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アーノルド
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結婚というものは、全ての女にとっての憧れらしい。
だから、俺は試したのだ。結婚に際して相手の女にひどい言葉を浴びせれば、怒って本性をむき出しにしてくるだろうと。感情的になったからといって貴族の権限を振りかざしてくるような女など、こちらこそお断りだからだ。
「ええ、とてもよろしいかと存じます」
それなのに、このセレスティア・ハウンドという女は微笑んでそんな事を言う。俺は無様にも毒牙を抜かれてしまって、妙な女だと呟いたきり、彼女の明るい語り口に耳を傾ける羽目になったのだった。
*
俺の貴族嫌いは、父親の事業が貴族によって倒産に追い込まれたことに端を発する。
ジェイナス商会は俺の父親が始めた会社で、堅実な経営を売りに徐々に業績を伸ばしていた。
しかしある日、商売敵の貴族から圧力がかかった。今までの取引先が商品を仕入れなくなり、卸さなくなり、会社はたちまち倒産した。
そんな中でも母は働きに出て家族を養おうとしたが、父は酒に逃げた。当時経験したあらゆる貧困は、筆舌に尽くしがたいものだった。
貴族というものはプライドが高く傲慢で、道端の石ころの様に他者を踏みつけにする。貧乏人を毛嫌いし、自らが困窮しようと決してそれを表に出そうとしない。
会社を立て直していく中で貴族と関わることもあったが、そんなイメージから逸脱するものは一人もいなかった。
さらなる事業拡大のためセレスティアと縁組することを決めたものの、彼女もきっと高慢ちきで鼻持ちならない奴に違いない。そう思っていたのに。
「こ、困ります! わざわざ使用人の方を雇うだなんて、そこまでして頂く訳にはいきません!」
セレスティアはいつもの地味なワンピースに前掛けという姿で、箒を縋る様に握ったまま、激しく頭を横に振っている。
「だいたい、彼女たちはどこから連れてきたのですか⁉︎ こんな田舎に勤めるなんて、ご家族は知っているのですか?」
「近くの村に決まっているだろう。雇用も生まれて良いことだ」
「ぐうっ、反論できない……!」
そう呟いたきり押し黙ってしまった彼女に、しかし俺もまた困惑していた。
あかぎれを起こすほど家事をしているならさぞ大変だろうと、使用人を寄越せば喜ぶと思ったのに。
そもそも、セレスティアはどうして何の臆面もなく家事をこなしているんだ。人手が足りていないなんて、例え事実でも貴族なら死んでも口にしないだろう。
俺が思う「普通の」貴族ではない彼女を前にすると、どうしたら良いのかわからなくなる時がある。しかし、それを好ましいと感じている自分がいることに、そろそろ気付き始めていた。
「彼女らを今更家に送り返せとでも?」
「ですが……!」
「いいから、有り難く手伝って貰え。どうせお前は近々この家を出ることになるんだ、今後の為にも必要だろう」
その時彼女の表情が一瞬曇ったのを、俺は見逃さなかった。
「そう……ですね。わかりました。それでは、ご厚意に甘えさせていただきます」
やっぱり俺のことが嫌いなのか。
喉元まで出かかった問いは、結局のところ無理やり飲み込むことにした。
きつい上に本心を表さない物言いは、若年ながらに商売の世界で渡り合ってきた賜物で、今更直せるものでもない。しかし出会い頭に「この結婚は取引」などと言ってしまったことは、言い訳のしようもなかった。
きっと彼女の目に、俺はさぞ傲慢で鼻持ちならない男に映っていることだろう。これでは俺の思う貴族と全く同じだ。
「セレスティア」
「はい」
「軟膏だ。使え」
それは我が社の商品である軟膏だった。洒落た瓶に入っていて花の香りが付いているので、王都の女性の間で流行っているのだ。
「これを、私に……?」
セレスティアは両手で瓶を包み込むようにして、しげしげと眺めているようだった。こんな安物を渡したところで喜ばないだろうが、少しでも手荒れが改善すれば彼女も楽になるだろう。そう思っての事だったのだが。
「こんな、こんな素敵な贈り物は初めてです! アーノルド様、ありがとうございます!」
周囲まで明るく照らすような笑みを前に、俺はしばし呆然と彼女を見つめる羽目になった。
本当に妙な女だ。
そんなありふれた感想を抱きながら。
*
ハウンド家の王都の屋敷は、背の高いアパートに挟まれるようにしてひっそりとそこに佇んでいた。これならいっそ空き家とでも説明してもらった方が納得できるほどに荒れ果てたまま。
本当に一家揃って苦労しているんだな。人のいい男爵夫妻と、無邪気で明るい弟たち、そしてセレスティアの顔を思い浮かべながら呼び鈴を鳴らすと、待っていましたとばかりに扉が開け放たれた。
「お待たせ致しました、アーノルド様」
単刀直入に言って、セレスティアは綺麗だった。
