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第三章 あの日の約束に真実の夢を見る
26 幕切れ ①
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ランドルフが黒獅子と呼ばれる所以を理解したような気がした。ヴェーグラントの軍服を見に纏い、後ろに流した黒髪を逆立てて相手を威圧する様は、まさしく百獣の王の如く雄々しく頼もしい。
会いたいと請い願うばかりに見た幻かと思った。しかしフランシーヌから庇うように立ち塞がる大きな背中は、セラフィナにとって何よりも安心できる人のものだ。ランドルフがここにいるという夢のような現実を受け止めきれないまま立ち尽くして居ると、背後から肩に触れる感触があった。
「ねえセラフィナ、この人もしかして……」
ベルティーユは戸惑いの表情を浮かべてはいたが、セラフィナほど混乱してはいなかった。姉の落ち着いた様子に正気を取り戻すと、もう一度ランドルフの背に視線を滑らせてようやくの実感を得る。
「は、い。この方はランドルフ・クルツ・アイゼンフート侯爵様です」
「やっぱり、あなたの旦那様だったのね」
「……それは」
セラフィナは恩知らずにも黙って家を出てきてしまったのだ。それにランドルフは離縁を望んでいたのだから、今の関係で夫婦を名乗れるはずもない。妹の悲しげな表情にベルティーユは一瞬首を傾げたが、しかしそれ以上追求してくることはなかった。
「それにしてもどうしてここへ? レオナールが案内になったみたいだけど」
「私もとても驚いているんです。本当に、どうして」
約束をしたからだとランドルフは言った。
しかしどうしてこんなところへ来てまでそれを果たそうとするのかが解らない。無条件の誠実さが苦しくて、思わず痛む胸を庇うように手で押さえる。
その時、突如としてヴェーグラント陸軍の制服を着込んだ男達が走り込んで来た。彼らとランドルフの会話から既に王宮が制圧されたと知って、セラフィナは思わずベルティーユと顔を見合わせる。
「どういうこと!? 女王陛下に付き随う兵の数は、かなりのものだったのに……!」
「王宮が革命軍によって落とされたという事でしょうか……?」
「早すぎるわ。私があなたの牢へ訪れる頃に、ちょうど民衆が王宮を取り囲んだところだったの。あの戦力ではかなりの激戦になるはずよ」
相変わらず状況は理解できなかったが、どうやら姉が戦場に立つ必要が無くなったのだと気付いて、安堵のあまり気が抜けてしまいそうになる。
王宮は既に制圧され、フランシーヌには戦える味方は無く、何よりランドルフがここにいるのだ。きっともう大丈夫だとなんの疑いもなく信じられるのは、やはり彼への信頼ゆえだった。
フランシーヌの狂っているとしか思えない発言に対しても、ランドルフは落ち着きを失うことはない。静かに放たれた言葉に耳をすませば、確かに大勢の足音が鳴り響いていて、セラフィナは朝日に照らされ始めた王宮へと視線を向けた。
やがて姿を現した民衆は、それぞれに違った感情をその表情に滲ませていた。
怒り、悲しみ、興奮、疲労。しかし全員が目的を同じくして、万に届くかという人数が一丸となって巨大なうねりを作り出している。それが凄まじい熱量でもって押し寄せる様は圧巻で、セラフィナはその荒々しくも美しい光景を食い入るように見つめた。
「セラフィナ、私の前には出ないように。彼らとは王宮を制圧し次第、暴力に訴えることは止めると約束しているが、何が起こるか解らないからな」
「約束? 革命軍と、ですか?」
「それについては後で話す。今は大人しくしているんだ」
ランドルフは有無を言わせない口調で言い切ると、セラフィナを後ろ手に庇うようにして民衆との間に立った。見ればベルティーユの元にはレオナールが駆けつけていて、彼もまた注意深く周囲を見渡している。
やがてフランシーヌを取り囲むように集合した民衆の中から、迷いの無い足取りで進み出る者があった。
三十代半ばに見えるその男は、この国での労働者階級を示す長ズボンを着用しており、使命を宿して燃える榛色の瞳が印象的だ。
「アイゼンフート将軍、協力に感謝する。犠牲も無くここまで来られたのもあんたのおかげだ」
「何を言う、オディロン。突然現れた私を信頼してくれたお前の度量あってこそだ。こちらこそ礼を言わねばなるまい」
「あの黒獅子将軍が来たって言うんで皆最初は警戒してたけどな。まああんたが悪い奴じゃ無いってことくらい、腹割って話せばわかるよ」
