従者の愛と葛藤の日々

紀村 紀壱

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6話 たまには少し逃げ出したい 3

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 己が、執念深い生き物だと、こんな事で気づこうとは。



「好みの味だと良いのだが」
「これは……?」
 アルグが差し出したカップの中身に、ルスターが首をかしげる。
「ホットワインだ。血流が良くなる。……あまりワインは飲まないか?」
「いえ、嗜む程度には頂いていますが、この様な飲み方は初めてで」
 赤は常温ほどにすることもあるが、カップの持ちてまでじんわりとその熱を伝えるほど温められたワインに、ルスターは恐る恐る口をつける。
「なんと言うか、面白い味ですね、これは、シナモンでしょうか。あとは、クローブとジンジャー……少し甘いですね」
 目を細めて、味を見聞をするルスターに、慣れぬ味のようだが、悪い反応ではないようだとアルグは思いつつ。
「そうだな、はちみつも入っている」
「なるほど、口当たりが柔らかくて、アルコールを飛ばせば子供でも飲めそうですね」
「実際に子供用もあるな」
 そう言いつつ、アルグはルスターの横へと腰かける。
 重みでベッドが小さく軋み、その音にルスターがほんのわずか動きを止めたが、すぐにカップを傾け続ける。

『訓練』と称し。

 まずは触れられることに慣れよう、と、始めたマッサージは、より落ち着ける場所へと居間からルスターの寝室へと場を移して。
 ジャケットとベストを脱いだ、シャツ姿での接触も、そのままでは堅苦しく力が抜けぬと、まずは形からと言って、生成りのゆったりとした綿の寝間着姿がデフォルトになった。
 こうやってマッサージをする回数はようやく片手を超えたあたりだ。
 流石に全く緊張をしなくなった、とは行かないが、はじめの頃のガチガチに強張ってしまう体にルスターが平謝りをして、それをアルグが宥めるというやりとりも、もうない。
 ほう、っとルスターが息をつく。
 すっかり空になったカップを、取り上げてサイドテーブルに置くのは、やや急かしている様にならなかっただろうかとアルグは思う。
「今日は……」
「うつ伏せで。昨日と同じように腕と背中を。眠くなったら、寝てしまって構わない」
 ちらり、とルスターから視線を一瞬だけ向けられるが、それは触れられることに対する怯みよりも、己が奉仕される側である事に対する戸惑いからくるものだ。
 ベッドにうつ伏せになったルスターの腕を取る。まずは手のひらから、そして二の腕へと血流を流すようにさするように指圧をして行く。腕の付け根の脇に近い内側の柔らかい肉へ指を滑らせれば、ひくり、と腕が跳ねる。それを気づかぬふりをして、もう片方の腕へ手をのばす。
 腕から始めるのは、ルスターの緊張を少しでもほぐして、そして心に余裕を持たせるためだ。それに、腕だけでもきちんと揉みほぐせば、両腕が終わる頃には徐々に体温が上がってくる。
「腕をクッションの下に。……跨ぐぞ」
 揉みほぐした腕をうつ伏せの額の下へ、クッションを置いて重みを分散させつつ、アルグはルスターを跨ぎ、膝立ちで背後に陣取る。
 眼下の、腕を上げたルスターの背中にきれいに肩甲骨が浮き上がっているのを見て、アルグは目を細めた。



『この、バカ兄貴! 体力差考えろって言っただろ!』
 あの日――ルスターが発熱して寝込こみ、オーグから叱責とともにロ―キックを太腿に叩き込まれた日のことだ。
 その晩、ルスターはそれはそれは申し訳無さそうに、己ではアルグの相手は務まらないだろうと、そんな申し出をしてきた。
 それに『ならば訓練をしよう』などと、丸め込んだ・・・・・が。
 ルスターの肩を、背中を。力を込め過ぎぬように気をつけながら揉み込んでゆく。
 痛みを覚えぬ程度に気を遣った力加減のマッサージに、アルコールも入った体は自然とその体温を上げて。うつ伏せたルスターの呼吸が、ゆったりとリズムを減らしてゆく。
 手のひらの下。
 布に隔たれた肌の温度に、アルグはそっと溜息を押し殺す。
 あの日、あのルスターの言葉を聞いた時。
 表情に出さぬように努めていたが、アルグはあの時、強いを憤りのような、焦燥感のような、言いようの出来ぬ感情を覚えていた。
 本懐は遂げられずとも、長い間、夢を見ていた触れることが叶って。
 己の腕の中で正体をなくしグスグスに溶けてすがりついてくるルスターに、改めてアルグはルスターをこれは己のものだ、と思ったのだ。
 己の愛情も熱情も劣情も。
 向ける先がどこだったのか、やっと見つけ、たどり着いたのだと、解ったというのに。
『私では――』
 目を伏せ、そんな言葉を吐くルスターに。
 ルスターの行動も、考えも。ひとえにアルグを思うゆえのものだ。
 その感情の根幹にあるのは深い敬愛の念で、ルスターは尽くすが故にときに潔く身を引く事も厭わぬ気配をまとっていて。
 己の感情の根幹とは熱量の差があることに、アルグは気づいていた。
 だから、触れる前なら。
 ルスターが身を引こうとするならば、まだ引きずりつつも手放すことも出来たのだ。
 それは、一重に知らなかったからだ。
 自分とは違う、渇望する相手の肌を、熱を、吐息を。
 一度、その熱に触れ、混ざり合う心地よさに、全ては塗りつぶされ、手遅れになった。
 オーグが『ヴェルドの暴れ馬』と呼ばれるかの烈女と結ばれる前、何度も玉砕し続けている時に一度『なぜ諦めないのか』と、聞いたことがあった。そのとき、オーグは『彼女は俺のだから手放せない』と言った。まだ、付き合ってもいなかったのにだ。その時は言葉の意味がわからなかったが、己もかの弟と同じ種類の人間だったらしい。

