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第三章 あの日の約束に真実の夢を見る
32 貴方は遠い人だけど ①
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夢を見た。とても優しい夢を。
母と父が寄り添い、私のことを慈愛に満ちた眼差しで見つめている。
もう大丈夫ね、と母が言った。父もゆったりと頷いている。たくさん言いたいことがあったはずなのに、胸が詰まって何も言葉が出てこない。
二人の姿が白く霞み始める。伸ばした手が空を切ったその瞬間、私もまた白い光に飲み込まれていった。
*
目を開けると至近距離にランドルフの顔があった。なぜ二人してベッドに横になっているのだろう。そんな疑問が湧いたものの頭が霞みがかったようになっていて、まともに思考が働かない。
「大丈夫か」
ランドルフは心配そうに眉をしかめたまま手を伸ばし、セラフィナの目元をそっと拭った。その優しい手つきに自分がどうやら泣いていたらしいことを知る。
「わ、たし。夢を、見て」
「ああ」
「とても、優しい夢でした……」
「ああ、そうか」
ランドルフは穏やかに微笑むと、最後に頬を軽く撫でて手を引いていった。そしてベッドに手をついて、危なげない動作で上体を起こす。自然極まりない動きに何故だか違和感を覚えたセラフィナは、その正体に気付いて一気に青ざめた。
そうだ彼は、重体から回復したばかりだったはずなのに。
「ランドルフ様っ!」
セラフィナは咄嗟に飛び起きると、ごく弱い力でランドルフの白いシャツに包まれた腕を掴んだ。怪我に触るといけないので強引な事ができないのがもどかしいが、彼はまだ体を起こして良いような状態ではなかったはず。
「いけません、無理をなさっては……! 傷に障ります!」
しきりに袖口を引っ張るセラフィナに、対するランドルフの反応は薄かった。彼はしばし呆然とした様子ででこちらを見つめ返していたのだが、やがてはっとしたように瞳を揺らすと、手で口元を覆って目を逸らしてしまった。心なしか耳が赤いようにも見える。
「まさかお加減でも!?」
「いや、それはない。ただ色々なものを噛み締めていただけだ」
「本当ですか……?」
「それに、もう体を起こすくらいなら問題ない」
体を起こすくらいなら問題ない? そんなまさか。彼はついさっきまで意識不明の重体だったのだ。それがどうして。
そこまで考えてようやく、セラフィナの脳裏にとある記憶が蘇った。そう確か自分は、彼の無事を見届けて眠り込んでしまったのではなかったか。
「わ、私、一体どれほど眠っていたのですか?」
「丸三日だ。ちなみに今は昼の二時だな」
セラフィナはあまりの事態に目を剥いた。
何と無様なことをしてしまったのだろう。むしろ彼が目を覚ましてからの方が手伝える事はたくさんあったはずなのに、呑気に眠りこけていたなんて。
しかも信じ難いことに、彼のベッドを半分占領してしまっているではないか。
「も、申し訳ありません!! 私、何てことをっ!」
セラフィナは弾かれたようにランドルフの腕を解放し、上気した頬を両手で覆い隠すようにした。穴があったら入りたいとはこの事だった。しかもようやくをもって覚醒した頭が、色々ととんでもない記憶を掘り起こしてしまう。
ランドルフが目を覚ました時、無遠慮にも抱きついてしまったこと。子供のように泣きじゃくってしまったこと。
それに、何よりも。彼が銃弾に倒れた時のこと、たしか「好きです」と伝えてしまったのではなかったか。
羞恥と混乱の渦に叩き落とされて、セラフィナは声にならない悲鳴を上げた。
何よりもまずはベッドから降りるべきだろう。やっとの思いで取り急ぎの結論を導き出したセラフィナは、殆ど無意識のうちに後ずさりを始めていた。
背後なんて確認していたはずもない。気付かないうちにベッドの縁に到達していたらしく、後ろに着いた手が唐突に支えをなくす。狼狽したセラフィナに突然の危機への対応は叶わず、声も出ないまま身体を後ろへと傾がせてしまった。
「危ない!」
それは一瞬の出来事だった。鋭い声が飛んで、もう片方の腕を力強く引かれる。次の瞬間には、セラフィナはランドルフの腕の中に抱き込まれていたのだった。
