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面影(1)重なる問い合わせ
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涼しくなり、流行していたコレラもようやく下火になった。
慶仁の親しくしている人物に犠牲者は奇蹟的に出なかったが、江戸だけでも三万人の犠牲者が出るほど、凄まじく猛威を振るった病である。
「規則正しい生活と日々の鍛錬のおかげかなあ」
「あまり出歩かなかったのも良かったんだと思う」
「ああ。今年は、川で泳ぐのも禁止になったもんなあ」
「暑かったな」
慶仁と哲之助は言いながら、紅葉する紅葉を眺めながら道場へ入った。
「おはようございます!」
「おう、慶仁と哲之助。来たか」
師範代が、にこにことして手招きする。
子供の頃はよくこうして手招きされて近寄ったら、飴をくれたりしたものだが、多分違うだろう。そう思いながら、近寄って行く。
「昨日、慶仁の事を訊きに来た武家がいたぞ。腕前とか、家族構成とか、人柄とか。もしかしたら、いい話があるかも知れん。だから、悪戯はしないようにして、大人しくしているんだぞ」
「……はい。でも、子供じゃないですよぅ」
「そうやって拗ねてるところが子供だな。わはははは!」
頭を撫でて、口に飴玉を放り込まれた。
「あ、おいひ。ありがとうございます!はっ」
師範代は、笑いをこらえていた。
稽古が済んで、家に戻る。門番にただいまを言って、くぐり戸から中へ入った。
「ただいま──」
「おお、慶仁様。お帰りなさいませ」
「慶仁、お帰りなさい」
待ち構えていたように、早苗と佐倉が声をかけて来た。
「ただいまぁ」
「今日は何も異常は無かったか」
「はっ、何事もありませんでした」
青山が佐倉の問いに答え、下がる。それで、慶仁は座敷で佐倉と早苗の前に座らされた。
おかしい。叱られるようなことはしていない筈。
そう内心で思いながら、お茶を飲んで慶仁は身構えた。
「実は私の屋敷の方に問い合わせがありました。慶仁はいくつで、勉学や武芸の腕前はどうなのか、と。やんちゃ具合についての問いは幸いにもありませんでしたからホッとしましたけど」
早苗が言い、ホッと息をつく。
「若党が、同じような問いを受けたと申しておりましたぞ。奥様の事なども訊かれたという事でしたが、慶仁様もとうとう、そういう問い合わせをされる年頃におなりということです。いいですか。どこで誰が見ているかわかりませんからな。犬にねじり鉢巻きをさせて走らせたり、猫に眉を書いてまたたびを食わせて躍らせたり、二度とそんなことはしてはいけませんぞ」
「……皆、俺をどう思っているのかなあ」
慶仁は、プッと頬を膨らませた。
そういう所が子供なのだと、早苗も佐倉も思ったし、ここにいたなら祐磨も思ったに違いない。
「皆とは?他にも誰かに言われたのですか?」
「今日、師範代に……」
慶仁は、道場で師範代に言われた事と、飴を貰った事を言った。
「不覚にも飴が美味しくて、また笑わせる所だったんだよなあ。でも、美味しかったんだよなあ」
ブツブツ言っていると、佐倉と早苗は顔を見合わせて頷き、
「素直という事で、それはよろしい」
「だから、素行には注意するのですよ」
と念を押して来ると、部屋で勉強をしてくるように言って、慶仁を部屋へやった。
慶仁が離れたのを確認して、にわかに真面目な顔で相談する。
「おかしいわ」
「はい。道場へ来たのが誰かわかりませんが、同時期に、少なくとも二件です。婿養子にしてはややお年が早うございますし、御養子にしては同時に二家というのが、些か……」
「それに、母上の事も訊いたのですよね。普通、父上の事を訊きますよね」
「はい」
「……もしかして……」
「かも知れません」
「困ったわ」
「注意を続けましょう。
それと、良い機会です。慶仁様には、大人しくしていただきましょう」
「ちょっとつまらないわねえ」
「早苗様さん」
早苗も、やはり慶仁の姉であった。
