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第38話 〈side:???〉もう一度
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――アリア・アートはまぶしそうにラクターを見上げた。
彼女は、ラクターが大精霊たちによって『王』と認められたことを知らない。だが、かつて自分が蔑み、ストレスのはけ口として利用し、そして追放した男が、今や自分よりもはるか高みにいることには気づいていた。
アリアは、自らの両手に視線を落とす。
肌荒れひとつなかった手に、黒い染みが複数、浮き上がっていた。
聖女の呪い。
それは醜く、事情を知らない他人が目にすれば間違いなく眉をひそめるだろう。
呪いによる染みは、アリアの首筋まで広がっていた。
全身に力が入らない。
無理をしてラクターに対抗したため、彼女の魔力は限界を超えて枯渇していた。大精霊の力で命だけは取り留めたが、それだけだ。
今、いくら力を込めても、小さな灯火ひとつ生み出すこともできない。
それどころか、詠唱文すら忘れてしまっていた。頭に霞がかかり、口が凍り付いたように重い。
もはやここに、勇者の右腕たる美しき大賢者の姿はなかった。
アリア・アートは、完膚なきまでに敗北したのだ。そして、相手の情けによって生かされている。
アリアは、泣くでもなく、騒ぐでもなく、怒るでもなく、ただただまぶしそうにラクターを見上げていた。
盛り上がる動物たちを制し、ラクターが地上に降りてくる。彼が近づいてきても、アリアは反応しなかった。その場に座り込んでいるだけだった。
人が変わったような覇気のなさに、ラクターは険しい表情をする。
「アリア。お前が仕掛けた大魔法は、俺たちが解除した。これ以上、森に手出しはさせない」
「うん……」
蚊の鳴くような声でうなずく。
ラクターは目をつむった。数秒の思案の後、静かに告げる。
「このまま逃げ帰るのも、俺を恨むのも、好きにするがいいさ。だが、もしまた森の皆に危害を加えるようなら、俺は何度でも相手になる」
「……」
「その身体では、以前のように活躍することもかなわないだろう。大賢者の肩書きにすがるのは、もう諦めるんだな。これからはただのアリア・アートとして生きればいい」
アリアはうつむいた。
ラクターは踵を返す。
そのとき、元大賢者は「ねえ」と声をかけた。
「ひとつお願い、してもいい?」
「……なんだよ」
「私の帽子を……埋めさせて。ここに」
予想外の申し出だったのか、ラクターが目を瞬かせる。
彼の許可を得たアリアは、のろのろと立ち上がった。覚束ない足取りで、地面に転がったままの黒いとんがり帽子を拾いにいく。
「これ、私が賢者を名乗った頃からのお気に入りだったんだよね。魔法使いっぽいし、いざとなれば顔を隠せるし」
素手で穴を掘る。小石で指に傷がついても、唇を噛んで掘り続ける。
――アリアにとって、この帽子は賢者としての自分の象徴であった。
自分の手で穴を掘り、自分の手で帽子を穴に埋める。
それは彼女にとって、これまでの自分との決別を意味していた。
帽子が埋まった場所をしばらく見つめていたアリアは、やがてゆらりと立ち上がり、ラクターたちに一礼した。そのまま、ひとりでどこかに歩き去ろうとする。
転移魔法を使うだけの力は、彼女には残されていなかった。
「待てよ」
ラクターが呼び止めた。隣に並ぶ。
「王都近くのところまで連れていく。監視させてもらおう」
「うん……ごめん」
アリアはまた、覇気なく頭を下げた。
――それから森の境界まで、アリアはラクターたちに連れられて移動した。
数日かけての道中、アリアは自分からは一切喋らなかった。かといってラクターを無視しているわけではなく、問いかけには短く答えるし、野営の手伝いも無言ながらこなした。
その手際は、リーニャやルウが呆れるほど拙いものだった。
ようやく森の出口にたどり着いたとき、アリアは最後にぽつりとつぶやいた。
「私、ひとりではなにもできなかったんだな」
ラクターは応えなかった。
それからアリアはラクターたちと別れ、ひとり、王都へ向かった。
その間、彼女はずっと考えごとをする。
王都の門前に立つころ、アリアはひとつの決意を固めた。
◆◇◆
「賢者としての名を返上したい、と?」
「はい。陛下」
――王都スクードにそびえるルマトゥーラ王国の王城。
謁見の間で、アリア・アートは国王へ自らの決意を伝えた。
これまで賢者として得たすべてのもの――資格、財産、栄誉をすべて返上したい、と。
謁見の間は異様な雰囲気に包まれていた。
大賢者が問題ある言動をしてきたことは、王城内にも広まっている。その彼女が、追放の憂き目にあったことを恨むでもなく、むしろ自分からすべてを精算したいと切り出したのだ。
しかも――変わり果てた姿で。
かつての彼女なら反発していたであろう、周囲からの奇異の視線も、アリアは甘んじて受け入れた。
アリアの願いは、聞き届けられた。
――それから彼女は、これまで自分が迷惑をかけてきた相手のところへ赴き、頭を下げて回った。
政務を取り仕切る高官、研究所の職員、そしてイリス姫。
心優しい姫は、「もしあなたが望むのなら、その身体を蝕んだ呪いを解くお手伝いがしたい」とまで申し出てくれたが、アリアは丁重に断った。
そのときアリアは思った。イリス姫は、あんなに優しい目をした人だったんだなと。自分はいつから、他人の優しさを信じなくなっていたのだろうと。
肩書きも。
財産も。
能力も。
ほとんどすべてを失った少女は、その身に呪いを抱えたまま、ただのアリア・アートとなって王都スクードを出た。
目指すは、カリファの聖森林。
大賢者の象徴であった、あの帽子を埋めた場所。彼女にとっての『墓参り』。
「ひとりでたどり着けたら……もう一度、自分に自信が持てるかもしれない」
それが、新しい門出の言葉であった。
彼女は、ラクターが大精霊たちによって『王』と認められたことを知らない。だが、かつて自分が蔑み、ストレスのはけ口として利用し、そして追放した男が、今や自分よりもはるか高みにいることには気づいていた。
アリアは、自らの両手に視線を落とす。
肌荒れひとつなかった手に、黒い染みが複数、浮き上がっていた。
聖女の呪い。
それは醜く、事情を知らない他人が目にすれば間違いなく眉をひそめるだろう。
呪いによる染みは、アリアの首筋まで広がっていた。
全身に力が入らない。
無理をしてラクターに対抗したため、彼女の魔力は限界を超えて枯渇していた。大精霊の力で命だけは取り留めたが、それだけだ。
今、いくら力を込めても、小さな灯火ひとつ生み出すこともできない。
それどころか、詠唱文すら忘れてしまっていた。頭に霞がかかり、口が凍り付いたように重い。
もはやここに、勇者の右腕たる美しき大賢者の姿はなかった。
アリア・アートは、完膚なきまでに敗北したのだ。そして、相手の情けによって生かされている。
アリアは、泣くでもなく、騒ぐでもなく、怒るでもなく、ただただまぶしそうにラクターを見上げていた。
盛り上がる動物たちを制し、ラクターが地上に降りてくる。彼が近づいてきても、アリアは反応しなかった。その場に座り込んでいるだけだった。
人が変わったような覇気のなさに、ラクターは険しい表情をする。
「アリア。お前が仕掛けた大魔法は、俺たちが解除した。これ以上、森に手出しはさせない」
「うん……」
蚊の鳴くような声でうなずく。
ラクターは目をつむった。数秒の思案の後、静かに告げる。
「このまま逃げ帰るのも、俺を恨むのも、好きにするがいいさ。だが、もしまた森の皆に危害を加えるようなら、俺は何度でも相手になる」
「……」
「その身体では、以前のように活躍することもかなわないだろう。大賢者の肩書きにすがるのは、もう諦めるんだな。これからはただのアリア・アートとして生きればいい」
アリアはうつむいた。
ラクターは踵を返す。
そのとき、元大賢者は「ねえ」と声をかけた。
「ひとつお願い、してもいい?」
「……なんだよ」
「私の帽子を……埋めさせて。ここに」
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「これ、私が賢者を名乗った頃からのお気に入りだったんだよね。魔法使いっぽいし、いざとなれば顔を隠せるし」
素手で穴を掘る。小石で指に傷がついても、唇を噛んで掘り続ける。
――アリアにとって、この帽子は賢者としての自分の象徴であった。
自分の手で穴を掘り、自分の手で帽子を穴に埋める。
それは彼女にとって、これまでの自分との決別を意味していた。
帽子が埋まった場所をしばらく見つめていたアリアは、やがてゆらりと立ち上がり、ラクターたちに一礼した。そのまま、ひとりでどこかに歩き去ろうとする。
転移魔法を使うだけの力は、彼女には残されていなかった。
「待てよ」
ラクターが呼び止めた。隣に並ぶ。
「王都近くのところまで連れていく。監視させてもらおう」
「うん……ごめん」
アリアはまた、覇気なく頭を下げた。
――それから森の境界まで、アリアはラクターたちに連れられて移動した。
数日かけての道中、アリアは自分からは一切喋らなかった。かといってラクターを無視しているわけではなく、問いかけには短く答えるし、野営の手伝いも無言ながらこなした。
その手際は、リーニャやルウが呆れるほど拙いものだった。
ようやく森の出口にたどり着いたとき、アリアは最後にぽつりとつぶやいた。
「私、ひとりではなにもできなかったんだな」
ラクターは応えなかった。
それからアリアはラクターたちと別れ、ひとり、王都へ向かった。
その間、彼女はずっと考えごとをする。
王都の門前に立つころ、アリアはひとつの決意を固めた。
◆◇◆
「賢者としての名を返上したい、と?」
「はい。陛下」
――王都スクードにそびえるルマトゥーラ王国の王城。
謁見の間で、アリア・アートは国王へ自らの決意を伝えた。
これまで賢者として得たすべてのもの――資格、財産、栄誉をすべて返上したい、と。
謁見の間は異様な雰囲気に包まれていた。
大賢者が問題ある言動をしてきたことは、王城内にも広まっている。その彼女が、追放の憂き目にあったことを恨むでもなく、むしろ自分からすべてを精算したいと切り出したのだ。
しかも――変わり果てた姿で。
かつての彼女なら反発していたであろう、周囲からの奇異の視線も、アリアは甘んじて受け入れた。
アリアの願いは、聞き届けられた。
――それから彼女は、これまで自分が迷惑をかけてきた相手のところへ赴き、頭を下げて回った。
政務を取り仕切る高官、研究所の職員、そしてイリス姫。
心優しい姫は、「もしあなたが望むのなら、その身体を蝕んだ呪いを解くお手伝いがしたい」とまで申し出てくれたが、アリアは丁重に断った。
そのときアリアは思った。イリス姫は、あんなに優しい目をした人だったんだなと。自分はいつから、他人の優しさを信じなくなっていたのだろうと。
肩書きも。
財産も。
能力も。
ほとんどすべてを失った少女は、その身に呪いを抱えたまま、ただのアリア・アートとなって王都スクードを出た。
目指すは、カリファの聖森林。
大賢者の象徴であった、あの帽子を埋めた場所。彼女にとっての『墓参り』。
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それが、新しい門出の言葉であった。
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