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8話 眠れる獅子を起こすのは 3
しおりを挟むアルグが救出に踏み込んでからの展開はなんとも早いものだった。
「ルスター」
救出に来てくれたはずなのに、別の異様な緊張感でピンと張り詰めた空気の中。
まるで他の者など目にも入らないとでもいうように、拘束されたルスターを見留めたアルグが一直線に足を踏み入れてくる。
「っだ、ぁあ゛っ!!」
震えていた護衛の男が、己の間合いに入られ防衛反応から反射的に獲物を振りかぶる、が。
「邪魔だ」
場違いに静かな、しかし確実に苛立ちと怒りを含んだ声と共に風を凪ぐ音と男が壁際に積まれた木箱へ突っ込んだ音が響いた。
アルグが獲物を握っていない方の手で護衛の男を殴り飛ばしたのだ、と理解したのはルスターの手足を拘束するロープが斬られた時だ。
言葉通り、瞬く間に無力化された場に、デネット伯がひぃひぃとアルグから距離を取ろうと這いずる。それを視界の端でとらえつつ、アルグの視線に射止められたルスターは硬直して動けずに。
後ろ手に縛られたロープが解けると、思いの外グラついたルスターの体を、アルグはそのまま抱き寄せる。
「お前を失うことが、こんなにも恐ろしい事だとは」
ずぶ濡れで冷え切ったルスターに羽織っていた外套を素早く巻きつけ、抱え上げたアルグの声が震えているのに気がつき、ルスターはやっと止めていた呼吸を思い出した。
「……っ、は、……ア、アルグ、さま」
「すまない、俺のせいだ」
私は大丈夫ですよ、という慰めをルスターが口に出来なかったのは、現状その言葉があまりにも気休めとして効果がなさ過ぎるのもあったが。
「ぃ゛、う゛っ……」
「ルスター!?」
ひどく落ち込んだアルグの声に、顔をきちんと合わせようと身を動かそうとした瞬間、鳩尾から走った激痛に歯を食いしばるしかなかったのが主な原因だ。
ブワッと胃が迫り上がる様な感覚に、脂汗が吹き出る。寒さだけではなく真っ青になったルスターにアルグが慌てる声がまるで膜を隔てたように聞こえて。
すっと意識が白く塗りつぶされる。
極度の緊張を強いられた後に解放を受けて、痛みと疲れと安心が一気に襲って来たのだ。
慌ただしく誰かが踏み込んで叫ぶ来る声を遠くに聞きながら、ルスターは一言、大丈夫だと、アルグに伝えなければと思いつつそこで気を失ってしまったのだった。
――ほんの数時間かと思っていたデネット伯による誘拐事件は、実のところ救出までに半日を要していた、と聞いたのは事件から二週間ほど経ってのことだった。
それでも救出までスピード解決には他ならないのだが。
ルスターの感覚では誘拐をされ、その日の夜にでも尋問が始まったと思いきや。
ずぼらな部下によりデネットへの連絡が遅れ、ルスターを攫ってきたのが彼の耳に入ったのは就寝の直前だったらしい。
夜着からわざわざ着替えるのも面倒だし、そもそも遅いしと予定は後回しとなり、ルスターが水を被って起こされたのは、翌日の朝になってからだった。
その話を聞いたときは、随分と長いこと自分は呑気に昏倒していたものだと思ったが、それだけダメージが大きかったのだとはオーグの弁で。
当たり所が悪ければ腹部への強い打撲は臓器にも被害が及ぶ。最終的に大きな打撲で済んだのは不幸中の幸いで。ただ、案の定というか予想通りというか、当初危惧した通り、ルスターは盛大に風邪を引いて二週間ほど寝込み、最近すっかりルスターの主治医と化しているオーグにまたお世話になってしまった。
「うっし、風邪については無理しなきゃもう大丈夫でしょ。ただ仕事はなぁ~……」
喉の腫れや、熱を確認して。
打撲についてはまだくっきりとした痕も痛みもあるが、ひとまずは絶対安静からベッドから出ても大丈夫だと、念のための滋養強壮の飲み薬と打ち身の薬を手渡しながら。
明日からでも仕事に戻っても、と尋ねたルスターの言葉にオーグはガシガシとフードの上から頭を掻きながら唸る。
「その辺については兄貴と、よく話し合ってくれないかな」
「それは勿論で――」
「まあ、どちらかというと今回は兄貴の精神のほうが重傷って感じだから、うん、一筋縄ではいかないと思うけど」
「確かに、すこし気持ちが落ちこんでいらっしゃるようですが」
