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6話 たまには少し逃げ出したい 4【6話完】
しおりを挟む「今日はおそらく帰れない。気にせず、先に休んでいてくれ」
「かしこまりました。どうぞ、お気をつけていってらっしゃいませ」
月に1、2度ほど行われる王都の隊長が集まる定例会。
その会の後、今日は親睦会が開かれるという。
何やら、アルグの前隊長である人物も来るという事らしいが「良い人なんだが、たまに酒が過ぎるのがな」と、少しばかり肩を落としたアルグの背をルスターは見送って。
「……さて、どうしたものでしょうか」
書類の作成や細々とした整理や業務の手配といった日々の業務を、午前中にはすっかり済ませてしまい。ルスターは居間の真ん中で立ち尽くし、思わず口からそんな言葉をこぼした。
探せば、仕事となる様な事はいくらでもあると言っても良いのだが。不意に手を止めてしまったのは、考えなければならない事があるのを意識してしまったからだ。
ここの所。
朝、目が覚めるたびに。
ルスターの中に『とある疑惑』がその存在を大きく主張するようになった。
……正しくは疑惑ではなくほぼ確信なのだが、いかんせん、どうしても受け入れがたいところがあるもので。
何しろあのアルグが。
意識のないルスターの体を、悪戯に触っているのではないか、という話なのだ。
ルスターの中で、アルグに対する小さな疑惑が育ち始めたのは、マッサージの回数が片手を超えたあたりからだろうか。
はじめは緊張と、主人であるアルグに奉仕させるような恐れ多さから、酷く戸惑ったが。
アルグの提案の目論見通り、触れ合う回数が増える事と、マッサージという手段はとても心地良さを伴うことで。
数をこなすごとに、抵抗感はずいぶんとそのハードルを下げていったのだ。
むしろ、ちょうど良い塩梅の力加減は気持ちがいいし、体はポカポカと温かくなり。横になっているせいか、気をつけていてもいつの間にか船を漕ぎだし、そのまま寝てしまうほどにまでなってしまった。
だが、アルグのマッサージ中に寝落ちするようになって2回目程だろうか。
自分自身でもストレッチなどはしているが、以前とは違った肩まわりの軽さと共に起きて。シャツに腕を通し、ボタンをとめている時に、ムズリ、と僅かな擽ったさを覚えたのだ。
その違和感は、とても小さいものだったが。
はじめは首を捻って、一体、なにが? と考える間にそれは飛散した。
それが。
そっとルスターは上着の上から胸をさする。
そこには平たい、薄い筋肉に包まれた何時もの己の胸がある。
何も感じないことに、ほっと息をつく。
(まだ、大丈夫――)
朝、微睡みの中で。
身じろいだ瞬間、妙にゾワゾワとした感覚と共に起床する羽目になったのはココ数日のことだ。
恐る恐る、背筋を震わせた原因に目を落とせば、己の胸の頂に違和感を覚えた。
普段、乳首などをわざわざ注視することなど無くて。
しかしながら確証を持てないが、どうも前よりも腫れぼったくなっている気がするのだ。
そんなまさか。とは思うが、意識をすると神経が妙に過敏になっている感覚が拭えず。しかも胸だけではなく、次第に布が肌に触れる感触にゾワゾワとした妙な感覚が沸き立つ事もあって。
少し時間が経てば落ち着いて来るのだが。
この妙な感覚が収まらなくなってしまったら、己の体がこの先どうなってしまうのか、と、考えるのも恐ろしい。
一体どうしてこんな事に。と考えるが。
原因というか犯人が、状況から一人しか思いつかないのが現状だ。
寝入るまでの、意識がしっかりしている際のマッサージはごく至極、真面目に体をほぐす事を目的とした普通のものだという認識がある。
故にルスターが眠った後で、急にそんな、性的な悪戯を仕掛けて来ているのか、という点に疑問が残って、なかなか考えることすら出来ないでいたが。
いつまでも現実逃避しては、それこそ進退ならぬ、身体がまずい具合になりそうな予感が背後に迫ってきているのを流石に無視できなくなってきた。
(……それにしても)
何故こんな事を、とルスターは考える。
