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19 氷の魔女は

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「……撤回しろ」

 父の腕を捻り上げたまま、ウルリクは低く唸った。
 かつて一度こんなことがあった。変な男に喫茶店に連れていかれそうになった時のことだ。私は今、その時とは比べものにならない安堵を得たのだが、同時に彼の底知れない怒気を感じ取っていた。

「彼女は心優しい普通の女の子だ! 今すぐ撤回しろ……!」

 それは凄まじい怒号であった。
 黄昏時の空が落ちてきそうなほどの衝撃に、しかし私は胸を震わすような喜びを覚えていた。
 ウルリクは私を普通の女の子だと言った。そして、私のために怒ってくれている。それは私にとって何事にも代え難いものだった。

「な、なんだ、貴様は……! 離せ! 私にこんなことをしていいと思っているのか!?」
「当たり前だ! あなたこそ、自分の娘によくあんな事を言えたな!」
「いいからまずその手を離せ! 痛っ……痛いと言ってるだろうが!」

 どうやら先程の会話が聞こえていたようで、ウルリクは私達が親子である事を理解しているらしい。
 父上がそろそろ本格的に痛がり始めたので、私は仲裁に入ることにした。

「やめて、ウルリク。暴力はダメよ」
「先に手を出したのは向こうだ。君にまた何かするかも知れない」

 ウルリクは厳しい表情でこちらを一瞥した。彼には向こう見ずなところがある訳だが、まさしくそんな心理状態に陥っていることを察した私はなおも食い下がる。

「お願い。あなたが捕まったりしたら、私は悲しい」

 すると、ウルリクは一瞬にして捻り上げた腕を解放したではないか。
 痛みにうずくまる父を他所に、彼は照れくさそうな笑みを浮かべている。

「悲しい……君が? そうかぁ…」

 緊迫感は呆気なく消え去り、今度はどこかほのぼのとした空気が漂い始める。私はいつもの空気感にすっかり安心しかけたのだが、今の状況を思い返して背筋を正した。

「ところで、どうしてここに?」
「それはもちろん、君に会いにきたんだよ。恋人に会いに来るのに理由がいるのか?」

 相も変わらず飾り気のない素直な言葉だ。これではウルリクのペースに巻き込まれてしまうと焦り始めたところで、彼の背後から低い含み笑いが上がった。

「恋人だと? 貴様、それがどんな恐ろしい娘なのか解っているのか?」

 冷笑含みの言葉にウルリクが再び怒気を纏うのを肌で感じる。彼は父に向き直ると、堂々たる態度で言い放つのだった。

「ああ、よく知っているさ。おたくのお嬢さんは、弱いものを助けようとして、自分の事を犠牲にするような心優しい人だ。勇敢で、聡明な努力家で、言い訳をしない誠実な人だ。それでいて笑った顔が年相応で、照れて顔を赤くしたりもする。滅多にいないくらい、魅力的で可愛らしい女の子なんだよ! 俺はあなたより、よっぽど」
「ウルリク、ウルリク。もういいから」

 私は赤くなった顔を隠すこともできないまま、ウルリクの腕を掴んで必死の制止を試みた。
 恥ずかしい。嬉しいけど、消え入りたいくらい恥ずかしい。いくらなんでも言い過ぎだと思う。ああほら、父上もすっかり呆けた顔になっているし。

「よくない! 君の良いところなんて、まだまだいくらでもあるんだぞ!?」
「だからもうやめてほしいのよ……」

 その時のことだった。父上が呆けた表情から一転、呆れたような笑みを浮かべたのを、私は確かに見た。それは一瞬のことで、ともすれば幻だったのかも知れないと思えるほどに、今までで一番邪気のない笑みだった。

「……ふん、笑わせる。能天気な奴らだ」

 父上は膝についた土を払いながら立ち上がった。
 まだ何か言って来るのか。それとも今日のところは諦めてくれるのか。
 私は身構えたが、同時に何かが接近する音が聞こえ始めて、その聞きなれない音に気を取られることになった。
 それは二人も同じだったらしい。私たちは音のする方角に同時に意識を向け、曲がり角から現れるであろうその正体を待った。
 圧倒的スピードでやってきたのは、なんと自動車だった。滅多に姿を見ることが叶わない最新の文明の利器を前に、私達は三人とも圧倒されてしばし動けなくなってしまう。
 中から降りてきたのは威圧感と制服をその身に纏った警官だった。しかもその後に続いて、見覚えのある顔が降りて来るのだから、私は大いに混乱することになった。