艶やかな黒髪は品良く結い上げられ、若草色のドレスがよく似合っている。地味なワンピースを着て働く彼女も美しかったが、今日の姿はまた格別だった。自らが贈った品を身に纏っているからだろうか。
「まあ、どこへ出しても問題無い程度には仕上がっているな」
それなのにこの口の素直じゃない事と来たら。本当は手放しで賛辞を送りたいのに、どうしても心からの感想が出てこない。
「まあ、本当ですか? 良かった。それもこれも、アーノルド様のお陰ですわ。本当にありがとうございます」
どちらかと言えばけなされているような言葉でも、セレスティアは笑みを絶やしたりはしなかった。それどころか本当に嬉しそうに微笑んで、礼などを述べてくる。
「さっさと出かけるぞ。時間がないからな」
「はい! 王都を案内して下さるなんて、ありがとうございます」
「礼はいらない。これはただ俺が、デっ、デー」
「でっでー?」
「で、データ集めをしたかったんだ。若者の流行を掴むためのな。だからいろんなところに行くぞ」
だからこの口は、これはデートなんだという意思表示すら満足にできないのか。
俺は彼女を馬車に乗せながら、心の内で自らの性格を呪った。「お前が望むところへ連れて行ってやりたいんだ」とか、それくらいの事がなぜ言えない。
「社長自ら市場調査ですか。お忙しいでしょうに、現場主義というやつですね」
「……まあな」
程なくして馬車が動き出す。興味深そうに窓の外を眺める横顔をぼんやりと見つめているうち、とある想いが胸中を満たしていった。
どうやら俺は、この風変わりな貴族令嬢に恋をしているらしい。
出会い頭にひどい言葉を浴びせてしまったという事実から気後れしていたのだが、もうそろそろ認めざるを得ないようだ。
きっと彼女からすれば、とんでもない男と婚約してしまったと後悔していることだろう。それなのにいつもにこにこして、何でもないことのように自然に振る舞うその姿に、俺がどれほど心惹かれていることか。
それを伝えるために誠意を見せなければならない。それは酷く遠い道のりだろうけど。
馬車が停まったので、彼女を伴って外へと降り立つ。やって来たのは商店の連なる大通りで、案の定セレスティアは嬉しそうに周囲を見渡していた。
「わあ、人がたくさん……! 都会って凄いですね!」
「そんなに珍しいか?」
「はい! 何せ王都はデビュー以来なので」
お上りさん丸出しで首を巡らせるセレスティアは、何だか小動物的な可愛らしさでこちらまで和む。そうしてゆっくりと歩き出したのだが、ふと彼女の視線が一点に止まって動かない事に気付いた。
キラキラと輝くアメジストの瞳の先にあったのは、つい先日初日を迎えたらしいオペラのポスターだった。
そういえばこの演目は若い子女の間でとても人気なのだと、近頃ビジネス仲間になったオースター伯爵令嬢が言っていただろうか。
これが観たいのか、と聞こうとしてやめた。直接聞いたらきっと彼女は遠慮してしまうだろうから。
今度連れていこう。俺は全く興味が無いが、セレスティアが一緒ならきっと楽しいはずだ。
*
結論から言えば、俺はオペラの内容を全く覚えていなかった。
セレスティアが隣で目を輝かせているので、その様子を見るのに忙しかったのだ。我ながら気持ち悪いと思うが、どうしても自然に彼女を目で追ってしまうのだから仕方がない。
セレスティアはといえば、こちらの予想以上に楽しんでくれたようだった。頬を染めて舞台についての熱弁を振るう彼女を前に幸せな気持ちになっていると、その向こうに見知った人影を見つけた。
あれは一番の友人で、取引先の御曹司であるダニエル・マクマードだ。人は良いが女好きなので、セレスティアに気付いたらどんな反応を返してくるか想像に難くない。
「取引先の令息だ。挨拶してくるから、お前はこの辺りでなるべく地味に待っていろ」
「はい。承知しました」
一人にしたら男共に声をかけられるのは間違いないので、目立たないところで待っているよう念を押してから彼女の元を離れる。
ダニエルはこちらにすぐ気付いて、いつもの朗らかな笑みを見せた。
「久しぶりだな、アーノルド! 調子はどうだ?」
「それなりだよ。そっちはどうだ?」
「何言ってんだよ、貴族のご令嬢と婚約したってのに! なあ、紹介してくれよ。連れてきてるんだろう?」
やっぱりこれだ。ダニエルの隣には恋人のリーリアがいたが、彼女もまたこの男の性質についてはよく知っているはずだ。
「お前に紹介すると思うか? この稀代の女好きめ」
「おいおい、親友の婚約者に手を出すはずないだろう! そうでなくとも、俺にはリーリアがいるんだぜ?」
「最低限の倫理観を持っていると信じたいがな、ダニエル。お前は女と見れば水を飲むのと同じ自然さで口説き始めるし、おまけにベタベタ触る」
「そうね、ミスター。この人に本命の女の子なんて紹介するものではなくってよ」
リーリアが絶妙な合いの手を入れるので、俺たちはどっと沸いた。相変わらずこの二人は仲が良いらしい。
「あーあ、信用ねえなあ。俺、傷付いちまう」
「ビジネス面では信用してるぞ。今度の商品も楽しみにしている」
