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能面(2)笑う面
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木々に隔てられた落ち着いた一角に日本庭園風な庭があり、そこに能楽堂が作ってあった。
一サークルとは言え、この大学は国文学に力を入れており、能楽堂があったり、稀覯本の収集などにも熱心だ。
「夜中に、この能舞台で足音がするそうなんです」
会員に案内されて、僕と直は能舞台の前に立っていた。
能舞台そのものにも、松の廊下にも鏡の間にも、そうおかしな気配はない。
鏡の間に続くように小屋があり、これが稽古場らしい。板敷の部屋が2つと更衣室が2つ、衣裳部屋から成り、サークルとしては別格の扱いを受けている事が窺える。板敷の部屋の片方は演奏の練習に使う部屋らしく、棚には楽器が並んでいた。もう片方は演者の稽古に使うらしく、棚には面が収められていた。
「こちらの稽古場では、誰もいないのに人の気配がしたりするんです」
この後能舞台を使っての稽古があるとかで、演者の稽古場でも奏者の稽古場でも、稽古中だった。
少し、不穏な気配がしている。
「どこからかな」
「するねえ」
直も、室内を見廻した。
町田 直、幼稚園からの親友だ。要領が良くて人懐っこく、脅威の人脈を持っている。高1の夏以降、直も、霊が見え、会話ができる体質になったので本当に心強い。だがその前から、僕の事情にも精通し、いつも無条件で助けてくれた大切な相棒だ。霊能師としては、祓えないが、屈指の札使いであり、インコ使いでもある。
「やっぱり、何かいるんですか」
声を潜めながら会員に訊き返される。
「はい。今は姿を潜めているという感じなんですが、いますね。
異変が起き始めたのはいつからですか」
会員は深刻そうな顔をしながら、答えた。
「半月程前です。ここで稽古をしていた会員が心臓発作で倒れまして。どこも悪くなかった学生で、シテ――主役に決まっていたんですが」
「亡くなったんですかねえ」
「いえ、生きています。ただ、今回の公演は無理かと。これが卒業前最後の公演なんですけどね。
その後は、足音がするとか、気配がするとか、そういうものですが」
ボソボソと話していると、
「ようし。じゃあ、鐘を使っての稽古をしよう」
1人が言って、皆でぞろぞろと稽古場を出て行く。それと入れ替わりに、僕達は稽古場に入った。
「鐘を使うという事は、道成寺ですか」
「そうです、そうです」
彼は嬉しそうに言った。
白拍子が鐘供養の日に女人禁制の寺に来、入れないと言われると、せめて舞を舞わせてくれと頼み、舞を舞う。ところが鐘を落として、白拍子は鐘の中に入ってしまう。それで和尚は、昔あった山伏と娘の事件を思い出し、語り始める。そしてその後鐘を引き上げると、中から大蛇が出て来て、僧に切り伏せられ、紀ノ川へと入って行く、というストーリーだ。
見どころは鐘入りだ。シテである白拍子に向かうように小鼓が座り直し、15分間程、両者のみで進んで行く緊迫のシーンがあり、その後、鐘後見と呼ばれる鐘を下ろす役をするシテに次ぐベテラン2人とタイミングを合わせて、シテは鐘に飛び入らなくてはならない。鐘後見とタイミングがずれると大けがをしかねない、危険なシーンでもある。
その後も鐘の中で、鐘を揺すったり、にゅうばちを鳴らしたり、大蛇の姿の後シテになる為に鐘の中で1人で着替えたり面を変えたりしなければならない。
能舞台に取り付けられた金具など、この道成寺でしか使わないという仕掛けもあるくらい、この道成寺は独特であると言えるだろう。
皆が能舞台に行っている間に、心おきなく稽古場を視る。
面の並んだ棚を覗く。
今回シテが使うのは、前シテが近江女、後シテが般若だ。本番用は別の場所に保管してあるだろうし、ここにあるのは稽古用だろう。
「……少し、名残があるか……」
今は大した事も無い。