「……怪我は」
「あ、ありません」
「そうか、ならいい」
ランドルフはそれだけ言って、あっさりとセラフィナを解放した。突然の密着に全身が荒れ狂うように脈動していたが、それも彼の表情を見るまでのことだった。
不自然に逸らされた視線。その金の瞳は陰り、唇を一文字に引き結んでいる。
また迷惑をかけてしまった。胸中を後悔が満たしていくのを感じて、セラフィナは痛みを堪えようと胸の前で手を握り合わせた。
「ありがとうございました。あの、今のことで、お怪我に響いたということは」
「大丈夫だ。既に痛みも引いている」
「そう、ですか。それならば、良いのですが……」
無事を告げる彼の言葉は不自然に硬かった。セラフィナは今度こそベッドから降りることができたのだが、どうしたらいいのか解らずにその場で立ち尽くしてしまう。
二人の間に気まずい沈黙が落ちた。ランドルフからすれば、もしかすると側で目覚めを待っていたこと自体、迷惑以外の何物でもなかったのかもしれない。
どうしよう、何か言わなければ。でも何を。
お元気でしたか? いや、大怪我をした人に対してかける言葉ではない。
いい天気ですね? いや、カーテン越しでは天候を測ることはできない。
勝手に出ていってごめんなさい? 出て行ってくれてほっとしているであろう人に、そんなことは言えない。
空回りを続ける思考に翻弄されていると、沈黙を破ったのはやはりランドルフであった。
「セラフィナ、貴女に話があるんだ。時間をもらえるか」
「は、はい……」
セラフィナはびくりと身を竦ませると、目で促されたのを受けて大人しく見慣れた丸椅子に腰掛けた。
心の底から不安が湧き上がってきて、膝の上で硬く握り合わせた両手から視線を上げることができない。
一体どんな話があるというのだろう。置き手紙だけで出て行った無礼への叱責か、はたまた面倒な事態を招いたことを咎めるのか。
それとも、もしかすると。別離の言葉を告げられるのだろうか。
セラフィナはぎゅっと目を瞑った。迷惑でもいいから側に居たいという気持ちを捨てる事ができない。これ以上彼を煩わせるわけにはいかないと、わかっているのに。
「話というのは、貴女の今後についてだ」
真剣な声音に恐る恐る視線をあげれば、ランドルフの力強い瞳がセラフィナのそれを射抜いていた。
「貴女はこれで自由になった。もう何かを強制される事も、国の為に犠牲を強いられる事も……もう、二度とないだろう」
「……え」
予想だにしない言葉に、セラフィナは呆けたような返事をしてしまった。
しかし言われてみればその通りだ。ランドルフを心配に思うあまり、状況確認以外は人と話すらしないままでいたので、今の今までまったく考えが及ばなかったけれど。
「アルーディアの絶対王政は終わった。新たな政府がたてば闇雲に他国へと戦争を仕掛けることもなくなり、ヴェーグラントとの関係も良いものへと変わっていくだろう。つまり、戦争を起こさないために、貴女がその身を犠牲にして耐え忍ぶ必要は、もう、なくなった」
「自由……私が……?」
「ああ。貴女はもう、紛れもなく自由だ」
そう言ったランドルフの表情は、その言葉とは裏腹に硬く強張っていた。その気まずげな様子にセラフィナも徐々に実感を得る。
ああ、彼はやはり別れを切り出そうとしているのだ。
もう側に居られる口実は消えて無くなってしまった。ならばセラフィナの取るべき行動は、聞き分けよく身を引いてアルーディアに残る事だろう。ランドルフとともにヴェーグラントへ帰ることこそが、唯一望む未来だとしても。
セラフィナは死刑宣告を待つ囚人のような気持ちで、それでもランドルフの顔から目をそらさずにいた。
しかし次に彼の口から放たれた言葉は、完全に予想外のものだった。
「貴女がこの国に帰りたがっていたことを知って、それでも請う。どうか私と共にヴェーグラントで生きる道を選んで欲しい」
静まり返った部屋に、自らの息を飲む音がやけに大きく響いた。
告げられた言葉が信じられずに、セラフィナはしばしの時間を無言で過ごす。ランドルフの表情がまるで懇願するような切実さを伴っているように見えて、随分と都合のいい解釈に思わず苦笑を溢しそうになった。
