【完結】妖精と黒獅子

水仙あきら

文字の大きさ
上 下
55 / 91
第二章 戴冠式の夜

閑話2 過保護な人々 ①

しおりを挟む
「ディルクさん、エルマ、お手伝いありがとうございます」

 今日のセラフィナの装いは、簡素なドレスにエプロンを纏い、青いリボンで髪を高い位置で結い上げるというものだった。下働きのような服装でも、この奥方の美しさは一切損なわれることはない。
 ディルクはごくわずかな時間エルマに視線を送った。優秀な使用人はそれだけで意図を理解してくれたようで、解っていますとばかりに目で頷いている。

 ——我々二人で奥様のお料理をサポートし、かつお怪我の無いよう目を配るのだ。

 厨房にて早速ドライフルーツを取り出し始めたセラフィナの背後で、結託した二人は決意を固めていた。

 *

 時は朝に遡る。
 今日は平日で、料理長がたまたま休みを取っていた。それをどこで聞きつけてきたのか、セラフィナがケーキを焼きたいと言い出したのである。
 女主人のやる気に満ちた表情に、ディルクはどう反応したものか迷って硬直した。可愛らしく優しく、そして勤勉で質素な彼女はこの屋敷に勤めるもの全員に愛されており、望みは何でも叶えてあげたいというのが共通認識である。
 しかし元一国の姫君にして現在は侯爵夫人であるこの方に、お菓子作りなどさせていいものか。 
 大体のことには動じないディルクでさえも言葉に詰まり、どうしようかと考えあぐねてしまった。
 するとそこに出勤前のランドルフが登場したのである。
 敬愛する当主はディルクを連れて一歩下がると、小声で耳打ちしてきた。

「彼女の好きなように」
「よろしいのですか?」
「故郷の味が恋しくなったのだそうだ。我が家の厨房には不慣れだろうから付いてやってくれ」

 なるほど、そういう話だったのか。たったお一人でヴェーグラントにやってきた奥方様、きっと郷愁の念に駆られることもあるに違いない。

「セラフィナ、怪我の無いようにな。楽しみにしているぞ」
「はい、ランドルフ様。頑張りますね」

 二人は微笑み合うと、玄関に向かって歩き出した。ディルクはその後に続きながら、仲睦まじい様子を微笑ましく見守る。
 この新婚夫婦がどうやら本当に愛し合っていることは、使用人一同にこれ以上ないほどの喜びをもたらしていた。
 婚約中までは思い悩んでいた様子のランドルフも、結婚してからは隠しきれない想いが漏れ出ているようだったし、それはセラフィナの方も同じだった。
 今まで仕事にばかり身をやつしていた当主がようやくの幸せを得たとあっては、長年支えてきたディルクも安堵せずにはいられない。

 したがって、まさかこの当主夫妻が期せずして仮面夫婦状態に陥っていたとは、露ほども考えてはいなかったのである。

 ランドルフを見送った後、セラフィナは仕事を片付けてから作ると言って自室に戻っていった。
    そして午後、ついに奥方様のケーキ作りが始まったのだ。



「忙しいのに申し訳ありません。私一人でも大丈夫なんですよ?」
「いえ奥様、石窯の使い方などは不慣れでございましょう。この爺もぜひお手伝いさせていただきたいのです」
「私は腕力要因と思っていただければ」

 エルマの目は鋭い。重いものや熱いものを運ばせてなるものかという気迫が感じられて、ディルクはその頼もしさに背を押される思いだった。

「では、早速石釜を温めておきましょうかな」
「よろしくお願いします。ではエルマは、粉を振るいにかけて頂けますか?」
「畏まりました」

 セラフィナは恐縮しきりの様子だったが、二人が引く気が無いのを知って頼ることにしたらしい。ディルクはひとまずほっと息を吐くと、自らの仕事を果たすべく行動を開始した。
 さて、まずは火を移さなければ。薪はどこにあったかと視線を巡らそうとして——恐ろしいものを見た。
 骨つき肉でも断とうとしたのだろうか。可憐な女主人が、ものすごい勢いで包丁を振り下ろしたのである。
 だん、と響き渡ったまな板と包丁がぶつかる音に、ディルクは気絶寸前になってしまった。その音に驚いたエルマも振るいを叩く手を止めると、凍りついた家令の代わりに彼女の元に走り寄る。

「お待ちください奥様。いったい何を切っておられるのですか?」
「ドライフルーツですよ」

 見ればプラムが真っ二つにされたところだった。確かに種はあるがもうちょっとやりようがある気がする。ディルクは頭を抱えそうになったが、やはりお怪我をしてはいけないとやんわり指摘することにした。