随分と親しげな様子に、セラフィナもようやく状況を理解し始めていた。信じられないことではあるが、ランドルフはどうやら軍を率いて革命に協力していたのだ。
「なあ、ところでセラフィナ様は助けられたのか?」
オディロンは周囲に視線を巡らすと、ようやくセラフィナの存在に気付いたようだった。しかし目を合わせるなり苦々しげに目を細めた彼は、憤懣やるかたないといった様子でランドルフへと質問を飛ばす。
「おいおい。まさかとは思うが、ヴェーグラントでは髪を肩で切り揃えるのが流行っているのか?」
「いや。どうやら切られたらしい」
「え…! ち、違います! これは、事情があって自分で——」
なにやら怒りを漲らせ始めた二人に説明しようとするセラフィナだったが、またしても群衆の中から人影が飛び出してくるのに気付いて口を噤んだ。腕の中に小さな女の子を抱えたその女性には見覚えがあった。
「申し訳ありません! それは、私のせいなのです!」
美容師のクロエは目に涙を溢れさせてはいたが、赤子を抱えてしっかりとそこに立っていた。どうやら人質に取られていた子供は無事に彼女の元へ返されたらしいと確認して、セラフィナは安堵の溜息をもらす。
「私は、ジスラン閣下に子供を殺すと脅され、セラフィナ様の髪を切るよう指示を受けたのです! しかしお優しいセラフィナ様は、私が気に病まないように自ら髪をお切りになりました! わ、私の、せいで…… 申し訳、ございませんっ!」
クロエは搾り尽くすように叫ぶと、そのまま我が子を搔き抱くようにして座り込んでしまった。あまりにも悲痛な慟哭に、セラフィナは彼女へと駆け寄ろうとしたのだが、ランドルフに制されて動きを止める。しかしそのわずかな時間、側をすり抜けて走り出す人影があった。オディロンはクロエの側に膝をつくと、彼女が抱える子供ごと抱きしめてしまった。
「クロエ、イネス……! 良かった、心配したぞ」
「あなた……ごめんなさい、私」
「辛い思いをさせた。ごめんな」
なんて驚かされてばかりの日なのだろう。クロエの旦那様が、どうやら革命軍のリーダー格らしいオディロンだなんて。
つまりはセラフィナの慰問によって元気を取り戻したというのは、彼ということになるのか。
民衆もまたざわめきだって、それぞれがセラフィナを痛ましげに見つめたり、座り込む夫婦を慰めたりしていた。しかしやがて彼等の視線が一点に集まり始める。十人中十人という割合で瞳の奥に怒りを漲らせて睨みつけるのは、女王フランシーヌと宰相ジスランだった。
「卑怯者! セラフィナ様になんて酷いことを!」
「心優しいお姫様を傷つけて楽しいかい?! この外道どもが!」
「狂った為政者め! さっさとその席を降りろ!」
「もう戦争なんてまっぴらだ! なんでそこまでして戦いを望むんだよ!?」
「絶対王政は終わりだ! これ以上の勝手を許すな!」
怒りが渦を巻き、炎となって天を焦がしていくようだった。民衆たちは募らせた鬱憤を爆発させて声高に叫んでいる。元は民の怒りをヴェーグラントに向けるためにセラフィナの髪を切らせたというのに、結局のところ彼らが現王政への怒りを高める結果となったのは皮肉だった。
着火剤は髪のことだったのは間違いないが、いつしか彼等の口にする言葉を現王政への怒りが占めていく。ついに誰かが「殺せ!」と叫んだのを皮切りに、場の空気は恨みを多分に含んだ物へと急変を遂げた。
「うちの子は飢えて死んだ! 原因を作った女王は許せない!」
「徴兵されて死んだうちの旦那はもう帰ってこないんだよ!」
「フランシーヌとジスランを殺せ! この国に王は必要ない!」
王宮ごと焼き尽くしてしまいそうなほどの怒りに、セラフィナは肩を強張らせて身を縮めた。
その怯えた様子に直ぐに気が付いたランドルフが庇うように一歩前に進み出てくれる。斜め下からの角度で仰ぎ見た彼の横顔は、油断なく周囲を警戒すると同時に事態を静観する構えを取っているようだ。
軍を率いていることから、恐らく彼は皇帝閣下の勅命によって革命の手助けをしてきたのだろう。しかしここからはこの国に生きる者たちが決めることなのだ。
新しく生まれるであろう新政府が、前時代の為政者を許すか許さないか。それはこの国の指針を決定付ける重要な決断に他ならないのだから。
フランシーヌは全くの無表情で、ジスランは恐怖に顔を青くして、民衆たちの怒りを前に立ち尽くしていた。一体どうなってしまうのかと早鐘を打つ胸に手を当てた時、この騒ぎのるつぼに毅然とした足取りで進み出る人影があった。
ベルティーユは背筋を伸ばして民衆の前に立って見せた。レオナールはあまりのことに顔色を失って姫君の側へと付き従っていたが、しかし彼女はそれも意に返さない様子で民衆を見渡している。
