従者の愛と葛藤の日々

紀村 紀壱

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閑話2 発熱に至る顛末 1

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 オーグへ声高に「向き合う努力を」とは言ったものの。


(さて、どうしたものでしょうか……)


 すっかり毎日の恒例行事となった抱擁タイムにて。
 腹の前で組まれたアルグの手をまんじりと見つめながら、ルスターは心のなかでつぶやいた。
 普段はゆるい抱擁を受けながら、互いに今日の出来事をつらつらと話したり、時折アルグの色めいた悪戯に身を強張らせたりするのだが。
 本日のアルグはそのどちらの気分という訳でもないらしく。
 ルスターを後ろから抱擁すると、ただ甘えるように肩に顔を埋め『少し、このままで』と呟き、微睡んでいる。
 そういえば、今日の業務はいつもより書類の整備が、だいぶ多かったと思い出して。
「アルグ様、お疲れでしたら、早めにお休みになられた方が……」
 書類整備の後半、アルグの眉間の皺が増えてきたのを見計らい、適宜休憩を提案したつもりだったが。
 いつか「書類作業は下手に体を動かすより辛い」と言っていた。
 もしかしたら、思っている以上に疲労しているのでは、と心配して声をかけてみる。
 だが。
「少しばかり頭が疲れているだけだ。寝るよりも、こちらのほうが安らぐ」
 と、言われてしまえばルスターはそうですか、としか返せなくて。
 あいかわらず、じんわりと背中から伝わる体温は不快ではなく、むしろ心地よい。
 アルグが満足するまで、ぼんやりと待つのもやぶさかではないが。
 しばしば肩口で深呼吸され、未だ湯浴みをしていないので、気恥ずかしい思いから逃避するように思考にふける。
 考えるのは、やはり冒頭の問題だ。
 現状、すっかり受け身である状態で。
 向かい合う努力としては正しくないだろう。
 しかし、ではどうすればいいのか、というと具体的な案は浮かばずに、ルスターは頭を悩ませていた。