「その、もう少しばかり優しく切っても良いような気がいたしますが」
「そうですか? 母の動きを真似てみたのですが……」

 セラフィナはまるで予想外のことを言われたとばかりにきょとんとしている。ディルクは内心冷汗まみれになった。
 一体どういう教えだったのだ、それは。まったく想像がつかないのだが。
 ディルクは知らない。セラフィナがハイルング人の末裔であることを。そしてハイルング人たちはすぐに怪我を治してしまうために危機感が薄く、普通の人間からすると危なっかしい刃物捌きをしがちだということを。
 セラフィナもまたその事実を知らなかった。彼女にとっての料理とは、母親が作る姿が全てだったのだ。
 ディルクは悩んだ。まさか「包丁捌きが怖すぎます」と直球に伝えるわけにもいかない。しかし万が一にもお怪我をされては一大事だ。一体どうすれば…。
 そこでエルマが機転を見せた。

「申し訳ございません、奥様。なんだか手が痛くなってきてしまいました。何か他の作業はございませんか?」
「では交代しましょうか。大きいドライフルーツを、レーズンくらいの大きさにしていただけますか?」
「畏まりました」

 早々に根を上げた専属使用人に対しても、セラフィナは嫌な顔一つせずに仕事を交代する。もちろん手が痛くなってきたというのは嘘も方便というやつで、肉体派のエルマがこの程度で疲労を感じるはずもない。
 ディルクはエルマを視線だけで労った。彼女もまた視線だけで頷いている。
 最早阿吽の呼吸であった。
しおりを挟む
感想 31

あなたにおすすめの小説

愛すべきマリア

志波 連
恋愛
幼い頃に婚約し、定期的な交流は続けていたものの、互いにこの結婚の意味をよく理解していたため、つかず離れずの穏やかな関係を築いていた。 学園を卒業し、第一王子妃教育も終えたマリアが留学から戻った兄と一緒に参加した夜会で、令嬢たちに囲まれた。 家柄も美貌も優秀さも全て揃っているマリアに嫉妬したレイラに指示された女たちは、彼女に嫌味の礫を投げつける。 早めに帰ろうという兄が呼んでいると知らせを受けたマリアが発見されたのは、王族の居住区に近い階段の下だった。 頭から血を流し、意識を失っている状態のマリアはすぐさま医務室に運ばれるが、意識が戻ることは無かった。 その日から十日、やっと目を覚ましたマリアは精神年齢が大幅に退行し、言葉遣いも仕草も全て三歳児と同レベルになっていたのだ。 体は16歳で心は3歳となってしまったマリアのためにと、兄が婚約の辞退を申し出た。 しかし、初めから結婚に重きを置いていなかった皇太子が「面倒だからこのまま結婚する」と言いだし、予定通りマリアは婚姻式に臨むことになった。 他サイトでも掲載しています。 表紙は写真ACより転載しました。

【完結】お飾りの妻からの挑戦状

おのまとぺ
恋愛
公爵家から王家へと嫁いできたデイジー・シャトワーズ。待ちに待った旦那様との顔合わせ、王太子セオドア・ハミルトンが放った言葉に立ち会った使用人たちの顔は強張った。 「君はお飾りの妻だ。装飾品として慎ましく生きろ」 しかし、当のデイジーは不躾な挨拶を笑顔で受け止める。二人のドタバタ生活は心配する周囲を巻き込んで、やがて誰も予想しなかった展開へ…… ◇表紙はノーコピーライトガール様より拝借しています ◇全18話で完結予定

白詰草は一途に恋を秘め、朝露に濡れる

瀬月 ゆな
恋愛
ロゼリエッタは三歳年上の婚約者クロードに恋をしている。 だけど、その恋は決して叶わないものだと知っていた。 異性に対する愛情じゃないのだとしても、妹のような存在に対する感情なのだとしても、いつかは結婚して幸せな家庭を築ける。それだけを心の支えにしていたある日、クロードから一方的に婚約の解消を告げられてしまう。 失意に沈むロゼリエッタに、クロードが隣国で行方知れずになったと兄が告げる。 けれど賓客として訪れた隣国の王太子に付き従う仮面の騎士は過去も姿形も捨てて、別人として振る舞うクロードだった。 愛していると言えなかった騎士と、愛してくれているのか聞けなかった令嬢の、すれ違う初恋の物語。 他サイト様でも公開しております。 イラスト  灰梅 由雪(https://twitter.com/haiumeyoshiyuki)様

