【完結】妖精と黒獅子

水仙あきら

文字の大きさ
上 下
8 / 91
第一章 その結婚、皇帝陛下の勅命につき

7 ささやかな願い

しおりを挟む
 ランドルフはセラフィナを伴って玄関先に立ち、後ろを振り返った。

「では行ってくる。皆、留守を頼んだぞ」

 そこにはアイゼンフート家で雇うすべての使用人が横一列に並んでおり、彼らは丁寧に腰を折ると、声をそろえて見送りの言葉を口にした。

「本日はどうぞごゆっくりお過ごしください。セラフィナ様、慣れないところへのお越しですから、旦那様とはぐれないようにお気をつけくださいませ」
「ええ、そうですね。気をつけます」

 ディルクの過保護ぶりにも真面目に返事をするセラフィナに、ランドルフは微笑ましい思いがして苦笑を漏らす。
 今日はセラフィナたっての希望でヴェーグラント博物館に赴くことになっていた。ランドルフはフロックコートにシルクハットを被り、セラフィナも動きやすそうなドレスを身にまとっている。

「ディルク、変に脅かすのはやめてもらいたいものだが」
「セラフィナ様がお可愛らしいので、この爺はつい心配性になってしまうのですよ。とはいえ、旦那様さえお側にいらっしゃれば何も心配ございますまい」

 どうやらこの二週間のうちに、この姫君は彼らとの信頼関係を築き上げていたらしい。ディルクだけでなく、彼女を見る全員の目が優しかった。

「まったく……さあ、そろそろ参りましょう」

 鷹揚に笑うディルクに苦笑を返すと、ランドルフはセラフィナを促して外に出た。馬車の出入り口に到着すると、彼女へ向かって手を差し出す。

「姫、どうぞお手を」

 すると、それと分からないほどの短い逡巡の後、ほっそりとした手が重ねられた。

「ありがとう存じます」

 セラフィナのこの様子は、出会って間もないランドルフにも疑問を抱かせるに至っていた。
 この妖精姫はどうも、姫として扱われたり、かしずかれたりするのに慣れていないようなのである。
 初対面の時、彼女は使用人にも丁寧な挨拶をした。昨日の夜ディルクやエルシーに聞いたところによれば、風呂にも一人で入るし、あらゆる介添も殆ど必要としないという。小さな望み——例えば好みの菓子を用意させるだとか、そういうことだが——すら口にすることはなく、この二週間彼女がしていたことといえば勉強のみ。
 大国の王女であったとは思えぬ謹厳実直ぶりに、使用人達からすれば感心よりも心配が勝ったらしい。セラフィナ様は遠慮しておられるのではないかと嘆く二人に、ランドルフは自分から聞いてみるからと言い含めておいたのだった。
 セラフィナを先に乗せてから、ランドルフも乗り込み彼女の向かいに腰を落とす。程なくしてゆっくりと馬車が動き出した。
 席に着いてからしばらく、セラフィナは透き通るような瞳を伏せて何かを考え込んでいる様だった。しかしやがて意を決したように顔を上げると、驚くべき言葉を口にした。

「あの、アイゼンフート侯爵様。不躾ではございますが、一つお願いがあるのです」

 まるで自らの思考を読まれたかのようなタイミングに、ランドルフは思わず目を見張る。
 しかしようやく彼女が望みを口にするというのだ。これは必ず叶えてやらねばなるまいと、逸る胸の内を抑え力強く頷いた。

「ええ、何でも仰ると良い」
「まことでございますか? では……」

 しかし、その願いは予想の遥か斜め上を行く物であった。

「実は、その……どうか姫という呼称はお止め頂きたいのです。できれば、改まった口調も」
「……は」

 思わず間抜けな声を出してしまい、しまったと口を噤む。
 いつも軍人然とした佇まいを崩さぬランドルフとしては、非常に珍しい失態だった。しかしまったく気にしていない様子でセラフィナは続ける。

「私は王位継承権もないような存在でしたので、あまりそう呼ばれることには慣れていないのです。それに、もう私は姫などではありませんから」

 そう言って微笑んだその顔は、晴れ晴れとしているのは確かだったが、少し寂しそうにも見えた。
 一体この人はどんな人生を歩んできたのだろうか。
 姫君であったとは思えぬ慎ましい言動。今目の前にある複雑な笑顔に、自ら姫などとは呼ばないでほしいと告げるその心。そして、初めてアイゼンフートの屋敷に来て自室から外の景色を見たときのキラキラとした瞳。それらを思い返すと、もしや祖国ではあまり良い扱いをされなかったのではないかという想像が頭を過ぎった。
 まだそうと決まったわけでもないが、せめて自分のような男に嫁ぐことになった心痛くらいは、和らげてやれればいいと思う。