いや、性質的に理解は出来るのだが、あのアルグが。と思うのだ。
本来なら意識のない相手に辛抱が効かず、という行動に出たとしても、かの性格ならば、正直にルスターへ伺いを立ててくるほうがしっくりと来る。
それなのに何も言わず、こんな事をするのはアルグらしからぬ行動に思える。
あまつさえ様子を注意深く観察してみれば、普段は変わりないが、マッサージをするという段階になった時にアルグの顔がほんの少しばかり強ばるのだ。
それは辛抱がきかぬ、というよりも。
まるで、断罪を待つかのような顔に見えて。
アルグとこんな関係になってから。
それまで認識していたアルグとの違いに戸惑いを覚えることは多々あったが。
どうも今回のこれは今までとはさらに違うようだと、ルスターは困惑していた。
(どうして、貴方はそんな顔をなされているのですか)
そう、声をかけて良いものなのか。
踏み込むタイミングがつかめず、二の足を踏んでいたが、つい先日、モルトレンに釘を刺した結婚届の件もある。
いくら、まだ広まる可能性は低いとはいえ、隠し続ける事は出来ないと、まざまざと意識させられて。
(そろそろ、あちらの方も腹をくくらねばなりませんね……)
そもそも、モルトレントにわざわざ口止めしたのは『報告を上げる本来の順序』というものを考えたからだ。
アルグと向き合うと決めたルスターの脳裏に浮かんだ、少なくとも一番避けて通れないというべきか、一度、話をしなければならないであろう相手。
アルグがただの付き合いではなく、結婚まで考えているなら尚更、一度は対面をしなければいけないだろう。
(アルグ様は大丈夫だとおっしゃりましたが……)
以前、ほんの少しだけ触れた際の会話を思い出してルスターはため息をつく。
同僚の使用人が、告白するときより緊張したかもしれない。とは言っていたが、確かにあれは言い過ぎでは無いなと改めて思う。
少なくとも、シエン付きの従者になるよりもずっと前に、使用人仲間に背中をつつかれながらメイドへ告白した時よりはずっと気が重い。
考えているだけでこうなのだから、実際にその時になったらどれほどなのだろうか。
写し絵を見て、顔だけはすっかり覚えてしまった二人の人物を、ルスターは脳裏に描く。
どちらにもアルグの面影があった。
そう考えて、当然だろう、とルスターは自分の思考に苦笑する。
いつか話さなければならない相手、脳裏に思い浮かべるその人物は、アルグの親なのだから。
実は一度だけ、ルスターはアルグと互いの家族の話をしたことがある。
ルスターはシエンの父親である子爵が治める領地の、その一部を任された男爵の四男坊として生まれた。とはいってもルスターは庶子であり、物心ついたころには市井で父親の存在などろくろく知らずに過ごして。
8歳の時に母親が亡くなり、あわや孤児院かというところを、遊びで手を付けたが少しは情があったらしい男爵により、最低限の礼儀作法を仕込まれてシエンの家へ奉公という形で収まることとなったという、比較的、訳あり使用人にはよくある流れだった。
男爵は、これで義理は果たした、とばかりにその後は一切の接触がなく。10年前に年齢を理由に退任したと噂に聞く程度だ。
そんなわけでルスターには家族という家族は母親くらいで、すでにいない、という話をしたときに、アルグはわずかに眉間にシワを寄せた。
『私は非常に運が良い方なんです。少なくとも、シエン様のお屋敷に来れたことは間違いなく幸運でした。恐れ多い事を申し上げれば、シエン様には家族のように扱っていただけて幸せでしたし、今も幸せです』
ルスターが従者を降りた後も、元主人のシエンは定期的に近状を気にかけた手紙を送ってきており、親交は切れずに続いている。
その事をアルグも承知しているがゆえ、ルスターの言葉に眉間のシワを緩めた。
そんな、ルスターに対しアルグの家は、少なくともアルグ本人や他から聞く話をかえりみても、とても良好な家族関係だと言えるだろう。
何かとルスター自身もお世話になる事の多い兄弟間はもとより、同じ王都内ということもあり、両親が営む定食屋に月一のペースで食事も兼ねて顔を出しているくらいだ。