たったそれだけで怒りに我を忘れていたはずの彼等が正気を取り戻し、朝日に照らされたその空間はしんと静まり返った。
「これでお分かりですか。民は誰一人として戦争など望んでいないのです。彼らが望むのは人としての尊厳と自由。女王陛下、あなたが掲げるアルーディアの天下など必要ありません。そうですね、オディロン」
急に水を向けられたオディロンは、一切の動揺もなく頷くと、妻を抱きしめる腕を解いて立ち上がった。その瞳が強い決意を宿して煌めくのを、セラフィナは固唾を飲んで見つめていた。
「その通りです、王女殿下。俺達はこの国のことが好きだ。だからこそ、今のこの酷い有様にはもう目を背けることは出来ない。この国を誰よりも愛するのは国民であって、女王ではない。今こそ俺たちの手で愛すべきアルーディアを取り戻さなければならないんだ…!」
そこに居る全ての民が、花々を震わすような雄叫びを上げる様は壮観だった。オディロンの意思に賛同しないものはいない。誰もがこの国を愛している。そんな思いが伝わって、セラフィナは胸が一杯になってしまった。
やっぱりこの国が好きだと思う。愛すべき人達が生き、どんな苦境でも希望を失わない民が住まうこの国のことが。
「女王陛下。いいえ、フランシーヌ様。これが民の意思です。あなたには王座を降りていただくほかありません。今からあなたの身柄を拘束します。よろしいですね」
実の娘が感情を押し殺したように話すのを、フランシーヌは無表情のまま眺めていた。底の見えない暗さを湛えたその目から何も読み取れずに、セラフィナはじっと彼女の出方を見守る。しかし少しの間を置いて女王が吐き出したのは、まぎれもない苦笑だった。
「甘いですね、ベルティーユ。あなたにはきちんと王たるものの心構えを学ばせたつもりでしたが、やはりいまいち出来が良くなかったのは、セラフィナたち母子の影響なのでしょうね」
「何が言いたいのです」
「結局、私の成し遂げてきたことは全て無駄だったということです。民のため良かれと思ってした事が、ここまで彼等を苦しめる事になってしまった。私のことが要らないと言うのなら……失って困るものなど、もうありません」
フランシーヌはおもむろにドレスのフリルの間へと手を突っ込んだ。
レオナールがにわかに緊張を走らせて女王の動きを止めようとしたが、遅かった。何故なら彼女の動きには一切の迷いがなかったから。
取り出したピストルをこめかみにあてがい、フランシーヌは赤い唇をいつものように釣り上げて見せた。
刹那、乾いた音が鳴り響いて、彼女の体に赤い花が散る。地面に倒れ伏した彼女の瞳はガラス玉のように透き通り、もはやあの底暗さを垣間見せることは二度と無かった。
その場にいた誰もが息を飲んで、先程までこの国で最も高貴だった人の亡骸を見つめていた。
それは八百年続いた絶対王政の終焉にしては余りにも唐突で、余りにもあっけない幕切れであった。
会いたいと請い願うばかりに見た幻かと思った。しかしフランシーヌから庇うように立ち塞がる大きな背中は、セラフィナにとって何よりも安心できる人のものだ。ランドルフがここにいるという夢のような現実を受け止めきれないまま立ち尽くして居ると、背後から肩に触れる感触があった。
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ベルティーユは戸惑いの表情を浮かべてはいたが、セラフィナほど混乱してはいなかった。姉の落ち着いた様子に正気を取り戻すと、もう一度ランドルフの背に視線を滑らせてようやくの実感を得る。
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「……それは」
セラフィナは恩知らずにも黙って家を出てきてしまったのだ。それにランドルフは離縁を望んでいたのだから、今の関係で夫婦を名乗れるはずもない。妹の悲しげな表情にベルティーユは一瞬首を傾げたが、しかしそれ以上追求してくることはなかった。
「それにしてもどうしてここへ? レオナールが案内になったみたいだけど」
「私もとても驚いているんです。本当に、どうして」
約束をしたからだとランドルフは言った。
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その時、突如としてヴェーグラント陸軍の制服を着込んだ男達が走り込んで来た。彼らとランドルフの会話から既に王宮が制圧されたと知って、セラフィナは思わずベルティーユと顔を見合わせる。