「ああ! 最近、東方から絹織物を仕入れたんだよ。良い品だから期待していてくれ」
「そうさせてもらうよ。じゃあな、邪魔しちゃ悪いんで、そろそろ失礼する」
「おう、またな!」
ダニエルはリーリアの腰に手を回すと、仲が良さそうに寄り添って歩いて行った。二人の後ろ姿が出口の向こうへと消えたのを見送って、セレスティアを置いてきたあたりへと戻る事にする。
彼女の姿はすぐに見つかった。螺旋階段の陰に隠れるようにして立ち尽くすセレスティアに罪悪感を覚えて、俺は小走りで彼女の元へと向かう。
「相思相愛、かあ……」
小さな唇から呟きが落とされたのは、その時のことだった。
一瞬何のことを言っているのかと思ったが、すぐに考えが良くない方へと転がり出す。
「何が」
思っていたよりも低い声が出た。これだけ綺麗なのだから、もしかすると男に声でもかけられたのかもしれない。俺たちは相思相愛だ、とか何とか。
「何が相思相愛なんだ。まさかお前、誰かに声でもかけられたのか」
「え? そんなわけありません。こんな地味な女に」
「自覚がないのか。こうしてきちんと着飾ったお前は、とても——」
綺麗だよ。
そう言いたいのに、ギリギリのところで喉に支えて出てこない。
「……もういい。帰るぞ」
俺は熱を持った顔を手のひらで隠して踵を返した。
本当になんてひねくれた男なんだ。これではいつ愛想を尽かされてもおかしくない。いや、彼女の中に俺への想いなんて、最初からこれっぽっちもないだろうに、婚約者という立場に甘え続けているのだ。
「あの……!」
あまりの後悔に沈んでいると、背後から声をかけられた。振り向くとそこにはセレスティアがいて、まっすぐにこちらを見つめる瞳と正面から目を合わせてしまう。
「何だ? どうかしたか」
呼び止めた割に、彼女はなかなか口を開こうとしなかった。その表情からは何時もの朗らかさが消え去り、不安と悲しみを映しているように見えて、俺は強い焦燥を覚えた。
「……何でもありません。帰りましょう」
結局、彼女は何時もの様に笑って歩き始めた。
この時追求しなかったことで、後日窮地に陥る事になろうとは、この時の俺は考えもしなかったのである。
*
「それでも、俺はお前のことが好きなんだよ!」
それはまさしく叫び声だった。
廊下にも響き渡ったであろう言葉が、余韻も含めて消え去った頃、俺はようやく我に帰る。
——俺は今、いきなり何を言ったんだ⁉︎
い、いや、ない、これは無いだろう。ほら、セレスティアだって意味がわからないと顔に書いてある。
それはそうだ。大嫌いな男に追い縋られたら驚くに決まってる。
けど、俺は焦っているんだ。初めて我が家を訪ねてきてくれたと思ったら、別れを切り出されてしまったから。本当に自分勝手なことはわかっていても、そんな事は絶対に嫌だったから。
「あ、あの……」
セレスティアがおずおずと手をあげるので、俺は沈黙によって続きを促した。いや、あまりの事に何も言えなくなっていたのだ。
「ええと……好きというのは、どーいう……?」
ここでその質問か。ああわかったよ、こうなったら腹をくくってやる。
俺は限界まで熱を蓄えた顔面を持て余したまま、まっすぐに彼女を見つめた。そしてついに、何もかもを正直に、正直すぎるほどにぶちまけ始めたのである。
「つまり、俺はお前のことを愛している! 働き者で、偉ぶったところが無く、健気で前向きで、いつも微笑んでいる、そんなお前が愛おしくて仕方がない!」
「え……ええ⁉︎」
ここで彼女もまたその細面を真っ赤に染め上げてしまった。
ようやく言えた。しかし達成感などはなく、初めて見るその表情に、今まで一度も伝えてこなかった事への後悔が募る。
「で、でも! アーノルド様は、オースター伯爵令嬢のことが好きなんじゃ」
「何でそこでオースター伯爵令嬢が出てくるんだ」
「私、聞いたんです。二人は相思相愛だと。アーノルド様だって、気が合うって、言ってたじゃないですか……!」
そうか、オペラの帰りに相思相愛と呟いていたのは、待たせている間に噂を聞きつけたからだったのか。
「彼女は趣味で香水を作っていたんだが、それが評判なんで少し前に会社を起こしたんだ。それで最近になってうちで取り扱ってもらえないかと相談に来てな、それからは営業方法なんかもアドバイスしていた。ただそれだけのことだ」
「それじゃあ」
「お前が思うようなことは何もない。信じてほしい」
「な、なんだぁ……」
セレスティアは扉を背にへなへなと床に座り込んでしまった。真っ赤な顔を手のひらで覆い尽くして、蚊の鳴くような声で言葉を紡ぐ。
「恥ずかしい……私、完全に早とちりしてしまったんですね」
「いや、早とちりはこの際どうでもいい。問題なのは」
俺は片膝をついてセレスティアと目線を合わせるようにした。もっとも、彼女は手で顔を覆って俯いているのだが。
「婚約破棄を撤回してくれるのか、ということだ」
「ふぇっ……⁉︎」
セレスティアはほとんど反射的に顔を上げたようだった。余すところなく真っ赤になったその様子に口元が緩みそうになるが、今は彼女の許しを得る事に全力を尽くさなければならない。
