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第一章 その結婚、皇帝陛下の勅命につき
4 使用人たち
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足元に広がっていくのは、黒にも似た赤。
「セラフィナ……セラフィナ! しっかりして!」
ぼやける視界。大好きな姉が叫ぶように呼びかけてくれるのが聞こえる。周囲はざわめき、幾つもの足音が通り過ぎていく。
しかし今度は暗闇の中に放り出されてしまった。震える足を叱咤して歩いた先に、見慣れた背中を見つけて安堵の息をつく。
あれは間違いなく母の背中だ。
嬉しくなって駆け寄っていくと、その背中がこちらを向いた。
それは母ではなかった。この世で一番理解できない人物。そしてその人は紅を引いた唇を釣り上げてこう言うのだ。
ただ一言、「化け物」と。
*
目を開ければ、そこには見慣れぬ天井が広がっている。一瞬状況について行けずに目を瞬かせたセラフィナは、しかしすぐに昨日の出来事を思い出して一人納得した。
昨日はついに降嫁相手であるアイゼンフート侯爵の屋敷に越してきたのだ。
それにしても、久しぶりに悪夢を見てしまった。とある苦い思い出を混ぜ合わせたようなその夢は、最近見ることがなくなっていたはずだったのに。
夢見の悪さに心が沈みそうになるのを堪え、気を紛らわすべく時計を見遣る。六時前を指し示すのを確認して安堵の息を吐くと、朝の支度をしようとベッドを降りた。
備え付けられた洗面所で顔を洗って髪を整え、部屋に戻るとすぐにクローゼットを開ける。
セラフィナは持ち物が少ない。持ってきたドレスも式典用の豪奢なものが一着と外出用が夏と冬一着ずつ、室内用も冬と夏それぞれ三着、あとは寝間着が三着。この中にはたったそれだけのドレスがかけられているはずだった。
しかし、そこにはたくさんの美しいドレスが丁寧に吊り下げられており、セラフィナは面食らってしばしその光景を眺めることとなった。
どうやら全て秋冬用で、外出用と室内用がそれぞれ数え切れないほど用意されていた。質の高さはもちろんのこと、そのデザインは流行に疎いセラフィナでも感嘆のため息を漏らしてしまう程に洗練されている。
それらのドレスの横には持参したドレスが所在無さげにぶら下がっていたのだが、そのくたびれっぷりに思わず顔が引きつりそうになった。
困惑しきってクローゼットを開けたまま固まっていると、控えめに扉がノックされる音がしてエルマが顔をのぞかせた。彼女はセラフィナをみとめると軽く目を見張り、慌てたように頭を下げた。
「おはようございます。申し訳ありません、もうお目覚めになっているとは思わず……大変お待たせ致しました」
「おはようございます。あの、そんなことは気にしないで下さい。私が勝手に目を覚ましただけですから」
「恐縮でございます。では、失礼いたします」
エルマは運び入れた木製のカートを鏡台の横につけると、開け放たれたクローゼットの前で佇むセラフィナに気付いて微笑んだ。
「お気に召した物はございましたか?」
「え? ……では、これは」
「もちろんセラフィナ様にご用意したドレスでございます。お気に召した物がなければ、新しく作るようにと旦那様より仰せつかっておりますが……」
エルマが不安そうな顔をしてとんでもない事を言い出すので、セラフィナは思い切りかぶりを振った。
まさかここまで気を遣って下さるなんて。勿体無くて気後れしてしまいそうな程なのに、気に入らないだなんてそんなこと思うはずがない。
「いいえ、そんなこと! 見たことが無いくらい素敵なので、驚いてしまったのです」
「左様でございますか? ですが、何でも好きな物を揃えるようにと」
「十分過ぎるくらいです。貴女が選んで下さったのですか?」
「はい。僭越ながら」
「そうだったのですね。ありがとうございます、エルマ」
「はい……! 喜んで頂けたのなら何よりでございます」
本当に素敵なドレス達なのだ、彼女もよく吟味してくれたのだろう。その心遣いを思って微笑むと、エルマもまた嬉しそうに破顔した。
「侯爵様にもお礼を申し上げなくてはいけませんね。朝食はご一緒してもよろしいのでしょうか」