 ふと。
 自分の視線がいつの間にかアルグの腕へと落ちていることに気がついて。
 ルスターは、また見惚れていたかと苦笑する。
 己の腹に回された、アルグの腕。
 指の長さはほぼ同じはずなのに。
 しっかりとした節の指に、鍛錬で皮の固くなった手は己の倍の厚さがあり。そのせいか、自分の手と並べると何故か一回り以上大きく見えて。
 手の甲から、太い血管が前腕へと浮かび、日に焼けた肌の下には発達した逞しい筋肉が束として収まっている。
 男として、鍛え抜いた先にしか得られない肉体というものは憧れるものだ。
 抱擁のたび、アルグの腕をマジマジと眺めるのをルスターはひそかに楽しんでいた。
 憧れの対象は前腕だけではない。そこから繋がる上腕の、力を込めずとも出来る力こぶと、くっきりと分かれた肩の三角筋の曲線。
 湯浴みの後、しばしば上半身を晒したままのアルグの体を、ルスターは見るたびにため息を付きたくなる。
 実用性を兼ね備えた筋肉に包まれた肉体は、同じ男であっても「美しい」と思う。幾つか走る傷すら、まるでその肉体美を装飾するかのようで。
 己にはそこまでは不要であり、また身に備えることは難しいと分かってはいても、羨望の眼差しを向けずにいられないものだ。
 ふいに、ルスターは己の、ドレスグローブに包まれた手を見て。
 よくよく考えれば、自分は随分と露出が少ない。
 少ない、というより。
 首から上しか、ほぼ肌が見えている所が無い。
 そのことに思い至って。
 急に「もしかして」と。
 ルスターの中にある懸念が思い浮かび、続いてなんとも言えぬ、もやもやとした感情が沸き起こる。
 日常から緩まぬよう、調整と言うレベルで体を動かしているが。
 当然の話しだが、アルグやその部下たちのような、引き締まった肉を己はしていない。見苦しくはないが、決して美しいという評価を得られるようなものではないという自覚が有る。
 それを。
(……アルグ様は、お分かりになられているのだろうか?)
 いやいや、そんなまさか。と思いつつ。
 ふと芽生えた疑念が、ルスターの中で急速に育ってゆく。
 脳裏にエンブラント隊で見た隊員の姿が浮かぶ。
 ルスターと同じ齢の隊員は、前線から引いて後方支援が主だ。
 訓練で汗をかき、上着を脱ぐような者は若くはりのある、しなやかな肉体の者ばかりで。
 アルグは現実に四十代の、艶もはりもなく、大した筋肉もない男の裸というものを、見たことが……わかって、いるのだろうか。
 正直なところ己でさえ、この歳になると自分以外の同性の裸体、上半身すら余り見る機会がない。
 オーグに聞いた話では、アルグは女性を抱いたことはあれど、男性を好きになったのはルスターが初めてで。
 そして別段、男性が元から好きと言う訳でも無いと言っていた。
 それを、総括して考えてみるに。
(アルグ様は、とんでもない理想を抱かれては……いやそんな、失礼なことを……だが、しかし……)
 慌てて心の中で自戒の言葉を発するが、疑惑はどんどん膨らむばかりで散ってはくれない。
 それどころか、思考はそちらの方向へ勢い良く転がってしまって。
 実際の所、男女の間でも理想と現実の相違はありうることだ。
 まだハンブル家の見習いであった若かりし頃、同僚が「初めて女性を抱こうとしたがなんだか想像と違って萎えた」などと嘆き、他の者にからかわれていた光景が思い出される。
 その時は、確かに現実は想像とは違うが萎えるほどでは無いだろう、と思っていたが。
 いざ、自分が。
 アルグを受け入れたその先で、肌を重ねるという事も当然発生しうるだろう。
 むしろ望まれているであろうことは間違いなく。
 そのような雰囲気になった際に。
 服を脱ぎ、裸体を晒したところで。
 急に想像と違って萎えたとなったら、それはそれで非常に情けない状態ではないだろうか。
 いや、そうとなれば改めて関係性を整理すればいい話なのだが。
 どことなく、アルグはルスターを理想視しているようなところがある。
 出来ることなら。
 これは、早めに解決しておくべき根本的な問題ではないだろうか。
「……………あの、アルグ様」
「もうすこし」
 アルグの腕にそっと手を添えて名を呼べば、終了の催促だととったのか、腕の拘束が強まる。
 それをほんの少しばかり、まるで幼子のようだと微笑ましく思いながら。
「お話……いえ、確認が有るのですが、よろしいでしょうか?」
「……なんだ?」
 伺いを立てるとアルグは顔を上げ、話をきちんと聞くために身を少し離して体勢を整える。
 本当はきちんと向き合って話したほうが良いのだろうが。
 なかなか面と向かって話すには落ち着かない内容のため、あえて抱擁をされたままに。
「非常に、不躾な質問なのですが、アルグ様はその……私の裸体を確認した事はお有りでしょうか」
「は?」
 ほんの少し言いよどみ。
 しかし濁しても仕方があるまいと直球で尋ねれば。
 アルグは問われた言葉がまるで理解ができず急に腕の中の従者が何をいい出したのかと、ぱかりと口を開け、間の抜けた声を漏らした。
「私の記憶が正しければ、ご覧になられた事はないかと思うのですが」
「そう、だな」
 急に、この展開と質問は何なのだろうか。
 アルグは降って湧いた話題に、何事かとその意図を定めようと思考を巡らせる。
 しかしそれは次の瞬間、ルスターの口から飛び出た言葉にピタリと停止した。
「一度、よろしければ確認を頂けたら、と思うのですが」
(……聞き間違いか?)
 ルスターの、言葉を上手く頭のなかに浸透させることが出来なくて。
「……確認とは、お前の、裸体を?」
「はい」
 慎重に言葉の意味を尋ね返せば、はっきりと肯定を返されて。
(一体、どうした)
 と、聞きたい。だがその言葉を、アルグはとっさに口から出す前にぐっと飲み込んだ。
 ここでその質問をしてしまえば、もしかしたらこの流れは途絶えてしまうかもしれない。
 唐突に訪れた、日頃、愛し恋しと願うルスターの裸体を拝むチャンス。
 アルグの脳内で緊急警戒警報が鳴り響く。
 選択肢を間違えれば、この好機はあっと言う間に消えてなくなってしまう気配がして。
 其れはなんとしても回避したい。
 出来ることなら見たいし、触れたいし、あわよくば舐めてもみたい。
 だが欲望に飲まれて、せっかく最近心を許し、接触に寛容になってきたルスターの警戒心を高めるのは避けたい。
「確認と言うが、見るだけか。他には……」
 挿れるのは無理でも、撫で回したり、舐めたりは出来ないのか、と思いつつ。
 相手の意思をちゃんと確かめるのは大切だ。とくにルスターはアルグを立てようと一歩引いた所があるから、しっかり話を聞け、と、オーグに言われたことを思い出して。
 先走ってしまわぬようにと、恐る恐る尋ねれば。
「今後の事を考えて、私はその、もうこの齢ですし……色々とアルグ様のご想像とは違うところもあるかと思いますので……その、将来的に……ね、閨を共にする前に、一度、見ていただくのが必要かと思ったのです」
 直球で、『実際の私の裸を見て勃ちますか」とは流石に言えずに。
 だが、なるべく意味を匂わせてみたルスターの物言いは。
(やはりまだ触れるのは無理か、しかしそれはあれか、まだ触れられるのは無理だが、オカズの提供という意味でか)
 残念ながらルスターと恋仲となったと思ってから。
 娼館に通う事もやめ、右手だけが絶賛営業中のアルグの脳には大いに湾曲して伝わった。
 よもや、情事の発想が乏しく勃たぬのではと心配をされているなど思いもよらず。
「わかった。確認しよう」
 急に乾いた口を苦労して動かして。
 アルグは声が上ずらないように注意を払い、厳かに同意を返した。

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