
「……どうしよう」
震える声で、喉から漏れ出るように呟く。彼の悲痛な胸の内を目の当たりにして、沢根は自身の両手をぎゅっと握りしめた。
何を言えばいいか、わからなかった。せめて友人への罪滅ぼしにと思いとった行動だったが、いざその心境を目の前にすると、何の言葉も思い浮かばなかった。
けれど確かに自分の中にも、あやふやながら心当たりがあるのだ。小学校から今の今まで、沢根は嫌になるほど律と同じクラスの生徒として縁にあった。自分よりも賢く、自分よりも恵まれ、常に自分よりも凛としていた彼は──そのうち何故か自信を失っていき、やがて背を丸めて下ばかり向くようになっていった。律の変化を、沢根は一番よく知っていた。
『舞台で失敗したことのない響介にはわからないよ!』──昨日の律の叫声は、沢根の耳にも届いていた。いつの間に、彼はあんなに卑屈な人物になってしまったのだろうか。自分がずっと妬んでやまなかった椀田律は、優れていることを当然のように振る舞い、弱った顔なんか見せやしない、十全十美の者だったはずなのに。
古傷が痛んだような感覚がして、沢根は息を詰まらせた。
「……ごめん。聞いてくれてありがとう」
隣の響介が弱々しく微笑んでみせた。その目は未だ赤く潤んでいたが、彼は心配かけまいと口角を上げ、歯を見せた。
「はは……嫌いなやつの話されても、困るもんな。無理しなくていいぜ、聞いてもらったおかげでもう落ち着いてきたからさ」
「……悪い」
後ろ暗い影に、足首を掴まれたような感覚だった。自分は友人一人をまともに元気付けてやることすらできないのだろうか。俯く沢根に、響介は首を振ってみせた。
「沢根、ありがとう。俺、やっぱり一人で舞台に立とうと思うよ。もう俺のわがままなんかで、律のこと苦しめたくないんだ」
響介の作り笑いは、軋む絡繰り仕掛けのようにぎこちない。沢根はまるで足元を纏う影が、ぎりぎりと殊更冷たく締め付けてくるように感じていた。
「律には明日、ちゃんと俺から謝るよ。一緒じゃないのはちょっと残念だけど……律の作った曲で俺が舞台に立てるなら、それはそれで嬉しいし……」
「待ってくれ」
沢根は額に手を当てた。その顔色はすっかり青ざめており、どこか痛むのか眉間に皺を寄せながら、彼らしくない下手な作り笑いを見せた。
「なあ、成谷。一度だけ俺に“チャンス”をくれねえか。舞台のことは、一旦その後考えてくれよ」
突然の言葉に響介は呆然とした。沢根が何を考えているのかはわからなかったが、歪んだ笑顔で「頼むよ」と言われれば、断るという選択はできなかった。
親が親ならお前もお前だよ──かつて律からかけられた呪い言は、数年経った今でも影のように纏わりついて、常に離れることがなかった。腹の底が重たくなるのを感じて、沢根は手提げ袋の持ち手を握りしめた。
手ぶらで赴くのも流石に悪いと思い、道中で適当に買った土産だったが、ただでさえ重い足に余計に重しをかけているようだった。椀田家に近づけば近づくほど、その重みは増していく。邸宅が遠目に見えてきたあたりで、沢根はついに立ち止まってしまった。
今更彼の元へ訪れて、何を言うつもりなんだ。誰かが自分の内側から語りかけてくるようだった。何が埋め合わせだ。何がチャンスだ。今更良い奴ぶるのはやめろ──背を丸めた影が囁く。あまりの煩さに、沢根はまた額を押さえた。
チッ。衝動的に舌打ちをこぼし、俯いた。もう律の家のすぐ前まで来ているというのに、こんな所で怖気付いている場合だろうか。響介にあんな啖呵を切っておいて、何もせず帰るわけにはいかないだろう。わかってはいても、足は止まってしまった。
そうこうしているうちにも日は沈み始める。気づけば季節はもう秋を迎えており、日没が早くなっていた。冷えた風が寒さを運んでくるのを感じ、沢根は一人身震いした。