「……あの、セラフィナ様。旦那様は、既にお仕事に向かわれました」
聞き間違いかとエルマの顔を見返したが、彼女は申し訳なさそうに眉を下げるのみだった。
「私、寝坊を? なんてこと……!」
二日目にして見送りもせずに寝こけてしまうという大失態に、顔から血の気が引いていくのを感じた。しかしエルマは落ち着いた物だった。
「どうしましょう、お見送りもできずに」
「いいえ、むしろ早起きなくらいです。セラフィナ様は今はまだお客様ですし、そのようなお気遣いはご無用でございます」
「で、ですが……!」
「本当に大丈夫ですよ。とにかくお水でも飲んで落ち着かれませ」
エルマはごく自然な動作でセラフィナを鏡台の前に座らせると、カートの中からポットとグラスを取り出した。彼女の手にあるガラス製ポットの中では、水にオレンジの輪切りとミントが遊んでおり、見た目にも爽やかで美味しそうだ。
「あ……ありがとうございます。いただきます」
「はい、少々お待ちくださいませ」
エルマはグラスに漉し器をかけると、丁寧に水を注いで手渡してくれた。一口飲むとミントの爽やかさとオレンジの酸味が丁度良く、一気に目が覚めていくようだった。
「しばらくお仕事が立て込むとのことで、これからも自分に合わせて早起きをする必要はないと仰せです。慣れない暮らしの中でなるべく負担にならないようにとのご厚意でございましょう」
「……そうでしたか。寛大なお方なのですね」
確かにエルマが起こしに来ていない時点で寝坊ではなかったのだろう。ひとまず安心するが、やはり甘えっぱなしでいるわけにはいかない。
「ですが、明日からはきちんとお見送りをさせて頂こうと思います」
「ご無理をなさることは……」
「いいえ、当たり前のことですから」
自分が結婚して「もらう」立場であることを忘れてはならない。出来る限りのことをしなければランドルフに申し訳が立たないし、恩返しも出来ないのだ。セラフィナにとってはそのために努力することは当たり前であったし、必要な事でもあった。
セラフィナの懸命な様子にエルマも感じるものがあったのか、嬉しそうに笑うと「かしこまりました」と頷いてくれた。
セラフィナが水を飲んでいるうちに、エルマは朝の支度の準備に取り掛かっていた。鏡台から化粧品を取り出し、ピンや紙紐、髪飾りを使いやすいように並べ、ついでに鏡面を磨き上げていく。その動きは明らかに熟練のもので、セラフィナは感心のままに質問を口にした。
「エルマはずっとこちらで働いているのですか?」
「いいえ、私はセラフィナ様専属として雇って頂いたばかりです。前のお屋敷を辞めた所で求人を拝見しまして」
なるほど、随分と手慣れているように見えたのはそういうことだったらしい。しかし転職する場合は仕事を見つけてから辞めるものかと思っていたのだが、もしかして以前の職場で何かあったのだろうか。セラフィナの疑問に気付いたのか、エルマは気まずげに笑うとあっさりと話してくれた。
「実は以前の職場で使用人に次々と手を出す執事がおりまして。私も時々迫られて辟易していたのですが」
「まあ……それは大変でしたね」
「ええ、酷いものでした。ある日我慢ができなくなって、思い切り張り倒してしまったのです」
なんだろうか。今、彼女が笑顔でとんでもない事を口にしたような気がしたのだが。
「……張り倒して?」
「はい。中身はぺらぺらのくせに顔がいいからって調子に乗るものですから、どうにも腹が立ってしまいまして。そうしましたら首になりました。もちろんその男も首になりましたので、痛み分けですね」
いたずらっぽく笑ったエルマに、セラフィナもつられて笑ってしまった。どうやら彼女はとんでもなく強い意思と腕っ節を持っているらしい。
「エルマ、あなたって格好良いのですね」
「お恥ずかしい。褒められた話ではありませんね」
「それで救われた女性がたくさんいるのでしょう? 勇気ある行動です」
エルマは話をしつつもセラフィナの髪を結う作業に入っている。その手つきは滑らかで、自分で整えるより艶が出てきているように見えた。
