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勇者として
旅立ち
しおりを挟む ノアは、まじまじと上から下までヴェルを見やった。
庭仕事を終えて、そのまま食事の準備をし始めたヴェルは、髪に櫛も通していないどころか、麦わら帽子をかぶった跡が髪にくっきりついている。
ノアは不思議そうに首を傾げた。
「失礼だが、ヴェル。客人……というには、出立ちが使用人のようなんだけど」
「え? ああ。何もしてないってのも落ち着かないから、俺もリウの手伝いと……、あと庭の手入れを少しやってる」
ノアはメガネ越しにじっとヴェルの顔を見た。ノアのまつ毛の長さに、ヴェルは思わずどきりとする。
天を向くその黒いまつ毛はふさふさと長く、切れ長の瞳を縁取っている。肌は透き通るように白く、きめ細やかだった。
薄い唇はほんのりと紅色で、誰が見ても美しいと形容されるだろう。
しかしその柳眉が顰められ、艶やかな唇が僅かに戦慄いた。
「ヴェル……。まさかとは思うけど、そのまま庭仕事を……?」
「そのまま?」
「だから、肌に何も塗らずにということだよ」
肌に何か塗る、というのが、何を指しているのか分からずヴェルは眉根を寄せた。困惑の眼差しを向けるヴェルに、ノアは頭痛をおさえるかのようにこめかみに指を当てた。
「信じられない……。せめて日焼け止めを塗ってくれ。私のをあげるから」
ポケットから色とりどりの缶を取り出したノアは、その中から掌にちょこんと収まるような青い缶を選んでヴェルに渡した。
言われるがままに受け取り、蓋を取ってみると、中には軟膏のような、白いクリーム状のものが入っていた。
「日焼け止めって王都の貴族がつけるようなものだよな?」
「今は庶民でもつけるよ。はぁ……、リウにもつけるよう言ってるんだけど、この子は『焼けたら焼けたで構いません』なんて言うから」
リウは「だって面倒じゃないですか」とヴェルの横から口を挟む。なるほどリウらしい、と、ヴェルは苦笑した。
「俺もどちらかというとそっちだけどな。まあいいや。とりあえず塗ってみるよ。ありがとう」
必要とはあまり思わないが、せっかく厚意でくれているのだからつけないのも申し訳ない。
するとノアはゆったりと目を細め、口の端に柔らかな笑みを浮かべた。
「ヴェルは良い子だねえ」
「良い子って……」
もう「子」という年ではないし、そもそもノアとはそう年齢も変わらないと思うが。
答えあぐねるヴェルの前で、ノアがリウに問う。
「カイとシグは?」
「殿下は眠っておられます。シグは出かけてます」
「おやおや。昼夜逆転は肌に悪いんだが、まあ、そうも言ってられないか……。私は先に城へ行っているよ。カイが起きたらそう伝えておいてくれ」
ほっそりとした手をひらりと振ると、ノアは踵を返した。長旅から戻ってきたばかりだろうに、軽やかな足取りで館を出ていったノアを見送り、リウは「本当に自由なんだから」とこぼす。
ヴェルはふとリウに訊ねた。
「ノアは『殿下』呼びじゃないんだな」
「そうですね。まあ、ノアは付き人の中でも特別です。公の場ではちゃんと呼んでますから大丈夫ですよ」
リウは「夕飯の支度が途中でした」と慌ただしく厨房へ戻っていく。
ヴェルはリウを追い掛けようとして、貰った缶に目を落とした。缶の中に入っていた日焼け止めの軟膏は、リウが言ったようにどことなく薬草のような匂いがする。だが決して鼻につくような嫌な香りではなく、むしろふわりと馨しい。
今ばかりは、先ほど聞いたリウの言葉がぐるぐると頭の中を巡ってしまう。
『殿下もあの匂いは好きって言ってましたから』
なんだか辻褄が合ってしまった気がする。
断り続ける縁談。
名前呼びが許される昔馴染み。
好きな匂いのする、特別なオメガ——
(加えて、導医なんていう最難関に合格するほどの実力派魔導士。……で、あれだけ美人で気さくな性格、と。いやぁ……お似合いすぎて何も言えねえな。いや、別に元々何か言うつもりもなかったけど)
恋愛のような分不相応なものを望んだことなど、今までの人生において一度もない。自分の人生においてそれは用意されていないのだ。選択肢として現れない。
ヴェルは口の中で小さく「ない」と呟いた。
(ないない。俺には関係ない。この手の話は、元々俺には関係がない)
カイは確かに良い匂いがした。だが、だったら何だというのか。
(恋だの愛だのは、まともな人間がやることなんだよ。俺じゃない)
ヴェルは青い缶を慈しむように撫でた。
ノアは、『この辺りの村をちょっと見ておこうと思ったら、どこも導医不足でね』と言っていた。口ぶりからして、自分の利益など考えず、困っている人たちを助けていたのだろう。つい、恩師の姿と重なってしまい、瞼を伏せる。
そう、恋だの愛だの。幸せな結婚だの、愛すべき家庭だの。そういう「ちゃんとしたこと」は、まともな人間同士でやるものなのだ。
一瞬で、ヴェルの顔から表情が消える。
(——……俺のせいで、先生は死んだ)
そして缶をポケットにしまいこむと、リウを追い掛けて厨房へ向かった。
