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五話
後編
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土曜の朝。響介は委員長との待ち合わせに選んでいた、最寄り駅の前へと向かっていた。最寄りといっても徒歩では何十分とかかってしまう場所なので、響介は急いで自転車のペダルを漕いでいた。
実を言うと、カラオケに行くのは生まれて初めてのことだった。中学時代は特に同世代との付き合いがなかった上に、金銭的にも余裕がなかった響介は、カラオケやらゲーセンやらカフェといった、いわゆる“小洒落た若者が行きそうな場所”の、殆どに訪れたことがなかったのだ。
昨日こっそり委員長にそう打ち明けると、彼女は格安のカラオケ店の場所や、カラオケに必要な予算などを細かく教えてくれた。その上待ち合わせの場所や時間の予定も決めてくれたので、響介は彼女に頭が上がらない思いになった。正しく優等生らしい手際の良さだった。
自転車は駅へと近づいていく。遠方から、無人駅の入り口に人影が立っているのが見えた。委員長は既に待っているようだ。響介は急いで駅の駐輪場へと自転車を止めて、彼女の元へと向かった。自転車の鍵は一つしかかけていないが、錆びついた中古の自転車をわざわざ盗んでいく物好きはいないだろう。
「委員長! お待た……せっ⁉︎」
響介は一瞬人違いをしたのかと思い、黒いレザーのジャケットを着ている少女に向けて「すみません!」と謝った。しかし振り向いた彼女は──少々化粧が濃いものの──間違いなく委員長だった。
「成谷くん! 大丈夫だよ、私の方が少し早く着いてただけだから」
委員長はどうやら、響介が後から来たことを謝ったのだと思ったらしい。響介は平然と笑みを向けている彼女の服装を、改めて眺めた。
ジャケットにはところどころにギラついたトゲが生えており(後で調べて知ったが、スタッズというものらしい)、着ているシャツにも恐ろしげな骸骨が描かれている。おまけに学校で見知っていたあの清楚な印象のポニーテールには、カラフルなエクステが混ざっており、いかにも派手な様相だった。
委員長というあだ名が似合う、文字通りの優等生風だった彼女が、プライベートで急に不良のような姿になってしまったので、響介は混乱していた。自分の着てきた私服といえば、いつも着ているようなありきたりなパーカーにジーンズとスニーカー、という平凡な服装だ。この格好で彼女の隣に立っていて大丈夫だろうか。
響介が目を丸くしていると、委員長はにっこりと笑って、ギラギラ光るジャケットを見せびらかすように手で広げてみせた。
「ふふっ、驚いた? これ、私の勝負服なの」
「勝負服?」
「うん。歌を歌うときは、絶対こういう服を着るって決めてるの」
自信ありげにそう笑ってみせる彼女は、まるでどこかのアーティストのような存在感を放っていた。
しかし、響介は彼女のその格好よりも、歌声の方に殊更驚かされることとなった。
格安というだけあって、コンテナの個室は壁のところどころが剥げていたり、床やソファは少し汚れていたりと少々粗末な雰囲気だった。しかし響介には、綺麗な部屋よりそういった素朴な空気の方が、却って身の丈に合って落ち着くように感じられた。
向かいの席へと腰をかけると、委員長は改めて自己紹介をした。委員長というのは中学からのあだ名で、本名は飯野長月だという。名前の響きまで“委員長”だったので、響介は思わず声を出して笑ってしまった。彼女曰く委員長と呼ばれるのは、もはや持ちネタのようなものらしい。
カラオケは機械のタッチパネルを使って曲を選ぶものらしく、使い方のわからない響介のために委員長が丁寧に教えてくれた。彼女は早速お手本と言わんばかりに、英題の曲を選んでみせた。