「ですが、騒動のせいで仲間にも随分と迷惑をかけてしまって。ですからここで雇って頂き、とても感謝しているのです。皆さん良い方ばかりで毎日とても楽しいですし、セラフィナ様もお優しい方で、本当に幸せだと思っているんですよ」
エルマは嬉しそうに笑っている。
身の回りの世話を焼いてもらった事が殆ど無いセラフィナは恐縮するばかりで、ともすれば断ってしまおうかとすら考えていたのだが、やはりその考えは間違っていたのかもしれない。エルマは仕事に責任を持って取り組んでおり、それを奪うのは自分がするべき事ではないのだ。
しかし、こんなにも真摯に接してくれる彼女にも、自分は隠し事をしている。その事実にどうしても顔が曇りそうになるのを鏡のお陰で押し留めたセラフィナは、何とか「ありがとう」と絞り出すことが出来たのだった。
「驚きました。ここまで勉強がお済みとは」
ディルクが本当に驚いたと言わんばかりに目を見張るので、セラフィナはどうしたらいいのかわからず曖昧に笑うこととなった。
ここは屋敷内に存在する書庫である。朝食を済ませた後、ディルクに侯爵夫人としての様々な勉強を教えてもらおうということになったのだ。
「確かセラフィナ様は、ヴェーグラントにお越しになってまだ一年程度でしたな?それなのにヴェーグラント語に歴史や文化、地理、そして独自のマナーまで網羅されているとは。いやはやこの爺、感服致しましたぞ」
「そんな、大げさです。勉強自体はアルーディアにいた頃から始めていましたし、宮殿では特にやる事もなかったので、趣味で本を読んでいたというだけで」
「ご謙遜を。ふむ、しかし……そうですな。昨日の今日でお疲れでしょうし、本日はお休みと致しましょうか」
ディルクはにこにこしながら本を閉じてしまった。どうやら本当に休みにするつもりらしい。
「あの、私はまだこの家について何も存じておりませんし、せめてこの一月で大いに勉強しなければと考えていたのですが」
「一月もあれば問題はないかと。セラフィナ様は真面目ですなあ」
朗らかに笑われてしまえば、それ以上言い募ることも出来なかった。
今日は仕事が立て込んでいるため帰れないという一報が当主よりもたらされたのは、日も落ちようかという頃合いのこと。
朝の無礼を謝らなければと勢い込んでいたセラフィナは、決意を持て余しつつ眠りにつくこととなった。
「セラフィナ……セラフィナ! しっかりして!」
ぼやける視界。大好きな姉が叫ぶように呼びかけてくれるのが聞こえる。周囲はざわめき、幾つもの足音が通り過ぎていく。
しかし今度は暗闇の中に放り出されてしまった。震える足を叱咤して歩いた先に、見慣れた背中を見つけて安堵の息をつく。
あれは間違いなく母の背中だ。
嬉しくなって駆け寄っていくと、その背中がこちらを向いた。
それは母ではなかった。この世で一番理解できない人物。そしてその人は紅を引いた唇を釣り上げてこう言うのだ。
ただ一言、「化け物」と。
*
目を開ければ、そこには見慣れぬ天井が広がっている。一瞬状況について行けずに目を瞬かせたセラフィナは、しかしすぐに昨日の出来事を思い出して一人納得した。
昨日はついに降嫁相手であるアイゼンフート侯爵の屋敷に越してきたのだ。
それにしても、久しぶりに悪夢を見てしまった。とある苦い思い出を混ぜ合わせたようなその夢は、最近見ることがなくなっていたはずだったのに。
夢見の悪さに心が沈みそうになるのを堪え、気を紛らわすべく時計を見遣る。六時前を指し示すのを確認して安堵の息を吐くと、朝の支度をしようとベッドを降りた。
備え付けられた洗面所で顔を洗って髪を整え、部屋に戻るとすぐにクローゼットを開ける。
セラフィナは持ち物が少ない。持ってきたドレスも式典用の豪奢なものが一着と外出用が夏と冬一着ずつ、室内用も冬と夏それぞれ三着、あとは寝間着が三着。この中にはたったそれだけのドレスがかけられているはずだった。
しかし、そこにはたくさんの美しいドレスが丁寧に吊り下げられており、セラフィナは面食らってしばしその光景を眺めることとなった。
どうやら全て秋冬用で、外出用と室内用がそれぞれ数え切れないほど用意されていた。質の高さはもちろんのこと、そのデザインは流行に疎いセラフィナでも感嘆のため息を漏らしてしまう程に洗練されている。