 おそらく、もう己はルスターを離してはやれぬのだ。

「ルスター」
「ぅ……」
 血行が流れ、だいぶ体温の上がってきた背中のツボを、ギュッと押しながら。名を呼ぶが、肺から空気が押し出されたかのような、くぐもった声だけが返ってくる。
 ルスターの意識がゆるゆると、揺蕩っているのを確認すると、アルグはそっとルスターの足を開き、その間に腰を下ろす。
 もしもルスターがあの時、己には荷が重いのだと、触れられる事が嫌だ、と言っていたならば。
(まだ、諦められただろうか)
 想像してみれば、キリキリと胸が痛む。
 拒絶ならば、少しくらいは己とて、ルスターを思いやれたかもしれない。
 だがしかし。
 そろり、と、アルグの指がルスターの寝間着の下に忍び込んでゆく。
「俺は、ひどい男だな」
 自嘲するようにアルグがつぶやく。
 くったりと、力が抜けた背中をたどり、肩甲骨の丸みを撫で、そのまま手は前の方へと回っていく。
「だがルスター、お前もひどい男だ」
 そのつもりはなかったのだろうが、ルスターは、アルグを軽んじたのだ。
 まるで己ではない『誰か』代わりの者ならばという言葉が透けて見えた。
 もう己には、ルスターではないと駄目だと言うのに、それをルスターは知らぬのだ。その事実が、鋭くアルグの中に爪を突き立てるように傷を残した。
 分かっている。
 ルスターの思慮を、分かってはいるのだ。
 だが、自ら逃げ出さぬというのなら。
 アルグの手が、ほんの少しためらいがちにルスターの薄い胸にかかる。
 つかむほどのボリュームはそこにはないが、手のひらでそっと胸を覆い、肉を寄せるように動かす。
 胸を左右から寄せてみても、うっすらと谷間とも言えぬようなものしか出来ない。
 とくり、とくり、と手のひらの中で脈打つ心臓の動きは己のものに比べて随分と遅い。この鼓動が己と同じ速さで脈動して、溶け合ってしまえば、少しはこの激情がルスターに移るだろうか。
 与えられるのならば、ひとかけらも残さず食らい付くして腹の中に収めなければもう気がすまない。
 アルグの中から諦めるという選択肢は消えてなくなっている。ならばルスターに添ってもらわねばなるまい。
『訓練』というのは、方便だが嘘ではない。
 女のようなやらかさはそこにないのに、ルスターの胸の先端が、アルグの手のひらにぽちりとその存在を主張して、それだけで、いいようのない興奮を覚える。
 喉を一つ鳴らして、目を閉じたままのルスターの様子を窺う。
 そっと手をずらして、今度は狙いを明確に定めて、そっと中指で胸の突起に触れてみる。
 力は込めないように気をつけて、クニクニとその肉芽を指先でなぶってみれば、
「ぅ……ん?」
 今までとは違った刺激に、ルスターの意識がわずかに浮上する。
 完全に覚醒してしまう前に手を止めれば、また意識はゆるゆると沈み込んで呼吸は規則正しく戻ってゆく。
 それを、何度か繰り返して。
 ルスターの意識は未明を彷徨ったまま、肌がしっとりと、上気して手のひらに吸い付く様になる。
 心なしか、弄くられた胸の尖りもほんの少し腫れぼったく膨らみ、鼓動がそのリズムを早める頃になって、アルグはやっとその手を引いた。


 ――意識がない状態の相手に、なんて卑怯で下劣な行為だろうか。


 以前なら忌避して、殴り飛ばしてでも己を止めただろう。
 だが、今では少しでも、その体だけでも、己の与える快楽に引きずられて離れられなくなってしまえばいいと思う。
 こんなに近くに居るのに、誰かに奪われるのではないかという焦燥感がアルグにつきまとう。
 捲くりあげた寝間着の下、きれいに並んた背骨のその凸凹にすら愛しさを覚える事を、ルスターはきっと知らないだろう。
 ポタリ、と。
 アルグのこめかみから顎へと、伝った汗が一粒、ルスターの背に落ちた。
 指で拭うように擦れば、まるで肌の中に染み込んでしまったかのように消える。
 ただの蒸発だと、分かっている、が。
 この汗のしずくのように、ほんの少しでも。



 少しでもルスターの中に、己と同じ熱情が染み入ってしまえばいいのにと、そう、アルグは思った。


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