【完結】貶められた緑の聖女の妹~姉はクズ王子に捨てられたので王族はお断りです~

魯恒凛
恋愛
薬師である『緑の聖女』と呼ばれたエリスは、王子に見初められ強引に連れていかれたものの、学園でも王宮でもつらく当たられていた。それなのに聖魔法を持つ侯爵令嬢が現れた途端、都合よく冤罪を着せられた上、クズ王子に純潔まで奪われてしまう。 辺境に戻されたものの、心が壊れてしまったエリス。そこへ、聖女の侍女にしたいと連絡してきたクズ王子。 後見人である領主一家に相談しようとした妹のカルナだったが…… 「エリスもカルナと一緒なら大丈夫ではないでしょうか……。カルナは14歳になったばかりであの美貌だし、コンラッド殿下はきっと気に入るはずです。ケアードのためだと言えば、あの子もエリスのようにその身を捧げてくれるでしょう」 偶然耳にした領主一家の本音。幼い頃から育ててもらったけど、もう頼れない。 カルナは姉を連れ、国を出ることを決意する。

【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす

まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。  彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。  しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。  彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。  他掌編七作品収録。 ※無断転載を禁止します。 ※朗読動画の無断配信も禁止します 「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」  某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。 【収録作品】 ①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」 ②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」 ③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」 ④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」 ⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」 ⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」 ⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」 ⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」

愛しき夫は、男装の姫君と恋仲らしい。

星空 金平糖
恋愛
シエラは、政略結婚で夫婦となった公爵──グレイのことを深く愛していた。 グレイは優しく、とても親しみやすい人柄でその甘いルックスから、結婚してからも数多の女性達と浮名を流していた。 それでもシエラは、グレイが囁いてくれる「私が愛しているのは、あなただけだよ」その言葉を信じ、彼と夫婦であれることに幸福を感じていた。 しかし。ある日。 シエラは、グレイが美貌の少年と親密な様子で、王宮の庭を散策している場面を目撃してしまう。当初はどこかの令息に王宮案内をしているだけだと考えていたシエラだったが、実はその少年が王女─ディアナであると判明する。 聞くところによるとディアナとグレイは昔から想い会っていた。 ディアナはグレイが結婚してからも、健気に男装までしてグレイに会いに来ては逢瀬を重ねているという。 ──……私は、ただの邪魔者だったの? 衝撃を受けるシエラは「これ以上、グレイとはいられない」と絶望する……。

修道女エンドの悪役令嬢が実は聖女だったわけですが今更助けてなんて言わないですよね

星里有乃
恋愛
『お久しぶりですわ、バッカス王太子。ルイーゼの名は捨てて今は洗礼名のセシリアで暮らしております。そちらには聖女ミカエラさんがいるのだから、私がいなくても安心ね。ご機嫌よう……』 悪役令嬢ルイーゼは聖女ミカエラへの嫌がらせという濡れ衣を着せられて、辺境の修道院へ追放されてしまう。2年後、魔族の襲撃により王都はピンチに陥り、真の聖女はミカエラではなくルイーゼだったことが判明する。 地母神との誓いにより祖国の土地だけは踏めないルイーゼに、今更助けを求めることは不可能。さらに、ルイーゼには別の国の王子から求婚話が来ていて……? * この作品は、アルファポリスさんと小説家になろうさんに投稿しています。 * 2025年2月1日、本編完結しました。予定より少し文字数多めです。番外編や後日談など、また改めて投稿出来たらと思います。ご覧いただきありがとうございました!

「お前のような田舎娘を聖女と認めない」と追放された聖女は隣国の王太子から溺愛されます〜今更私の力が必要だと土下座したところでもう遅い〜

平山和人
恋愛
グラントニア王国の聖女であるクロエはラインハルト侯爵から婚約破棄を突き付けられる。 だがクロエは動じなかった、なぜなら自分が前世で読んだ小説の悪役令嬢だと知っていたからだ。 覚悟を決め、国外逃亡を試みるクロエ。しかし、その矢先に彼女の前に現れたのは、隣国アルカディア王国の王太子カイトだった。 「君の力が必要だ」 そう告げたカイトは、クロエの『聖女』としての力を求めていた。彼女をアルカディア王国に迎え入れ、救世主として称え、心から大切に扱う。 やがて、クロエはカイトからの尽きない溺愛に包まれ、穏やかで幸せな日々を送るようになる。 一方で、彼女を追い出したグラントニア王国は、クロエという守護者を失ったことで、破滅の道を進んでいく──。

処理中です...