【完結】妖精と黒獅子

水仙あきら

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第二章 戴冠式の夜

5 戴冠記念舞踏会

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「お帰りなさいませ。本当にお疲れ様でございました」
「今帰った」

 玄関に入ると、セラフィナの愛らしい微笑みがランドルフを迎えた。
 参った。近頃はこうして出迎えられる度、無上の幸せを感じてしまう自分がいる。頬が緩まないよう表情筋へ力をこめつつ、ランドルフは側に立つディルクに軍帽や外套を預けていった。

「これで此度のお仕事にも区切りがつきましたね」
「ああ、そうだな。今日から少しはゆっくりできるだろう」

 忙しかったこの一月余りにもついに終わりが来た。
 今夜の戴冠記念舞踏会での役目はなく、ただのゲストとして招かれているので、これで戴冠式にまつわる仕事は一応の終了を迎えたことになる。もちろん事後処理などはあるが、明日からは軍でも休みを取る者が出始めるはずだ。

「パレードでのご勇姿、拝見させていただきました。とても素敵でした」

 セラフィナはパレードの様子を思い出しているのかとても嬉しそうにしている。しかし褒められたことは脳内が勝手に社交辞令と処理をし、代わりに気になってくるのは彼女がルーカスと楽しげに会話をしていたことだった。
 この胸の中で渦巻く感情がなんであるかを理解できないほど適当に歳を重ねたつもりはない。
 本当に情けなくて嫌になる。嫉妬心など子供ではあるまいし、いずれ離縁することを自ら希望した身でどうしてそんな事を思えるのだろう。

「貴賓席の一番前にいただろう? 手を振ってくれたのが見えたよ」
「でしたら、やはり気付いて反応をしてくださったのですね。ふふ、ありがとうございます」

 セラフィナは頬を染めてはにかんでいる。
 だめだかわいい。ランドルフは脆くも崩れ去ろうとする平常心をかき集めつ、会話に全神経を集中させた。

「楽しめたか?」
「はい! とっても」
「そうか、なら良かった」

 そう、彼女が楽しめたのならそれで良いのだ。もっといろいろと楽しませてやりたいと思う。たとえ期間限定の夫婦だとしても。 



 ランドルフが歩き出すとセラフィナも後をついて来たので、一つ気になったことを問うことにした。

「ところでルーカスは宿舎に戻ったのか? ここには居ないようだが」
「そのことなのですが、実は既にアイゼンフート領にお戻りになられました」
「なに、帰った?」

 これは少々意外な展開だった。あの社交性が服を着て歩いているような男が、折角の戴冠記念舞踏会に参加しないとは。

「なんだ、珍しいな。あいつは何か言っていたか」
「役目は終わったし、首都もそろそろ飽きてしまったと。あと、ランドルフ様によろしくと言付かっております」

 総合すると「やることはやったし帰る」ということだろうか。まったく自由気ままな男だが、ともあれ今回はランドルフの結婚の為に来てくれたところが大きかったのかもしれない。

「なるほど。今度手紙でも書いておくか」
「はい、きっとお喜びになられるでしょう」

 セラフィナは何故だかやけに嬉しそうだ。ルーカスと過ごすのはそんなに楽しかったのだろうか。
 ランドルフはついそんな事を考えてしまう事への自嘲を堪えつつ、笑顔を浮かべる小さな横顔を眺めるのだった。



 戴冠記念舞踏会は盛況であった。煌びやかなシャンデリアの灯りの下で着飾った男女が言葉を交わし合う様は常となんら変わりはなかったが、その顔触れが尋常ならざる豪華さであることがこの会の重要性を物語っている。新しい皇后に良い印象を持たれようと、高位貴族すら必死なのだろう。
 どこか張り詰めたこの空気はあまり得意ではなく、ランドルフは少しばかり憂鬱な思いがした。
 だが今は面倒だなんだと言っている場合ではない。先程から視線が集まっているのを感じる。自分ではなく、もちろん傍に佇むセラフィナに対してだ。今日は面識がなく結婚式に招待していない貴族も大勢集まっているので、初めて彼女を見たものがあまりの美しさについ興味を持つのも致し方ない事といえよう。
 ただし、だからといって無遠慮な視線を許すわけではない。ランドルフが周囲を一瞥すると、皆一様に目を逸らしていった。
 どうやらこの顔も時に便利なことがあるらしい。

