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4話 残念ながら犬ではありません 3
しおりを挟む「……申し訳ございません、もう一度、言っていただけますか?」
休日の、やんわりとした秋の日差しの差し込むリビングで。
出来れば、幻聴であってくれれば良いと、非常にかすかな奇跡を願いながら。
手に持ったティーポットを静かにテーブルへ置いて、ルスターは向かいのカウチに座ったアルグに尋ねると。
せっかくのカウチソファーだというのに。肘掛けも、背もたれにも体を預けず、腰を掛けたアルグは厳かな声音で先ほどと同じ言葉を繰り返す。
「抱擁か口付けを、できうることならばしたいと思うのだが、どうだろうか」
ひたりと見つめられながら、ルスターは耳に入れた言葉に、嗚呼、幻聴ではなかったのですね、と、残念に思う。
唐突に、何の前触れもなく。話を振られたものだから、一瞬聞き間違いだと期待したのだが。
「ルスター?」
「申し訳ございません、少々、急な話に驚いてしまいました」
「急、だったか……」
思わず思ったことを口からこぼしてしまえば、その言葉にアルグが若干沈んだ声でつぶやく。
その様子にルスターはある生き物の姿を重ねて、心の中でため息をついた。
アルグの従者になって3週間。
ここの所、ルスターはアルグのギャップに戸惑いを覚えていた。
基本的に、初めに抱いたアルグへの印象と現実の彼に間違いはないのだ。どこまでも真っ直ぐで、高潔な騎士。アルグに憧れを抱くシエンの想いを壊すことがない私生活に、ルスターは元従者でありながら、胸をなでおろし、尊敬の念を強めたほどだ。
しかし、それだけがアルグを構成する全てではない。人は多角的な面を持っている。それは生きる上で当然のことだ。そう、ルスターもわかっているが。
「……」
チラリ、とアルグを見る。
気落ちした様子で、テーブルの上の紅茶を見つめるアルグの姿に、ルスターは力なく垂れた尻尾と耳を幻視して。
いやいや、なんと失礼なことを、と、意識を振り払う。
まさか、巷では金獅子と称賛される騎士に大型犬を重ねてしまうなど。
(なんと恐れ多い、いや愚かな思考でしょうか……!)
初めの頃は、あまり動きのない表情筋に、意思を読むことが難しそうだと心配をしていたというのに。
釣り合う従者にならねば、と神経を研ぎ澄まし、観察に努めていたら、己の一挙一動に時に嬉々として、時に誇らしげに、そして寂しそうに。感情を揺らす様をすっかり読み取れる様になってしまった。
敬うべき相手にも関わらず。時折憂いを帯びた顔をする様子にうっかり頭を撫でてやりたいような、そんな感情を抱いてしまう。
その顔をさせている原因が、自分がなびかないせいだとわかっているのにだ。
「それで……どうだろうか、まだ怖いか」
(お願いですから、そんな顔で此方を見ないでください)
伺うような視線。僕である従者を、そんな風に見るべきではない。
もっと、普段のような毅然とした態度で命令をしてくれればいいのに。
初日以降、この手のアクションがない上に、新しい環境に慣れようと必死で、正直な所ルスターは油断をしていた。
まさか、忘れかけたころに、こんな直球で聞かれるとは思ってもいなかった。
……かと言って、雰囲気を勝手に作られて、ガツガツ迫られるのも、非常に困るが、しかしこうも明確に答えを求められれば返答に窮してしまうものだ。
「怖くはない、といえば嘘になりますが」
(嗚呼! だから、そんなに悲壮に満ちた空気を背負わないでください……!)
そうか、と、ルスターの答えに小さく頷くアルグの表情に動きはない。
だが、どんより、と表現したくなるような重い空気がアルグの周りに漂ったのを感じて、ルスターは心の中で嘆願する。
そして、一体どうしたものかと頭を悩ませる。
3週間前ならば、迷いつつも「無理です」と口にしていたところなのだが。
ルスターはその言葉をうまく口にのせることが出来ない。
それはひとえに、ここのところの生活が、ルスターに与えている影響のせいだ。
ここ数年、――シエンが心身共に健やかに成長してから。
ルスターはある種の、もどかしさを覚えていた。シエンが健康になることは何にも変えがたく、喜ばしいことに間違いはなかったが、同時にそれはルスターの手から、離れていくことにもなった。
もともと、かりそめの主従関係だったのだ。屋敷にシエンがいる間は、以前と同じように付き従ったが、シエンが補佐事務官として務めている間、ルスターは屋敷の中の手が足りぬところを手伝うようになっていた。それに、不満があるわけではないし他からなにか言われたわけでもない。しかし、己自身も他者からも、どこか持て余されているような、そんな感覚を覚えていた。
それが、アルグの屋敷へ移ってきて。
この3週間はなんとも目まぐるしいものだった。
ほとんど零に近い状態から基礎を作り上げていく形作業は、大変だがやりがいがあった。やらねばならぬ事は山のようにあり、途方に暮れそうになる反面、求められることに喜びを感じていた。
一言で言うなら、充実していたのだ。シエンとの生活も穏やかでかけがえのないものだった。だがアルグに必要とされる今の生活もまた、ルスターにとって大事な物になってきていたのだ。
求められれば応えたくなる。それが難問であっても、自分の出来る範囲なら、なおさら、だ。
そんな感覚が根付き始めていたルスターが、迷いに迷って出した答えは。
「その、抱擁ぐらいでしたら……」
(情けない、そんな子供だましのような手で逃げようなんて、情けなくないのですか、ルスター・ディティル!)
まだまだ到底アルグの気持ちを受け入れは出来ない。
しかしながら、拒否し続けるのも心苦しくて。
つい、言ってしまった言葉の、しかし妥協点の低さに、自分自身を叱責して、ルスターは視線を伏せた。
いい歳をした大人が、怖いから抱擁で許してくれなど。
本心からの言葉だが、今時、純粋な乙女が言っても少々あざといと思うセリフではなかろうか。
受け入れるのならきちんとした受諾を、拒否をするのならしっかりとした拒絶を。そうするのが誠実ではないかと、落ち込んで。
こんなことではさすがに呆れられてしまうだろう。
いや、諦めてもらうために、それはそれで良いのかもしれない。ただ、恋愛感情を抜きに、嫌われてしまうのは少々悲しいものがあるが。
ずくり、と胸が傷んで、しかしコレは自業自得だとルスターは自嘲し、また寂しげな目をされてしまっているのだろうかと思いつつ、覚悟をして顔を上げれば。
(なんだが、すごく、輝いていらっしゃる……!)
そこにはなんとも予想外のアルグの顔が。
緩むのをこらえようと、真横に引き絞られている口の端が耐えられず、僅かに弧を描いて。ルスターを見つめる目は瞳孔が開き、爛々と熱と喜びを湛えていた。
アルグの太ももに置かれた両手が、ぎゅっと拳を作った。
そうしなければ、アルグは手をルスターへ伸ばしそうになっていた。
いくら許しを得たからとはいえ、では早速とばかりに迫っては怯えられてしまうかもしれない。さすがのアルグもこの三週間をただ待っていたわけではない。ルスターに怯えられないためには、どうしたら良いのかと対応をよくよく考えていたのだ。
ここはしっかり、ルスターの様子を見て、ゆっくり、焦ってはいけないと、己に言い聞かせ。
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