325 / 1,046
能面(3)面の意思
しおりを挟む
札の貼られた面をチラリと見て、垣内は詰めていた息を吐く。
榊のペットボトルに薬物を混入した時、この面は稽古に使われていたので、そばにあった。そして、目が合ったような気がしたのだ。
気のせいだ。そう何度も思ったが、「見ていたぞ」と言われているような気がしてならない。罪悪感のせいだろうと、冷静な部分では思うのだが……。
溜め息をついた時、すぐ後ろで大きな音がして飛び上がった。
「す、すみません!」
後輩が湯飲みを落としてあたふたしていた。
「いや、大丈夫。ケガするなよ」
言って、震えそうなのを誤魔化すように立ち上がってトイレに行った。
病院の榊さんを訪ねると、榊さんは大事に至る事は無く、検査結果も問題はなく、間もなく退院できるという事だった。
「1人で稽古していて、具合が悪くなったんです。試験とかバイトとか色々忙しくて不摂生が祟ったんですね」
あははと笑う。
「卒業前の、最後の公演なんですよねえ。残念でしたねえ」
直が言うが、榊は微妙な顔をした。
「ううん……。実は、ホッともしているんですよ。外部講師の先生のお孫さんが、その、好きでいてくれているようなんですがね。それで、ぼくを先生に強力にシテに押してくれたようで。先生は、ぼくを含めた3人で迷ってらしたようなんですけど」
「それは、やり難いでしょうね」
「ええ。正直、有難迷惑だとも思いましたね。そりゃあ、シテをやりたいですけど、そういうのはね」
3人で、うんうんと頷く。
「その前は、変わった事は無かったんですか。稽古場や舞台で」
「無いですよ。というか、ぼくは入院しているので、今起きている事も知らないんですけど」
「あの稽古用の近江女の面は、ずっと前からあるんですか」
「だと思いますよ。ぼくが入るより前からあったから」
「何だろうねえ。道成寺のシテだから狙われたのかねえ。でも、榊さんからは少なくとも今は何も怪しい気配はしないからねえ」
「わからないけど、まあ、最悪祓ったら済むしな」
「まあねえ」
そして先生の孫とやらが来たのを機に僕と直は病室を出、大学へ向かった。
垣内は、面を手に取った。
どうにも薄気味悪い。こんなもの、割れてしまえばいい。
そう思って、落とそうとする。
「稽古するぞ」
が、そのタイミングでかかった声に、面を落とせなくなった。
「はい」
手の中で、面がミシリと歪み、札がピッと音を立てた。
面を付けると、視界が狭くなる。上下左右あまり見えず、決められた所作、繰り返し行った稽古での動きをするのみだ。
繰り返しの稽古で掴んだ舞台の広さを間違える筈もない。
近江女の面は札が貼ってあるので、今は別の面を付けて稽古を再開していた。
が、誰かが何か言った時、体が傾いで落ちて行くのを感じた。
「垣内!」
階段から落ちたのだと気付いた。
立ち上がると、稽古場へ駈け込み、面を見る。
「さっき、破れたのか」
札に亀裂が入り、面の笑みが一層深くなっているのにゾッとした。
稽古場に近付いた時、急激に気配が大きくなるのを感じた。
「何!?」
とにかく急いで、稽古場へ行く。
僕と直が飛び込むのと、垣内さんが飛び込むのは、ほぼ同時だった。
垣内さんは面を手に取り、
「さっき、破れたのか」
と言うと、ギョッとしたようにそれを遠ざけた。
念が立ち上り、うっすらと形を現している。
「あなたは」
コノケンキュウカイデ ナガネン ミテキタ
ネタミ シット
コノオトコノ コウドウデ ミルダケカラ イッポシンカシタ
「行動とは?」
シットシテ ヤクヲ チカラデウバッタ
垣内さんは震えてその念を見ていたが、頭を抱えて叫ぶように言った。
「魔が差したんだ。ちょっと苦しめばいいって、その程度だ、本当に!」
ノミモノニ ブスヲ マゼタ
ソコマデシタヤツハ イナカッタ
「垣内さん。榊さんの飲み物に、毒物を混入したんですか」
「毒って……ちょっと心臓に負担をかける程度の薬品だ!」
「それでもだめですねえ」
「いたずらじゃないか!」
「それ、傷害罪ですよ」
垣内さんはグッと詰まり、そんな垣内さんを、会員達はどうしたらいいのかわからないという風に見ている。
タシカニ ジツリョクハ トントン
デモ ケッテイハ ケッテイ
ケイコバデ ソンナマネハ フユカイダ
垣内さんは放心したように俯き、ブツブツと呟いていた。
「あの女が色ボケして横やりを入れたんじゃなきゃ、俺だって腹は立たなかった。納得したさ」
僕と直は目を見交わして嘆息した。
先生の孫が元凶と言えなくもなかったな。
「そちらはまた別問題として、面だな」
ワタシガ セイギ
「いくら正義を主張しても、やり方と程度がある。それに、暴走した正義は悪意と変わりがない」
「意思を持ち、力を使うのは危険だねえ」