ルスターが寝込んでいたこの二週間、アルグは全く仕事に行かず、いう訳ではなかったが。
通常よりも幾分遅い出勤と早い帰宅で、在宅の間ほどんどの時間をルスターの寝室に入り浸たっていた。
風邪の引き始め、熱で朦朧としている中、オーグがアルグを叱咤している声を何度かおぼろげに聞いた覚えがある。
そして意識が割と回復してきた頃にも、夜の間、ルスターの枕元で椅子に腰掛けて寝ていたアルグに「いい加減にしろ」とオーグは咎め、ルスターも「私も逆に気が休まりません」と掠れた声で言葉を重ね、説得したのを覚えている。
それくらい、今回の事件はアルグを心配させてしまった事をと言っているのだろうと。
「うーん、それだけじゃないって言うか、俺は兄貴の気持ちも分かるからさ~。今回はあんまり止めきれないって言うか……」
オーグが曖昧に言葉を濁した内容がなんなのか、ルスターもうっすらと気がついていた。
何故ならその片鱗について彼らの母親であるリエラからも、そしてこの事件の前までルスターの態度に焦れて煮詰まっていたアルグで知っている。
更に言うならば、ここ連日の朝晩、服を丁寧に剥かれては鳩尾の目立った打撲傷以外にも、何処かしらで打ち付けたらしい痕をひとつひとつ確認をされているのだ。
ただ、それに性的なものなどは無く。アルグはまるで儀式めいた厳かさと熱心さでじっと青黒い内出血の痕を観察し、前日より痣が大きくなっていないか、増えてはいないか、痛みが酷くなっていないかを確認されている。
正直なところ、ルスターの体を改めているときのアルグは真顔でいながら思いつめているような雰囲気で、不埒な心配の欠片も、ほぼ下着で裸身を晒す羞恥を感じる隙も無いほどだ。
気がすむのであればと思っていたが、アルグの様子に逆にあまりこれはよろしくないのでは、と考え直し、やんわりと確認作業の拒否の意向を示したら「負担だったか」と、スンっとアルグの表情が抜け落ちた。
真顔とも違う、目から光が消える瞬間というものを初めて見て、ルスターの心臓が音を上げた。
「負担ではないです」という言葉がとっさに口に出た。おかげで確認作業は今もまだ続いている。少なくとも腹の痣が消えるまではこの習慣は無くならないのだろうことを覚悟して。
そしてさらに「明日から従者として復帰したいのですが」という打診をアルグにしたところ、ルスターを悩ます現象がもう一つ増えることになるのだった。
「俺はこんなにも自分が弱く情けない者だったとは知らなかった」
まだ夜明けの気配は遠く、夜の闇に沈んでいる寝室に。
聞き慣れた声の独白に意識を浮上させたルスターは、己が寝ているベッドの傍らに見慣れた黒い影を見つけて溜め息を噛み殺した。
初めて夜中に目が覚め、この存在に気がついた時は驚いて心臓が止まるかと思ったが。
これで4度目となれば流石に慣れた。
「……眠れないのですか?」
「すまない」
尋ねれば落ち込んだアルグの声が返ってくる。
暗くてよく見えない顔にはきっと隈が浮かんでいるのだろう。
影が膝を折って、ベッドの横へと蹲る。
ルスターは身を起こそうとするが、必要ないというように肩に手を置かれて止められる。
仕方がないので代わりに手を伸ばせば、思いのほかヒヤリとした指が手を握ってきた。
「このままでは駄目だと、分かってはいるんだ」
「アルグ様……」
まるで祈るようにルスターの手に額を寄せてそう零すアルグに。
冷えた指先に、このままではアルグも風邪を引くのでは、なんて心配をしながら、ルスターは一体どうしたらここ最近の状況が好転するだろうかと、頭を悩ませつつ眉を下げる。
先日、オーグから風邪の完治についてお墨付きをもらい、その晩ルスターはさっそくアルグへ従者としての業務再開について相談したのだが。
「……許可は、出来ない」
「何故ですか?」
アルグが首を横に振るであろうことは予想通りだったので。
とりあえずアルグが懸念している問題点を改善すれば道は開けるだろうし、安心もするのだろう、と考えていたルスターが理由を尋ねると。
「また、今回のようなことが起きたら」
「では今後、外出には護衛を伴いましょう」
やはり恐れているのはそこか、と。
傍から見て、一介の使用人に対しては分不相応だし、差し迫った必要性はないだろうと、頭の端にあっても護衛の導入について検討はしていなかった。