どこかから犬の吠える声が聞こえてくる。近隣住民の散歩帰りの時間らしい。自分も早く事を済ませなければ。そう思いつつも、やはり足は動かない。今更だ。もう今更だ。性格が悪いのも遺伝しているんだ。お前もお前だよ──影の囁きに気を取られ、沢根は迫り来る気配に気づかなかった。
「ワンッ‼︎」
「……えっ⁉︎ うわあ!」
背後から大型犬に吠えられ、驚いた沢根は盛大に尻餅をついてひっくりかえってしまった。
「ごめんなさい! 大丈夫? こらっフォルテ、やめなさい!」
大型犬のリードを持った女性が、吠える金色の毛の塊を一生懸命引いて抑えようとしている。沢根は放り投げてしまった土産の紙袋を気にしつつ、立ち上がった。
「大丈夫っす。ビビってちょっとすっ転んだだけなんで。はは、元気なワンちゃんですね」
フォルテと呼ばれた大型犬はなんの悪気もないらしく、口角を上げて尾を振っている。いきなり吠えられて驚いたが、悪戯をした無邪気な子供のような笑みを向けられては、怒る気にはなれなかった。むしろ先程までの緊張が解けたようで、沢根は安堵のため息をついた。
「本当にごめんなさい……やだ、あなた怪我してるじゃない。手当てとお詫びをしますから、うちまで来ていただけませんか?」
見ると、たしかに手のひらにかすり傷ができていた。転んで手をついた拍子に、コンクリートで擦ってしまったらしい。このくらい大丈夫だと断ろうとしたが、続く女性の言葉に沢根は思わず黙り込んだ。
「うちはすぐそこですから。お時間さえ良ければ、どうぞ上がっていってください」
彼女が手で差したのは、確かにあの椀田家の邸宅だったのだ。
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何もない自室が、いつもよりもずっと静かに思えた。窓の向こうで日が落ちていくのを、律はベッドで横になったまま、頬に受ける光の傾きで感じ取っていた。
体を動かす気にもなれない。頭の中は真っ白のようで、真っ暗だった。ただ一つだけ、響介を裏切ってしまったという事実が、彼の体を地べたの方へ、重たく引き寄せていた。
これからどうするべきだろう。響介のために何をするべきだろう──いいや、お前はもうだめだ。お前みたいな心の弱い人間は、何をやったってどうしようもない。脳裏で自分と自分の問答が始まる。律は昨晩から、同じことをずっと繰り返し考えていた。体はぴくりとも動かないのに、頭の中だけはぐるぐると回り続け、気分が悪かった。
そうして日はついに沈みきっていく。明かりをつけていない自室が、暗い影に包まれていく。もうこのまま時間が止まってしまえばいいのに。そう思った途端に、家のチャイムが鳴った。
来客だろうか。父は仕事に、母はフォルテの散歩に出掛けており、今出られるのは自分だけだった。律は重たい体を起こし、玄関へと向かった。
インターホンの画面に慣れ親しんだ母とフォルテの姿が映ったので、律は首を傾げた。
「あれ、母さんおかえり。どうしたの、チャイムなんか鳴らして……」
ドアを開くと彼女の背後にもう一人来客がいることに気づき、律は顔をしかめた。
「ただいま律。ごめんなさいね、フォルテが吠えてこの子に怪我させちゃって」
「……何で」
母の言葉が耳に入らないほど、律は抑えきれない嫌悪感を顔に表した。そんな律の反応をまるで知っていたかのように、沢根は苦笑しながら手を差し出した。
「お邪魔します。ちょっと話したいことがあってさ」
差し出された手に土産物と思われる袋が下げられていることに気づき、律は一旦口をつぐんだ。
「なんで来たの。君に話すことなんかないよ。帰って」
沢根を自室に迎えて二人きりになった途端、開口一番に律は言い放った。しかし沢根はそう言われるのも予期していたのか、全く動じる様子はなかった。
