体質が変わったので

JUN

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能面(3)面の意思

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 札の貼られた面をチラリと見て、垣内は詰めていた息を吐く。
 榊のペットボトルに薬物を混入した時、この面は稽古に使われていたので、そばにあった。そして、目が合ったような気がしたのだ。
 気のせいだ。そう何度も思ったが、「見ていたぞ」と言われているような気がしてならない。罪悪感のせいだろうと、冷静な部分では思うのだが……。
 溜め息をついた時、すぐ後ろで大きな音がして飛び上がった。
「す、すみません!」
 後輩が湯飲みを落としてあたふたしていた。
「いや、大丈夫。ケガするなよ」
 言って、震えそうなのを誤魔化すように立ち上がってトイレに行った。

 病院の榊さんを訪ねると、榊さんは大事に至る事は無く、検査結果も問題はなく、間もなく退院できるという事だった。
「1人で稽古していて、具合が悪くなったんです。試験とかバイトとか色々忙しくて不摂生が祟ったんですね」
 あははと笑う。
「卒業前の、最後の公演なんですよねえ。残念でしたねえ」
 直が言うが、榊は微妙な顔をした。
「ううん……。実は、ホッともしているんですよ。外部講師の先生のお孫さんが、その、好きでいてくれているようなんですがね。それで、ぼくを先生に強力にシテに押してくれたようで。先生は、ぼくを含めた3人で迷ってらしたようなんですけど」
「それは、やり難いでしょうね」
「ええ。正直、有難迷惑だとも思いましたね。そりゃあ、シテをやりたいですけど、そういうのはね」
 3人で、うんうんと頷く。
「その前は、変わった事は無かったんですか。稽古場や舞台で」
「無いですよ。というか、ぼくは入院しているので、今起きている事も知らないんですけど」
「あの稽古用の近江女の面は、ずっと前からあるんですか」
「だと思いますよ。ぼくが入るより前からあったから」
「何だろうねえ。道成寺のシテだから狙われたのかねえ。でも、榊さんからは少なくとも今は何も怪しい気配はしないからねえ」
「わからないけど、まあ、最悪祓ったら済むしな」
「まあねえ」
 そして先生の孫とやらが来たのを機に僕と直は病室を出、大学へ向かった。

 垣内は、面を手に取った。
 どうにも薄気味悪い。こんなもの、割れてしまえばいい。
 そう思って、落とそうとする。
「稽古するぞ」
 が、そのタイミングでかかった声に、面を落とせなくなった。
「はい」
 手の中で、面がミシリと歪み、札がピッと音を立てた。
 面を付けると、視界が狭くなる。上下左右あまり見えず、決められた所作、繰り返し行った稽古での動きをするのみだ。
 繰り返しの稽古で掴んだ舞台の広さを間違える筈もない。
 近江女の面は札が貼ってあるので、今は別の面を付けて稽古を再開していた。
 が、誰かが何か言った時、体が傾いで落ちて行くのを感じた。
「垣内!」
 階段から落ちたのだと気付いた。
 立ち上がると、稽古場へ駈け込み、面を見る。
「さっき、破れたのか」
 札に亀裂が入り、面の笑みが一層深くなっているのにゾッとした。

 稽古場に近付いた時、急激に気配が大きくなるのを感じた。
「何!?」
 とにかく急いで、稽古場へ行く。
 僕と直が飛び込むのと、垣内さんが飛び込むのは、ほぼ同時だった。
 垣内さんは面を手に取り、
「さっき、破れたのか」
と言うと、ギョッとしたようにそれを遠ざけた。
 念が立ち上り、うっすらと形を現している。
「あなたは」

     コノケンキュウカイデ ナガネン ミテキタ
     ネタミ シット 
     コノオトコノ コウドウデ ミルダケカラ イッポシンカシタ

「行動とは?」

     シットシテ ヤクヲ チカラデウバッタ

 垣内さんは震えてその念を見ていたが、頭を抱えて叫ぶように言った。
「魔が差したんだ。ちょっと苦しめばいいって、その程度だ、本当に!」

     ノミモノニ ブスヲ マゼタ
     ソコマデシタヤツハ イナカッタ
     
「垣内さん。榊さんの飲み物に、毒物を混入したんですか」
「毒って……ちょっと心臓に負担をかける程度の薬品だ!」
「それでもだめですねえ」
「いたずらじゃないか!」
「それ、傷害罪ですよ」
 垣内さんはグッと詰まり、そんな垣内さんを、会員達はどうしたらいいのかわからないという風に見ている。

     タシカニ ジツリョクハ トントン
     デモ ケッテイハ ケッテイ
     ケイコバデ ソンナマネハ フユカイダ

 垣内さんは放心したように俯き、ブツブツと呟いていた。
「あの女が色ボケして横やりを入れたんじゃなきゃ、俺だって腹は立たなかった。納得したさ」
 僕と直は目を見交わして嘆息した。
 先生の孫が元凶と言えなくもなかったな。
「そちらはまた別問題として、面だな」

     ワタシガ セイギ

「いくら正義を主張しても、やり方と程度がある。それに、暴走した正義は悪意と変わりがない」
「意思を持ち、力を使うのは危険だねえ」
「悪く思うな」
 浄力をぶつける。これまでの演者の負の心が凝り固まった念は、抵抗虚しく消え去った。後には、ただの面がカランと音を立てて転がるだけだった。

 豚まんをパクリと齧って、顛末を話す。
「女の勝手な身びいきと、先生の孫可愛さから出た悲劇か」
 兄が言って、溜め息をつく。
「誰も得をしなかったわねえ」
 冴子姉は、辛子をつけすぎたのか涙目になっている。
「薬物混入の方は、垣内さんが入れたという証拠が何も無いどころか、薬物が入っていたという痕跡すら無くて、事件にはならないみたいだよ」
「まあ、そんなところだろうな」
「それで公演はどうなるの」
「榊さんはその気がないらしいし、垣内さんもやるわけにはいかないだろうし、3番目の人がやるんじゃないのかな。
 まあ、あれだな。面倒臭い女の子が面倒臭い事を引き起こしたんだな」
「はあ。お気の毒」
 僕達は、黙々と豚まんを食べた。








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