委員長も洋楽が好きなのだろうか──そう思った矢先に、スピーカーから打ち込み音声のエレキギターが、低く歪んだエフェクトで轟々と唸り始めた。まさか真面目そうな委員長が、ハードロックを歌うとは。しかし彼女の歌声は、響介のそんな考えすらも凌駕するものだった。
もはや文字には起こし難い、文字通り絶叫としか言いようのないシャウトが個室じゅうに暴れ始め、響介は震えあがった。それはロックというよりは、いわゆるメタルというジャンルの曲だろう。委員長の声は同学年とは思えないほど血気に溢れ、女性とは思えない威迫を放っていた。
委員長は派手なエクステ混じりのポニーテールを振り乱し、聴覚と視覚の両方で響介を圧倒した。響介は自分の考えていた音楽の世界が、まだまだ狭いものだったということを、彼女に身をもって思い知らされた。
何よりも学校で見知っていた、気品があって大人しそうな彼女の印象と、全く正反対の音楽性が恐ろしかった。それは幼い頃に一度だけ乗ったことのある、ジェットコースターのような衝撃だった。あの乗り物は、側から見ると賑やかで楽しげな見た目をしておいて、いざ乗るとひどい速度で乗客を振り回し、恐怖を煽る。その落差がますます恐ろしいのである。
「さあ、次は成谷くんの番だよ」
歌い終えた委員長は、息を切らせながら響介へタッチパネルを手渡した。響介はぽかんと口を開けて慄きながらも、彼女の音楽への熱意が“本物”であることを感じ取った。
彼女はこれだけ人を圧倒させる歌声を、響介よりも先に披露したのだ。響介は委員長からカラオケに誘われた理由をようやく理解した。響介の歌が上手いという噂を聞いて、彼女は闘争心に駆られたのだろう。勝負服というだけあって、素晴らしい戦いぶりだった。
ならば負けてなるものか。響介は英雄の名曲から、最も情熱的な愛の歌を選んだ。“俺はお前を愛するために生まれてきた”──初対面の少女の前で歌うには、少し恥ずかしい歌詞の曲だが、響介は恥をかき捨てて情熱的に歌い出した。
「アイ……ワズボーン……トゥラヴュー──」
ビブラートを効かせた烈々たる歌声が、二人きりの小さな個室を熱く燃え上がらせた。響介はまだ一曲目であるにも関わらず、歌い終わる頃には汗だくになっていた。ふうと熱い息をつくと、横からぱちぱちと小さな拍手が景気良く飛んできた。
「良かったよ、成谷くん! すっごく上手かった!」
「そ、そうかな?」
響介はせっかく吐いた熱が、また身体の内から込み上げてくるように感じた。ソファに腰をかけつつも、照れくさそうに身体をよじらせている響介を、委員長は瞳を輝かせて明るく褒め称えた。
「うん。本当に。感情の乗せ方が歌声にしっかりついていて、ただ音程が合っていて声量が大きいだけじゃなくて、抑えるところはしっかり抑えてて……とにかく凄かった!」
あまりにも率直に褒められたので、響介は照れるあまり「えへへ……」などというふやけた笑いを浮かべることしかできなかった。本来なら『どういたしまして』とか『それ程でも』といった何らかの反応をするべき場面なのだろうが、あいにく響介は褒められるということにあまり慣れていない。
響介はつい先日、律からも歌声を褒められたばかりだったが、そのときも結局ふにゃふにゃと笑うばかりで、彼にも未だにちゃんとした返事を返せていなかったのだ。
「ふふ。成谷くん、大丈夫?」
委員長は響介が褒められ慣れていないのを、彼の反応だけで察したようだ。響介が後ろめたそうに「ごめん、慣れてなくて」と正直に述べると、彼女は笑みを絶やさないまま話題を変えた。
「私は大丈夫だよ。それより成谷くん、本格的に音楽を始めるんだっけ? あれってどんな感じだったりするの?」
どうやら昨日カラオケの約束をする前に、沢根の言っていた話を彼女も覚えていたようだ。響介はまだはっきりとしていない律との関係を、どう答えようか一瞬迷った。しかし、この誠実そうで温厚そうな委員長になら、ありのままを話してもいいだろうと思い至った。
