従者の愛と葛藤の日々

紀村 紀壱

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6話 たまには少し逃げ出したい 1

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 その存在をすっかりと忘れていた、というわけではないが。


 極力、考えないようにしていた、そのツケが回ってきたのだろうか。


「隊長が結婚を考えているご令嬢を、ディティル氏はご存知ですかね?」
 サーフとルスターとの、腹のさぐりあいとも言える従者就任時のひと悶着の後。
 しばしば従者控え室を覗くように、顔を見せるようになったモルトレントから、冒頭の言葉を投げられたルスターは、一瞬、隊長とは一体どの隊の隊長かと思った。


「……そのような噂は初めて耳にいたしましたが、どちらから仕入れたものでしょうか」
 動揺を、顔には出さずにすんだだろうか。
 アルグとて、年齢も年齢であるし、立場も名声もそれなりにある人間だ。
 そんな人物が放って置かれるはずもない。
 今までだって紹介という名の縁談等が何度かあった事を耳に入れたことがあるが。
 モルトレントが口にしたのは『アルグが結婚を考えている』という言葉だ。
 能動的にアルグがそういった行動を起こしている相手が、自分以外に居るのか。
 さすがのルスターとて、精一杯後ろ向きに考えてみても、良くも悪くもかの愛欲を一身に浴びている状態故に、そんな人物が居るとは考えられず。
 しかしそうなると、なぜそんな噂が立ち上がったのか。
 己との関係がバレたのかと思うが、ならば『ご令嬢』と、モルトレントは言うだろうか。
「いや、まだ街の一部で、ちょっとだけ耳にはいるレベルの噂なんですけどね」
「その一部とは?」
「役所ですよ。隊長自らが婚姻届を取りに来たそうで」
「婚姻届を」
 ルスターの脳裏に、トランクにしまった封筒が浮かび上がる。
 あれか。
 アレのせいなのか。
 確かにアルグの性格を振り返れば、己の足で赴いて手に入れてくるだろう。
 プライベートな話題とは言え、アルグの知名度を考えれば、逆によくも今まで噂にならなかったものだ。
「内容の割に、それほど噂になっていないのですね」
 わざと素直に感想を言えば。
「まあ、目撃したのがあまり口数の多い人間じゃなかったというか、思慮深い人間だった、というのもありますけど……」
 モルトレントはそこで言葉を切って、声を潜めると。
「普通は婚姻届ってプロポーズが終わった後に取りに行くもんじゃないですか。だから目撃者は結婚の発表後にでも話題として話そうって思ってたそうなんですが」
「いくら待っても、結婚される様子がない、と」
「そういうことです。だから単純に頼まれて取りに行っただけなのか、そもそもよく似た人違いだったのか、それとも――土壇場で何かあったのか。という考えに至ったようでして」
「なるほど……」
 なんとなく、話が見えてきた。
「隊長、下町の人間に人気ですからね。今回みたいな悪い方の噂って立ちにくいんですよ」
「つまり、その噂というのは、アルグ様には結婚をされるはずのご令嬢がいたが何か不幸があって取りやめになったようだ、というところですか」
「ええ、まあ、そんなところです」
 そういった内容なら、好意的に思っている人間なら声高には噂しづらいものだろう。
 ひとまず問題はあるが、どうやら自身との関係が明るみに出たわけではないようだと、胸を撫で下ろそうとしたところで。
「それで、ディティル氏には心当たりがあるんですね?」
「心当たりとは……」
 口にしてから、ルスターは返答を間違えた、と思った。
 知らないのなら『なぜそう思うのか』と理由を問うような言葉は出てこない。
 見当違いな事を言われた人間は一瞬意味がわからず呆けるものだ。
 あくまでも、何を言っているのかわからないと言う反応をするべきなのに、油断をしていた。
「……まあ、お答え出来ないっていうのはわかりますけど、多分、報告上げた後の副長にも同じ質問されると思うので気をつけてください」
 てっきり切り込まれるかと思えば、モルトレントはそう言ってニヤリと口の端を上げてみせる。
「いやはや、前回は散々貴方に翻弄されっぱなしでしたからね。やり返させていただきました」
 そう、おどけた調子で肩をすくめる様子に、思わずルスターは口元をほころばせた。
 しばしば、モルトレントは『ウチの小隊はゆるいってよく副長に叱られて』と自虐しているが、本当は、そういった油断を誘う雰囲気を利用して相手の懐に入り込むのがうまいと、ルスターは思う。
