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プロローグ

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 弦の上を、指が舞い、弓が走る。その度に生み出された音と音とが絡まって、メロディになる。4本の弦を押さえる正確無比な左手と、その弦を馬の尾毛でできた弓でこする芸術家の右手。それらによってバイオリンは歌い、またそれ故に、奏者の性格や心理状態を露呈するとも言われている。
 繊細で透明、精密な技巧派の天才ーーしばしば彼は、そう評される。
 上総貴音、19才。世界三大コンクールで優勝し、ヨーロッパで何度かリサイタルを行って聴衆を唸らせ、「奇蹟」「バイオリンの魔術師」とも呼ばれている。技巧の切れ、音程の精度が良く、音の立ち上がりも早く、最も優れた若手音楽家に挙げられているソリストだ。
 白い肌に漆黒の髪、長い睫毛に囲まれた切れ長の目、スッと通った鼻梁、ストイックな感じの唇。まさに綺麗という言い方の当てはまる、物静かで上品で繊細そうな容貌だ。
 やがて曲はラストを迎え、オーケストラと共に盛り上がって、最後の一音をピタリと止めて終える。シーンとしたホールに音の余韻が染みわたり、万雷の拍手がその静けさにとって代わった。
 詰めていた息をはあ、と吐いて、僕はテレビを消した。
 守形理生、22歳。とある音大の器楽科でピアノを専攻していたのだが、プロの道を諦めてレコード会社に就職したのだが、入社1週間で倒産。いきなり無職になってしまった。アルバイトをしつつ就職職先を探しているところなのだが、恩師の紹介で今日のみの短期アルバイトをする事になったのだ。
 それが、この、天才バイオリニストの誉れ高い上総貴音の付き人だ。音大の学園祭でミニリサイタルに出演する事になっている貴音の付き添いをして、現地まで付き添い、そして、連れ帰る事。大学1年生なんだから1人で行けそうなものだが、最近誰かに付きまとわれているような様子があるとかで、家族が心配して、人を付ける事にしたらしい。どうしても、自分達は仕事で無理だからと。
 日給はいいし、せっかくの話だが、最初は乗り気ではなかった。自分はプロの道にかすりもせずに諦めた凡才なのに、相手は、年下の、自分とは比べ物にならない程の天才だ。鬱屈したものが、全くないとは言い切れない。それと単純に、付きまといをするようなやつがいるなら、僕なんかで大丈夫かという心配だ。何かあったらと思うと、気が気じゃない。
 先生は、
「チケット、手に入らないらしいぞ。行きたくないのか。なあに、渡りに船だと思えばいいさ」
と気楽に笑っていた。
 が、想像して欲しい。たかが渡りだ。手漕ぎボートか簡単な渡し船が来ると思っていたのに、豪華客船がどどーんと現れたとしたら?乗り込んだが最後、世界一周だ。
 それでも引き受けたのは、まあ、高い日給と、音楽祭を関係者として見る事ができるという点、それと、音楽に触れたいと思ったからだ。本物の音楽に。
 家族には、サインをもらって来て欲しいだの、メル友になってもらいたいだの、よそ様の子供、それも天才なんだから、くれぐれも気を付けろなどと言われて、家を出た。
 が、誰が想像しただろう。豪華客船だと思った船が、原子力潜水艦だったなどと。
 見た事も無い獰猛そうな犬もどきを涼しい顔で足蹴1発で返り討ちにし、片足を背中に乗せて残りを睥睨する姿は、まさに魔王!
 ああ、そう言えば言うよな。人は見かけによらないって。いや、寄らなすぎだろう!?一週間で無職という珍しい体験に加えて、またひとつ、貴重な経験を得たのだった。







 
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