「凄い人ですね。なんて華やかなのでしょう……」

 今日のセラフィナは薄紫色のドレスで装っており、ランドルフも非番なこともあってテールコートをまとっていた。今宵も妖精の如き美しさの彼女は視線に気付く様子もなく、今は舞踏会の雰囲気にただ圧倒されているようだ。
 そういえば彼女の育った環境上、こういった催しには慣れていないのだったか。

「大丈夫か?」
「あ……ええ、大丈夫です。ご心配おかけして申し訳ありません」 
「無理はするな。疲れたら遠慮なく言うといい」
「はい、ありがとうございます」

 そう言って微笑んだ彼女は既にいつも通りで、そもそも疲れたからと自ら弱音を吐くような人ではないことを改めて思い知る。舞踏会の間は注意深く様子を見ていたほうがいいかもしれない。



 その時、会場内の空気が変わった。次いで主役の登場を告げるファンファーレが高らかに鳴り響き、ランドルフとセラフィナを含む招待客達も皆一様に礼を取る。二人分の足音と衣擦れの音が高い天井に響き、数段の階段を登ったところでそれは終わった。

「面を上げよ」

 格式に基づいた重々しい声が聞こえ、その場の全員が顔を上げる。特別に設えられた文字通りの上座、その壇上にこの国で最も高貴な存在である二人がいた。
 皇帝夫妻は若さを感じさせぬ堂々堂々とした佇まいで、招待客達を見渡している。

「レナータ……」

 殆ど吐息のような声を、隣にいたランドルフだけが聞き留めた。見れば、セラフィナが瞳を潤ませて二人を見ている。その表情には手のかかる妹の成長を喜ぶ姉のような、隠しきれないほどの慈愛が浮かんでいた。
 ランドルフはまた壇上の二人に視線を戻す。この国の明るい未来を象徴するようなその姿に、ますます邁進していかねばと身の引き締まる思いがした。



 皇后の一声によって舞踏会の開始が宣言されると、今までスピーチに聞き入っていた貴族らも一斉に息を吐き、会場に元の喧騒が戻ってくる。
 同時に王立楽団の演奏が始まり、いよいよを持ってダンスが始まった。
 最初の曲は皇帝夫妻のみ踊るのが習わしだ。若き皇后にとっては緊張する場面に違いないが、レナータはさすがであった。軽やかなステップは寸分の狂いもなく、笑顔を浮かべる余裕さえ持ち、ディートヘルムと息のあった踊りを披露する。
 その美しさたるや各所から溜息が漏れるほどで、ランドルフもまた感心してその一枚の絵のような光景を眺める。
 弦楽器の美しい伸びを持って曲が終わりを告げると、会場中に割れんばかりの拍手が鳴り響いた。優雅に礼をした皇后が笑顔で合図すると、招待客たちもまた方々輪の中に入っていき、楽団も次の曲の準備を始めた。
 ランドルフは妻たるセラフィナを誘おうと手を差し伸べようとして——そこで彼女の様子がおかしいことに気付く。
 まず顔色が悪い。そして動き始めた周囲のなかで居心地悪そうに身を小さくしており、その視線は一点を見つめて動く気配がない。
 やはり慣れない人混みに体調を崩してしまったのだろうか。

「セラフィナ? 大丈夫か」

 そっと声をかけると、セラフィナは弾かれたように視線を上げた。その青い瞳は隠しきれない不安に揺れており、一体どうしたのかとランドルフは身構える。しかし決意したように口を開いた彼女が告げたのは、全く予想外の言葉だった。

「ランドルフ様、私、実は……踊れないのです」
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