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嵐の前夜(3)早春の大雪
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彼を見かけたのは、三月の事だった。
「戸田?」
「とその取り巻きだな」
慶仁と哲之助は、水戸にいる筈の戸田達を見た。
真剣な顔をして、足早に歩いて行く。声を掛けなかったが、掛けられる雰囲気でもなかった。
「攘夷派のどこかと合流するつもりなのかな」
「水戸の藩士も処刑されて、かなり水戸藩士は頭に来てるだろうしな」
安政の大獄である。
「大丈夫かなあ」
「ああ」
慶仁と哲之助は、戸田達の立ち去った方を眺めた。とうに人並みに紛れて、見えなくなってはいたが。
しかし翌日、江戸中のーーいや、日本中の度肝を抜く事件が発生した。
「桜田門で、大老の井伊が殺されたぞ!!」
それを聞いた慶仁と哲之助は、瞬時に戸田達を思い浮かべた。
「まさか!?」
「桜田門か。行ってみよう」
早春の大雪が降る中、急いで向かう。
関鉄乃助を始めとする十七名の脱藩した元水戸藩士と、元薩摩藩士の有村次左衛門は、三月三日、登城する大老井伊直弼を桜田門外で待ち伏せて打ち取ったのである。
首が刎ねられた事は多くの近くの屋敷にいた武士や通行人に目撃されたが、幕府は病死と発表。彦根藩と水戸藩の全面戦争を回避した。
井伊直弼は自身に歯向かう者を処断して権力を強化し、幕府を中心にした政治体制を計ったのだが、幕府の独裁は皆の反発を生んだだけだった。
そしてこの桜田門外の変をきっかけに、日本は混迷度合いを大いに深め、幕府の権威は失墜する事となる。
慶仁と哲之助が近くまで来た時、興奮した様子の戸田達と出会った。
「戸田!」
「ん?ああ、頼藤と鳥羽か」
「戸田。今聞いたぞ。大老を襲撃した者がいると。まさか、戸田が?」
戸田はクスリと笑って慶仁を見、答えた。
「いいや。俺の役目は、見て、残らず仲間に報告する事だ」
「そうか」
少しホッとした慶仁と哲之助だったが、次の言葉で、不安になる。
「これからだ。今度は俺達が、決起する番だ」
「戸田──」
「見ていろ、頼藤、鳥羽。俺達は、このままでは終わらせない」
戸田達は、笑いながらその場を去って行った。
「哲之助……。これは、烈公の意思だろうか」
「そうは思えないよな」
体が、ブルリと震えた。それは降りしきる雪のせいなのか、別の何かのせいなのか、よくわからなかった。
戻ると、すぐに青山が温かい甘酒を持って来てくれた。それを哲之助と二人、しばらく無言で啜る。
その日は勿論祐磨は帰りがおそくなり、それからも忙しい日が続いた。
久しぶりにゆっくりと顔を合わせたのは、風の強い夜だった。
「今の我が国は、まるであの木の葉のようだな」
「はい。この風は、しばらく収まりそうにありませんね」
慶仁と祐磨は庭で舞う木の葉を見ながら話をしていた。
ふと、祐磨は慶仁の名前について考えた。
慶仁の慶は慶喜から一字をもらったもので、仁は皇族からもらったものだ。紀孝の紀は早紀の紀で、考は斉昭がかつて名乗っていた紀教の字を変えて紀孝としたものだ。
生まれた時から厄介な事情を抱え、不自由な人生を送るのではないかと心配していたし、事実何度も刺客に狙われた。血統を考えながら付けた名だが、こうしてみると、どちらにもなれる自由な人生を示すように祐磨には思えた。
「かつてない、嵐が来るだろう」
「はい」
「その後は夜明けだ。どんな朝が来るのか、まだ誰にもわからない」
「はい」
「慶仁。この国は間違いなく、混迷する。価値が、常識が、ひっくり返るかも知れない。それでも、大切なものは変わらずにあり、そこに人はいる。立って、目を閉じずに見ろ。そして考えろ。迷っても、何とかなる。夜というものは必ず明けるのだ」