「兄上……?」
「マティアス殿!」
「やあ、フレヤ。それにウルリクも、久しぶりだね」

 そうだった、ウルリクは兄上とも知り合いなのだ。しかも想像していたよりも仲が良さそうに見える。

「これは一体……」
「見ていればわかるよ」

 兄妹で小声の会話を繰り広げているうち、警官がつかつかと歩み寄ったのは父上に対してだった。彼は懐から紙を取り出すと、それを広げて高らかに宣言する。

「エルヴィスト侯爵ですね。あなたを脱税の容疑で逮捕します!」
「なっ!」

 これに色をなくしたのは父上だった。私も予想だにしなかった展開に目を剥いたが、その衝撃は当事者の比ではなかったらしい。

「なんだと!? どういうことだ、私はそんなことはしていないぞ!」

 父上は哀れなほど狼狽え、抵抗を試みているようだった。しかし警官はただ自分の仕事を為すために無常に徹している。

「あなたは隣国の紛争にて反政府側の勝利を目論み、恩を売るために金銭の支援をしていた。確かに我が国も反政府側を支援し、結果勝利を収めましたが、脱税を行ってまで個人的な支援を行うとは、正気の沙汰ではない」

「しょ、証拠はあるのか⁉︎ 私は侯爵だぞ、冤罪だったらどうなるか」
「勿論あります。だから逮捕に踏み切ったのですよ。これをどうぞ」
「これは……!」

 警官が差し出したのは束になった手紙だった。宛名書きが明らかに父上の筆跡であるその手紙は、どうやら証拠には十分すぎる内容が示されていたらしい。
 父上はそれきり押し黙ると、抵抗する気力も無くなったのか、全身の力を抜いて立ち尽くすようにした。
 それを確認した警官が顎をしゃくると、その指示を受けた部下が走って、父上の両手を取る。
 目の前で父親が手錠をかけられる瞬間は、私にかなりの衝撃をもたらしていた。何も言えずに突っ立ったままでいると、すっかり淀んでしまった父上の瞳が兄上を捉えたのがわかった。

「まさか……まさかお前か、マティアス! お前が私を陥れたのか⁉︎」
「えぇ? いやいや、そんなはずないでしょう。警官の方がいらしたので、道案内をして差し上げただけですよ」

 父上の言い分は、私にはひどい暴言に聞こえた。事実兄上は爽やかな笑みで否定しているし、そんなはずはないと思う。
 ウルリクを見ると、彼は何だか微妙な、気の毒そうな表情を浮かべているように見えた。先程まで喧嘩をしていた相手とは言え、目の前で逮捕されればそんな気分にもなるだろう。

「マティアス、許さんぞ! こんな事をしていいと思っているのか⁉︎ これで我が侯爵家は終わりだ、そして貴様も!」
「だから、僕は何もしていないと言ってるでしょう。それに問題ないですよ。僕は隣国の終戦工作の功績で子爵位を拝命することが決まりましたので」
「な、何だと⁉︎」

 兄上は私たちの視線を一手に集めた。驚いた。まさかそこまでの功績を挙げていたなんて、知らなかった。
 父上に至っては茫然自失といった様子で、二の句が継げなくなっている。

「こんなことになってしまって残念です。でもご安心下さい。あなたが拘置所で心安らかにいられるよう、毛布とパンくらいは差し入れてあげますから」
「マ……マティアス———っ!」

 それが父上の、聞き取れる中での最後の叫びになった。もはや言葉にならない何かを喚きながら、父上は警官によって連行されて行き、最後には自動車の中に放り込まれてしまった。
 警官は全ての行程を無表情でこなして見せ、最後に兄上に声をかけた。

「マティアス殿、貴殿の父上が暴れて危険なので別の方法で来てもらいたい」
「ああ、構わないよ。馬車か何かで追うから、先に行って」

 警官が一礼して自動車に乗り込むと、それを合図に自動車が発進した。私は巨大な鉄の塊が土煙を上げて走り去る様を最後まで見送っていたのだが、兄上が私の方に向き直ったのを区切りとして、緊張を解くことができた。

「驚いただろう。悪かったね」
「私、何が何だか……」
「だろうね。でもまあ、なるようになった結果だよ。……ところで」

 兄上はそこで不自然に言葉を切った。私は首を傾げたが、隣に佇むウルリクはどこか緊張した面持ちをしている。

「君たちは清く正しいお付き合いを始めたって認識でいいのかな?」

 その時の兄上の笑みは、何故かウルリクの方に向けられていた。そしてよく分からないことに、ウルリクは兄上の問いを受けて、更に表情を強張らせたようだった。

「……そうだ。認めていただけるか、兄上」
「君に兄上と呼ばれる筋合いは無いんだよ?」

 何だろう。兄上の笑顔が何だか怖いような気がするのだが、気のせいだろうか。

「では、マティアス殿」
「うんうん、流石に早いよね、兄上なんてさ。……ま、君は一応及第点だよ。今までフレヤに声をかけてきた男の中では幾分かマシな方だ」
「マシか」
「うん、マシ。これからは向こう見ずなところも少しは改めるんだね」