本当になんて優しい人だろう。誠実で思いやりがあって、いつも気に掛けてくれる。
過渡期にあるこの国で、女が一人で生きていくことが心配になったのだろうか。必死で自分を律しようとするのに、この方はすぐに甘える事を許してしまうから、いつだって彼の前では涙腺が緩みっぱなしだ。
この優しさにつけこんでしまえと、弱い自分が全力で叫んでいる。本当はそうしたい。ありがとうございますと笑って、その胸に飛び込んでしまいたかった。けれど。
「もう、いいんです。私のような者に、貴方様は十分過ぎるほど優しくして下さいました。ですからもう……私のことは、お捨て置き下さい」
なるべく穏やかに聞こえるように作り出した声は、最後の方は堪えきれずに震えていた。
せめて上手く笑えていたら良い。彼が後腐れなくヴェーグラントへ帰ることが出来るように。
しかしセラフィナがやっとの思いで自分の心を裏切ったというのに、ランドルフはとても傷ついたような顔をして目をそらしてしまった。
どうしてそんな顔をするのだろう。今の彼はまるで手酷い仕打ちを受けたような、途方にくれた目をしているように見える。
「それはつまり、貴女はもう私の側には居たくないと、そういう意味だろうか」
ランドルフの声は低く沈んでいた。しかしその言葉の内容はセラフィナの心とはまるで正反対だったので、つい咄嗟に否定してしまう。
「そんなことはありません。ただ、その方が良いだろうと」
「その方が良い?どういう意味だ」
「そ、れは」
だって、貴方が離縁を望んでいるから。
しかしそれを伝えるには、ルーカスとの会話を立ち聞きしてしまったことを明かさなければならなくなる。そんなはしたない事を話すのに躊躇しない筈もなく、つい目をそらした事を彼は一体どう捉えたのか。
「頼むから、私のことが嫌ならはっきりと言ってくれ。でなければ到底諦められない」
短い沈黙に痺れを切らしたように、ランドルフはセラフィナの肩を両手で掴んだ。怪我人とは思えないほどの力に驚いて身を竦ませるが、同時に怖いくらい真剣な金の瞳と視線を交わらせてしまって、瞬きすらできなくなる。
そうして告げられた言葉は、セラフィナの許容量を遥かに超えるものだった。
「貴女のことを愛している。……心の底から、愛しているんだ」
母と父が寄り添い、私のことを慈愛に満ちた眼差しで見つめている。
もう大丈夫ね、と母が言った。父もゆったりと頷いている。たくさん言いたいことがあったはずなのに、胸が詰まって何も言葉が出てこない。
二人の姿が白く霞み始める。伸ばした手が空を切ったその瞬間、私もまた白い光に飲み込まれていった。
*
目を開けると至近距離にランドルフの顔があった。なぜ二人してベッドに横になっているのだろう。そんな疑問が湧いたものの頭が霞みがかったようになっていて、まともに思考が働かない。
「大丈夫か」
ランドルフは心配そうに眉をしかめたまま手を伸ばし、セラフィナの目元をそっと拭った。その優しい手つきに自分がどうやら泣いていたらしいことを知る。
「わ、たし。夢を、見て」
「ああ」
「とても、優しい夢でした……」
「ああ、そうか」
ランドルフは穏やかに微笑むと、最後に頬を軽く撫でて手を引いていった。そしてベッドに手をついて、危なげない動作で上体を起こす。自然極まりない動きに何故だか違和感を覚えたセラフィナは、その正体に気付いて一気に青ざめた。
そうだ彼は、重体から回復したばかりだったはずなのに。
「ランドルフ様っ!」
セラフィナは咄嗟に飛び起きると、ごく弱い力でランドルフの白いシャツに包まれた腕を掴んだ。怪我に触るといけないので強引な事ができないのがもどかしいが、彼はまだ体を起こして良いような状態ではなかったはず。
「いけません、無理をなさっては……! 傷に障ります!」
しきりに袖口を引っ張るセラフィナに、対するランドルフの反応は薄かった。彼はしばし呆然とした様子ででこちらを見つめ返していたのだが、やがてはっとしたように瞳を揺らすと、手で口元を覆って目を逸らしてしまった。心なしか耳が赤いようにも見える。
「まさかお加減でも!?」
「いや、それはない。ただ色々なものを噛み締めていただけだ」
「本当ですか……?」
「それに、もう体を起こすくらいなら問題ない」