それらのドレスの横には持参したドレスが所在無さげにぶら下がっていたのだが、そのくたびれっぷりに思わず顔が引きつりそうになった。
困惑しきってクローゼットを開けたまま固まっていると、控えめに扉がノックされる音がしてエルマが顔をのぞかせた。彼女はセラフィナをみとめると軽く目を見張り、慌てたように頭を下げた。
「おはようございます。申し訳ありません、もうお目覚めになっているとは思わず……大変お待たせ致しました」
「おはようございます。あの、そんなことは気にしないで下さい。私が勝手に目を覚ましただけですから」
「恐縮でございます。では、失礼いたします」
エルマは運び入れた木製のカートを鏡台の横につけると、開け放たれたクローゼットの前で佇むセラフィナに気付いて微笑んだ。
「お気に召した物はございましたか?」
「え? ……では、これは」
「もちろんセラフィナ様にご用意したドレスでございます。お気に召した物がなければ、新しく作るようにと旦那様より仰せつかっておりますが……」
エルマが不安そうな顔をしてとんでもない事を言い出すので、セラフィナは思い切りかぶりを振った。
まさかここまで気を遣って下さるなんて。勿体無くて気後れしてしまいそうな程なのに、気に入らないだなんてそんなこと思うはずがない。
「いいえ、そんなこと! 見たことが無いくらい素敵なので、驚いてしまったのです」
「左様でございますか? ですが、何でも好きな物を揃えるようにと」
「十分過ぎるくらいです。貴女が選んで下さったのですか?」
「はい。僭越ながら」
「そうだったのですね。ありがとうございます、エルマ」
「はい……! 喜んで頂けたのなら何よりでございます」
本当に素敵なドレス達なのだ、彼女もよく吟味してくれたのだろう。その心遣いを思って微笑むと、エルマもまた嬉しそうに破顔した。
「侯爵様にもお礼を申し上げなくてはいけませんね。朝食はご一緒してもよろしいのでしょうか」
「……あの、セラフィナ様。旦那様は、既にお仕事に向かわれました」
聞き間違いかとエルマの顔を見返したが、彼女は申し訳なさそうに眉を下げるのみだった。
「私、寝坊を? なんてこと……!」
二日目にして見送りもせずに寝こけてしまうという大失態に、顔から血の気が引いていくのを感じた。しかしエルマは落ち着いた物だった。
「どうしましょう、お見送りもできずに」
「いいえ、むしろ早起きなくらいです。セラフィナ様は今はまだお客様ですし、そのようなお気遣いはご無用でございます」
「で、ですが……!」
「本当に大丈夫ですよ。とにかくお水でも飲んで落ち着かれませ」
エルマはごく自然な動作でセラフィナを鏡台の前に座らせると、カートの中からポットとグラスを取り出した。彼女の手にあるガラス製ポットの中では、水にオレンジの輪切りとミントが遊んでおり、見た目にも爽やかで美味しそうだ。
「あ……ありがとうございます。いただきます」
「はい、少々お待ちくださいませ」
エルマはグラスに漉し器をかけると、丁寧に水を注いで手渡してくれた。一口飲むとミントの爽やかさとオレンジの酸味が丁度良く、一気に目が覚めていくようだった。
「しばらくお仕事が立て込むとのことで、これからも自分に合わせて早起きをする必要はないと仰せです。慣れない暮らしの中でなるべく負担にならないようにとのご厚意でございましょう」
「……そうでしたか。寛大なお方なのですね」
確かにエルマが起こしに来ていない時点で寝坊ではなかったのだろう。ひとまず安心するが、やはり甘えっぱなしでいるわけにはいかない。
「ですが、明日からはきちんとお見送りをさせて頂こうと思います」
「ご無理をなさることは……」
「いいえ、当たり前のことですから」
自分が結婚して「もらう」立場であることを忘れてはならない。出来る限りのことをしなければランドルフに申し訳が立たないし、恩返しも出来ないのだ。セラフィナにとってはそのために努力することは当たり前であったし、必要な事でもあった。
セラフィナの懸命な様子にエルマも感じるものがあったのか、嬉しそうに笑うと「かしこまりました」と頷いてくれた。
セラフィナが水を飲んでいるうちに、エルマは朝の支度の準備に取り掛かっていた。鏡台から化粧品を取り出し、ピンや紙紐、髪飾りを使いやすいように並べ、ついでに鏡面を磨き上げていく。その動きは明らかに熟練のもので、セラフィナは感心のままに質問を口にした。
