蜃気楼の女

窓野枠

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第36章 橋本浩一の記憶

1話

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 田所平八郎は橋本浩一の体を乗っ取るためのプログラムを再生細胞移植術カプセルに仕込んでいた。そんなことと知らない橋本は、自分の記憶がいつ消えてしまうか分からないまま、田所の記憶を引き継ぐつもりでベッドに寝ていた。寝ることしかできない橋本は、過去の記憶をたどっていた。彼は、施術から数時間が経過し、不可思議なことが橋本の記憶に起きていることを感じ始めていた。
 両親の顔を思い出せない。自分に両親がいたのかどうかも分からない。両親から生まれたからこそ、自分が存在している。自明の理だ。小学校はどこだったか。友人の顔が出てこない。そんな記憶を掘り起こそうとしても出てこない。少しずつ、消えていっているとしか思えない。己の脳細胞に田所の記憶が侵略しているのではないか、と疑念がわいてきた。
(また、眠くなってきた。寝ると、必ず現れる鼻が醜く飛び出た男は何者か? 自分とどんな関係があったのか?)
 動けず、ベッドに横たわることしかできない橋本は、思いをはせる。着実に眠くなる時間が増えている。やがて、自分の意識や思考が永遠に眠りにつく。
(今、眠りにつくと、次の目覚めはない。目覚めたとき、あの子がいてくれたらうれしい。はて、笑顔のすてきなあの女の子は誰か?)
 そう考えた橋本は、次の瞬間、驚いた。たった1秒前、初恋だった小学生のあの子の顔を思い描いていたのに、今は、誰を思い出そうとしていたのか、まるで分からない。思い出そうとすると、思い出す記憶がすでにないことに気が付いた。

(ああぁー 眠いなぁー 今は、それだけを理解できる)
 そう心の中でつぶやいた橋本は、取り戻すことのできない何かを探すため思考したが、突然、深い闇に落ちては思考を中断し、ふと、意識を戻したり、を繰り返していた。彼の体の中で、めまぐるしく何かが変貌していた。

 生を受けたものは必ず死を迎える。夜、眠り、翌朝、朝日を浴びて目を覚ますことは保証されていない。突発性の病気で、あるいは事故で、1秒後、突然、苦しむこともなく死んでいく。そのような突然の死を迎えるとき、自分の生前の行いを思い起こせない。
 それを考えれば、俺にはこの時間があるだけ幸せだ、と橋本は思う。そんな最期をイメージしている自分がいて、それでも、一日を生きるとは、大切なことだ、と思考する。
 過去も未来もない。今日、この時間、瞬間、一日を全力で生きる。そのサイクルを繰り返すため、人は睡眠を取る。眠りにつくとき、今、自分が生きていたことを感じ、感謝し、明日に託す。人は一人では生きていけない。誰かの助けを借りて生きてきた。今、寝ているが、ベッドだって、この布団だって、作ってくれた人がいるから安楽に寝ていられる。
 食べ物も、作ってくれた人がいて、運んでくれた人がいて、料理を作ってくれた人がいて、鍋を作ってくれた人がいて、箸やスプーンを作ってくれた人がいて、すべてが誰かのおかげで生きていられて、今の自分が存在している。
 そういう、誰かの恩恵を必要としなくなったとき、人は最後を迎える。そして、最後、自分が考える力を失う。その遺体は、野生動物であれば他の生物の食料となり、骨が残り、骨は大地に吸収される。死んでも誰かの恩恵を受けていた。生物の生きるというサイクルは誰かに生かされているというサイクルだ。個は消滅しても、その影響、痕跡はどこかに確実にある。生物は、存在すること、存在したこと、が周囲に影響を与えている。
 やがて、田所の脳が橋本の脳を浸食し、記憶エリアに、田所の記憶が橋本の脳の記憶エリアに上書きされる。
 橋本は田所の裏切りによって殺される、という疑念が強くなる。田所は橋本の体を使って、将来、生きるつもり、だとしたら。橋本には、どんどん、死んでも死にきれない思いが募っていた。
 悪人に急変した田所は、隣室で遺体になっている。橋本は田所に対し何の反撃もできないまま、田所に対し、うらみ、ねたみを抱くことだけで、今となっては何もできない。最終的に記憶が消えるとき、消滅する恐怖さえ、消えている。彼は何者でもない、地球に存在する原子に戻る。生きていた時間そのものが自分のいた時間である。誰かと関わってその相手の中に、自分の存在を記憶していてくれれば、自分は生きていることになる。誰かの脳の中に、自分という原子が、記憶の原子として残る。
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