「俺に対する不満は他にはないのか。後はどこを正せば、俺を許してくれる?」
「あ、あの、私、混乱してて」
彼女が凭れる扉に、手をついて迫っているのは、無意識下での行動だった。それくらい必死なのだ。女性に対して無礼極まりないことだが、それに気付いて手を引くほどの冷静さはとうに捨ててしまった。
「いいからこの際思い付くことを言え。お前は俺のことをどう思っているんだ?」
どうやら彼女は混乱を極めているようで、アメジストの瞳を気の毒なほど彷徨わせている。しかしややあって、深呼吸をすると落ち着きを取り戻したのか、視線を下に向けたままぽつりぽつりと言葉を落とし始めた。
「……婚約者として紹介してもらえないのは、寂しいです」
「ああ、悪かった。綺麗なお前を見せたくなかったんだ」
「え……? そう、だったのですか?」
「ああ。今度からはどんな相手でもきちんと紹介する。他には」
もっと突き刺さるような事を言われるかと思ったのだが、彼女の言葉は俺を喜ばせるだけだった。そんなの、まるで婚約者でいたいと思っているみたいじゃないか。
「ええと……贈り物が多すぎて、恐縮してしまうので、程々に」
「わかった、なるべく都合を聞いてから贈るようにする。他には」
「そうですね。領地に青くてとても綺麗な池があるので、見せて差し上げたいです。いつでもいいので、時間を下さい」
「そんなことならこちらからお願いしよう。……他には」
「他、ですか。ええと、もう特にはありませんけど」
そうして微笑みを浮かべた彼女は、既にいつもの自然体だった。顔が赤いことを除いて。
「な……何なんだ、お前は⁉︎ 俺が最初に何を言ったのか、忘れたのか⁉︎」
自らの声が切実さを持って響くのをどこか遠くに感じながら、俺は扉についた手に力を込めた。
そう、俺はお前に糾弾されて然るべきなんだ。それなのに、お前は可愛らしいことばかり言う。俺はお前に酷いことを言ったのに。これじゃ全然釣り合いが取れない。俺はお前に何一つ報いてやれないじゃないか。
「何だ、そんなこと。私、もちろん覚えています。そして気付いていました」
「何を……」
「あなたが、近頃は取引だとか貧相だとか、そういったことを口にしなくなった事に」
セレスティアの動きはゆったりしているようでいて、有無を言わせない力を持っていた。彼女は扉についた俺の手を外させると、家事の跡を感じさせる両手で包み込んだのだった。
「何でかな、と思っていたんですけど。今の話を聞くと、後悔していらしたのね。あなたは言葉はきついけれど、ちゃんと他者を思いやれる人。そして自らの行いを省みることができる人です」
ぎゅ、と両手に力がこもる。働き者の手は節くれ立っていたが、もうあかぎれを起こしてはいなかった。
「だから、大丈夫ですよ。私はそんなこともう気にしていません」
「……っセレスティア!」
俺は両腕を伸ばすと、一息に彼女を抱きしめていた。
結局のところ、俺の貴族への恨みなんて彼女の前では塵芥に等しかったのだ。それなのに意地を張って、本当に馬鹿だ。こんなに優しい彼女に酷い態度をとり続けて、一体何をしていたのだろうか。
「すまなかった、セレスティア。すまない……」
背中を撫でる感触が優しい。その宥めるような動きに背を押されるようにして、彼女の体を解放すると、今度は柔らかい頬に手を当てる。
そして、その小さな唇を塞ごうとした…はずだったのだが。
先程俺の手を握ってくれたはずの両手が、今度は絶対不可侵の壁となって、彼女の口元の前に立ちはだかっていた。
「ご、ごめんなさい。それでその、あなたをどう思っているか、ということなんですけど」
壁の向こうからか細い声が聞こえる。その内容に一気に緊張を強いられた俺は、すぐさま居住まいを正してその先を待った。
「私、好きとか、そういうのよくわからなくて。小さい頃から家事ばかりしていたから、同年代の男の方と話すこともなかったし……」
どうやら相当の恥ずかしさを押して話してくれているらしく、今までで一番小さな声だった。俺は一字一句聞き漏らすことのないよう、真剣に耳を傾け続ける。
セレスティアはそろそろと両手を胸の前で組み直すと、自らを奮い立たせるように力を込めた。
「あなたをどう思っているのか、自分でもよくわからないんです。この展開は全く予想していなかったので、混乱しているというか」
「ああ」
「ですから、もう一度、婚約から始めさせて下さい」
その瞬間のセレスティアの、少しはにかんだような笑顔を、俺は生涯忘れないだろう。
「ああ、任せておけ! 結婚式までにきっとお前を惚れさせてみせる」
そうだな、こういうのもマイペースなお前らしい。
セレスティアといると、いつも彼女のペースにまきこまれてしまう。商売をする上で相手に主導権を渡すなんてありえない事なのに、彼女の場合それが心地よく感じるのだ。これが惚れた弱みというやつなのだろうか。
結婚式まであと三ヶ月。それまでせいぜい努力させてもらおうじゃないか。