「その……うちのクラスにピアノがすっげー上手いやつがいてさ。そいつが俺の歌を認めてくれて、どうやら一緒に音楽をやってくれるみたいなんだ」
話しながらも、響介はやはり照れくさくなってきた。実を言うと律とはまだどんな音楽をするのか、これからどんな活動をしていくのかすら決まっていなかった。前述の通り響介がふにゃふにゃとした反応で濁してしまったため、あまり前進しているとは言えない状態だったのだ。
『どうやら』、『みたい』といった表現で言葉を濁す響介に対し、委員長は何かに気づいた様子で目を見開いた。
「……それって、成谷くん。うちのクラスのピアノがすごく上手い子って、もしかして椀田くんのことだったりする?」
「えっ、知ってるのか?」
委員長の口から律の名前が出たことに、響介は率直に驚いた。
「うん。中学のとき、合唱コンクールの伴奏をしてくれたことがあって……あっ、でも練習のときに、たった一度弾いてくれただけだったんだけどね。伴奏担当の子が体調不良で休んじゃったとき、代わりに演奏してくれたの」
委員長は記憶を辿るように、深く頷きながら話を続けた。
「これはその伴奏担当の子には内緒なんだけど……私は正直、椀田くんの演奏の方が、上手いなって思っちゃったんだ。けれど彼、人前に出たがらないみたいで、椀田くんの演奏はその一回しか聴いたことがないんだけどね」
「確かにあいつ、人前では弾けなくなったって、言ってた気がする」
響介も頷いた。委員長はどこか寂しげな顔で俯いた。
「そっか……なんだか納得しちゃった。ほら、椀田くんっていつも一人でいたがるっていうか、周りを避けてそうな感じがしたから。失礼かもしれないけど、成谷くんと椀田くんが一緒に音楽をやるって、ちょっと意外だなって思っちゃって」
「そうかな……そうかも?」
響介はそう言われてみると、確かに納得した。いつの間にか一緒に音楽をするということになっていたが、律との初対面はとてもじゃないが好意的なものではなかったのだ。
それでも彼らの縁がこうして繋がったのは、“音楽が好き”という気持ちの一致、その一点のみが理由だろう。響介はなんだか不思議な感覚をおぼえ、思わず首を傾げながら笑った。
委員長は話しながらはっとして、頭を横に振った。彼女はどうやら、律の中学時代を知っていて、彼のことを気にかけているようだった。
「ううん! 椀田くんのことを悪く言うつもりじゃないの。ただ私、彼のことがちょっと心配で……中学が同じだったってだけなのに、勝手に心配なんかするのも何様かもしれないけど。でも、良かったよ」
委員長はにこりと優しげに笑みを作った。パンクな服装に身を包んでいるが、その表情はやはり優等生らしかった。
「成谷くん。赤の他人が言うのもなんだけど、椀田くんと仲良くしてくれると嬉しいな。彼、ちょっと口数は少ないけれど、きっと優しい人だから。合唱練習の伴奏も、困ってるクラスのために自分から言い出してくれたんだもの」
委員長は「人前で弾くの、苦手だったのにね」と律の気持ちを想って眉を下げた。やはり彼女は人を見る目も良いようだ。律の冷たい人形のような表層の奥に、温かい魂が入っていることを、ちゃんとわかっている。響介は「もちろん」と胸を叩き、彼女へ親指を突き立ててみせた。
「たとえ言われなくなって、あいつとは良くやってくつもりだぜ」
啖呵をきりながら、響介は熱い胸の奥がますます燃え上がるのを感じた。
その後も数曲ほど委員長と歌い交わし、喉を少々痛めつつも、響介は胸中の熱を保ったまま帰宅した。帰ったら早速、自分から律へ次の予定を立てに、声をかけようと思ったのだ。
そうしてその晩、折り畳み携帯のオープンボタンを押して画面を開いた瞬間、響介はようやく気がついた。そういえば、律の連絡先を教えてもらうのを忘れていた。
