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6話 ネロ・バシランの意地と誤算1

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 ゆるゆると、しかし確実に頷いたネロに対し、ベルテは「嗚呼」と溜め息に近い声をこぼすと、まるで眩しいものを見るかのように目を細めた。
 その表情を見て、ネロの脳はじわじわと己が頷いてしまった事を自覚し始める。

(一体、いま俺は何を――?)

 もしかして自分はとんでもない選択をしてしまったのではないか、と現状を振り返りかけるが、不意にベルテが立ち上がると。

「っ!?」
「ありがとう、嬉しいよ」

 ベルテに抱きすくめられ、耳元をくすぐる吐息にまたネロの思考は混乱へと落ちた。
 スキンシップの濃い人間から挨拶で一瞬抱擁されたり、肩を回されたりすることはあるが、明確に抱きしめられるという経験は母親とのもの以来で。
 頬に触れたベルテの服の生地があまりになめらかで、その感触に対して驚きや、己の身を包み込む体格差や、背中に回されたベルテの手がぐるりと腰を抱き、もう片方はうなじから髪の中に差し込まれた状態や、頭皮に触れた指先の体温や、やたらと良い匂いがする、といった情報の多さに処理が仕切れない。
 まるで油が切れたかのように、ぎしり、と固まった体が緊張の所為なのか、拒否感の所為なのかもうまく判断ができずに頭の中はぐるぐると「どうしたらいい」という言葉だけが回る。
 抱きしめられた時に、ベルテと己の間に折りたたまった腕に力を入れて伸ばせば、この状況を脱出できるというのにそれすら思いつかないまま。
 端から見れば、初めて人間に抱きかかえられた野良猫が毛を膨らませて、逃げるべきかそのまま身を委ねるべきか迷い、身動きが取れずに固まったように見えただろう。
 事実、ベルテの目にネロはそう見えて、抑えきれない笑みを唇から漏らした。

「ふ、今はこれくらいにしておこうか」

 どれくらい時間がたったのか。もしかしたらネロが感じたよりもそう長い時間ではなかったのかもしれない。
 唐突にベルテはぱっと身を離し、そしてわざわざ一歩、後ろへと下がってみせた。

「食事、――をするには気もそぞろみたいだ。今日はこのまま帰ろうか」

 ベルテの言葉を半分も理解しないままにネロは壊れた人形みたいにガクガクと頭を縦に振る。とりあえず、そばに居るとまともに思考ができなくなるベルテと一旦、物理的にも精神的にも距離をとりたかった。
 その後、ベルテとどんな会話をしたのか思い出せない。とにかく気がそぞろのまま、何とかネロは己の住み処へと足を入れた瞬間、ずるずると玄関の扉に背中を預けて座り込み、頭を抱えた。

(触りたいってなんだ? 俺を、口説いている……???)

 ベルテの言葉が頭の中をぐるぐると回わってダンスする。
 何度、咀嚼してみようとしてもうまく受け入れることができない。だいたい己が頷いてしまった行動の意味さえ理解ができなかった。
 ただ一つだけ分かるのは、どうしてだか間近で覗き込んだベルテの瞳が。ネロにとって大切なアルノアあの人と同じ、深いブルーの中にアメジストが隠れている稀有な色とよく似ていて、あの目に見つめられるとどうしても抗い辛くなってしまうことだけだった。
 今後、あまりベルテの瞳を注視しないようにしよう、と心に強く刻みながら、自分はもしかしてベルテと恋人という関係になったのか、とネロは思う。
 友人という立場さえ難しいと思っていたのだ。それなのにさらにもう一歩踏み込んだ関係になるなんて想像もしたことがなかったし、考えもできない。
 そもそも、悲しいことに今まで色恋といったモノをろくに経験してこなかった故にさっぱり勝手が分からなかった。
 就学中、容姿や性格の優れた異性相手に多少は心惹かれる事もあったが、母親の医療費を前借りしている立場から簡単に浮つく事も出来ず。そして母親を弔ってからは言わずもがな。新しい生活にも近頃やっと慣れてきて、それ故の喪失感との折り合いを徐々につけ始めていた、ところでのベルテなのだ。

(やはり無理だと、断るべきだろうか……)

 おそらく、その言葉が現状から手っ取り早く逃れられる手段だろうとネロは思う。
 実際はそんな言葉を吐けば、腹の奥底に深い執着を抱えたベルテから逃げられるどころか、逆に困窮する状況へとさらに陥る事になるのだが――

(しかし検討もせず、それはあまりにも卑怯か?)

 幸いにもネロの良心は混乱をしながらも誠実にベルテに対応するべきだと天秤を傾け、結果的にネロの身を救った。
 ベルテが、ネロを口説くのに慎重になっていたという弱音をみせた事と、許しを得たいという言葉がネロの中に引っかかりを作っていた。
 人間、虐げられ、強制されれば反発したくなる物だが、反対に縋られれば無碍にする事が難しい。
 あくまでも己に選択権があるように思うと、その結果に対しても自分が負う事になり、簡単に断る事に罪悪感が生まれていた。

(嫌い、ではないが……)

 自分はベルテをどう思ったいるのだろうか、と考えると好ましいと思ってはいるが、果たしてそれが恋や愛と呼べるものかは分からずネロは眉間に皺を寄せる。
 そして、じゃあベルテに触れられるのはどうなのか? と、考えたその瞬間。

「……っ!」

 ぞわり、と背中を走る疼きに、ネロは体を跳ねさせた。
 思い出したのは、手のひらに口づけたベルテの唇の感触だったはずなのに。頭の後ろを撫ぜたベルテの手のひらが、触れたはずのないネロの体を這う様な心地がした。

(俺は、アイツベルテに肉欲を抱いている、のか……?)

 奇しくもネロの記憶にはない、しかしながら確実にベルテが残した、秘めやかな悪戯の痕跡が無意識下へと食い込んで。
 恐れのようなモノを覚えながらも腰の奥がムズつく感覚に、ネロは目を泳がせて困惑する。
 恋愛経験のないネロにとって、どういう感情が正解など分かるわけがない。ただ一般的な知識だけで考えるならば、普通は肉欲を覚える相手などは欲求不満でもない限り、ある程度の恋愛感情を抱ける相手ではないと感じないはずで。

「……くそっ」

 腰にわだかまったモノを振り払うように舌打ちをして、ネロは立ち上がった。
 ひとまず、ベルテとの付き合いについては継続する、という方針に変わりはないのだ。
 だからこれからベルテが望む事に対して、いつか明確に嫌だとか、好きだとか、そういった事を感じるだろう。
 そしたらその時にまた考えれば良いと、ネロはそう思うことにした。
 内心、別に深く考える事を怖がった訳じゃない、と言い訳を吐きつつ。
 若干、己の感情を誤魔化すように曖昧なまま始まったベルテとの関係は、その2週間後――



「お前の言葉の意味を付き合って欲しいと俺はとらえたが、もしかして愛人契約的なモノだったのか?」
「……どうしてそういう風に考えたのか、教えてくれるかい……」

 コレはまさかと頭をひねり、思い切ってベルテに尋ねてみた言葉に返ってきたのは肯定ではなく。
 むしろビタリと笑顔を凍り付かせ、グッと言葉を飲み込んだそぶりの末、深いため息を吐いてこめかみを押さえたベルテに。
「違うのか」とネロは酷く納得がいかないという面持ちでつぶやく。
 ネロとて突拍子もなく、こんな事を言い出したわけではない。

 ただそんな結論に至った理由は、ひとえにベルテの行動に理由があったからだった。

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