【完結】妖精と黒獅子

水仙あきら

文字の大きさ
上 下
75 / 91
第三章 あの日の約束に真実の夢を見る

19 短き邂逅

しおりを挟む
 色褪せた記憶が途切れると同時に全身が鈍い痛みを訴え始めて、ルーカスは眉をしかめつつもゆっくりと目を開けた。
 辺り一面真っ黒とは、死後の世界としてはありえそうな景色である。地面に激突した痛みが死んでからもついて回るなんて、女神もなかなか味なことをするものだ。
 横向きに倒れたままぼんやりと虚空を見つめていると、徐々に暗闇の中で像を結ぶものがあった。
 転がる石ころ。無造作に生えた雑草。生い茂る木々に、粉っぽい春の匂いと頬に押し付けられる冷えた土の感触が生々しい。

「嘘だろ? 生きてる!?」

 予想だにしない現実に直面したルーカスは、痛む身体を押して勢いよく起き上がった。
 全身をくまなく確認するが、大きな怪我は見当たらない。擦過傷や打撲でひどい事になっていたし、特に左肩が鋭い痛みを訴えていたが、命に別状はなさそうだった。
 そんな馬鹿な。あれ程の高さから落ちて無事だなんてことがあるはず無いのに。
 そこまで考えて、ルーカスは重要な事を思い出していた。そういえば自分が道連れにしたあの工作員は、一体どうしたのだろうか。
 その答えはすぐに得る事ができた。慌てて視線をめぐらせば、エミールはすぐ近くの木に上半身を凭れかけ、地面に足を投げ出したまま座り込んでいた。

「よう。そっちは無事らしいな」
「……君。その、怪我」

 言ったきり絶句してしまったルーカスに、エミールは皮肉げに笑って見せた。
 エミールの有様は酷いものだった。暗闇の中でも分かる程に白い細面は血に塗れ、裂けた脇腹も朱に染まっている。右腕は妙な方向に折れ曲り、左腕はだらりと垂れ下がって、左足に至っては骨が見えるほどの裂傷を負っていた。

「なんでこんな……俺は、無傷みたいな物なのに」

 問いかける声は自然と掠れていた。自分が引き起こした惨劇を受け止める事は、戦場に出た経験を持つルーカスにとって難しい事ではない。しかし想定外に生き残ってしまった今となっては、その事実も含めて頭が飽和してしまい、ただ呆然と彼を見つめる事しかできなかったのだ。

「あんたが、自分の身を犠牲にするような事をするからだ。なんでそんな事ができるのか、知りたいと思った。だから庇った。結果としてこの有様だ。ほんと、情けねえ」

 闇の中、月の光を受けて藍色が輝いている。情けないと言う割に彼は楽しそうに笑っていたのだが、その瞳には追求する強さが含まれていた。

「あのお姫様もそうだった。揃いも揃って世の為人の為、あんたら頭おかしいんじゃねえのか?」
「ええと、そのお姫様ってのは、義姉上……セラフィナ姫のこと、かな」
「そーだよ。いいから答えろ、坊ちゃんスパイ」

 坊ちゃんスパイとは酷い言い草だが、どうやら彼は今までのやりとりの中でルーカスが諜報員である事を感じ取っていたらしい。それほど優秀な彼が何故そんな事を気にするのかわからないが、別に知られて困ることでもないのでおとなしく答えてやる事にする。

「別に、人の為にって訳じゃない。俺は兄の足手まといになったりしたら自分のことを許せなくなるから、そうならない為に君を道連れにしようとしたんだよ」
「なんだそりゃ。じゃあつまり、あんたは」
「自分の為にやっただけってことになるかな。罪滅ぼしと言ってもいい。俺は利己的な人間だから」 

 そう、ルーカスはセラフィナとは違って、他者の為に自身を犠牲にするような献身は持ち合わせていない。兄に憧れて役に立ちたいと願ったのも、元を正せば役立たずの自分が許せなかったからだし、だからこそあんな無茶な行動に打って出る事ができたのだ。

「俺は、自分に誇れる自分でありたい。それは兄さんを見ていて心の底から思うことなんだ」

 事も無く言い切ったルーカスに、何故だかエミールは目を見開いたまま呆然としていた。しかしややあって彼の口から漏れたのは、微かな笑い声だった。

「……はは。あははははは!」

 次第に大きくなる声に、今度はルーカスが困惑する番だった。彼は傷が痛むのか時折息を詰まらせつつ、腹を抱えて大声で笑っている。

「え、なにちょっと、どうしたの。俺なんか変なこと言ったかな」
「いーや、別に。あー……久しぶりに笑ったわ」

 ようやく笑いを収めたエミールは、どうしたことか憑き物が落ちたような顔をしていた。登場した時の酷薄な笑みは最早その片鱗すら残っておらず、血に汚れた今の顔つきの方が余程清々しく見えた。

「自分に誇れる自分、か。俺は自分の為にあの国を潰すことを決めたが、結局、母さんの遺志に逆らってまで成し遂げても、自分自身に対する誇りは抱けないんだろうな」
「ええと、ごめん。何を言っているのかよく解らないんだけど」
「あんたの捨て身の覚悟に押し負けるくらいじゃ、俺の考えは結局弱かったんだなって話だよ。あんたは自分のこと利己的だって言うけど、俺からしたら十分ご立派だ。こっちが情けなくなるくらいにな」
「はあ。それは、どうも」

 彼の言うことは難解で、ルーカスは意味がわからずに首をかしげるしかない。

 遠くから名を呼ぶ声が聞こえてきたのは、会話が途切れたその時だった。

 ——ス様! どこですか!

 この、声。聞き間違いでなければ、ルーカスにとって最も愛しい人の声だ。

「ルーカス様! 生きてたら返事してください! ルーカス様——っ!」

 今度こそはっきりと聞こえた。
 あまりにも都合が良すぎる展開に一瞬夢かと疑ってしまったが、ここまで切迫した声は聞いた事がない。聞こえてきた方角へと顔を振り向けば、カンテラの微かな明かりが揺らめいていた。

「ここだよ!」
「……ルーカス様!」

 足音が慌ただしくなり、カンテラの明かりが上下に揺れる。
 信じられないことに、暗闇の中から現れたのはエルマであった。
 彼女がこの旅路への同行を申し出た時、ルーカスは止めようとした。悲しいかな彼女が自分の事を嫌っているのは知っていたので、旅の間中付きまとうと匂わせれば着いては来ないだろうと踏んだのだ。
 しかし彼女はそれさえも意に返さず、結果的にはあの厳格な兄を説き伏せてしまった。それほどの忠誠心をセラフィナに対して抱いているのなら仕方ないと、あの時は嘆息したものだったのだが。
 それなのに迎えに来てくれた。敬愛する女主人に会いに行くことよりも優先してくれた。俄かには目の前の光景が信じられずに目を見開くが、死の危険に晒されたばかりの男に対してもエルマは容赦がなかった。

「無茶をして! どれだけ旦那様が心配なさったか、わかっているんですか!?」

 エルマは見たことのないほどの怒りの形相で一喝をくれた。どれだけルーカスがしつこく話しかけてもここまでは怒らなかったはずなのに。ルーカスは驚いて、反射的に頭を下げていた。

「ごめん。けど、君は心配してくれなかったのかな?」
「それだけ軽口が叩けるなら大丈夫のようですね!」

 いらいらと腕を組んだエルマは、全身土だらけで、ワンピースの裾はほつれてしまっていた。どうやら自力で崖を下ってきたらしいと理解して、ルーカスは眉間にしわを寄せる。

「どうやって降りてきたの」
「持参したロープを伝ってきたんですよ。旦那様を説得した上で、杭を打ち付けて帰りのルートも確保してきましたので、時間がかかってしまいましたが」 

 およそその華奢な外見からは及びもつかない身体能力である。そして用意の良さが尋常ではないのだが、彼女は一体どのような事態を想定していたのだろうか。

「君こそ無茶じゃないか」
「ルーカス様ほどではありません」
「それを言われるとね。兄さんたちはどうなった?」
「お二人には残りの馬に乗って先に行って頂きました。あなた様のせいで本当に大変でしたよ」

 エルマは不機嫌であることを隠そうともせず、ぷいと顔を背けてしまった。
 そこでようやくエミールの存在に気付いたらしく、彼女はその惨状を目の当たりにして体を硬直させた。

「し、死んで……!」
「ねえよ。残念だったな」

 エミールは苦笑すると、折れ曲がった右手を持ち上げて追い払う動作をした。

「もういい加減に夜も明けてきた。さっさと行けよ」
「けど、君はハイルング人なんだろう? さっきより怪我の治りが遅いように見えるけど」

 それは先程からずっと気になっていたことだった。血は止まっているようだったが先程と同じく瞬時に回復しているようには見えず、もしかするとここまでの怪我だと治せないのではと思ったのだ。
 しかしルーカスの危惧にあっさりと首を横に振ったエミールは、続いて面倒くさそうに肩をすくめて見せた。