「わかりました。これからは、貴女のことをセラフィナと……そう呼ばせてもらおう。それでいいかな」

   そう言って静かに笑んだランドルフに、セラフィナは嬉しそうに顔を輝かせた。

「はい! ありがとうございます、アイゼンフート侯爵様」
「しかし、これでは不公平だな」
「不公平、ですか?」
「ああ、私だけ名前で呼んでいたのではおかしいだろう。だから、どうか貴女にも名前で呼んでもらいたい」
「え……!」

 そんなことを言われるとは思ってもみなかった。そんな表情で固まってしまったセラフィナに、ランドルフは苦笑をこらえつつ言い募る。

「何なら貴女も敬語は要らないし、呼び捨てにしてもらっても構わないのだが」
「そんな、それはいくら何でも畏れ多いです……! それにこの喋り方は癖で」
「無理のない範囲でいいとは思うが、本来あなたの方が立場は上なのだ。これでは私が無礼を働いているようだろう?」
「そ、それは、確かに。かしこまりました。では……」

 一声置いてからたっぷり一拍逡巡した後、ようやく彼女は蚊の鳴くような声を発した。

「ラ、ランドルフ、様……」

 どうやらかなりの決心を必要としたらしく、セラフィナは気の毒な程真っ赤になって徐々に俯いていく。
 最終的にはつむじしか見えなくなった彼女の、そのつむじすらも赤くした様子を見ていたランドルフは、ついに堪えきれずに吹き出してしまった。
 急に声を上げて笑い出した凶悪面の軍人に、可憐な婚約者は物怖じしなかった。彼女はおずおずと顔を上げると、困惑しきりといった様子で首を傾げている。

「あの、なぜ笑っておられるのですか?」
「く、はは……いや、失礼。貴女が存外親しみやすい人だとわかって、嬉しかったのだ」

 生真面目で礼儀正しいが、その美しさも相まって近付き難い。なんとなく彼女に感じていた壁が霧散していくのを心地良く感じながら、ランドルフはしばし必死に笑いを堪える羽目になった。
   
   
   
しおりを挟む
感想 31

あなたにおすすめの小説

愛すべきマリア

志波 連
恋愛
幼い頃に婚約し、定期的な交流は続けていたものの、互いにこの結婚の意味をよく理解していたため、つかず離れずの穏やかな関係を築いていた。 学園を卒業し、第一王子妃教育も終えたマリアが留学から戻った兄と一緒に参加した夜会で、令嬢たちに囲まれた。 家柄も美貌も優秀さも全て揃っているマリアに嫉妬したレイラに指示された女たちは、彼女に嫌味の礫を投げつける。 早めに帰ろうという兄が呼んでいると知らせを受けたマリアが発見されたのは、王族の居住区に近い階段の下だった。 頭から血を流し、意識を失っている状態のマリアはすぐさま医務室に運ばれるが、意識が戻ることは無かった。 その日から十日、やっと目を覚ましたマリアは精神年齢が大幅に退行し、言葉遣いも仕草も全て三歳児と同レベルになっていたのだ。 体は16歳で心は3歳となってしまったマリアのためにと、兄が婚約の辞退を申し出た。 しかし、初めから結婚に重きを置いていなかった皇太子が「面倒だからこのまま結婚する」と言いだし、予定通りマリアは婚姻式に臨むことになった。 他サイトでも掲載しています。 表紙は写真ACより転載しました。

【完結済】姿を偽った黒髪令嬢は、女嫌いな公爵様のお世話係をしているうちに溺愛されていたみたいです

鳴宮野々花@軍神騎士団長1月15日発売
恋愛
王国の片田舎にある小さな町から、八歳の時に母方の縁戚であるエヴェリー伯爵家に引き取られたミシェル。彼女は伯爵一家に疎まれ、美しい髪を黒く染めて使用人として生活するよう強いられた。以来エヴェリー一家に虐げられて育つ。 十年後。ミシェルは同い年でエヴェリー伯爵家の一人娘であるパドマの婚約者に嵌められ、伯爵家を身一つで追い出されることに。ボロボロの格好で人気のない場所を彷徨っていたミシェルは、空腹のあまりふらつき倒れそうになる。 そこへ馬で通りがかった男性と、危うくぶつかりそうになり────── ※いつもの独自の世界のゆる設定なお話です。何もかもファンタジーです。よろしくお願いします。 ※この作品はカクヨム、小説家になろう、ベリーズカフェにも投稿しています。

まだ20歳の未亡人なので、この後は好きに生きてもいいですか?