「あ、能舞台に持って行ったんじゃないかねえ」
「あ」
慌てて3人で能舞台へ向かう。廊下へ出て走り、演者の控えの間である鏡の間へ飛び込む。会員達が目を丸くしているが、説明している暇はない。
気配が大きくなった。
「まずい」
幕を跳ね上げて松の廊下へ入るのと、鐘の大きな音がするのは同時だった。
「垣内!?」
「大丈夫か!?」
鐘の周りに人がわらわらと集まって来る。
「どうしたんだ!?」
案内係をしてくれていた会員が訊くと、1人が顔を青くして答えた。
「鐘入りの時、一瞬垣内がつんのめってタイミングが狂って……」
鐘後見の手で鐘が上げられると、中から、男子学生が出て来る。彼が垣内さんだろう。
「垣内、ケガは!?」
「大丈夫です。ちょっと肩をかすったくらいで」
「どうしたんだ」
「何か、視界に何かが入って来たように見えて……」
垣内さんはやや青い顔をしながらも、平気そうだ。
手には外された近江女の面を持っているが、今はもう収まりつつある気配は、この面からしているようだ。
ホッとした空気が流れている中、僕と直は、その面を見て緊張を募らせていた。
「その面は、いつも稽古場に?」
「はい。稽古用の面で、棚に置いてあります」
垣内さんは答え、面に目を落とし、ギョッと面を体から離した。
「うわっ!」
「どうした?」
「面が今笑ったような……いや、気のせいだな、気のせい」
垣内さんは取り繕うように笑ったが、気のせいではない。
「その面は一旦封印しましょう。札を貼って、様子を見ます」
僕が言うと、皆一様に、僕と直という部外者にやっと気づいたかのように怪訝な顔を向ける。
「霊能師の御崎と申します」
「霊能師の町田と申します」
「その、最近色々とあったんで、来てもらったんだよ。ほら、この前のミーティングで決めただろ」
「ああ」
各々、納得したように頷く。
「じゃあ、この面が?」
「とりあえずは。これだけなのか、原因は何か、取り敢えず札で封じておいて、調べます」
ホッとしたような者、興味深そうな目で見る者、恐ろしそうに離れる者。その中で垣内さんだけが、青い真剣な顔で、面を凝視していた。
一サークルとは言え、この大学は国文学に力を入れており、能楽堂があったり、稀覯本の収集などにも熱心だ。
「夜中に、この能舞台で足音がするそうなんです」
会員に案内されて、僕と直は能舞台の前に立っていた。
能舞台そのものにも、松の廊下にも鏡の間にも、そうおかしな気配はない。
鏡の間に続くように小屋があり、これが稽古場らしい。板敷の部屋が2つと更衣室が2つ、衣裳部屋から成り、サークルとしては別格の扱いを受けている事が窺える。板敷の部屋の片方は演奏の練習に使う部屋らしく、棚には楽器が並んでいた。もう片方は演者の稽古に使うらしく、棚には面が収められていた。
「こちらの稽古場では、誰もいないのに人の気配がしたりするんです」
この後能舞台を使っての稽古があるとかで、演者の稽古場でも奏者の稽古場でも、稽古中だった。
少し、不穏な気配がしている。
「どこからかな」
「するねえ」
直も、室内を見廻した。
町田 直、幼稚園からの親友だ。要領が良くて人懐っこく、脅威の人脈を持っている。高1の夏以降、直も、霊が見え、会話ができる体質になったので本当に心強い。だがその前から、僕の事情にも精通し、いつも無条件で助けてくれた大切な相棒だ。霊能師としては、祓えないが、屈指の札使いであり、インコ使いでもある。
「やっぱり、何かいるんですか」
声を潜めながら会員に訊き返される。
「はい。今は姿を潜めているという感じなんですが、いますね。
異変が起き始めたのはいつからですか」
会員は深刻そうな顔をしながら、答えた。
「半月程前です。ここで稽古をしていた会員が心臓発作で倒れまして。どこも悪くなかった学生で、シテ――主役に決まっていたんですが」
「亡くなったんですかねえ」
「いえ、生きています。ただ、今回の公演は無理かと。これが卒業前最後の公演なんですけどね。