 サーフが第4小隊に簡易的な諜報活動を任せているのは、おそらくこのモルトレントの人柄もあるのだろう。
 ルスターに探りを入れるだけで本来は構わないのに、わざわざ冗談めかして忠告をするのはサーフとルスターの関係を慮ってだ。
「しかしながら、そうやって隠されると、やっぱり気になってしまうもんですね」
「それは」
「あ、すみません。別に聞き出そうってつもりじゃないんですけど、下世話な話、あの隊長が、って感じでして」
 言葉を濁すルスターに、モルトレントは慌てた様に手を振りながら、弁解をする。
「正直、隊長にそれらしい女性の影って当たりが付かないんですよね。噂も、それもあってさほど広まっていないっていう訳で」
 首をひねるモルトレントの疑問はもっともだろう。
 サーフに報告を上げるなら、アルグ周辺もまた調べるのは当然のことだ。
 そして調べた結果、とんと見当がつかない。
 しかしながら、ルスターの反応ではやはり相手がいる、とわかれば、どういう事だ、となる。
 ルスターはきゅうっと胃の辺りが締め付けられる心地を覚える。
 そのうち、明かさねばならぬと腹をくくったことだが、やはり目の前にそれが迫れば臆してしまうものだ。
 そんな、ルスターに気がつくこともなく。
「副長も相手を知ってたら良いですけど、もし知らなくてディティル氏は把握してるって知ったら絶対ネチネチ探り入れてきますよ。あの人、本当に隊長の事になるとちょっとしつこ……あ、今言ったのは秘密でお願いします」
「は、い。そうですね、私も、同じ立場でしたらおそらく、長い付き合いでしょうし、一言も相談がなければ、ショックを受けると思います」
「あー、確かにソッチのほうがありえそうですね」
 どちらかといえば、事実を打ち明けたほうがショックは大きそうな気がするが。
 アルグは元々、サーフには事情を打ち明けようと考えていたから、おそらくサーフから問われれば、ルスターへ話していいか打診してくるだろう。
 そうなれば先日、熱で倒れた後に話し合った結論から、打ち明ける方向性になるのは想像に難くない。
 だが、もうしばらく心の猶予が欲しい、とルスターは思う。
 何しろココ最近、発熱はせずともやや気持ち的に整理が付かぬ状態に追い込まれているのだ。
 不意に、ルスターの脳裏に平常時はきっちりと蓋をしている、昨日の出来事がフラッシュバックして。
 眉間にシワを寄せそうになるのを、そっと奥歯を噛みしめてやり過ごそうとするが、思いの外、動揺してしまったせいか。
「そういえばウチの隊で、隊長の相手が誰か、あまりにも見当がつかなさすぎて。最終的に、もうディティル氏ぐらいしかいないんじゃないか、なーんて意見が出たくら………」
 モルトレントはほんの冗談のつもりだったのだろう。
 だが、それはあまりにもルスターの思考に対して、最悪のタイミングで。
「あ、タイムタイム。俺、何も気づいてません、やめてください、やめて、これ絶対めっちゃ面倒なやつじゃないですか」
 ほんの一瞬、ルスターの顔が強張ったのを、モルトレントは見てしまって。
 その表情の意味を一呼吸置いて気づき、モルトレントの顔から、さぁっと音がしそうなほど血の気が引いてゆく。
「お気づきに、なられてしまいましたか……」
「いや、だから気づいてません。気づいてませんから、俺を巻き込むのはやめてください。マジで。やばい。これ副長に報告とかキツ……てか、嘘でしょ、いや、言わなくていいです、すみません」
 自分よりおおいに動揺する人間を目の当たりにすると、逆に人は冷静になれるらしい。
 誤魔化す、という手を諦めてルスターが声を落としてそういえば、モルトレントはダラダラと汗を吹き出しながらブンブンと顔を振って否定する。
 その様子があまりにも必死すぎるので、やや申し訳なく思う。


 だが、しかし。


「知られたからには、隠しても仕方がありません、正直にお話しましょう」
「アンタ、そうしおらしい事言って完全に俺を脅してますね??? わざと巻き込もうとしてますよね????」
 サーフとこの話題をするには、やはり、もう少しばかり時間がほしい。
 そのためには、モルトレントの協力は必要不可欠だろう。
「まさか、そんな事はありませんよ?」
 ニッコリと微笑むルスターに、モルトレントは顔をひきつらせる。


 ココで、逃してなるものか。


 そんな言葉を、ルスターから読み取ったのはきっと間違いじゃないだろう。
 そう、モルトレントは頭を抱えて思った。
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