「どういうこと!? 女王陛下に付き随う兵の数は、かなりのものだったのに……!」
「王宮が革命軍によって落とされたという事でしょうか……?」
「早すぎるわ。私があなたの牢へ訪れる頃に、ちょうど民衆が王宮を取り囲んだところだったの。あの戦力ではかなりの激戦になるはずよ」
相変わらず状況は理解できなかったが、どうやら姉が戦場に立つ必要が無くなったのだと気付いて、安堵のあまり気が抜けてしまいそうになる。
王宮は既に制圧され、フランシーヌには戦える味方は無く、何よりランドルフがここにいるのだ。きっともう大丈夫だとなんの疑いもなく信じられるのは、やはり彼への信頼ゆえだった。
フランシーヌの狂っているとしか思えない発言に対しても、ランドルフは落ち着きを失うことはない。静かに放たれた言葉に耳をすませば、確かに大勢の足音が鳴り響いていて、セラフィナは朝日に照らされ始めた王宮へと視線を向けた。
やがて姿を現した民衆は、それぞれに違った感情をその表情に滲ませていた。
怒り、悲しみ、興奮、疲労。しかし全員が目的を同じくして、万に届くかという人数が一丸となって巨大なうねりを作り出している。それが凄まじい熱量でもって押し寄せる様は圧巻で、セラフィナはその荒々しくも美しい光景を食い入るように見つめた。
「セラフィナ、私の前には出ないように。彼らとは王宮を制圧し次第、暴力に訴えることは止めると約束しているが、何が起こるか解らないからな」
「約束? 革命軍と、ですか?」
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ランドルフは有無を言わせない口調で言い切ると、セラフィナを後ろ手に庇うようにして民衆との間に立った。見ればベルティーユの元にはレオナールが駆けつけていて、彼もまた注意深く周囲を見渡している。
やがてフランシーヌを取り囲むように集合した民衆の中から、迷いの無い足取りで進み出る者があった。
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「何を言う、オディロン。突然現れた私を信頼してくれたお前の度量あってこそだ。こちらこそ礼を言わねばなるまい」
「あの黒獅子将軍が来たって言うんで皆最初は警戒してたけどな。まああんたが悪い奴じゃ無いってことくらい、腹割って話せばわかるよ」
随分と親しげな様子に、セラフィナもようやく状況を理解し始めていた。信じられないことではあるが、ランドルフはどうやら軍を率いて革命に協力していたのだ。
「なあ、ところでセラフィナ様は助けられたのか?」
オディロンは周囲に視線を巡らすと、ようやくセラフィナの存在に気付いたようだった。しかし目を合わせるなり苦々しげに目を細めた彼は、憤懣やるかたないといった様子でランドルフへと質問を飛ばす。
「おいおい。まさかとは思うが、ヴェーグラントでは髪を肩で切り揃えるのが流行っているのか?」
「いや。どうやら切られたらしい」
「え…! ち、違います! これは、事情があって自分で——」
なにやら怒りを漲らせ始めた二人に説明しようとするセラフィナだったが、またしても群衆の中から人影が飛び出してくるのに気付いて口を噤んだ。腕の中に小さな女の子を抱えたその女性には見覚えがあった。
「申し訳ありません! それは、私のせいなのです!」
美容師のクロエは目に涙を溢れさせてはいたが、赤子を抱えてしっかりとそこに立っていた。どうやら人質に取られていた子供は無事に彼女の元へ返されたらしいと確認して、セラフィナは安堵の溜息をもらす。
「私は、ジスラン閣下に子供を殺すと脅され、セラフィナ様の髪を切るよう指示を受けたのです! しかしお優しいセラフィナ様は、私が気に病まないように自ら髪をお切りになりました! わ、私の、せいで…… 申し訳、ございませんっ!」
クロエは搾り尽くすように叫ぶと、そのまま我が子を搔き抱くようにして座り込んでしまった。あまりにも悲痛な慟哭に、セラフィナは彼女へと駆け寄ろうとしたのだが、ランドルフに制されて動きを止める。しかしそのわずかな時間、側をすり抜けて走り出す人影があった。オディロンはクロエの側に膝をつくと、彼女が抱える子供ごと抱きしめてしまった。
「クロエ、イネス……! 良かった、心配したぞ」
「あなた……ごめんなさい、私」
「辛い思いをさせた。ごめんな」
なんて驚かされてばかりの日なのだろう。クロエの旦那様が、どうやら革命軍のリーダー格らしいオディロンだなんて。
つまりはセラフィナの慰問によって元気を取り戻したというのは、彼ということになるのか。