(俺には、まともな人間の資格がないんだよ)
庭仕事を終えて、そのまま食事の準備をし始めたヴェルは、髪に櫛も通していないどころか、麦わら帽子をかぶった跡が髪にくっきりついている。
ノアは不思議そうに首を傾げた。
「失礼だが、ヴェル。客人……というには、出立ちが使用人のようなんだけど」
「え? ああ。何もしてないってのも落ち着かないから、俺もリウの手伝いと……、あと庭の手入れを少しやってる」
ノアはメガネ越しにじっとヴェルの顔を見た。ノアのまつ毛の長さに、ヴェルは思わずどきりとする。
天を向くその黒いまつ毛はふさふさと長く、切れ長の瞳を縁取っている。肌は透き通るように白く、きめ細やかだった。
薄い唇はほんのりと紅色で、誰が見ても美しいと形容されるだろう。
しかしその柳眉が顰められ、艶やかな唇が僅かに戦慄いた。
「ヴェル……。まさかとは思うけど、そのまま庭仕事を……?」
「そのまま?」
「だから、肌に何も塗らずにということだよ」
肌に何か塗る、というのが、何を指しているのか分からずヴェルは眉根を寄せた。困惑の眼差しを向けるヴェルに、ノアは頭痛をおさえるかのようにこめかみに指を当てた。
「信じられない……。せめて日焼け止めを塗ってくれ。私のをあげるから」
ポケットから色とりどりの缶を取り出したノアは、その中から掌にちょこんと収まるような青い缶を選んでヴェルに渡した。
言われるがままに受け取り、蓋を取ってみると、中には軟膏のような、白いクリーム状のものが入っていた。
「日焼け止めって王都の貴族がつけるようなものだよな?」
「今は庶民でもつけるよ。はぁ……、リウにもつけるよう言ってるんだけど、この子は『焼けたら焼けたで構いません』なんて言うから」
リウは「だって面倒じゃないですか」とヴェルの横から口を挟む。なるほどリウらしい、と、ヴェルは苦笑した。
「俺もどちらかというとそっちだけどな。まあいいや。とりあえず塗ってみるよ。ありがとう」
必要とはあまり思わないが、せっかく厚意でくれているのだからつけないのも申し訳ない。
するとノアはゆったりと目を細め、口の端に柔らかな笑みを浮かべた。
「ヴェルは良い子だねえ」
「良い子って……」
もう「子」という年ではないし、そもそもノアとはそう年齢も変わらないと思うが。
答えあぐねるヴェルの前で、ノアがリウに問う。
「カイとシグは?」
「殿下は眠っておられます。シグは出かけてます」
「おやおや。昼夜逆転は肌に悪いんだが、まあ、そうも言ってられないか……。私は先に城へ行っているよ。カイが起きたらそう伝えておいてくれ」
ほっそりとした手をひらりと振ると、ノアは踵を返した。長旅から戻ってきたばかりだろうに、軽やかな足取りで館を出ていったノアを見送り、リウは「本当に自由なんだから」とこぼす。
ヴェルはふとリウに訊ねた。
「ノアは『殿下』呼びじゃないんだな」
「そうですね。まあ、ノアは付き人の中でも特別です。公の場ではちゃんと呼んでますから大丈夫ですよ」
リウは「夕飯の支度が途中でした」と慌ただしく厨房へ戻っていく。
ヴェルはリウを追い掛けようとして、貰った缶に目を落とした。缶の中に入っていた日焼け止めの軟膏は、リウが言ったようにどことなく薬草のような匂いがする。だが決して鼻につくような嫌な香りではなく、むしろふわりと馨しい。
今ばかりは、先ほど聞いたリウの言葉がぐるぐると頭の中を巡ってしまう。
『殿下もあの匂いは好きって言ってましたから』
なんだか辻褄が合ってしまった気がする。
断り続ける縁談。
名前呼びが許される昔馴染み。
好きな匂いのする、特別なオメガ——
(加えて、導医なんていう最難関に合格するほどの実力派魔導士。……で、あれだけ美人で気さくな性格、と。いやぁ……お似合いすぎて何も言えねえな。いや、別に元々何か言うつもりもなかったけど)
恋愛のような分不相応なものを望んだことなど、今までの人生において一度もない。自分の人生においてそれは用意されていないのだ。選択肢として現れない。
ヴェルは口の中で小さく「ない」と呟いた。
(ないない。俺には関係ない。この手の話は、元々俺には関係がない)
カイは確かに良い匂いがした。だが、だったら何だというのか。
(恋だの愛だのは、まともな人間がやることなんだよ。俺じゃない)
ヴェルは青い缶を慈しむように撫でた。
ノアは、『この辺りの村をちょっと見ておこうと思ったら、どこも導医不足でね』と言っていた。口ぶりからして、自分の利益など考えず、困っている人たちを助けていたのだろう。つい、恩師の姿と重なってしまい、瞼を伏せる。
そう、恋だの愛だの。幸せな結婚だの、愛すべき家庭だの。そういう「ちゃんとしたこと」は、まともな人間同士でやるものなのだ。
一瞬で、ヴェルの顔から表情が消える。
(——……俺のせいで、先生は死んだ)
そして缶をポケットにしまいこむと、リウを追い掛けて厨房へ向かった。
(俺には、まともな人間の資格がないんだよ)
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