だから、俺は試したのだ。結婚に際して相手の女にひどい言葉を浴びせれば、怒って本性をむき出しにしてくるだろうと。感情的になったからといって貴族の権限を振りかざしてくるような女など、こちらこそお断りだからだ。
「ええ、とてもよろしいかと存じます」
それなのに、このセレスティア・ハウンドという女は微笑んでそんな事を言う。俺は無様にも毒牙を抜かれてしまって、妙な女だと呟いたきり、彼女の明るい語り口に耳を傾ける羽目になったのだった。
*
俺の貴族嫌いは、父親の事業が貴族によって倒産に追い込まれたことに端を発する。
ジェイナス商会は俺の父親が始めた会社で、堅実な経営を売りに徐々に業績を伸ばしていた。
しかしある日、商売敵の貴族から圧力がかかった。今までの取引先が商品を仕入れなくなり、卸さなくなり、会社はたちまち倒産した。
そんな中でも母は働きに出て家族を養おうとしたが、父は酒に逃げた。当時経験したあらゆる貧困は、筆舌に尽くしがたいものだった。
貴族というものはプライドが高く傲慢で、道端の石ころの様に他者を踏みつけにする。貧乏人を毛嫌いし、自らが困窮しようと決してそれを表に出そうとしない。
会社を立て直していく中で貴族と関わることもあったが、そんなイメージから逸脱するものは一人もいなかった。
さらなる事業拡大のためセレスティアと縁組することを決めたものの、彼女もきっと高慢ちきで鼻持ちならない奴に違いない。そう思っていたのに。
「こ、困ります! わざわざ使用人の方を雇うだなんて、そこまでして頂く訳にはいきません!」
セレスティアはいつもの地味なワンピースに前掛けという姿で、箒を縋る様に握ったまま、激しく頭を横に振っている。
「だいたい、彼女たちはどこから連れてきたのですか⁉︎ こんな田舎に勤めるなんて、ご家族は知っているのですか?」
「近くの村に決まっているだろう。雇用も生まれて良いことだ」
「ぐうっ、反論できない……!」
そう呟いたきり押し黙ってしまった彼女に、しかし俺もまた困惑していた。
あかぎれを起こすほど家事をしているならさぞ大変だろうと、使用人を寄越せば喜ぶと思ったのに。
そもそも、セレスティアはどうして何の臆面もなく家事をこなしているんだ。人手が足りていないなんて、例え事実でも貴族なら死んでも口にしないだろう。
俺が思う「普通の」貴族ではない彼女を前にすると、どうしたら良いのかわからなくなる時がある。しかし、それを好ましいと感じている自分がいることに、そろそろ気付き始めていた。
「彼女らを今更家に送り返せとでも?」
「ですが……!」
「いいから、有り難く手伝って貰え。どうせお前は近々この家を出ることになるんだ、今後の為にも必要だろう」
その時彼女の表情が一瞬曇ったのを、俺は見逃さなかった。
「そう……ですね。わかりました。それでは、ご厚意に甘えさせていただきます」
やっぱり俺のことが嫌いなのか。
喉元まで出かかった問いは、結局のところ無理やり飲み込むことにした。
きつい上に本心を表さない物言いは、若年ながらに商売の世界で渡り合ってきた賜物で、今更直せるものでもない。しかし出会い頭に「この結婚は取引」などと言ってしまったことは、言い訳のしようもなかった。
きっと彼女の目に、俺はさぞ傲慢で鼻持ちならない男に映っていることだろう。これでは俺の思う貴族と全く同じだ。
「セレスティア」
「はい」
「軟膏だ。使え」
それは我が社の商品である軟膏だった。洒落た瓶に入っていて花の香りが付いているので、王都の女性の間で流行っているのだ。
「これを、私に……?」
セレスティアは両手で瓶を包み込むようにして、しげしげと眺めているようだった。こんな安物を渡したところで喜ばないだろうが、少しでも手荒れが改善すれば彼女も楽になるだろう。そう思っての事だったのだが。
「こんな、こんな素敵な贈り物は初めてです! アーノルド様、ありがとうございます!」
周囲まで明るく照らすような笑みを前に、俺はしばし呆然と彼女を見つめる羽目になった。
本当に妙な女だ。
そんなありふれた感想を抱きながら。
*
ハウンド家の王都の屋敷は、背の高いアパートに挟まれるようにしてひっそりとそこに佇んでいた。これならいっそ空き家とでも説明してもらった方が納得できるほどに荒れ果てたまま。
本当に一家揃って苦労しているんだな。人のいい男爵夫妻と、無邪気で明るい弟たち、そしてセレスティアの顔を思い浮かべながら呼び鈴を鳴らすと、待っていましたとばかりに扉が開け放たれた。
「お待たせ致しました、アーノルド様」
単刀直入に言って、セレスティアは綺麗だった。
艶やかな黒髪は品良く結い上げられ、若草色のドレスがよく似合っている。地味なワンピースを着て働く彼女も美しかったが、今日の姿はまた格別だった。自らが贈った品を身に纏っているからだろうか。
「まあ、どこへ出しても問題無い程度には仕上がっているな」
それなのにこの口の素直じゃない事と来たら。本当は手放しで賛辞を送りたいのに、どうしても心からの感想が出てこない。
