【完結】妖精と黒獅子

水仙あきら

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第二章 戴冠式の夜

9 長い夜

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 老年の医師が部屋から出てきたのを見て、ランドルフは勢いよく立ち上がった。

「どうでしたか!? 彼女の怪我は、まさか命が危ないなんて事は……!」
「落ち着かんか。大丈夫じゃよ、奥方の容態は既に落ち着いている」

   その答えを聞いてようやく強張っていた体から力が抜けた。

「良かった……」

 休憩用に設えられた長椅子に、ランドルフはもう一度その身を沈める。

「しかし、驚いたわい。ハイルング人というのは本当に傷がすぐに治ってしまうんだのう。ハイルングの落とし子と比べても、まさしく驚異的な回復力じゃ。この分なら明日にでも目を覚ますだろうよ」

 朗らかに笑うのは、齢七十にして現役の軍医であるベルヒリンゲン軍医中将である。
 王族に産まれながらも軍医となって前線に赴く彼は変わり者として有名で、その実力と人柄から多くの者に慕われる名医師であった。
 あのディートヘルムですらこの男には態度が恭しくなるのだからその威光は計り知れない。かくいうランドルフも戦場では何度もベルヒリンゲンに救われており、合計で何針縫ってもらったのかわからないほどだった。

「本当にありがとうございました、先生。なんと御礼を申し上げればよいか」
「なに、儂は何もしておらんよ。面白いものも見せてもらったしの」
「面白いもの?」
「うむ。肩を抉られても動じなかったお前さんがあんなに取り乱す様は、そうそう見られるものでもないじゃろ? なあ、黒獅子将軍よ」
「なっ……!」

 ベルヒリンゲンの声は明らかにからかいを含んでいた。
 先程のこと、ランドルフは医務室まで走り抜けると、ノックもせずにドアを開け放ってしまったのである。当時の自分がみっともなく狼狽していたことを今更のように思い出し、あまりの恥ずかしさに叫び出したい衝動に駆られた。

「怖い顔じゃ。照れておるのかの?」
「おやめ下さい! 目の前で大怪我をした者がいたら誰だって心配するでしょう!」
「ふーむ、戦場で重傷者など腐る程見てきたお前さんがか? しかも政略結婚の奥方に対する反応では無かった気がするが?」
「陛下から責任持って守れと言付かっているのです。あれで普通の反応です!」
「お前さんがそう言うならそういうことにしておこうかのう」

 なんだか言い募るほど墓穴を掘っているような気がする。ベルヒリンゲンのニヤニヤ笑いに敗北感を覚えたランドルフは、もはや口を噤んで自衛することしかできなくなった。

「ああいかんな、ちょっとからかいすぎたわい。つい嬉しくてのう」
「そうですか、ようございましたな」
「おいおい、ここからは連絡事項だからちゃんと聞けい」

 ベルヒリンゲンはちらりと医務室のドアを見つめると、少し眉を寄せてランドルフを見返してきた。その真剣な目に何か問題でもあるのかと身構える。

「徐々に熱が上がってきているようでな、おそらく癒しの力を使った事によるエネルギーが熱となって放出されているのじゃろう。寝たり起きたりを繰り返しているから、お前さんは側についてやりなさい」
「ええ、必ず」
「医務室に今日は患者はおらんから好きに使ってくれ。私は突き当たりの自室で休ませてもらうから、何か少しでも変わったことがあったら呼ぶんじゃよ」
「はい。……先生。妻の、体質のことですが」
「わかっておる。お前さんほどの男の頼みを無碍にしたりはせん。医師は守秘義務が当たり前だしの、信用せい」

 ベルヒリンゲンは柔らかい笑みを浮かべると、安心させるようにランドルフの肩を叩いた。
 これだから誰もがこの老医師を慕うのだ。
 セラフィナの願いを叶えるべきかと迷ったが、どうしても彼女の事が心配で、彼に診てもらう事で折り合いをつける事にした。その想いと向けられる信頼を、彼は言わずとも理解してくれているのだろう。

「ありがとうございます。心より感謝申し上げます」

 片手を上げゆったりと去っていく後ろ姿を、ランドルフは腰を直角に曲げて見送るのだった。



 セラフィナは医務室に複数あるベッドの一つに横たわっていた。
 音を立てないよう慎重に歩いたランドルフは、その顔を見て泣きそうになるほどの安堵を覚えた。頬には赤みが戻り、微かに開かれた口元からは薄い呼吸音が漏れ聞こえてくる。
 良かった、本当に。
 ランドルフは先程までベルヒリンゲンが座っていたであろう椅子に力なく腰掛けた。今の状態を見たら同僚たちは全員目を剥いて驚く事だろう。それくらいに常と比べて覇気がなかったし、肩を落とした背中は冗談のように小さく見えた。
 治療を待っている間、ランドルフは既にシュメルツからの報告を受けていた。捉えた男は牢獄に入れたものの、国王夫妻を襲いセラフィナを刺した人物は未だ逃走中とのことで、その結果に彼は沈痛な表情を浮かべていた。
 ランドルフは力ないセラフィナの手をそっと握り込む。そうして薄闇の中で時間を過ごしていると、込み上げてくるのは自分への、身を焦がしそうな程の怒りだった。
 こんな小さな手をした人を守れなかった。何に代えても自由にすると誓った愛する人を、守れなかった。なんて無能ぶりだ。肝心な時に目の前の存在すら守れない自分では、将軍などという大仰な地位など空々しいだけではないか。

「う……」
「セラフィナ? どうした、痛むのか……?」

 セラフィナは眉を寄せ苦しんでいるようだった。先程よりも顔が赤くなっているように見えて、熱が上がっているというベルヒリンゲンの言葉を反芻する。
 額に乗せられた布に触れるとぬるくなっており、せめてと冷たい水に浸して絞り、再度額を覆ってやると、彼女は眉間の皺を緩めて笑顔らしきものを浮かべたようだった。

「きもち、いい……ありがとう、ござい、ま……」

 言葉は最後まで紡がれることはなく、セラフィナはどこか安心したような顔をして、再び意識を失ってしまった。     
 焦燥と後悔に胸を引き裂かれながら、ランドルフは再びその手を握る。


 そうして時折意識を取り戻す彼女を看病しているうちに、長い夜はその闇を失い始めていた。
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