月曜になったら、必ず連絡先を聞こう。響介は“うっかり”しないように、手のひらに油性のマジックで『律の連絡先』としっかり書いてから、床についた。
実を言うと、カラオケに行くのは生まれて初めてのことだった。中学時代は特に同世代との付き合いがなかった上に、金銭的にも余裕がなかった響介は、カラオケやらゲーセンやらカフェといった、いわゆる“小洒落た若者が行きそうな場所”の、殆どに訪れたことがなかったのだ。
昨日こっそり委員長にそう打ち明けると、彼女は格安のカラオケ店の場所や、カラオケに必要な予算などを細かく教えてくれた。その上待ち合わせの場所や時間の予定も決めてくれたので、響介は彼女に頭が上がらない思いになった。正しく優等生らしい手際の良さだった。
自転車は駅へと近づいていく。遠方から、無人駅の入り口に人影が立っているのが見えた。委員長は既に待っているようだ。響介は急いで駅の駐輪場へと自転車を止めて、彼女の元へと向かった。自転車の鍵は一つしかかけていないが、錆びついた中古の自転車をわざわざ盗んでいく物好きはいないだろう。
「委員長! お待た……せっ⁉︎」
響介は一瞬人違いをしたのかと思い、黒いレザーのジャケットを着ている少女に向けて「すみません!」と謝った。しかし振り向いた彼女は──少々化粧が濃いものの──間違いなく委員長だった。
「成谷くん! 大丈夫だよ、私の方が少し早く着いてただけだから」
委員長はどうやら、響介が後から来たことを謝ったのだと思ったらしい。響介は平然と笑みを向けている彼女の服装を、改めて眺めた。
ジャケットにはところどころにギラついたトゲが生えており(後で調べて知ったが、スタッズというものらしい)、着ているシャツにも恐ろしげな骸骨が描かれている。おまけに学校で見知っていたあの清楚な印象のポニーテールには、カラフルなエクステが混ざっており、いかにも派手な様相だった。
委員長というあだ名が似合う、文字通りの優等生風だった彼女が、プライベートで急に不良のような姿になってしまったので、響介は混乱していた。自分の着てきた私服といえば、いつも着ているようなありきたりなパーカーにジーンズとスニーカー、という平凡な服装だ。この格好で彼女の隣に立っていて大丈夫だろうか。
響介が目を丸くしていると、委員長はにっこりと笑って、ギラギラ光るジャケットを見せびらかすように手で広げてみせた。
「ふふっ、驚いた? これ、私の勝負服なの」
「勝負服?」
「うん。歌を歌うときは、絶対こういう服を着るって決めてるの」
自信ありげにそう笑ってみせる彼女は、まるでどこかのアーティストのような存在感を放っていた。
しかし、響介は彼女のその格好よりも、歌声の方に殊更驚かされることとなった。
格安というだけあって、コンテナの個室は壁のところどころが剥げていたり、床やソファは少し汚れていたりと少々粗末な雰囲気だった。しかし響介には、綺麗な部屋よりそういった素朴な空気の方が、却って身の丈に合って落ち着くように感じられた。
向かいの席へと腰をかけると、委員長は改めて自己紹介をした。委員長というのは中学からのあだ名で、本名は飯野長月だという。名前の響きまで“委員長”だったので、響介は思わず声を出して笑ってしまった。彼女曰く委員長と呼ばれるのは、もはや持ちネタのようなものらしい。
カラオケは機械のタッチパネルを使って曲を選ぶものらしく、使い方のわからない響介のために委員長が丁寧に教えてくれた。彼女は早速お手本と言わんばかりに、英題の曲を選んでみせた。
委員長も洋楽が好きなのだろうか──そう思った矢先に、スピーカーから打ち込み音声のエレキギターが、低く歪んだエフェクトで轟々と唸り始めた。まさか真面目そうな委員長が、ハードロックを歌うとは。しかし彼女の歌声は、響介のそんな考えすらも凌駕するものだった。