「悪く思うな」
浄力をぶつける。これまでの演者の負の心が凝り固まった念は、抵抗虚しく消え去った。後には、ただの面がカランと音を立てて転がるだけだった。
豚まんをパクリと齧って、顛末を話す。
「女の勝手な身びいきと、先生の孫可愛さから出た悲劇か」
兄が言って、溜め息をつく。
「誰も得をしなかったわねえ」
冴子姉は、辛子をつけすぎたのか涙目になっている。
「薬物混入の方は、垣内さんが入れたという証拠が何も無いどころか、薬物が入っていたという痕跡すら無くて、事件にはならないみたいだよ」
「まあ、そんなところだろうな」
「それで公演はどうなるの」
「榊さんはその気がないらしいし、垣内さんもやるわけにはいかないだろうし、3番目の人がやるんじゃないのかな。
まあ、あれだな。面倒臭い女の子が面倒臭い事を引き起こしたんだな」
「はあ。お気の毒」
僕達は、黙々と豚まんを食べた。
榊のペットボトルに薬物を混入した時、この面は稽古に使われていたので、そばにあった。そして、目が合ったような気がしたのだ。
気のせいだ。そう何度も思ったが、「見ていたぞ」と言われているような気がしてならない。罪悪感のせいだろうと、冷静な部分では思うのだが……。
溜め息をついた時、すぐ後ろで大きな音がして飛び上がった。
「す、すみません!」
後輩が湯飲みを落としてあたふたしていた。
「いや、大丈夫。ケガするなよ」
言って、震えそうなのを誤魔化すように立ち上がってトイレに行った。
病院の榊さんを訪ねると、榊さんは大事に至る事は無く、検査結果も問題はなく、間もなく退院できるという事だった。
「1人で稽古していて、具合が悪くなったんです。試験とかバイトとか色々忙しくて不摂生が祟ったんですね」
あははと笑う。
「卒業前の、最後の公演なんですよねえ。残念でしたねえ」
直が言うが、榊は微妙な顔をした。
「ううん……。実は、ホッともしているんですよ。外部講師の先生のお孫さんが、その、好きでいてくれているようなんですがね。それで、ぼくを先生に強力にシテに押してくれたようで。先生は、ぼくを含めた3人で迷ってらしたようなんですけど」
「それは、やり難いでしょうね」
「ええ。正直、有難迷惑だとも思いましたね。そりゃあ、シテをやりたいですけど、そういうのはね」
3人で、うんうんと頷く。
「その前は、変わった事は無かったんですか。稽古場や舞台で」
「無いですよ。というか、ぼくは入院しているので、今起きている事も知らないんですけど」
「あの稽古用の近江女の面は、ずっと前からあるんですか」
「だと思いますよ。ぼくが入るより前からあったから」
「何だろうねえ。道成寺のシテだから狙われたのかねえ。でも、榊さんからは少なくとも今は何も怪しい気配はしないからねえ」
「わからないけど、まあ、最悪祓ったら済むしな」
「まあねえ」
そして先生の孫とやらが来たのを機に僕と直は病室を出、大学へ向かった。
垣内は、面を手に取った。
どうにも薄気味悪い。こんなもの、割れてしまえばいい。
そう思って、落とそうとする。
「稽古するぞ」
が、そのタイミングでかかった声に、面を落とせなくなった。
「はい」
手の中で、面がミシリと歪み、札がピッと音を立てた。
面を付けると、視界が狭くなる。上下左右あまり見えず、決められた所作、繰り返し行った稽古での動きをするのみだ。
繰り返しの稽古で掴んだ舞台の広さを間違える筈もない。
近江女の面は札が貼ってあるので、今は別の面を付けて稽古を再開していた。
が、誰かが何か言った時、体が傾いで落ちて行くのを感じた。
「垣内!」
階段から落ちたのだと気付いた。
立ち上がると、稽古場へ駈け込み、面を見る。
「さっき、破れたのか」
札に亀裂が入り、面の笑みが一層深くなっているのにゾッとした。
稽古場に近付いた時、急激に気配が大きくなるのを感じた。
「何!?」
とにかく急いで、稽古場へ行く。
僕と直が飛び込むのと、垣内さんが飛び込むのは、ほぼ同時だった。
垣内さんは面を手に取り、
「さっき、破れたのか」
と言うと、ギョッとしたようにそれを遠ざけた。
念が立ち上り、うっすらと形を現している。
「あなたは」
コノケンキュウカイデ ナガネン ミテキタ
ネタミ シット
コノオトコノ コウドウデ ミルダケカラ イッポシンカシタ
「行動とは?」
シットシテ ヤクヲ チカラデウバッタ
垣内さんは震えてその念を見ていたが、頭を抱えて叫ぶように言った。
「魔が差したんだ。ちょっと苦しめばいいって、その程度だ、本当に!」
ノミモノニ ブスヲ マゼタ
ソコマデシタヤツハ イナカッタ
「垣内さん。榊さんの飲み物に、毒物を混入したんですか」
「毒って……ちょっと心臓に負担をかける程度の薬品だ!」
「それでもだめですねえ」
