【完結】妖精と黒獅子

水仙あきら

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第二章 戴冠式の夜

閑話2 過保護な人々 ②

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 そんなこんなであとは焼くだけという段階にまで到達した。
 機嫌良く型に生地を流し込んでいくセラフィナの背後で、使用人二人は健闘を讃え合っていた。勿論無言で。
 そう、あの後も危機を感じる局面が複数訪れていたのである。
   
 石窯の温度を確認しようとおもむろに手を突っ込んだり。

 うっかり割ってしまった皿を素手で拾おうとしたり。

 包丁を洗ったり。

 そう、包丁を洗うくらいのことで、彼らは機転を利かせて女主人から仕事を奪取していた。
 今回に限っては常識的な判断ができる者はこの場にいない。全部料理人ならば普通に行う動作である事は、二人の頭から完全に失念していたのだ。

 ——ディルクさん、あとは火傷くらいなものですよね
 ——そのようだ。とはいえ気を緩めてはいかんぞ
 ——勿論です

 優秀な使用人達は、既に目だけで会話するという離れ業を習得していた。

「では、石釜に入れますね」

 生地を流し入れる作業も終わり、セラフィナは二つの型を乗せたトレーを手に石釜へと向かっていく。ディルクは彼女よりも一歩早く石釜の前に滑り込み、流れるような動作でトレーを受け取った。

「奥様、ここはこの爺にお任せを」
「……はい。では、よろしくお願いします」

 ディルクは鉄扉を開けてケーキを中に置くと、薪が問題なく燃えているのを確認して立ち上がる。
 それでようやく安堵しようとして、セラフィナが困ったように微笑んでいるのを目の当たりにすることとなった。

「申し訳ありません、ディルクさん、エルマ。随分と心配をかけてしまいましたね」
「奥様……?」
「ここまで手伝って下さるなんて思わなかったのです。私が我儘を言ったせいでお二人の仕事を増やしてしまって」  

 申し訳なさそうに眉を下げたセラフィナが、俯きがちにそんなことを言うので。
 ディルクとエルマは、同時に色を失った。

「お、奥様それは違いますぞ! 我儘だなんて、そのような事は思っておりません!」
「そうですよ! むしろ奥様とお菓子作りができるなんて嬉しかったです! 私達が勝手に心配して、奥様の作業を邪魔してしまって!」

 どうやらディルクとエルマの無言の奮闘は、この聡い女主人の察知するところだったらしい。
 万事控えめなセラフィナのことである。料理長がいる日は邪魔になってしまうと考えて今日を選び、一人で作ろうとしたのだろう。
 それなのにディルクとエルマが超過保護なサポートを繰り出してくるので、自分がお菓子作りをしたいなどと言いださなければと気を落としてしまったのだ。

「むしろ奥様はもっと望みを口にされてもいいくらいなのです! これくらいのこと、仕事のうちにも入りませんぞ! あと、私めも楽しゅうございました!」
「そうですとも、奥様さえよろしければ自由にお作りください! いくらでもお手伝いさせて頂きますから……あ、いえ、ご不要であれば無理にとは申しませんが!」

 あたふたと言い募る使用人二人を前に、セラフィナは驚いたように目を見開いてその言い分をじっと聞いてくれていた。しかしやがてふと表情を緩めると、小さな笑い声を漏らしたのだった。

「卑屈なことを言ってしまいましたね。二人があんまり気を遣って下さるので、申し訳なくなってしまって。ごめんなさい」

 少し砕けた口調で謝罪を口にしたセラフィナは、もうその表情に憂いを乗せてはいなかった。

「誰かと料理をするなんて久しぶりで、私もとても楽しかったです。また機会があったら一緒に作ってくださいね」

 セラフィナの笑顔に屋敷に来たばかりの頃とは比べるべくもない程の親近感を感じて、ディルクは安堵と喜びで胸が一杯になってしまった。
 本当に思いやりのある素晴らしい人だと思う。
 この女主人に生涯を懸けて仕えていきたい。ディルクは決心を胸に秘めたまま穏やかな笑みを浮かべた。