「まあ、本当ですか? 良かった。それもこれも、アーノルド様のお陰ですわ。本当にありがとうございます」
どちらかと言えばけなされているような言葉でも、セレスティアは笑みを絶やしたりはしなかった。それどころか本当に嬉しそうに微笑んで、礼などを述べてくる。
「さっさと出かけるぞ。時間がないからな」
「はい! 王都を案内して下さるなんて、ありがとうございます」
「礼はいらない。これはただ俺が、デっ、デー」
「でっでー?」
「で、データ集めをしたかったんだ。若者の流行を掴むためのな。だからいろんなところに行くぞ」
だからこの口は、これはデートなんだという意思表示すら満足にできないのか。
俺は彼女を馬車に乗せながら、心の内で自らの性格を呪った。「お前が望むところへ連れて行ってやりたいんだ」とか、それくらいの事がなぜ言えない。
「社長自ら市場調査ですか。お忙しいでしょうに、現場主義というやつですね」
「……まあな」
程なくして馬車が動き出す。興味深そうに窓の外を眺める横顔をぼんやりと見つめているうち、とある想いが胸中を満たしていった。
どうやら俺は、この風変わりな貴族令嬢に恋をしているらしい。
出会い頭にひどい言葉を浴びせてしまったという事実から気後れしていたのだが、もうそろそろ認めざるを得ないようだ。
きっと彼女からすれば、とんでもない男と婚約してしまったと後悔していることだろう。それなのにいつもにこにこして、何でもないことのように自然に振る舞うその姿に、俺がどれほど心惹かれていることか。
それを伝えるために誠意を見せなければならない。それは酷く遠い道のりだろうけど。
馬車が停まったので、彼女を伴って外へと降り立つ。やって来たのは商店の連なる大通りで、案の定セレスティアは嬉しそうに周囲を見渡していた。
「わあ、人がたくさん……! 都会って凄いですね!」
「そんなに珍しいか?」
「はい! 何せ王都はデビュー以来なので」
お上りさん丸出しで首を巡らせるセレスティアは、何だか小動物的な可愛らしさでこちらまで和む。そうしてゆっくりと歩き出したのだが、ふと彼女の視線が一点に止まって動かない事に気付いた。
キラキラと輝くアメジストの瞳の先にあったのは、つい先日初日を迎えたらしいオペラのポスターだった。
そういえばこの演目は若い子女の間でとても人気なのだと、近頃ビジネス仲間になったオースター伯爵令嬢が言っていただろうか。
これが観たいのか、と聞こうとしてやめた。直接聞いたらきっと彼女は遠慮してしまうだろうから。
今度連れていこう。俺は全く興味が無いが、セレスティアが一緒ならきっと楽しいはずだ。
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結論から言えば、俺はオペラの内容を全く覚えていなかった。
セレスティアが隣で目を輝かせているので、その様子を見るのに忙しかったのだ。我ながら気持ち悪いと思うが、どうしても自然に彼女を目で追ってしまうのだから仕方がない。
セレスティアはといえば、こちらの予想以上に楽しんでくれたようだった。頬を染めて舞台についての熱弁を振るう彼女を前に幸せな気持ちになっていると、その向こうに見知った人影を見つけた。
あれは一番の友人で、取引先の御曹司であるダニエル・マクマードだ。人は良いが女好きなので、セレスティアに気付いたらどんな反応を返してくるか想像に難くない。
「取引先の令息だ。挨拶してくるから、お前はこの辺りでなるべく地味に待っていろ」
「はい。承知しました」
一人にしたら男共に声をかけられるのは間違いないので、目立たないところで待っているよう念を押してから彼女の元を離れる。
ダニエルはこちらにすぐ気付いて、いつもの朗らかな笑みを見せた。
「久しぶりだな、アーノルド! 調子はどうだ?」
「それなりだよ。そっちはどうだ?」
「何言ってんだよ、貴族のご令嬢と婚約したってのに! なあ、紹介してくれよ。連れてきてるんだろう?」
やっぱりこれだ。ダニエルの隣には恋人のリーリアがいたが、彼女もまたこの男の性質についてはよく知っているはずだ。
「お前に紹介すると思うか? この稀代の女好きめ」
「おいおい、親友の婚約者に手を出すはずないだろう! そうでなくとも、俺にはリーリアがいるんだぜ?」
「最低限の倫理観を持っていると信じたいがな、ダニエル。お前は女と見れば水を飲むのと同じ自然さで口説き始めるし、おまけにベタベタ触る」
「そうね、ミスター。この人に本命の女の子なんて紹介するものではなくってよ」
リーリアが絶妙な合いの手を入れるので、俺たちはどっと沸いた。相変わらずこの二人は仲が良いらしい。
「あーあ、信用ねえなあ。俺、傷付いちまう」
「ビジネス面では信用してるぞ。今度の商品も楽しみにしている」
「ああ! 最近、東方から絹織物を仕入れたんだよ。良い品だから期待していてくれ」
「そうさせてもらうよ。じゃあな、邪魔しちゃ悪いんで、そろそろ失礼する」