「いたずらじゃないか!」
「それ、傷害罪ですよ」
垣内さんはグッと詰まり、そんな垣内さんを、会員達はどうしたらいいのかわからないという風に見ている。
タシカニ ジツリョクハ トントン
デモ ケッテイハ ケッテイ
ケイコバデ ソンナマネハ フユカイダ
垣内さんは放心したように俯き、ブツブツと呟いていた。
「あの女が色ボケして横やりを入れたんじゃなきゃ、俺だって腹は立たなかった。納得したさ」
僕と直は目を見交わして嘆息した。
先生の孫が元凶と言えなくもなかったな。
「そちらはまた別問題として、面だな」
ワタシガ セイギ
「いくら正義を主張しても、やり方と程度がある。それに、暴走した正義は悪意と変わりがない」
「意思を持ち、力を使うのは危険だねえ」
「悪く思うな」
浄力をぶつける。これまでの演者の負の心が凝り固まった念は、抵抗虚しく消え去った。後には、ただの面がカランと音を立てて転がるだけだった。
豚まんをパクリと齧って、顛末を話す。
「女の勝手な身びいきと、先生の孫可愛さから出た悲劇か」
兄が言って、溜め息をつく。
「誰も得をしなかったわねえ」
冴子姉は、辛子をつけすぎたのか涙目になっている。
「薬物混入の方は、垣内さんが入れたという証拠が何も無いどころか、薬物が入っていたという痕跡すら無くて、事件にはならないみたいだよ」
「まあ、そんなところだろうな」
「それで公演はどうなるの」
「榊さんはその気がないらしいし、垣内さんもやるわけにはいかないだろうし、3番目の人がやるんじゃないのかな。
まあ、あれだな。面倒臭い女の子が面倒臭い事を引き起こしたんだな」
「はあ。お気の毒」
僕達は、黙々と豚まんを食べた。
10
お気に入りに追加
199
あなたにおすすめの小説
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
父が再婚してから酷い目に遭いましたが、最終的に皆罪人にして差し上げました
四季
恋愛
母親が亡くなり、父親に新しい妻が来てからというもの、私はいじめられ続けた。
だが、ただいじめられただけで終わる私ではない……!
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
〈社会人百合〉アキとハル
みなはらつかさ
恋愛
女の子拾いました――。
ある朝起きたら、隣にネイキッドな女の子が寝ていた!?
主人公・紅(くれない)アキは、どういったことかと問いただすと、酔っ払った勢いで、彼女・葵(あおい)ハルと一夜をともにしたらしい。
しかも、ハルは失踪中の大企業令嬢で……?
絵:Novel AI
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
極上の一夜で懐妊したらエリートパイロットの溺愛新婚生活がはじまりました
白妙スイ@書籍&電子書籍発刊!
恋愛
早瀬 果歩はごく普通のOL。
あるとき、元カレに酷く振られて、1人でハワイへ傷心旅行をすることに。
そこで逢見 翔というパイロットと知り合った。
翔は果歩に素敵な時間をくれて、やがて2人は一夜を過ごす。
しかし翌朝、翔は果歩の前から消えてしまって……。
**********
●早瀬 果歩(はやせ かほ)
25歳、OL
元カレに酷く振られた傷心旅行先のハワイで、翔と運命的に出会う。
●逢見 翔(おうみ しょう)
28歳、パイロット
世界を飛び回るエリートパイロット。
ハワイへのフライト後、果歩と出会い、一夜を過ごすがその後、消えてしまう。
翌朝いなくなってしまったことには、なにか理由があるようで……?
●航(わたる)
1歳半
果歩と翔の息子。飛行機が好き。
※表記年齢は初登場です
**********
webコンテンツ大賞【恋愛小説大賞】にエントリー中です!
完結しました!
『別れても好きな人』
設樂理沙
ライト文芸
大好きな夫から好きな女性ができたから別れて欲しいと言われ、離婚した。
夫の想い人はとても美しく、自分など到底敵わないと思ったから。
ほんとうは別れたくなどなかった。
この先もずっと夫と一緒にいたかった……だけど世の中には
どうしようもないことがあるのだ。
自分で選択できないことがある。
悲しいけれど……。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
登場人物紹介
戸田貴理子 40才
戸田正義 44才
青木誠二 28才
嘉島優子 33才
小田聖也 35才
2024.4.11 ―― プロット作成日
💛イラストはAI生成自作画像
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる