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食欲(2)悪夢
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由紀子はバッグを手に、廊下を歩いていた。
本当なら恋人の寺尾と食事に行く約束だったが、残業らしいので仕方が無い。由紀子はデートを諦め、退社するところだった。
と、空いている会議室から声がした。
「ああ。スタイルが良くて、本当にかわいいよな」
由紀子の足が止まる。この声は、寺尾の声だ。
「先輩は?」
甘えたような、鼻にかかった声がする。由紀子の後輩の琴美の声だ。
「本気なわけないだろう?琴美が本命だよ。腹が減ってた時に由紀子の作った飯を食って満足したら、恋愛と誤解したんだな。給料前とかは重宝してるけどね、今も」
「酷いわねぇ。先輩がかわいそう」
「だって、結婚資金をためないといけないだろう?」
そう言って、2人でクスクスと笑う。
由紀子は血の気が引いていた。信じたくないが、喋っているのは恋人と後輩で、自分の事を言っている。
見てはいけない。そうわかっているのに、確認しないと信じられなくて――いや、信じたくなくて、由紀子はそうっとドアの隙間から中を覗いた。
間違いようもない。寺尾と琴美がしっかりと抱き合って、キスをしていた。
「誰か来たらどうするのよ。今日も泊って行くんでしょ?続きは帰ってから」
「ま、仕方ないなあ」
含み笑い。
どこからどう見ても慣れた様子で、由紀子はショックのあまり、よろめいてドアにすがって音を立てた。
ハッとしたように2人がドアの方を見て、由紀子と目が合う。
「あ……」
「あら。花田先輩」
悪びれる事もなく琴美が嗤った。
「完全に閉まってなかったか」
寺尾も、苦笑した。
「あの……私……」
2人は顔を見合わせて苦笑すると、由紀子を憐れむように見た。
「いやあ、悪い、悪い。そろそろ言わなきゃとは思ってたんだけど、ちょうどいいや。
俺達結婚するから」
「まさか、本気だったとか思ってないですよね?」
「え……だって……」
「俺、スラッとした子がタイプなんだよね。まあ、俺だけじゃないと思うけど」
「地味だし、太目だし、女捨ててます?」
2人はクスクスと笑う。
由紀子は居たたまれなくなって、逃げ出した。悪夢なら早く冷めて欲しいと思いながら。
由紀子はそこで目を覚ました。このところ頻繁に見る悪夢をまた見ていたようだ。
しかし、残念ながら現実も悪夢だった。何せ、この夢は本当の事だ。
ギュッと奥歯を噛み締めて、起き上がろうとした時、初めて由紀子はここが、どこかの病院らしい事に気が付いた。
「どうして……あ、電車に乗ってて、気持ちが悪くなって、立っていられなくなったんだったわ」
最後の記憶を引っ張り出す。
そうだ。隣に立っていたサラリーマンの2人組が、食べ物の話をしていたんだった。せっかく中吊り広告から目をそらしていたのに。
思い出すと、お腹が鳴った。
「だめ。我慢、我慢。痩せなくちゃ。痩せるために、食べちゃだめ」
呪文のように繰り返すその脳裏に浮かぶのは、あの日の恋人と後輩の姿と言葉だった。
「痩せなくちゃ、食べちゃだめ、痩せなくちゃ、食べちゃだめ」
虚空を見つめながらぶつぶつと繰り返す由紀子に、見えない何かがふわっと近付き、入って行く。
由紀子の表情が、満足したものになった。
「はあ。お腹いっぱい」
僕と直は、廊下で話していた。
「低血糖ですか」
「はい。体重などから見て、極端なダイエットをしているようです。
でも、陰陽課に関係が?」
医師は半信半疑といった顔で訊く。
当然だ。その疑いが濃厚だと言って花田由紀子さんの病状を聞いているのだが、医者としては、それが見当違いなら、守秘義務違反になるのだから。
「ん?」
僕と直は、生霊に似てはいるが少し違う、駅のホームでも感じた気配を感じ取った。
それは近付いて来ると、花田さんのいる処置室に入って行く。
「失礼します」
「失礼しますねえ」
僕と直は、処置室に入った。
すると、その気配が花田さんの中に、スルッと入って行くところだった。
「はあ。お腹いっぱい」
花田さんが満足げな表情を浮かべる。
もしかして、空腹をこれでごまかして、それで実際には食べないでいるのだろうか。
直も同じ事を考えたらしい。
「怜。これは、食べたつもりダイエットかねえ?」
「つもり貯金とかいうのは聞いた事があるがな」
「あの?」
医師が怪訝な顔を向けて来るので、廊下に出て説明した。
「生霊みたいな何かを飛ばして、もう一度とりこんで、それで空腹を感じなくさせているのかも知れません」
「え。食べてないのに満腹に?」
「はい、多分。そりゃあ、貧血にも栄養不良にもなりますねえ」
医師は呆然とし、次いで、ぶつぶつと言いながら考え始めた。
「空腹がなければそりゃあ食べずにいられるし、食べないでいると低血糖にもなるか。
でも、確実に死にますよ」
「ええ。生霊のようなものが飛ばないようには、札をしばらくの間常時身に着けておくことでできます。でもそれと並行して、専門家によるカウンセリングをお勧めします」
「そうじゃないと、同じ事の繰り返しになりますからねえ」
そこで僕と直と医師は処置室にもう一度入り、花田さんに説明をした。
花田さんはそれをじっと聞いていたが、意外と素直に、
「どうして空腹がまぎれるのかわかりませんでしたけれど、そうだったんですか。わかりました。札を持っていればいいんですね」