だが貴族の令嬢、淑女には当然付けるべきものであり、男主人であろうと立場によっては複数人の護衛を付けるのは良くあることだ。
あまり本格的な護衛を雇わずとも、対象者が一人ではない、という状況は襲う側にとってハードルが上がるものだ。
今後、ルスターを誘拐するような事などそうあるわけではないだろうと思いつつ、できればついでに力仕事も頼める使用人の一人くらいなら財政的にも負担にはならないだろうと、頭の中で計算しつつ提案するが。
「護衛はつける。しかし、まだ腹の傷は癒えていないだろう」
「多少痛みますが、それほどでは」
「触れられても平気なくらいにか?」
「それは」
問いに対して言葉に詰まるが、ルスターの腹部に触れるか否か、ギリギリの位置に持ち上げられたアルグの手に反射的にルスターの身が強ばった。
その反応をアルグが見逃すはずはない。
「無理をしないでくれ」
悲しそうな顔で言葉を重ねられると、つい首を縦に振ってしまいそうになるが、すんでの所で思い直す。
多少見た目の痣は酷いが、当初に比べ、このくらいの怪我があれば日常生活でも十分あり得るくらいの打撲ぐらいには回復しているのだ。
別にルスターの仕事は肉体仕事ではない。それにオーグとて、仕事の再開については止めては来なかった。
そもそも、アルグの許可しないという答え自体も、どちらかというならば。
「アルグ様は、このまま私を屋敷に閉じ込めておきたいとお考えですか」
意地の悪い問いだ。
しかしながら、聞かねばなるまい。
「それは、そんな事は………すまない、もう少し……時間をくれないか」
ルスターの問いに今度はアルグが言い淀み、顔を歪ませ、ルスターの視線を避けるように顔を手で覆うと、呻くように言葉を紡いだ。
アルグとて『もしも』をいつまでも恐れていては駄目だと、ルスターを外に出さない事が良いことではないと、自身の状態について自覚はあるのだ。
だからこそ否定をしようとしながら、心から言えぬ現状に葛藤をするアルグに、ひとまずルスターは『分かりました、もう少しだけお休みをさせて頂きましょう』と頷いたのだが。
(……どうも、アルグ様の心の整理は上手くいっていないようですね……)
指先は冷たいまま、『起こして悪かった』と謝罪をし、寝室を去るアルグの背中が闇に溶けのを見送って。
ルスターはベッドの上で我慢していた溜め息を吐く。
(分かります、気持ちはわかるのですが……)
自分だってシエンが病で伏して日に日に顔色が悪くなる姿に胃を痛め、シエンを真綿でくるんで何者にも脅かされない状態であれば、と考えていたのだ。
だからアルグの心情についてはよく分かる。
……しかし、その状況を打ち破って、乗り越えるきっかけになったのはアルグの存在だったというのに。
現状、失うことの恐ろしさに捕らわれたのが今度はアルグだとは皮肉な物だ。
ただアルグ自身、己の状態を自覚している分、余計に自戒の念に苛まれ、普段の精悍さを欠いてしまっている。
またオーグに言わせれば「タイミングが悪かったんだよ。兄貴、浮かれてたから、そこからの落差が大きかった分、余計にダメージ喰らった感じで」との指摘はかなりの核心を突いているのだろう。
物事に対して、心構えがあるかないかは重要だ。
夜中にアルグがルスターの寝室へやってくるのも、誘拐時、帰宅しているはずのルスターがいない屋敷の記憶がトラウマになっている様だ。
帰宅をするなり、アルグは一直線にルスターの姿を探しに来る。
明言はしないがあまり夢見もよろしくないのかも知れない。
(はたして、どうすればアルグ様が乗り越えるきっかけを作ることが出来るでしょうか)
時間が欲しいと言われ、時が解決するかと思ったがそう簡単にはいかないようだ。
大丈夫だと言いつのるのも、護衛を付けると言うのも、結局は気休めなのだ。
吹っ切れるきっかけというのは、圧倒的な、ソレこそルスターとシエンにとっての、アルグによるオーグの話のような、思いもよらぬ意識の切り替えが必要で。
(私に出来ることなら何でもするのですが……)
なんてことを連日、考えていたのが天に聞き入れられたのか。
現状の打開策を携えた人物がルスターを尋ねて屋敷の扉を叩いたのは、翌日の昼間のことだった。
応援ありがとうございます!
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