その後は、足音がするとか、気配がするとか、そういうものですが」
ボソボソと話していると、
「ようし。じゃあ、鐘を使っての稽古をしよう」
1人が言って、皆でぞろぞろと稽古場を出て行く。それと入れ替わりに、僕達は稽古場に入った。
「鐘を使うという事は、道成寺ですか」
「そうです、そうです」
彼は嬉しそうに言った。
白拍子が鐘供養の日に女人禁制の寺に来、入れないと言われると、せめて舞を舞わせてくれと頼み、舞を舞う。ところが鐘を落として、白拍子は鐘の中に入ってしまう。それで和尚は、昔あった山伏と娘の事件を思い出し、語り始める。そしてその後鐘を引き上げると、中から大蛇が出て来て、僧に切り伏せられ、紀ノ川へと入って行く、というストーリーだ。
見どころは鐘入りだ。シテである白拍子に向かうように小鼓が座り直し、15分間程、両者のみで進んで行く緊迫のシーンがあり、その後、鐘後見と呼ばれる鐘を下ろす役をするシテに次ぐベテラン2人とタイミングを合わせて、シテは鐘に飛び入らなくてはならない。鐘後見とタイミングがずれると大けがをしかねない、危険なシーンでもある。
その後も鐘の中で、鐘を揺すったり、にゅうばちを鳴らしたり、大蛇の姿の後シテになる為に鐘の中で1人で着替えたり面を変えたりしなければならない。
能舞台に取り付けられた金具など、この道成寺でしか使わないという仕掛けもあるくらい、この道成寺は独特であると言えるだろう。
皆が能舞台に行っている間に、心おきなく稽古場を視る。
面の並んだ棚を覗く。
今回シテが使うのは、前シテが近江女、後シテが般若だ。本番用は別の場所に保管してあるだろうし、ここにあるのは稽古用だろう。
「……少し、名残があるか……」
今は大した事も無い。
「あ、能舞台に持って行ったんじゃないかねえ」
「あ」
慌てて3人で能舞台へ向かう。廊下へ出て走り、演者の控えの間である鏡の間へ飛び込む。会員達が目を丸くしているが、説明している暇はない。
気配が大きくなった。
「まずい」
幕を跳ね上げて松の廊下へ入るのと、鐘の大きな音がするのは同時だった。
「垣内!?」
「大丈夫か!?」
鐘の周りに人がわらわらと集まって来る。
「どうしたんだ!?」
案内係をしてくれていた会員が訊くと、1人が顔を青くして答えた。
「鐘入りの時、一瞬垣内がつんのめってタイミングが狂って……」
鐘後見の手で鐘が上げられると、中から、男子学生が出て来る。彼が垣内さんだろう。
「垣内、ケガは!?」
「大丈夫です。ちょっと肩をかすったくらいで」
「どうしたんだ」
「何か、視界に何かが入って来たように見えて……」
垣内さんはやや青い顔をしながらも、平気そうだ。
手には外された近江女の面を持っているが、今はもう収まりつつある気配は、この面からしているようだ。
ホッとした空気が流れている中、僕と直は、その面を見て緊張を募らせていた。
「その面は、いつも稽古場に?」
「はい。稽古用の面で、棚に置いてあります」
垣内さんは答え、面に目を落とし、ギョッと面を体から離した。
「うわっ!」
「どうした?」
「面が今笑ったような……いや、気のせいだな、気のせい」
垣内さんは取り繕うように笑ったが、気のせいではない。
「その面は一旦封印しましょう。札を貼って、様子を見ます」
僕が言うと、皆一様に、僕と直という部外者にやっと気づいたかのように怪訝な顔を向ける。
「霊能師の御崎と申します」
「霊能師の町田と申します」
「その、最近色々とあったんで、来てもらったんだよ。ほら、この前のミーティングで決めただろ」
「ああ」
各々、納得したように頷く。
「じゃあ、この面が?」
「とりあえずは。これだけなのか、原因は何か、取り敢えず札で封じておいて、調べます」
ホッとしたような者、興味深そうな目で見る者、恐ろしそうに離れる者。その中で垣内さんだけが、青い真剣な顔で、面を凝視していた。
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