「ハイルングの力を連続で使い過ぎて、修復が追いつかないだけだ。時間はかかるだろうがほっときゃ治る。その後はかつてないほどの疲労地獄だろうけどな。あーヤダヤダ」
「痛むんだろう」
「なんだよ今更心配か? やっぱあんたも立派なお人好しだな」

 エミールは続けて右手を振っていたが、ルーカスはすぐに動く事ができなかった。敵とはいえ彼は命の恩人なのだ。こんな寂しい森の中、大怪我をした状態で置いていくなんて。
 躊躇するルーカスを促したのはエルマだった。

「ルーカス様、参りましょう。開拓した登攀ルートを残していきます。彼なら自力でなんとかするでしょう」

 エルマは複雑な感情を織り交ぜた眼差しをエミールへと向けた。セラフィナを刺したという事実と、今ルーカスを助けて傷を負った彼の姿が重なって、心を落ち着かなくさせているのだろう。

「ルーカス様を助けてくださり、ありがとうございました。これ、良かったら」

 真摯に腰を折り曲げたエルマは、エミールに向かって紙袋を差し出した。膨らみ方を見るに、どうやら果物でも入っているらしい。怪我によって手で受け取ることのできなかったエミールは、足元に置かれた紙袋を見やり、呆れ返ったと言わんばかりにため息をついて見せた。

「類は友を呼ぶってやつか。ほんと、お人好しの甘ちゃんどもが。さっさと行っちまえ」

 突き放す言葉とは裏腹に、エミールが見せた笑みは今までで一番優しいものだった。
 彼がルーカスとの会話の中で何を得たのかは解らない。しかし彼が苦しみから解放されたことはその表情を見れば明らかで、先程こぼした言葉を思い返しても、敵対する意志は無いと感じられた。

「もう会うことはないよね?」
「ああ、俺はそう願ってるよ……」

 それが最後だった。エミールの全身から力が抜け、安らかな寝息が聞こえ始める。あの冷徹な雰囲気は見る影もなく、無防備に眠るその姿は、血まみれである事を除けば子供のようにあどけなかった。

「いこうか」
「はい。ご案内します」

 登攀ルートとやらに案内してくれるらしく、エルマは先立って歩き始めようとしたが、ルーカスはそれを制して先頭に立った。流石に惚れた女に草木を掻き分けさせるなんて男の名折れだ。

「エルマ」
「はい」
「ありがとう、探しに来てくれて。嬉しかったよ」
「……いいえ。ご無事で何よりでございます」

 ちらりと斜め後ろを振り返れば、照れたように俯くエルマの姿があった。やっぱり好きだなと独りごちて、ルーカスは黙って森を進むのだった。
しおりを挟む
感想 31

あなたにおすすめの小説

【完結】消された第二王女は隣国の王妃に熱望される

風子
恋愛
ブルボマーナ国の第二王女アリアンは絶世の美女だった。 しかし側妃の娘だと嫌われて、正妃とその娘の第一王女から虐げられていた。 そんな時、隣国から王太子がやって来た。 王太子ヴィルドルフは、アリアンの美しさに一目惚れをしてしまう。 すぐに婚約を結び、結婚の準備を進める為に帰国したヴィルドルフに、突然の婚約解消の連絡が入る。 アリアンが王宮を追放され、修道院に送られたと知らされた。 そして、新しい婚約者に第一王女のローズが決まったと聞かされるのである。 アリアンを諦めきれないヴィルドルフは、お忍びでアリアンを探しにブルボマーナに乗り込んだ。 そしてある夜、2人は運命の再会を果たすのである。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

【完結】お飾りの妻からの挑戦状

おのまとぺ
恋愛
公爵家から王家へと嫁いできたデイジー・シャトワーズ。待ちに待った旦那様との顔合わせ、王太子セオドア・ハミルトンが放った言葉に立ち会った使用人たちの顔は強張った。 「君はお飾りの妻だ。装飾品として慎ましく生きろ」 しかし、当のデイジーは不躾な挨拶を笑顔で受け止める。二人のドタバタ生活は心配する周囲を巻き込んで、やがて誰も予想しなかった展開へ…… ◇表紙はノーコピーライトガール様より拝借しています ◇全18話で完結予定