「エルマはずっとこちらで働いているのですか?」
「いいえ、私はセラフィナ様専属として雇って頂いたばかりです。前のお屋敷を辞めた所で求人を拝見しまして」
なるほど、随分と手慣れているように見えたのはそういうことだったらしい。しかし転職する場合は仕事を見つけてから辞めるものかと思っていたのだが、もしかして以前の職場で何かあったのだろうか。セラフィナの疑問に気付いたのか、エルマは気まずげに笑うとあっさりと話してくれた。
「実は以前の職場で使用人に次々と手を出す執事がおりまして。私も時々迫られて辟易していたのですが」
「まあ……それは大変でしたね」
「ええ、酷いものでした。ある日我慢ができなくなって、思い切り張り倒してしまったのです」
なんだろうか。今、彼女が笑顔でとんでもない事を口にしたような気がしたのだが。
「……張り倒して?」
「はい。中身はぺらぺらのくせに顔がいいからって調子に乗るものですから、どうにも腹が立ってしまいまして。そうしましたら首になりました。もちろんその男も首になりましたので、痛み分けですね」
いたずらっぽく笑ったエルマに、セラフィナもつられて笑ってしまった。どうやら彼女はとんでもなく強い意思と腕っ節を持っているらしい。
「エルマ、あなたって格好良いのですね」
「お恥ずかしい。褒められた話ではありませんね」
「それで救われた女性がたくさんいるのでしょう? 勇気ある行動です」
エルマは話をしつつもセラフィナの髪を結う作業に入っている。その手つきは滑らかで、自分で整えるより艶が出てきているように見えた。
「ですが、騒動のせいで仲間にも随分と迷惑をかけてしまって。ですからここで雇って頂き、とても感謝しているのです。皆さん良い方ばかりで毎日とても楽しいですし、セラフィナ様もお優しい方で、本当に幸せだと思っているんですよ」
エルマは嬉しそうに笑っている。
身の回りの世話を焼いてもらった事が殆ど無いセラフィナは恐縮するばかりで、ともすれば断ってしまおうかとすら考えていたのだが、やはりその考えは間違っていたのかもしれない。エルマは仕事に責任を持って取り組んでおり、それを奪うのは自分がするべき事ではないのだ。
しかし、こんなにも真摯に接してくれる彼女にも、自分は隠し事をしている。その事実にどうしても顔が曇りそうになるのを鏡のお陰で押し留めたセラフィナは、何とか「ありがとう」と絞り出すことが出来たのだった。
「驚きました。ここまで勉強がお済みとは」
ディルクが本当に驚いたと言わんばかりに目を見張るので、セラフィナはどうしたらいいのかわからず曖昧に笑うこととなった。
ここは屋敷内に存在する書庫である。朝食を済ませた後、ディルクに侯爵夫人としての様々な勉強を教えてもらおうということになったのだ。
「確かセラフィナ様は、ヴェーグラントにお越しになってまだ一年程度でしたな?それなのにヴェーグラント語に歴史や文化、地理、そして独自のマナーまで網羅されているとは。いやはやこの爺、感服致しましたぞ」
「そんな、大げさです。勉強自体はアルーディアにいた頃から始めていましたし、宮殿では特にやる事もなかったので、趣味で本を読んでいたというだけで」
「ご謙遜を。ふむ、しかし……そうですな。昨日の今日でお疲れでしょうし、本日はお休みと致しましょうか」
ディルクはにこにこしながら本を閉じてしまった。どうやら本当に休みにするつもりらしい。
「あの、私はまだこの家について何も存じておりませんし、せめてこの一月で大いに勉強しなければと考えていたのですが」
「一月もあれば問題はないかと。セラフィナ様は真面目ですなあ」
朗らかに笑われてしまえば、それ以上言い募ることも出来なかった。
今日は仕事が立て込んでいるため帰れないという一報が当主よりもたらされたのは、日も落ちようかという頃合いのこと。
朝の無礼を謝らなければと勢い込んでいたセラフィナは、決意を持て余しつつ眠りにつくこととなった。
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