体を起こすくらいなら問題ない? そんなまさか。彼はついさっきまで意識不明の重体だったのだ。それがどうして。
そこまで考えてようやく、セラフィナの脳裏にとある記憶が蘇った。そう確か自分は、彼の無事を見届けて眠り込んでしまったのではなかったか。
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セラフィナはあまりの事態に目を剥いた。
何と無様なことをしてしまったのだろう。むしろ彼が目を覚ましてからの方が手伝える事はたくさんあったはずなのに、呑気に眠りこけていたなんて。
しかも信じ難いことに、彼のベッドを半分占領してしまっているではないか。
「も、申し訳ありません!! 私、何てことをっ!」
セラフィナは弾かれたようにランドルフの腕を解放し、上気した頬を両手で覆い隠すようにした。穴があったら入りたいとはこの事だった。しかもようやくをもって覚醒した頭が、色々ととんでもない記憶を掘り起こしてしまう。
ランドルフが目を覚ました時、無遠慮にも抱きついてしまったこと。子供のように泣きじゃくってしまったこと。
それに、何よりも。彼が銃弾に倒れた時のこと、たしか「好きです」と伝えてしまったのではなかったか。
羞恥と混乱の渦に叩き落とされて、セラフィナは声にならない悲鳴を上げた。
何よりもまずはベッドから降りるべきだろう。やっとの思いで取り急ぎの結論を導き出したセラフィナは、殆ど無意識のうちに後ずさりを始めていた。
背後なんて確認していたはずもない。気付かないうちにベッドの縁に到達していたらしく、後ろに着いた手が唐突に支えをなくす。狼狽したセラフィナに突然の危機への対応は叶わず、声も出ないまま身体を後ろへと傾がせてしまった。
「危ない!」
それは一瞬の出来事だった。鋭い声が飛んで、もう片方の腕を力強く引かれる。次の瞬間には、セラフィナはランドルフの腕の中に抱き込まれていたのだった。
「……怪我は」
「あ、ありません」
「そうか、ならいい」
ランドルフはそれだけ言って、あっさりとセラフィナを解放した。突然の密着に全身が荒れ狂うように脈動していたが、それも彼の表情を見るまでのことだった。
不自然に逸らされた視線。その金の瞳は陰り、唇を一文字に引き結んでいる。
また迷惑をかけてしまった。胸中を後悔が満たしていくのを感じて、セラフィナは痛みを堪えようと胸の前で手を握り合わせた。
「ありがとうございました。あの、今のことで、お怪我に響いたということは」
「大丈夫だ。既に痛みも引いている」
「そう、ですか。それならば、良いのですが……」
無事を告げる彼の言葉は不自然に硬かった。セラフィナは今度こそベッドから降りることができたのだが、どうしたらいいのか解らずにその場で立ち尽くしてしまう。
二人の間に気まずい沈黙が落ちた。ランドルフからすれば、もしかすると側で目覚めを待っていたこと自体、迷惑以外の何物でもなかったのかもしれない。
どうしよう、何か言わなければ。でも何を。
お元気でしたか? いや、大怪我をした人に対してかける言葉ではない。
いい天気ですね? いや、カーテン越しでは天候を測ることはできない。
勝手に出ていってごめんなさい? 出て行ってくれてほっとしているであろう人に、そんなことは言えない。
空回りを続ける思考に翻弄されていると、沈黙を破ったのはやはりランドルフであった。
「セラフィナ、貴女に話があるんだ。時間をもらえるか」
「は、はい……」
セラフィナはびくりと身を竦ませると、目で促されたのを受けて大人しく見慣れた丸椅子に腰掛けた。
心の底から不安が湧き上がってきて、膝の上で硬く握り合わせた両手から視線を上げることができない。
一体どんな話があるというのだろう。置き手紙だけで出て行った無礼への叱責か、はたまた面倒な事態を招いたことを咎めるのか。
それとも、もしかすると。別離の言葉を告げられるのだろうか。
セラフィナはぎゅっと目を瞑った。迷惑でもいいから側に居たいという気持ちを捨てる事ができない。これ以上彼を煩わせるわけにはいかないと、わかっているのに。
「話というのは、貴女の今後についてだ」
真剣な声音に恐る恐る視線をあげれば、ランドルフの力強い瞳がセラフィナのそれを射抜いていた。