 年越しを目前にした今の時期ではあるが、火を入れた厨房はそれなりに暖かい。焼き加減の面倒を見るセラフィナのために茶でも運ぼうかという話になったとき、それは突然訪れた。

「菓子作りの調子はどうだ、セラフィナ」
「ランドルフ様!」

 なんの前触れもない当主の帰宅に、その場にいた全員が泡を食って礼を取ろうとする。その動きを制したランドルフは、未だに外套を纏ったままであった。

「お帰りなさいませ……! お出迎えもできず、大変失礼いたしました」
「今帰った。今日は少々早く上がってな」

 鷹揚に笑う当主は、そんな些細なことなど全く気にしていないといった様子だ。それは昔からの気性ではあったが、近頃は寛大な言葉に笑顔が乗るようになったと思う。これもきっとセラフィナと共に居ることで得た変化なのだろう。
 それにしても、いつのまにか窓の外が暗くなっている。時計を見れば既に午後五時半を回ったところであり、ディルクはこの状況を理解するにつれ青ざめていった。

「だ、旦那様申し訳ございません! すぐにお食事をご用意いたしますゆえ!」

 どうやらお菓子作りに夢中になりすぎていたらしい。この時間帯で準備すらできていないとは、長年仕えてきた家令としては考えられないほどの大失態である。
 セラフィナもまたこの事態に気付いたらしい。ディルク、時計、夫と視線を滑らせた彼女は、音が聞こえそうな程の勢いで花の顔を白くしてしまった。

「わ、私すっかり夢中になってしまって……! 申し訳ありません、時間も気にせずに」
「そんなことは気にしなくていい。貴女が楽しめたのなら一番だ」

 腹を空かしているだろうに、やはりランドルフは一言も咎めはしなかった。ディルクとエルマに対しても労いの言葉を掛け、当主は変わらずの笑みを浮かべている。
 やはり本当に寛大なお方だ。改めてこの敬愛する主人に仕える喜びを感じつつ、ディルクは早速支度に取り掛かることにした。

「では、すぐにご用意いたします。料理長が作り置きをしておりますから、そう時間はかかりませんのでご安心を。奥様は焼き加減をご覧になりますかな?」
「そうですね。では焼き加減を確認しながら、ご迷惑でなければお手伝いして」
「焼き加減?」

 寛大なはずの当主が発したその声は、低かった。
 その場にいる全員からの怪訝な視線を集めつつ、ランドルフは堂々とのたまう。

「まさか石釜に手を入れて確かめる気か? 焼き加減とやらを」
「はい、そうですね。鉄串を刺して、こう……」
「そんな危ないことをするのか!」

 鉄串を刺す手付きを再現していたセラフィナは、夫の切羽詰まった大声にその手を止めた。当惑の視線を向けられてなお、ランドルフは気にした様子もない。

「私も焼き上がるまでここにいよう」
「ええっ!?」

 次いで落とされたその発言には、三人共平静を装うことができなかった。
 思わず声を上げてしまったセラフィナに、ディルクは胸の内で全面的に同意する。大貴族であるこのお方が厨房にいるだけでも異常事態なのに、その上菓子作りの面倒を共に見るなどと言い出すとは。

「あの、ランドルフ様。お疲れでしょう? お部屋でお休みになった方が」
「問題ない。ディルク、茶でも淹れてくれ」

 あ、これ言っても聞かないやつだ。
 妻が戸惑った様子で言い縋るのを制し、ランドルフは簡素な丸椅子にさっさと腰かけてしまった。有無を言わさぬその様子に、ディルクは早々に諦めて行動を開始する。その目がちょっと胡乱げになってしまったのは許して貰いたい。

 結局のところ一番過保護なのは、旦那様だったらしい。



 その後、焼きあがったケーキは使用人含めて全員で相伴に預かる事となった。ドライフルーツをたっぷりと含んだパウンドケーキは、嗅いだことのない良い香りがしてとても美味であった。
 しかしディルクはといえば、あの包丁捌きを旦那様が見たら大変なことになっただろうな、と内心肝を冷やしていた。
 セラフィナに「料理をするなら平日の午前からにいたしましょう」と伝えておいたのは、寛大にして過保護な当主が席を立った間のことである。
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