しかし、この件が思わぬ事態の幕開けであったと知るのは、もうしばらく後の事だった。刺客が、現れたのだった。
慶仁の親しくしている人物に犠牲者は奇蹟的に出なかったが、江戸だけでも三万人の犠牲者が出るほど、凄まじく猛威を振るった病である。
「規則正しい生活と日々の鍛錬のおかげかなあ」
「あまり出歩かなかったのも良かったんだと思う」
「ああ。今年は、川で泳ぐのも禁止になったもんなあ」
「暑かったな」
慶仁と哲之助は言いながら、紅葉する紅葉を眺めながら道場へ入った。
「おはようございます!」
「おう、慶仁と哲之助。来たか」
師範代が、にこにことして手招きする。
子供の頃はよくこうして手招きされて近寄ったら、飴をくれたりしたものだが、多分違うだろう。そう思いながら、近寄って行く。
「昨日、慶仁の事を訊きに来た武家がいたぞ。腕前とか、家族構成とか、人柄とか。もしかしたら、いい話があるかも知れん。だから、悪戯はしないようにして、大人しくしているんだぞ」
「……はい。でも、子供じゃないですよぅ」
「そうやって拗ねてるところが子供だな。わはははは!」
頭を撫でて、口に飴玉を放り込まれた。
「あ、おいひ。ありがとうございます!はっ」
師範代は、笑いをこらえていた。
稽古が済んで、家に戻る。門番にただいまを言って、くぐり戸から中へ入った。
「ただいま──」
「おお、慶仁様。お帰りなさいませ」
「慶仁、お帰りなさい」
待ち構えていたように、早苗と佐倉が声をかけて来た。
「ただいまぁ」
「今日は何も異常は無かったか」
「はっ、何事もありませんでした」
青山が佐倉の問いに答え、下がる。それで、慶仁は座敷で佐倉と早苗の前に座らされた。
おかしい。叱られるようなことはしていない筈。
そう内心で思いながら、お茶を飲んで慶仁は身構えた。
「実は私の屋敷の方に問い合わせがありました。慶仁はいくつで、勉学や武芸の腕前はどうなのか、と。やんちゃ具合についての問いは幸いにもありませんでしたからホッとしましたけど」
早苗が言い、ホッと息をつく。
「若党が、同じような問いを受けたと申しておりましたぞ。奥様の事なども訊かれたという事でしたが、慶仁様もとうとう、そういう問い合わせをされる年頃におなりということです。いいですか。どこで誰が見ているかわかりませんからな。犬にねじり鉢巻きをさせて走らせたり、猫に眉を書いてまたたびを食わせて躍らせたり、二度とそんなことはしてはいけませんぞ」
「……皆、俺をどう思っているのかなあ」
慶仁は、プッと頬を膨らませた。
そういう所が子供なのだと、早苗も佐倉も思ったし、ここにいたなら祐磨も思ったに違いない。
「皆とは?他にも誰かに言われたのですか?」
「今日、師範代に……」
慶仁は、道場で師範代に言われた事と、飴を貰った事を言った。
「不覚にも飴が美味しくて、また笑わせる所だったんだよなあ。でも、美味しかったんだよなあ」
ブツブツ言っていると、佐倉と早苗は顔を見合わせて頷き、
「素直という事で、それはよろしい」
「だから、素行には注意するのですよ」
と念を押して来ると、部屋で勉強をしてくるように言って、慶仁を部屋へやった。
慶仁が離れたのを確認して、にわかに真面目な顔で相談する。
「おかしいわ」
「はい。道場へ来たのが誰かわかりませんが、同時期に、少なくとも二件です。婿養子にしてはややお年が早うございますし、御養子にしては同時に二家というのが、些か……」
「それに、母上の事も訊いたのですよね。普通、父上の事を訊きますよね」
「はい」
「……もしかして……」
「かも知れません」
「困ったわ」
「注意を続けましょう。
それと、良い機会です。慶仁様には、大人しくしていただきましょう」
「ちょっとつまらないわねえ」
「早苗様さん」
早苗も、やはり慶仁の姉であった。
しかし、この件が思わぬ事態の幕開けであったと知るのは、もうしばらく後の事だった。刺客が、現れたのだった。
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