「貴女はこれで自由になった。もう何かを強制される事も、国の為に犠牲を強いられる事も……もう、二度とないだろう」
「……え」
予想だにしない言葉に、セラフィナは呆けたような返事をしてしまった。
しかし言われてみればその通りだ。ランドルフを心配に思うあまり、状況確認以外は人と話すらしないままでいたので、今の今までまったく考えが及ばなかったけれど。
「アルーディアの絶対王政は終わった。新たな政府がたてば闇雲に他国へと戦争を仕掛けることもなくなり、ヴェーグラントとの関係も良いものへと変わっていくだろう。つまり、戦争を起こさないために、貴女がその身を犠牲にして耐え忍ぶ必要は、もう、なくなった」
「自由……私が……?」
「ああ。貴女はもう、紛れもなく自由だ」
そう言ったランドルフの表情は、その言葉とは裏腹に硬く強張っていた。その気まずげな様子にセラフィナも徐々に実感を得る。
ああ、彼はやはり別れを切り出そうとしているのだ。
もう側に居られる口実は消えて無くなってしまった。ならばセラフィナの取るべき行動は、聞き分けよく身を引いてアルーディアに残る事だろう。ランドルフとともにヴェーグラントへ帰ることこそが、唯一望む未来だとしても。
セラフィナは死刑宣告を待つ囚人のような気持ちで、それでもランドルフの顔から目をそらさずにいた。
しかし次に彼の口から放たれた言葉は、完全に予想外のものだった。
「貴女がこの国に帰りたがっていたことを知って、それでも請う。どうか私と共にヴェーグラントで生きる道を選んで欲しい」
静まり返った部屋に、自らの息を飲む音がやけに大きく響いた。
告げられた言葉が信じられずに、セラフィナはしばしの時間を無言で過ごす。ランドルフの表情がまるで懇願するような切実さを伴っているように見えて、随分と都合のいい解釈に思わず苦笑を溢しそうになった。
本当になんて優しい人だろう。誠実で思いやりがあって、いつも気に掛けてくれる。
過渡期にあるこの国で、女が一人で生きていくことが心配になったのだろうか。必死で自分を律しようとするのに、この方はすぐに甘える事を許してしまうから、いつだって彼の前では涙腺が緩みっぱなしだ。
この優しさにつけこんでしまえと、弱い自分が全力で叫んでいる。本当はそうしたい。ありがとうございますと笑って、その胸に飛び込んでしまいたかった。けれど。
「もう、いいんです。私のような者に、貴方様は十分過ぎるほど優しくして下さいました。ですからもう……私のことは、お捨て置き下さい」
なるべく穏やかに聞こえるように作り出した声は、最後の方は堪えきれずに震えていた。
せめて上手く笑えていたら良い。彼が後腐れなくヴェーグラントへ帰ることが出来るように。
しかしセラフィナがやっとの思いで自分の心を裏切ったというのに、ランドルフはとても傷ついたような顔をして目をそらしてしまった。
どうしてそんな顔をするのだろう。今の彼はまるで手酷い仕打ちを受けたような、途方にくれた目をしているように見える。
「それはつまり、貴女はもう私の側には居たくないと、そういう意味だろうか」
ランドルフの声は低く沈んでいた。しかしその言葉の内容はセラフィナの心とはまるで正反対だったので、つい咄嗟に否定してしまう。
「そんなことはありません。ただ、その方が良いだろうと」
「その方が良い?どういう意味だ」
「そ、れは」
だって、貴方が離縁を望んでいるから。
しかしそれを伝えるには、ルーカスとの会話を立ち聞きしてしまったことを明かさなければならなくなる。そんなはしたない事を話すのに躊躇しない筈もなく、つい目をそらした事を彼は一体どう捉えたのか。
「頼むから、私のことが嫌ならはっきりと言ってくれ。でなければ到底諦められない」
短い沈黙に痺れを切らしたように、ランドルフはセラフィナの肩を両手で掴んだ。怪我人とは思えないほどの力に驚いて身を竦ませるが、同時に怖いくらい真剣な金の瞳と視線を交わらせてしまって、瞬きすらできなくなる。
そうして告げられた言葉は、セラフィナの許容量を遥かに超えるものだった。
「貴女のことを愛している。……心の底から、愛しているんだ」
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