ルスターも一緒に食事をどうか、と、誘われたこともあったが。
正直に「会うにはまだ心構えが」と言えば『父も母も基本的に人に迷惑かけなければ自由に生きろと言うような人間だ。だから、そんなに心配しなくていい』とアルグは返してきたが、ルスターの思うところも解るのだろう。
そのままその話は流れて、いまだルスターはアルグの両親へは会ってはいなかった。
「……なんとも、情けない」
改めて、アルグの様子がおかしいという問題の後ろに控える、もう一つの問題を思い返して、ルスターは眉間にシワを寄せる。
己の覚悟がいまだ決まらぬという情けない事情のために、やっぱりこの件についてもアルグには色々と我慢を敷いている気がする。
『もう、ほんと煮え切らなくて嫌になっちゃう! いつまでも都合が悪い! 予定が合わないって! もしかして私のことなんて遊びだったらどうしよう!』
『あれよね、男ならちゃんと責任取ってほしいわよね』
『中途半端にする男ってホントやだ!』
不意に、シエンの屋敷の使用人食堂の端で、メイドたちが恋人に対する不満を姦しく嘆いて慰めあっていた光景が脳裏に浮かぶ。
今の自分は、まさに彼女たちが嘆いていた相手のようではないのか。
立場的に手を出されている様な気がしていたが、考え方を変えれば、アルグに手を出しているのはルスターも同じ様なものだろう。
アルグの行動は少なくとも少し前までは実に、誠実だった。
それに対して己は、なんだかんだと逃げの手をうってばかりで、不誠実では無いだろうか。
「あれは、もしかして不安の現れ……?」
ルスターの脳裏に、一つの仮説がひらめく。
思えば、許可をとったとはいえ、先日のことだって触ったのはルスターが先だ。
手を出しておきながら、やはり自分では……などというのは、ひどい責任逃れではないのか。
アルグがあまりにも譲歩してくれるものだから、己は勘違いしていたのだ。
アルグも、本当は不誠実な態度のルスターのことを詰りたくとも詰れずに、彼女たちのように不安定になっているのではないだろうか。
そう考えると最近の行動も、あえてルスターを試しているような、そんな気がしてくる。
『わざと嫌われる様な行動をとって、試すの。もしすぐ食いついて来たら、ほんとは別れたがってるのよ。ちゃんと愛してくれているなら話し合ってくれるはず』
うら若い彼女たちが、相手の本気度を測る術はないかと額を寄せ合って相談していた内容を漏れ聞いて、あまり感心しないやり方だと、その時は他人事の様に思っていたが。
つらつらと、そこまで考えたルスターの仮説は的はあっているが残念ながら角度は大分間違っている。しかし、その指摘をする者は誰もおらず。
(やはりアルグ様と一度、きちんと話をしてみましょう。それから、ご両親へのご挨拶もちゃんと――)
ぐっと、決心を固め、いつの間にか俯いてしまっていた視線を上げる。
そうと決まれば、後はストレートに話を切り出したほうが良いか、それとも探りを入れる方が先かと、ぐるぐると思考を巡らしはじめたところで。
「ごめんください」
「!」
ドアノッカーの音と、伸びやかな女性の声が響いた。
ルスターは意識を瞬時にカチリと切り替え、早足で玄関へと向かう。
直近のスケジュールを頭の中に浮かべるが、訪問者の見当がつかない。
主の不在時の客が、あまり厄介でなければ良いがと考えながら、用心しつつドアを開け、そこに立つ人物を目に入れたルスターの呼吸は一瞬止まった。
ゆったりとしたベージュのワンピースに、シンプルなショールを肩にかけた妙齢の女性は。
「あら、はじめまして、リエラ・ルバフェンです。うちのバカ息子がお世話になっているわ」
ルスターを見て、ニッコリと微笑む彼女の瞳は、アルグのそれによく似た、澄んだスカイブルーをしていて。
ご挨拶をとは思いましたが、今すぐという意味では、と。
もう少し、心の準備期間が欲しかったというのは我儘だろうかと、ルスターは思った。
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