もはや文字には起こし難い、文字通り絶叫としか言いようのないシャウトが個室じゅうに暴れ始め、響介は震えあがった。それはロックというよりは、いわゆるメタルというジャンルの曲だろう。委員長の声は同学年とは思えないほど血気に溢れ、女性とは思えない威迫を放っていた。
委員長は派手なエクステ混じりのポニーテールを振り乱し、聴覚と視覚の両方で響介を圧倒した。響介は自分の考えていた音楽の世界が、まだまだ狭いものだったということを、彼女に身をもって思い知らされた。
何よりも学校で見知っていた、気品があって大人しそうな彼女の印象と、全く正反対の音楽性が恐ろしかった。それは幼い頃に一度だけ乗ったことのある、ジェットコースターのような衝撃だった。あの乗り物は、側から見ると賑やかで楽しげな見た目をしておいて、いざ乗るとひどい速度で乗客を振り回し、恐怖を煽る。その落差がますます恐ろしいのである。
「さあ、次は成谷くんの番だよ」
歌い終えた委員長は、息を切らせながら響介へタッチパネルを手渡した。響介はぽかんと口を開けて慄きながらも、彼女の音楽への熱意が“本物”であることを感じ取った。
彼女はこれだけ人を圧倒させる歌声を、響介よりも先に披露したのだ。響介は委員長からカラオケに誘われた理由をようやく理解した。響介の歌が上手いという噂を聞いて、彼女は闘争心に駆られたのだろう。勝負服というだけあって、素晴らしい戦いぶりだった。
ならば負けてなるものか。響介は英雄の名曲から、最も情熱的な愛の歌を選んだ。“俺はお前を愛するために生まれてきた”──初対面の少女の前で歌うには、少し恥ずかしい歌詞の曲だが、響介は恥をかき捨てて情熱的に歌い出した。
「アイ……ワズボーン……トゥラヴュー──」
ビブラートを効かせた烈々たる歌声が、二人きりの小さな個室を熱く燃え上がらせた。響介はまだ一曲目であるにも関わらず、歌い終わる頃には汗だくになっていた。ふうと熱い息をつくと、横からぱちぱちと小さな拍手が景気良く飛んできた。
「良かったよ、成谷くん! すっごく上手かった!」
「そ、そうかな?」
響介はせっかく吐いた熱が、また身体の内から込み上げてくるように感じた。ソファに腰をかけつつも、照れくさそうに身体をよじらせている響介を、委員長は瞳を輝かせて明るく褒め称えた。
「うん。本当に。感情の乗せ方が歌声にしっかりついていて、ただ音程が合っていて声量が大きいだけじゃなくて、抑えるところはしっかり抑えてて……とにかく凄かった!」
あまりにも率直に褒められたので、響介は照れるあまり「えへへ……」などというふやけた笑いを浮かべることしかできなかった。本来なら『どういたしまして』とか『それ程でも』といった何らかの反応をするべき場面なのだろうが、あいにく響介は褒められるということにあまり慣れていない。
響介はつい先日、律からも歌声を褒められたばかりだったが、そのときも結局ふにゃふにゃと笑うばかりで、彼にも未だにちゃんとした返事を返せていなかったのだ。
「ふふ。成谷くん、大丈夫?」
委員長は響介が褒められ慣れていないのを、彼の反応だけで察したようだ。響介が後ろめたそうに「ごめん、慣れてなくて」と正直に述べると、彼女は笑みを絶やさないまま話題を変えた。
「私は大丈夫だよ。それより成谷くん、本格的に音楽を始めるんだっけ? あれってどんな感じだったりするの?」
どうやら昨日カラオケの約束をする前に、沢根の言っていた話を彼女も覚えていたようだ。響介はまだはっきりとしていない律との関係を、どう答えようか一瞬迷った。しかし、この誠実そうで温厚そうな委員長になら、ありのままを話してもいいだろうと思い至った。
「その……うちのクラスにピアノがすっげー上手いやつがいてさ。そいつが俺の歌を認めてくれて、どうやら一緒に音楽をやってくれるみたいなんだ」