せいめ
恋愛
 政略結婚で愛することもなかった旦那様が魔物討伐中の事故で亡くなったのが1年前。  喪が明け、子供がいない私はこの家を出て行くことに決めました。  そんな時でした。高額報酬の良い仕事があると声を掛けて頂いたのです。  その仕事内容とは高貴な身分の方の閨指導のようでした。非常に悩みましたが、家を出るのにお金が必要な私は、その仕事を受けることに決めたのです。  閨指導って、そんなに何度も会う必要ないですよね?しかも、指導が必要には見えませんでしたが…。  でも、高額な報酬なので文句は言いませんわ。  家を出る資金を得た私は、今度こそ自由に好きなことをして生きていきたいと考えて旅立つことに決めました。  その後、新しい生活を楽しんでいる私の所に現れたのは……。    まずは亡くなったはずの旦那様との話から。      ご都合主義です。  設定は緩いです。  誤字脱字申し訳ありません。  主人公の名前を途中から間違えていました。  アメリアです。すみません。    

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

身代わり婚~暴君と呼ばれる辺境伯に拒絶された仮初の花嫁

結城芙由奈@12/27電子書籍配信中
恋愛
【決してご迷惑はお掛けしません。どうか私をここに置いて頂けませんか?】 妾腹の娘として厄介者扱いを受けていたアリアドネは姉の身代わりとして暴君として名高い辺境伯に嫁がされる。結婚すれば幸せになれるかもしれないと淡い期待を抱いていたのも束の間。望まぬ花嫁を押し付けられたとして夫となるべく辺境伯に初対面で冷たい言葉を投げつけらた。さらに城から追い出されそうになるものの、ある人物に救われて下働きとして置いてもらえる事になるのだった―。

記憶喪失になった嫌われ悪女は心を入れ替える事にした 

結城芙由奈@12/27電子書籍配信中
ファンタジー
池で溺れて死にかけた私は意識を取り戻した時、全ての記憶を失っていた。それと同時に自分が周囲の人々から陰で悪女と呼ばれ、嫌われている事を知る。どうせ記憶喪失になったなら今から心を入れ替えて生きていこう。そして私はさらに衝撃の事実を知る事になる―。

子ども扱いしないでください! 幼女化しちゃった完璧淑女は、騎士団長に甘やかされる

佐崎咲
恋愛
旧題:完璧すぎる君は一人でも生きていけると婚約破棄されたけど、騎士団長が即日プロポーズに来た上に甘やかしてきます 「君は完璧だ。一人でも生きていける。でも、彼女には私が必要なんだ」 なんだか聞いたことのある台詞だけれど、まさか現実で、しかも貴族社会に生きる人間からそれを聞くことになるとは思ってもいなかった。 彼の言う通り、私ロゼ=リンゼンハイムは『完璧な淑女』などと称されているけれど、それは努力のたまものであって、本質ではない。 私は幼い時に我儘な姉に追い出され、開き直って自然溢れる領地でそれはもうのびのびと、野を駆け山を駆け回っていたのだから。 それが、今度は跡継ぎ教育に嫌気がさした姉が自称病弱設定を作り出し、代わりに私がこの家を継ぐことになったから、王都に移って血反吐を吐くような努力を重ねたのだ。 そして今度は腐れ縁ともいうべき幼馴染みの友人に婚約者を横取りされたわけだけれど、それはまあ別にどうぞ差し上げますよというところなのだが。 ただ。 婚約破棄を告げられたばかりの私をその日訪ねた人が、もう一人いた。 切れ長の紺色の瞳に、長い金髪を一つに束ね、男女問わず目をひく美しい彼は、『微笑みの貴公子』と呼ばれる第二騎士団長のユアン=クラディス様。 彼はいつもとは違う、改まった口調で言った。 「どうか、私と結婚してください」 「お返事は急ぎません。先程リンゼンハイム伯爵には手紙を出させていただきました。許可が得られましたらまた改めさせていただきますが、まずはロゼ嬢に私の気持ちを知っておいていただきたかったのです」 私の戸惑いたるや、婚約破棄を告げられた時の比ではなかった。 彼のことはよく知っている。 彼もまた、私のことをよく知っている。 でも彼は『それ』が私だとは知らない。 まったくの別人に見えているはずなのだから。 なのに、何故私にプロポーズを? しかもやたらと甘やかそうとしてくるんですけど。 どういうこと? ============ 「番外編 相変わらずな日常」 いつも攻め込まれてばかりのロゼが居眠り中のユアンを見つけ、この機会に……という話です。   ※転載・複写はお断りいたします。

【コミカライズ決定】婚約破棄され辺境伯との婚姻を命じられましたが、私の初恋の人はその義父です

灰銀猫
恋愛
両親と妹にはいない者として扱われながらも、王子の婚約者の肩書のお陰で何とか暮らしていたアレクシア。 顔だけの婚約者を実妹に奪われ、顔も性格も醜いと噂の辺境伯との結婚を命じられる。 辺境に追いやられ、婚約者からは白い結婚を打診されるも、婚約も結婚もこりごりと思っていたアレクシアには好都合で、しかも婚約者の義父は初恋の相手だった。 王都にいた時よりも好待遇で意外にも快適な日々を送る事に…でも、厄介事は向こうからやってきて… 婚約破棄物を書いてみたくなったので、書いてみました。 ありがちな内容ですが、よろしくお願いします。 設定は緩いしご都合主義です。難しく考えずにお読みいただけると嬉しいです。 他サイトでも掲載しています。 コミカライズ決定しました。申し訳ございませんが配信開始後は削除いたします。

処理中です...