民衆もまたざわめきだって、それぞれがセラフィナを痛ましげに見つめたり、座り込む夫婦を慰めたりしていた。しかしやがて彼等の視線が一点に集まり始める。十人中十人という割合で瞳の奥に怒りを漲らせて睨みつけるのは、女王フランシーヌと宰相ジスランだった。
「卑怯者! セラフィナ様になんて酷いことを!」
「心優しいお姫様を傷つけて楽しいかい?! この外道どもが!」
「狂った為政者め! さっさとその席を降りろ!」
「もう戦争なんてまっぴらだ! なんでそこまでして戦いを望むんだよ!?」
「絶対王政は終わりだ! これ以上の勝手を許すな!」
怒りが渦を巻き、炎となって天を焦がしていくようだった。民衆たちは募らせた鬱憤を爆発させて声高に叫んでいる。元は民の怒りをヴェーグラントに向けるためにセラフィナの髪を切らせたというのに、結局のところ彼らが現王政への怒りを高める結果となったのは皮肉だった。
着火剤は髪のことだったのは間違いないが、いつしか彼等の口にする言葉を現王政への怒りが占めていく。ついに誰かが「殺せ!」と叫んだのを皮切りに、場の空気は恨みを多分に含んだ物へと急変を遂げた。
「うちの子は飢えて死んだ! 原因を作った女王は許せない!」
「徴兵されて死んだうちの旦那はもう帰ってこないんだよ!」
「フランシーヌとジスランを殺せ! この国に王は必要ない!」
王宮ごと焼き尽くしてしまいそうなほどの怒りに、セラフィナは肩を強張らせて身を縮めた。
その怯えた様子に直ぐに気が付いたランドルフが庇うように一歩前に進み出てくれる。斜め下からの角度で仰ぎ見た彼の横顔は、油断なく周囲を警戒すると同時に事態を静観する構えを取っているようだ。
軍を率いていることから、恐らく彼は皇帝閣下の勅命によって革命の手助けをしてきたのだろう。しかしここからはこの国に生きる者たちが決めることなのだ。
新しく生まれるであろう新政府が、前時代の為政者を許すか許さないか。それはこの国の指針を決定付ける重要な決断に他ならないのだから。
フランシーヌは全くの無表情で、ジスランは恐怖に顔を青くして、民衆たちの怒りを前に立ち尽くしていた。一体どうなってしまうのかと早鐘を打つ胸に手を当てた時、この騒ぎのるつぼに毅然とした足取りで進み出る人影があった。
ベルティーユは背筋を伸ばして民衆の前に立って見せた。レオナールはあまりのことに顔色を失って姫君の側へと付き従っていたが、しかし彼女はそれも意に返さない様子で民衆を見渡している。
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「これでお分かりですか。民は誰一人として戦争など望んでいないのです。彼らが望むのは人としての尊厳と自由。女王陛下、あなたが掲げるアルーディアの天下など必要ありません。そうですね、オディロン」
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そこに居る全ての民が、花々を震わすような雄叫びを上げる様は壮観だった。オディロンの意思に賛同しないものはいない。誰もがこの国を愛している。そんな思いが伝わって、セラフィナは胸が一杯になってしまった。
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「甘いですね、ベルティーユ。あなたにはきちんと王たるものの心構えを学ばせたつもりでしたが、やはりいまいち出来が良くなかったのは、セラフィナたち母子の影響なのでしょうね」
「何が言いたいのです」
「結局、私の成し遂げてきたことは全て無駄だったということです。民のため良かれと思ってした事が、ここまで彼等を苦しめる事になってしまった。私のことが要らないと言うのなら……失って困るものなど、もうありません」
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レオナールがにわかに緊張を走らせて女王の動きを止めようとしたが、遅かった。何故なら彼女の動きには一切の迷いがなかったから。
取り出したピストルをこめかみにあてがい、フランシーヌは赤い唇をいつものように釣り上げて見せた。
刹那、乾いた音が鳴り響いて、彼女の体に赤い花が散る。地面に倒れ伏した彼女の瞳はガラス玉のように透き通り、もはやあの底暗さを垣間見せることは二度と無かった。
その場にいた誰もが息を飲んで、先程までこの国で最も高貴だった人の亡骸を見つめていた。
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