 兄上は相変わらずの笑顔で何やら会話を繰り広げていたが、ウルリクの通る声に比べて聞き取りにくかった。しかし認めてもらえたことは確かなようなので、私はひとまず胸をなでおろす。ウルリクは最後まで表情を強張らせていたけど。

「まあいいや、兎にも角にもおめでとう。じゃ、僕はもう行くよ。警察の事情聴取に付き合ってあげないとね」
「待って、兄上」

 またすぐに去って行こうとする兄上を、私は思わず引き止めていた。折角再会できたというのに話し足りないことが沢山ある。

「また遊びに来てくれる……?」

 すると兄上は、子供のように笑った。

「ああ、そうだね。惚気話でも聞かせてもらおうかな」

 兄上は今度こそ歩き出した。その後ろ姿が曲がり角を曲がって消えるまで、私達はそこに立ち尽くしていた。
 いつしか太陽は官庁街の硬質な建物の向こうに消え、月がその存在感を強くしている。長く伸びていた影はいつしかガス灯のもたらしたものへと代わり、寮への帰宅者も既に中へと吸い込まれていたようで、静寂が周囲を満たしていた。
 私はウルリクに向き直ると、丁寧に頭を下げた。

「助けてくれてありがとう。あと、変なことに巻き込んでごめんなさい」
「俺のことはいいんだ。フレヤ、君は大丈夫なのか」

 ウルリクは気遣わしげに目を細めていて、私はしばし自分の心境と向き合ってみる。そして出てきた感想は、いかにも呆気ないものだった。

「……そうね。私、何だかあまり落ち込んでいない。薄情だわ」

 結局のところ、色々ありすぎて頭が飽和しているのかも知れなかった。ある意味大きな存在だったはずの父があっけなく消えて、心の枷が唐突に無くなってしまったのだ。
 父上は一体どうなってしまうのか、その身を案じる気持ちはある。しかし悲しむべきなのか喜ぶべきなのか、それすらも解らないなんて、私はどこかおかしいのだろうか。

「そうか。それなら良かった」

 なのにウルリクがあっさりと明るい笑みを浮かべるので、私は拍子抜けしてしまった。

「良かった……?」
「そうだ。君が悲しまずに済んだなら、俺はそれだけでいい」

 そして何のてらいもなく、優しい言葉をかけてくれるから。
 愛しさで胸が詰まる。この感情は何だろう。安らぐような、切ないような。
 ぐちゃぐちゃになった胸の内は、喪失感を強く感じさせるようでいて、何かを得たような喜びで満たされていた。
 熱い何かが頬を伝っていく。それが涙であることは、不思議とすぐに判った。
 ウルリクはそれに気づくや否や、意味もなく掌を上下させている。

「フレヤ⁉︎ ど、どうしたんだ! やっぱり、辛かったのか?」
「違うの。これは、悲しいんじゃないの。本当よ」

 今までの私を形造っていたものに、あの家での記憶があった。その思い出が今まさに無になって、私はただの私になった。
 突然の門出がもたらしたのは多分虚しさだったのだと思う。
 けれど彼が側に居てくれた。悲しんでいないのならそれでいいと言ってくれた。この暖かな優しさが無かったら、きっと受け止めきれなかっただろう。

「ありがとう、ウルリク。ありがとう……」

 私の声は掠れ、みっともなく震えていた。それ以上は何一つとして言葉にならず、私は壊れた蛇口のように涙を流し続けた。あまりにも止まらないので堪らず顔を覆うと、それと同時に彼が動く気配がする。
 ウルリクの胸にそっと抱き込まれた私は、いよいよを持って止まる気配を失った涙に白旗を上げることにした。
 大きな手が宥めようという意志を持って私の背中を撫でている。
 今はこの温かさに甘えてもいいだろうか。恐る恐る彼の背に腕を回すと、一瞬固くて大きな体が震えた気がしたが、すぐに抱きしめる力が強くなる。

 ウルリク、あなたがいてくれて良かった。愛しているわ。

 伝えたかった言葉は彼のシャツに溶けて消えてしまったけれど。
 私には何故だか、彼に伝わったのだという不思議な実感があった。
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