と言う。
その物分かりの良さが、却って心配な気がした。
本当なら恋人の寺尾と食事に行く約束だったが、残業らしいので仕方が無い。由紀子はデートを諦め、退社するところだった。
と、空いている会議室から声がした。
「ああ。スタイルが良くて、本当にかわいいよな」
由紀子の足が止まる。この声は、寺尾の声だ。
「先輩は?」
甘えたような、鼻にかかった声がする。由紀子の後輩の琴美の声だ。
「本気なわけないだろう?琴美が本命だよ。腹が減ってた時に由紀子の作った飯を食って満足したら、恋愛と誤解したんだな。給料前とかは重宝してるけどね、今も」
「酷いわねぇ。先輩がかわいそう」
「だって、結婚資金をためないといけないだろう?」
そう言って、2人でクスクスと笑う。
由紀子は血の気が引いていた。信じたくないが、喋っているのは恋人と後輩で、自分の事を言っている。
見てはいけない。そうわかっているのに、確認しないと信じられなくて――いや、信じたくなくて、由紀子はそうっとドアの隙間から中を覗いた。
間違いようもない。寺尾と琴美がしっかりと抱き合って、キスをしていた。
「誰か来たらどうするのよ。今日も泊って行くんでしょ?続きは帰ってから」
「ま、仕方ないなあ」
含み笑い。
どこからどう見ても慣れた様子で、由紀子はショックのあまり、よろめいてドアにすがって音を立てた。
ハッとしたように2人がドアの方を見て、由紀子と目が合う。
「あ……」
「あら。花田先輩」
悪びれる事もなく琴美が嗤った。
「完全に閉まってなかったか」
寺尾も、苦笑した。
「あの……私……」
2人は顔を見合わせて苦笑すると、由紀子を憐れむように見た。
「いやあ、悪い、悪い。そろそろ言わなきゃとは思ってたんだけど、ちょうどいいや。
俺達結婚するから」
「まさか、本気だったとか思ってないですよね?」
「え……だって……」
「俺、スラッとした子がタイプなんだよね。まあ、俺だけじゃないと思うけど」
「地味だし、太目だし、女捨ててます?」
2人はクスクスと笑う。
由紀子は居たたまれなくなって、逃げ出した。悪夢なら早く冷めて欲しいと思いながら。
由紀子はそこで目を覚ました。このところ頻繁に見る悪夢をまた見ていたようだ。
しかし、残念ながら現実も悪夢だった。何せ、この夢は本当の事だ。
ギュッと奥歯を噛み締めて、起き上がろうとした時、初めて由紀子はここが、どこかの病院らしい事に気が付いた。
「どうして……あ、電車に乗ってて、気持ちが悪くなって、立っていられなくなったんだったわ」
最後の記憶を引っ張り出す。
そうだ。隣に立っていたサラリーマンの2人組が、食べ物の話をしていたんだった。せっかく中吊り広告から目をそらしていたのに。
思い出すと、お腹が鳴った。
「だめ。我慢、我慢。痩せなくちゃ。痩せるために、食べちゃだめ」
呪文のように繰り返すその脳裏に浮かぶのは、あの日の恋人と後輩の姿と言葉だった。
「痩せなくちゃ、食べちゃだめ、痩せなくちゃ、食べちゃだめ」
虚空を見つめながらぶつぶつと繰り返す由紀子に、見えない何かがふわっと近付き、入って行く。
由紀子の表情が、満足したものになった。
「はあ。お腹いっぱい」
僕と直は、廊下で話していた。
「低血糖ですか」
「はい。体重などから見て、極端なダイエットをしているようです。
でも、陰陽課に関係が?」
医師は半信半疑といった顔で訊く。
当然だ。その疑いが濃厚だと言って花田由紀子さんの病状を聞いているのだが、医者としては、それが見当違いなら、守秘義務違反になるのだから。
「ん?」
僕と直は、生霊に似てはいるが少し違う、駅のホームでも感じた気配を感じ取った。
それは近付いて来ると、花田さんのいる処置室に入って行く。
「失礼します」
「失礼しますねえ」
僕と直は、処置室に入った。
すると、その気配が花田さんの中に、スルッと入って行くところだった。
「はあ。お腹いっぱい」
花田さんが満足げな表情を浮かべる。
もしかして、空腹をこれでごまかして、それで実際には食べないでいるのだろうか。
直も同じ事を考えたらしい。
「怜。これは、食べたつもりダイエットかねえ?」
「つもり貯金とかいうのは聞いた事があるがな」
「あの?」
医師が怪訝な顔を向けて来るので、廊下に出て説明した。
「生霊みたいな何かを飛ばして、もう一度とりこんで、それで空腹を感じなくさせているのかも知れません」
「え。食べてないのに満腹に?」
「はい、多分。そりゃあ、貧血にも栄養不良にもなりますねえ」
医師は呆然とし、次いで、ぶつぶつと言いながら考え始めた。
「空腹がなければそりゃあ食べずにいられるし、食べないでいると低血糖にもなるか。
でも、確実に死にますよ」
「ええ。生霊のようなものが飛ばないようには、札をしばらくの間常時身に着けておくことでできます。でもそれと並行して、専門家によるカウンセリングをお勧めします」
「そうじゃないと、同じ事の繰り返しになりますからねえ」
そこで僕と直と医師は処置室にもう一度入り、花田さんに説明をした。
花田さんはそれをじっと聞いていたが、意外と素直に、
「どうして空腹がまぎれるのかわかりませんでしたけれど、そうだったんですか。わかりました。札を持っていればいいんですね」
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