「俺の話なんか聞きたくねえのはわかるよ。けど、成谷のためだと思って聞いてくれないか」
響介の名前が出た途端、律はますます不愉快そうに顔をしかめた。
「何なの、響介のためって。響介の代わりに僕を責めにきたの?」
「違う。成谷はお前のことを責めたりなんかしねえ。あいつは底抜けにいい奴だよ」
へらへらと笑みを見せていた沢根の表情が、徐々に真剣な面持ちに変わっていく。暗然とした顔で続けられた言葉に、律は意外そうに目を見開いた。
「本当にいい奴だよ……俺なんかと違ってさ。成谷を引き合いに出さなきゃ、俺はこうしてお前に話に来ることすらできなかった」
律より高かった沢根の背が、見下ろせるほど低く下げられた。
「今までずっとガキだった。僻んだり妬んだりして悪かった。……本当に、ごめん」
「今更、どうして」
困惑する律の視線を受けたまま、沢根は続けた。今まで憎くて仕方がなかったはずの律へ、自尊心を捨てて自ら頭を下げているのにも関わらず、彼は不思議と胸がすくような感覚をおぼえた。
「“あの時”は俺の方から仕掛けたんだ。元々俺の方から謝るべきだった。それから……成谷のことだよ」
響介の話題に顔を青くする律に対し、沢根はあえて戯けてみせた。
「おいおい、変に不安がるなよ。多分お前が思ってるのとは真逆だぜ?」
「……どういうこと?」
律は不安そうに首を傾げる。彼も響介も、互いを想うあまり過剰に心配しているのだろう。相手のために心の底から悩み合える彼らの関係が、沢根は少しだけ羨ましいと感じた。
響介のぎこちない虚勢を思い出して、微かにため息をつきながら、沢根は微笑んだ。
「成谷はまだ、お前に期待してるんだ。あいつは……自分のやりたいことを抑えてでも、未だにお前のことを尊重しようと思ってる。体育祭のことだってそうだよ。本番で失敗したからって、練習したのをちっとも後悔なんかしてなかったぞ」
言いながら、やっぱり沢根は律のことを羨ましいと思った。彼は響介のことを聞いて何と感じたのか、切なげに目を伏せている。こんなに相手を尊んでくれる友人関係なんか、そうそういやしない。それなのに未だに響介を恐れている律に対して、沢根は僅かに苛立ちを感じていた。
律に対して、ずっと抱き続けてきた感情だった。彼は自分が欲しくても手に入らないものを、こんなにも持っているくせに、そのことに気づいてすらいないのだ。律の背を叩いてやるような心持ちで、沢根は話を続けた。
「椀田。お前は今までずっと、俺にとって目の上のたんこぶみてえな存在だった。お前はさ、俺が欲しいって思うモン全部持ってんだよ。頭は良いし、親からも大事にされて、成績なんかどの教科も常に一番で、おまけにピアノまで弾ける多芸ぶりでさ。それなのに……そんなに良いモン沢山持ってんのに、いつもずっとつまんなそうな顔ばっかしてたお前が、俺は心底羨ましくてムカついてたんだ」
「……何、それ」
沢根の唐突な自白に、律はようやく表情を緩めた。
「嫉妬してたなんて、そんなカッコ悪いこと自分から言えるのも凄いよ。僕……てっきり君からは、ずっと恨まれてると思ってた」
「恨んではいなかったぜ。嫌ってはいたけどな」
沢根も自嘲気味に口角を上げる。二人の間の空気が、わずかに揺らいだ気がした。
「俺だって本当は、お前は悪い奴じゃないって知ってたよ。いや、知ってたから余計に嫌いだったんだ」
認めたくなくて目を逸らし続けていた現実は、ずっと影のように彼の無意識下で纏わり続けていた。一つ一つ、それらを拾い上げるように思い返す。沢根の脳裏に、ようやく明かりが差してきたように感じられた。