話しながらも、響介はやはり照れくさくなってきた。実を言うと律とはまだどんな音楽をするのか、これからどんな活動をしていくのかすら決まっていなかった。前述の通り響介がふにゃふにゃとした反応で濁してしまったため、あまり前進しているとは言えない状態だったのだ。
『どうやら』、『みたい』といった表現で言葉を濁す響介に対し、委員長は何かに気づいた様子で目を見開いた。
「……それって、成谷くん。うちのクラスのピアノがすごく上手い子って、もしかして椀田くんのことだったりする?」
「えっ、知ってるのか?」
委員長の口から律の名前が出たことに、響介は率直に驚いた。
「うん。中学のとき、合唱コンクールの伴奏をしてくれたことがあって……あっ、でも練習のときに、たった一度弾いてくれただけだったんだけどね。伴奏担当の子が体調不良で休んじゃったとき、代わりに演奏してくれたの」
委員長は記憶を辿るように、深く頷きながら話を続けた。
「これはその伴奏担当の子には内緒なんだけど……私は正直、椀田くんの演奏の方が、上手いなって思っちゃったんだ。けれど彼、人前に出たがらないみたいで、椀田くんの演奏はその一回しか聴いたことがないんだけどね」
「確かにあいつ、人前では弾けなくなったって、言ってた気がする」
響介も頷いた。委員長はどこか寂しげな顔で俯いた。
「そっか……なんだか納得しちゃった。ほら、椀田くんっていつも一人でいたがるっていうか、周りを避けてそうな感じがしたから。失礼かもしれないけど、成谷くんと椀田くんが一緒に音楽をやるって、ちょっと意外だなって思っちゃって」
「そうかな……そうかも?」
響介はそう言われてみると、確かに納得した。いつの間にか一緒に音楽をするということになっていたが、律との初対面はとてもじゃないが好意的なものではなかったのだ。
それでも彼らの縁がこうして繋がったのは、“音楽が好き”という気持ちの一致、その一点のみが理由だろう。響介はなんだか不思議な感覚をおぼえ、思わず首を傾げながら笑った。
委員長は話しながらはっとして、頭を横に振った。彼女はどうやら、律の中学時代を知っていて、彼のことを気にかけているようだった。
「ううん! 椀田くんのことを悪く言うつもりじゃないの。ただ私、彼のことがちょっと心配で……中学が同じだったってだけなのに、勝手に心配なんかするのも何様かもしれないけど。でも、良かったよ」
委員長はにこりと優しげに笑みを作った。パンクな服装に身を包んでいるが、その表情はやはり優等生らしかった。
「成谷くん。赤の他人が言うのもなんだけど、椀田くんと仲良くしてくれると嬉しいな。彼、ちょっと口数は少ないけれど、きっと優しい人だから。合唱練習の伴奏も、困ってるクラスのために自分から言い出してくれたんだもの」
委員長は「人前で弾くの、苦手だったのにね」と律の気持ちを想って眉を下げた。やはり彼女は人を見る目も良いようだ。律の冷たい人形のような表層の奥に、温かい魂が入っていることを、ちゃんとわかっている。響介は「もちろん」と胸を叩き、彼女へ親指を突き立ててみせた。
「たとえ言われなくなって、あいつとは良くやってくつもりだぜ」
啖呵をきりながら、響介は熱い胸の奥がますます燃え上がるのを感じた。
その後も数曲ほど委員長と歌い交わし、喉を少々痛めつつも、響介は胸中の熱を保ったまま帰宅した。帰ったら早速、自分から律へ次の予定を立てに、声をかけようと思ったのだ。
そうしてその晩、折り畳み携帯のオープンボタンを押して画面を開いた瞬間、響介はようやく気がついた。そういえば、律の連絡先を教えてもらうのを忘れていた。
月曜になったら、必ず連絡先を聞こう。響介は“うっかり”しないように、手のひらに油性のマジックで『律の連絡先』としっかり書いてから、床についた。
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