「おう、またな!」
ダニエルはリーリアの腰に手を回すと、仲が良さそうに寄り添って歩いて行った。二人の後ろ姿が出口の向こうへと消えたのを見送って、セレスティアを置いてきたあたりへと戻る事にする。
彼女の姿はすぐに見つかった。螺旋階段の陰に隠れるようにして立ち尽くすセレスティアに罪悪感を覚えて、俺は小走りで彼女の元へと向かう。
「相思相愛、かあ……」
小さな唇から呟きが落とされたのは、その時のことだった。
一瞬何のことを言っているのかと思ったが、すぐに考えが良くない方へと転がり出す。
「何が」
思っていたよりも低い声が出た。これだけ綺麗なのだから、もしかすると男に声でもかけられたのかもしれない。俺たちは相思相愛だ、とか何とか。
「何が相思相愛なんだ。まさかお前、誰かに声でもかけられたのか」
「え? そんなわけありません。こんな地味な女に」
「自覚がないのか。こうしてきちんと着飾ったお前は、とても——」
綺麗だよ。
そう言いたいのに、ギリギリのところで喉に支えて出てこない。
「……もういい。帰るぞ」
俺は熱を持った顔を手のひらで隠して踵を返した。
本当になんてひねくれた男なんだ。これではいつ愛想を尽かされてもおかしくない。いや、彼女の中に俺への想いなんて、最初からこれっぽっちもないだろうに、婚約者という立場に甘え続けているのだ。
「あの……!」
あまりの後悔に沈んでいると、背後から声をかけられた。振り向くとそこにはセレスティアがいて、まっすぐにこちらを見つめる瞳と正面から目を合わせてしまう。
「何だ? どうかしたか」
呼び止めた割に、彼女はなかなか口を開こうとしなかった。その表情からは何時もの朗らかさが消え去り、不安と悲しみを映しているように見えて、俺は強い焦燥を覚えた。
「……何でもありません。帰りましょう」
結局、彼女は何時もの様に笑って歩き始めた。
この時追求しなかったことで、後日窮地に陥る事になろうとは、この時の俺は考えもしなかったのである。
*
「それでも、俺はお前のことが好きなんだよ!」
それはまさしく叫び声だった。
廊下にも響き渡ったであろう言葉が、余韻も含めて消え去った頃、俺はようやく我に帰る。
——俺は今、いきなり何を言ったんだ⁉︎
い、いや、ない、これは無いだろう。ほら、セレスティアだって意味がわからないと顔に書いてある。
それはそうだ。大嫌いな男に追い縋られたら驚くに決まってる。
けど、俺は焦っているんだ。初めて我が家を訪ねてきてくれたと思ったら、別れを切り出されてしまったから。本当に自分勝手なことはわかっていても、そんな事は絶対に嫌だったから。
「あ、あの……」
セレスティアがおずおずと手をあげるので、俺は沈黙によって続きを促した。いや、あまりの事に何も言えなくなっていたのだ。
「ええと……好きというのは、どーいう……?」
ここでその質問か。ああわかったよ、こうなったら腹をくくってやる。
俺は限界まで熱を蓄えた顔面を持て余したまま、まっすぐに彼女を見つめた。そしてついに、何もかもを正直に、正直すぎるほどにぶちまけ始めたのである。
「つまり、俺はお前のことを愛している! 働き者で、偉ぶったところが無く、健気で前向きで、いつも微笑んでいる、そんなお前が愛おしくて仕方がない!」
「え……ええ⁉︎」
ここで彼女もまたその細面を真っ赤に染め上げてしまった。
ようやく言えた。しかし達成感などはなく、初めて見るその表情に、今まで一度も伝えてこなかった事への後悔が募る。
「で、でも! アーノルド様は、オースター伯爵令嬢のことが好きなんじゃ」
「何でそこでオースター伯爵令嬢が出てくるんだ」
「私、聞いたんです。二人は相思相愛だと。アーノルド様だって、気が合うって、言ってたじゃないですか……!」
そうか、オペラの帰りに相思相愛と呟いていたのは、待たせている間に噂を聞きつけたからだったのか。
「彼女は趣味で香水を作っていたんだが、それが評判なんで少し前に会社を起こしたんだ。それで最近になってうちで取り扱ってもらえないかと相談に来てな、それからは営業方法なんかもアドバイスしていた。ただそれだけのことだ」
「それじゃあ」
「お前が思うようなことは何もない。信じてほしい」
「な、なんだぁ……」
セレスティアは扉を背にへなへなと床に座り込んでしまった。真っ赤な顔を手のひらで覆い尽くして、蚊の鳴くような声で言葉を紡ぐ。
「恥ずかしい……私、完全に早とちりしてしまったんですね」
「いや、早とちりはこの際どうでもいい。問題なのは」
俺は片膝をついてセレスティアと目線を合わせるようにした。もっとも、彼女は手で顔を覆って俯いているのだが。
「婚約破棄を撤回してくれるのか、ということだ」
「ふぇっ……⁉︎」
セレスティアはほとんど反射的に顔を上げたようだった。余すところなく真っ赤になったその様子に口元が緩みそうになるが、今は彼女の許しを得る事に全力を尽くさなければならない。
「俺に対する不満は他にはないのか。後はどこを正せば、俺を許してくれる?」