「お前は本当に凄かったんだよ。試験の成績なんか、どの教科も全部できるくせに……俺の得意教科の数学でさえ、常に俺より上でさ。その上いつだって自分は『なんてことしてない』みてえな顔をしやがって……っつーか、その顔だって生まれつきの美形でさぁ」
律は黙ったまま彼の話を聞いていた。沢根は今、恥を忍んで自身の劣等感と向き合っている。律もまた、過去に置き去りにしていた自分の気持ちを振り返った。
あの頃、本当に自分は『なんてことしてない』と思って日々を過ごしていたのだ。律は自分の欠点にばかり目が向いて、それを埋めようと様々な努力を重ねてきた。しかしいくら別の部分を埋めようとしたところで、自分の嫌いな自分は消えてなくなったりはしない。何をしても満たされない──そんな自分のことが、ますます嫌いになるばかりだった。
「俺が好きだった子は、お前のことを好きになっちまうし。俺が一番頑張ってたコンピュータですら勝てねえし……中学のワープロ検定のタイピング、お前の方が数文字打った数が多くて、俺はやっぱり二番目で……もう、そんなしょうもねえことまで俺はしっかり覚えてる。全部、なんもかんも勝てなくて、だからお前の嫌なところを無理やり粗探しするしかなかったんだよ。あぁくそ、言ってて余計に惨めになってきた」
沢根の声がだんだんと震え始める。鼻をすすって目元を拭う彼につられて、律は自分も涙が出そうになるのを堪えた。
「とにかく、だからさ」
姿勢を正すと、沢根は律の目を見た。彼と正面から視線をつき合わせるのは初めてだった。
「俺が言いてえのは、お前は本当にすげえってことだよ。逆に俺なんか、お前のことを運動音痴を煽るくらいでしか上に立てなかったんだ。しょうもない粗を探すことしかできなかったんだよ」
「それ、さっきも言ったよ」
「歌で言うサビだよ。大事なことだから二回言ったんだ」
赤い瞳を潤ませながら、沢根はへらへらと笑ってみせた。
「だからさ。支離滅裂になっちまったけど、言いてえことは全部言ったからな、椀田。お前と成谷の舞台、“どんな形になろうが”俺は期待してる」
息をのんだ律へと向けて、沢根は挑発的に頬をつり上げた。
「どんな形になろうが、な。お前と成谷なら何をやったって絶対良いもんになるぜ。心底お前を嫌ってた俺が言うんだから、間違いねえよ」
やはり大事なことは二度言う主義らしい。念を押しながら、沢根は立ち上がった。
「そろそろお暇させてもらうぜ。ダチでもねえ奴の家なんかに、長居すんのも悪いしな」
律の前では悪態をつきがちなところは変わっていないようだ。彼は足早に部屋から去ってしまうと、見送ろうとする律の母を軽くかわして椀田家を後にしてしまった。あまりの手際、ならぬ足際の良さに、気づけば律は自分の部屋に座ったまま取り残されてしまった。
「どんな形になろうが、か」
静まり返った部屋で一人、律は呟いた。部屋の隅に、沢根の置き土産の紙袋がぽつんと残されている。呆然としながらも、律はひとまず紙袋の中を覗いてみた。
中身はクッキーの詰め合わせだった。しかし透明な袋に詰められたそれらは、開封しなくてもわかるほど粉々に砕けてしまっているのが見てとれた。よく見れば紙袋自体もところどころに土埃がついて汚れており、角のあたりは破れかけている。確かに“ひどい形の”土産に、律は思わず吹き出して笑った。
『どんな形になろうが俺は期待してる』──沢根の言葉を思い出す。響介だって、まだ自分に期待をかけてくれているのだ。これからどうするべきだろうか。どうするのが正解なのだろうか。思わずそう考える自分自身に、律は今一度問いかけた。
自分は、どうしたいのだろうか。どんな結果になっても良いのなら──律は紙袋を抱きしめ、立ち上がった。
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