病弱な幼馴染と婚約者の目の前で私は攫われました。

恋愛
フィオナ・ローレラは、ローレラ伯爵家の長女。 キリアン・ライアット侯爵令息と婚約中。 けれど、夜会ではいつもキリアンは美しく儚げな女性をエスコートし、仲睦まじくダンスを踊っている。キリアンがエスコートしている女性の名はセレニティー・トマンティノ伯爵令嬢。 セレニティーとキリアンとフィオナは幼馴染。 キリアンはセレニティーが好きだったが、セレニティーは病弱で婚約出来ず、キリアンの両親は健康なフィオナを婚約者に選んだ。 『ごめん。セレニティーの身体が心配だから……。』 キリアンはそう言って、夜会ではいつもセレニティーをエスコートしていた。   そんなある日、フィオナはキリアンとセレニティーが濃厚な口づけを交わしているのを目撃してしまう。 ※ゆるふわ設定 ※ご都合主義 ※一話の長さがバラバラになりがち。 ※お人好しヒロインと俺様ヒーローです。 ※感想欄ネタバレ配慮ないのでお気をつけくださいませ。

【完結】婚約者が好きなのです

maruko
恋愛
リリーベルの婚約者は誰にでも優しいオーラン・ドートル侯爵令息様。 でもそんな優しい婚約者がたった一人に対してだけ何故か冷たい。 冷たくされてるのはアリー・メーキリー侯爵令嬢。 彼の幼馴染だ。 そんなある日。偶然アリー様がこらえきれない涙を流すのを見てしまった。見つめる先には婚約者の姿。 私はどうすればいいのだろうか。 全34話(番外編含む) ※他サイトにも投稿しております ※1話〜4話までは文字数多めです 注)感想欄は全話読んでから閲覧ください(汗)

とある虐げられた侯爵令嬢の華麗なる後ろ楯~拾い人したら溺愛された件

紅位碧子 kurenaiaoko
恋愛
侯爵令嬢リリアーヌは、10歳で母が他界し、その後義母と義妹に虐げられ、 屋敷ではメイド仕事をして過ごす日々。 そんな中で、このままでは一生虐げられたままだと思い、一念発起。 母の遺言を受け、自分で自分を幸せにするために行動を起こすことに。 そんな中、偶然訳ありの男性を拾ってしまう。 しかし、その男性がリリアーヌの未来を作る救世主でーーーー。 メイド仕事の傍らで隠れて淑女教育を完璧に終了させ、語学、経営、経済を学び、 財産を築くために屋敷のメイド姿で見聞きした貴族社会のことを小説に書いて出版し、それが大ヒット御礼! 学んだことを生かし、商会を設立。 孤児院から人材を引き取り育成もスタート。 出版部門、観劇部門、版権部門、商品部門など次々と商いを展開。 そこに隣国の王子も参戦してきて?! 本作品は虐げられた環境の中でも懸命に前を向いて頑張る とある侯爵令嬢が幸せを掴むまでの溺愛×サクセスストーリーです♡ *誤字脱字多数あるかと思います。 *初心者につき表現稚拙ですので温かく見守ってくださいませ *ゆるふわ設定です

【12/29にて公開終了】愛するつもりなぞないんでしょうから

真朱
恋愛
この国の姫は公爵令息と婚約していたが、隣国との和睦のため、一転して隣国の王子の許へ嫁ぐことになった。余計ないざこざを防ぐべく、姫の元婚約者の公爵令息は王命でさくっと婚姻させられることになり、その相手として白羽の矢が立ったのは辺境伯家の二女・ディアナだった。「可憐な姫の後が、脳筋な辺境伯んとこの娘って、公爵令息かわいそうに…。これはあれでしょ?『お前を愛するつもりはない!』ってやつでしょ?」  期待も遠慮も捨ててる新妻ディアナと、好青年の仮面をひっ剥がされていく旦那様ラキルスの、『明日はどっちだ』な夫婦のお話。    ※なんちゃって異世界です。なんでもあり、ご都合主義をご容赦ください。  ※新婚夫婦のお話ですが色っぽさゼロです。Rは物騒な方です。  ※ざまあのお話ではありません。軽い読み物とご理解いただけると幸いです。 ※コミカライズにより12/29にて公開を終了させていただきます。

【完結】お姉様の婚約者

七瀬菜々
恋愛
 姉が失踪した。それは結婚式当日の朝のことだった。  残された私は家族のため、ひいては祖国のため、姉の婚約者と結婚した。    サイズの合わない純白のドレスを身に纏い、すまないと啜り泣く父に手を引かれ、困惑と同情と侮蔑の視線が交差するバージンロードを歩き、彼の手を取る。  誰が見ても哀れで、惨めで、不幸な結婚。  けれど私の心は晴れやかだった。  だって、ずっと片思いを続けていた人の隣に立てるのだから。  ーーーーーそう、だから私は、誰がなんと言おうと、シアワセだ。

処理中です...