「あ、あの、私、混乱してて」
彼女が凭れる扉に、手をついて迫っているのは、無意識下での行動だった。それくらい必死なのだ。女性に対して無礼極まりないことだが、それに気付いて手を引くほどの冷静さはとうに捨ててしまった。
「いいからこの際思い付くことを言え。お前は俺のことをどう思っているんだ?」
どうやら彼女は混乱を極めているようで、アメジストの瞳を気の毒なほど彷徨わせている。しかしややあって、深呼吸をすると落ち着きを取り戻したのか、視線を下に向けたままぽつりぽつりと言葉を落とし始めた。
「……婚約者として紹介してもらえないのは、寂しいです」
「ああ、悪かった。綺麗なお前を見せたくなかったんだ」
「え……? そう、だったのですか?」
「ああ。今度からはどんな相手でもきちんと紹介する。他には」
もっと突き刺さるような事を言われるかと思ったのだが、彼女の言葉は俺を喜ばせるだけだった。そんなの、まるで婚約者でいたいと思っているみたいじゃないか。
「ええと……贈り物が多すぎて、恐縮してしまうので、程々に」
「わかった、なるべく都合を聞いてから贈るようにする。他には」
「そうですね。領地に青くてとても綺麗な池があるので、見せて差し上げたいです。いつでもいいので、時間を下さい」
「そんなことならこちらからお願いしよう。……他には」
「他、ですか。ええと、もう特にはありませんけど」
そうして微笑みを浮かべた彼女は、既にいつもの自然体だった。顔が赤いことを除いて。
「な……何なんだ、お前は⁉︎ 俺が最初に何を言ったのか、忘れたのか⁉︎」
自らの声が切実さを持って響くのをどこか遠くに感じながら、俺は扉についた手に力を込めた。
そう、俺はお前に糾弾されて然るべきなんだ。それなのに、お前は可愛らしいことばかり言う。俺はお前に酷いことを言ったのに。これじゃ全然釣り合いが取れない。俺はお前に何一つ報いてやれないじゃないか。
「何だ、そんなこと。私、もちろん覚えています。そして気付いていました」
「何を……」
「あなたが、近頃は取引だとか貧相だとか、そういったことを口にしなくなった事に」
セレスティアの動きはゆったりしているようでいて、有無を言わせない力を持っていた。彼女は扉についた俺の手を外させると、家事の跡を感じさせる両手で包み込んだのだった。
「何でかな、と思っていたんですけど。今の話を聞くと、後悔していらしたのね。あなたは言葉はきついけれど、ちゃんと他者を思いやれる人。そして自らの行いを省みることができる人です」
ぎゅ、と両手に力がこもる。働き者の手は節くれ立っていたが、もうあかぎれを起こしてはいなかった。
「だから、大丈夫ですよ。私はそんなこともう気にしていません」
「……っセレスティア!」
俺は両腕を伸ばすと、一息に彼女を抱きしめていた。
結局のところ、俺の貴族への恨みなんて彼女の前では塵芥に等しかったのだ。それなのに意地を張って、本当に馬鹿だ。こんなに優しい彼女に酷い態度をとり続けて、一体何をしていたのだろうか。
「すまなかった、セレスティア。すまない……」
背中を撫でる感触が優しい。その宥めるような動きに背を押されるようにして、彼女の体を解放すると、今度は柔らかい頬に手を当てる。
そして、その小さな唇を塞ごうとした…はずだったのだが。
先程俺の手を握ってくれたはずの両手が、今度は絶対不可侵の壁となって、彼女の口元の前に立ちはだかっていた。
「ご、ごめんなさい。それでその、あなたをどう思っているか、ということなんですけど」
壁の向こうからか細い声が聞こえる。その内容に一気に緊張を強いられた俺は、すぐさま居住まいを正してその先を待った。
「私、好きとか、そういうのよくわからなくて。小さい頃から家事ばかりしていたから、同年代の男の方と話すこともなかったし……」
どうやら相当の恥ずかしさを押して話してくれているらしく、今までで一番小さな声だった。俺は一字一句聞き漏らすことのないよう、真剣に耳を傾け続ける。
セレスティアはそろそろと両手を胸の前で組み直すと、自らを奮い立たせるように力を込めた。
「あなたをどう思っているのか、自分でもよくわからないんです。この展開は全く予想していなかったので、混乱しているというか」
「ああ」
「ですから、もう一度、婚約から始めさせて下さい」
その瞬間のセレスティアの、少しはにかんだような笑顔を、俺は生涯忘れないだろう。
「ああ、任せておけ! 結婚式までにきっとお前を惚れさせてみせる」
そうだな、こういうのもマイペースなお前らしい。
セレスティアといると、いつも彼女のペースにまきこまれてしまう。商売をする上で相手に主導権を渡すなんてありえない事なのに、彼女の場合それが心地よく感じるのだ。これが惚れた弱みというやつなのだろうか。
結婚式まであと三ヶ月。それまでせいぜい努力させてもらおうじゃないか。
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