「はい、兄上」
慶仁と祐磨は、黙って風の音に耳を傾けた。
「戸田?」
「とその取り巻きだな」
慶仁と哲之助は、水戸にいる筈の戸田達を見た。
真剣な顔をして、足早に歩いて行く。声を掛けなかったが、掛けられる雰囲気でもなかった。
「攘夷派のどこかと合流するつもりなのかな」
「水戸の藩士も処刑されて、かなり水戸藩士は頭に来てるだろうしな」
安政の大獄である。
「大丈夫かなあ」
「ああ」
慶仁と哲之助は、戸田達の立ち去った方を眺めた。とうに人並みに紛れて、見えなくなってはいたが。
しかし翌日、江戸中のーーいや、日本中の度肝を抜く事件が発生した。
「桜田門で、大老の井伊が殺されたぞ!!」
それを聞いた慶仁と哲之助は、瞬時に戸田達を思い浮かべた。
「まさか!?」
「桜田門か。行ってみよう」
早春の大雪が降る中、急いで向かう。
関鉄乃助を始めとする十七名の脱藩した元水戸藩士と、元薩摩藩士の有村次左衛門は、三月三日、登城する大老井伊直弼を桜田門外で待ち伏せて打ち取ったのである。
首が刎ねられた事は多くの近くの屋敷にいた武士や通行人に目撃されたが、幕府は病死と発表。彦根藩と水戸藩の全面戦争を回避した。
井伊直弼は自身に歯向かう者を処断して権力を強化し、幕府を中心にした政治体制を計ったのだが、幕府の独裁は皆の反発を生んだだけだった。
そしてこの桜田門外の変をきっかけに、日本は混迷度合いを大いに深め、幕府の権威は失墜する事となる。
慶仁と哲之助が近くまで来た時、興奮した様子の戸田達と出会った。
「戸田!」
「ん?ああ、頼藤と鳥羽か」
「戸田。今聞いたぞ。大老を襲撃した者がいると。まさか、戸田が?」
戸田はクスリと笑って慶仁を見、答えた。
「いいや。俺の役目は、見て、残らず仲間に報告する事だ」
「そうか」
少しホッとした慶仁と哲之助だったが、次の言葉で、不安になる。
「これからだ。今度は俺達が、決起する番だ」
「戸田──」
「見ていろ、頼藤、鳥羽。俺達は、このままでは終わらせない」
戸田達は、笑いながらその場を去って行った。
「哲之助……。これは、烈公の意思だろうか」
「そうは思えないよな」
体が、ブルリと震えた。それは降りしきる雪のせいなのか、別の何かのせいなのか、よくわからなかった。
戻ると、すぐに青山が温かい甘酒を持って来てくれた。それを哲之助と二人、しばらく無言で啜る。
その日は勿論祐磨は帰りがおそくなり、それからも忙しい日が続いた。
久しぶりにゆっくりと顔を合わせたのは、風の強い夜だった。
「今の我が国は、まるであの木の葉のようだな」
「はい。この風は、しばらく収まりそうにありませんね」
慶仁と祐磨は庭で舞う木の葉を見ながら話をしていた。
ふと、祐磨は慶仁の名前について考えた。
慶仁の慶は慶喜から一字をもらったもので、仁は皇族からもらったものだ。紀孝の紀は早紀の紀で、考は斉昭がかつて名乗っていた紀教の字を変えて紀孝としたものだ。
生まれた時から厄介な事情を抱え、不自由な人生を送るのではないかと心配していたし、事実何度も刺客に狙われた。血統を考えながら付けた名だが、こうしてみると、どちらにもなれる自由な人生を示すように祐磨には思えた。
「かつてない、嵐が来るだろう」
「はい」
「その後は夜明けだ。どんな朝が来るのか、まだ誰にもわからない」
「はい」
「慶仁。この国は間違いなく、混迷する。価値が、常識が、ひっくり返るかも知れない。それでも、大切なものは変わらずにあり、そこに人はいる。立って、目を閉じずに見ろ。そして考えろ。迷っても、何とかなる。夜というものは必ず明けるのだ」
「はい、兄上」
慶仁と祐磨は、黙って風の音に耳を傾けた。
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