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5話 ベルテ・デルーセオは許されたい1
しおりを挟む(……やっぱり、もっと気を付けるべきだった……)
あの日から、ふとした瞬間に、ネロの頭の中にはそんな言葉が浮かぶ。
今の所、業務には差し支えは出ていないが、魔術師にとって魔術を扱う時は精神を落ち着かせ、集中する必要がある。重要図書への保護魔法のかけ直しも、図書館の設備維持魔導器へ魔力を充填する作業も、慣れ親しんだルーチンで心と頭を切り離し目の前の術式へ没頭するが、一旦それらが終わって雑務へと移ると駄目だった。
記入した書類の上で、跳ね上がってしまった文字に眉を寄せる。もう少しだけゆっくりと書けばその癖は出なかったのに、いまいち集中しきれずに書たい気持ちが表れた。ミスと言うわけではないが、普段ならしない些細な不調に、また考えまいと思っていた事が頭に思い浮かんで、ネロは小さくかぶりを振った。
――ベルテが、もう二週間近くやってこない。
通常であればそうおかしくはないのに、最近は少なくとも週に一度は必ずというやや過剰とも言える訪問に慣れてしまい、今回のように間が空くのが落ち着かなかった。
別に、ベルテとて暇人ではないのだ。ましてや約束をしているわけでもない。そもそも、彼の気まぐれで始まった事だから、その来訪が途切れようと気にする必要は無いのに、最後に会った日の事をネロはどうしても引きずっていた。
(なんで、よりにもよって酔ってしまったんだ)
あの日、初めてベルテが「話をしよう」という言葉を口に出した日。
腹の中を見せることをせず、掴みどころのない男の、いつもとは違う一面が垣間見えた事が興味深く、正直に言うなら少しばかり浮かれていたのを自覚していた。普段なら立場や年齢を気にせずに振る舞って欲しいというベルテの言葉に「無茶を言う」と思っていたが、あの日は望むようにいつもは引いている一線を限りなく下げて。
(気安さと、遠慮が無いのは違うのに)
言葉を紡ぐベルテの声はとても耳に心地よかった。
自分の知らない貴族や職人の世界の話をネロにも分かるように噛み砕きながら語ってくれて。自分が話すばかりは嫌だと思っていたのに、いつの間にか寝物語を効きたがる子供の様にベルテの話を強請っていた。
そうして気がついたら。
何故かカウチに横になり、見知らぬ天井を見上げていて慌てて飛び起きた。
混乱しながら周りを見渡し、ベルテに連れてこられたサロンだと徐々に思い出すも、彼の姿は見えず。代わりに半日近く経った事実とティーテーブルに残された走り書きを見つけ、その中身にネロは頭を抱えた。
そこには蜂蜜代わりにだしたシロップが誤って度数の高い酒だった旨と、仕事があるから先に帰る事についての謝罪があった。
あのシロップが酒――?
そんな馬鹿な、と思うが、途中から曖昧になって消えている記憶に、己が酔うと眠くなるタイプだと言うことと、些かベルテに対してずいぶんと馴れ馴れしい言葉遣いをしてしまった様な気がするのを加味すれば、この現状を納得せざるを得ない。
普段安物の紅茶ばかり飲んでいるせいで、ベルテに差し出された紅茶の味をやや癖の強いハーブティのようなものかと気にしなかった己の馬鹿舌を恨めしく思う。酒の席で酔って潰れる相手を普段は辟易とした気持ちで眺める側だったが、まさかそれを己がやってしまうとは。
ベルテの手紙にはネロが酔っているのに気がつくのが遅れ、酔い潰れてしまった事に関する詫びが書かれているが、肌の色が濃いネロは酒に酔って顔が赤らんだりすることがないから、外見から分かる頃にはすっかりと酔いが回った頃だった筈だ。
酔ってすぐさま大人しく寝てしまっていれば良いが……いや、たとえ何もしていなかったとしても、途中で眠りこけたネロにベルテは困ったことだろう。
いずれにせよ謝罪をするのは自分の方だ、と。
ベルテが先に帰ってくれて良かった。居たたまれなくて合わせる顔がないと嘆息しながら、しかし次に会った時には何かしら誠意を持って対応しなければいけないだろうと、そう思っていたのに。
――それからぷっつりと、ベルテの訪問は途切れていた。
呆れられたのだろうか。それとも覚えていないだけで何か怒らせるようなことをしたのだろうか。それなら一言いってくれればいいのに……なんて思うが、自分は相手に言葉を望めるような立場なのか。
改めてベルテとのあやふやな関係を思い知らされて嫌になる。
ただ単にベルテも仕事が忙しいだけだろう、と自分に言い聞かせようとするが、同時に「こんなタイミングで?」と頭の中で声がする。あれだけ散々期待をするべきじゃないと線を引いていたのに、まさか誘惑に負けてベルテの事を知りたいと手を伸ばした途端、自分の行いが原因で終わってしまうのか。
一人で考えても答えが出ない問題を、何度も頭から追い出そうするが上手くいかないまま。モヤモヤとした感情を抱え、ベルテに会ってから二週間目のその日。
「ネロ」
静まりかえった書架の林の中、呟きのように潜められた声はするりとネロの耳に届いた。
彼の人物の顔を直視するのを躊躇う心とは裏腹に、身体は反射的に声の方を振り向いていた。
目に入ったのは、今までと何ら変わりないベルテの姿だった。二週間の期間が空いたことなど無かったかのように。いつものように洒落た身なりで、やんわりとした微笑みを口元に浮かべてゆっくりと歩み寄ってくる。
次にベルテに会うのを気まずく思う気持ちがあったのに、ネロは不思議と一歩、ベルテの方へと足を踏み出していた。
光量を落とした薄暗い図書館の中で、陰りがちなベルテの表情が本当に今までと変わらないのか確かめたい気持ちと、訪問の間が空いたのはどうしてなのか、なんて聞けもしない問いが背中を押して。しかしすぐさま我に返って足はピタリと床に張り付いた。
それは今までのようにベルテに入れ込むまいという自制ではなく。ベルテの中に自分への呆れや失望がないか確かめるのを恐れた所為だ。そしてそんな感情を抱いた己に動揺する。
あれだけ気を許してはいけないと、警戒をしていたはずなのに。
「久しぶり。ココのところ少し忙しくてね、やっと一段落ついたんだ」
「そうか……」
「君はどうかな、この後は用事があるかな?」
「特に何も」
ベルテの言葉にあれだけ揺れていた心が弾む。別に避けられていた訳じゃなかった、その事実と、誘いの言葉に今や戸惑わず喜んでいる自分の心をネロは認めつつ、それでも頬の肉を噛んで口の端が上がるのを押さえようとした。
素直に嬉しいという感情をベルテに見せてしまうのは何処か悔しく、また無駄な抵抗だと分かっていてもこれ以上容易くはまり込みたくなかったからだ。
どう足掻いても、断りの言葉を吐けなくなっている時点で手遅れなのに。
「ん、待ちなさい、ゴミが……」
それじゃあ帰宅の準備をしてくると、ネロが踵を返したとところでベルテが呼び止める。それに振り返ろうとした瞬間、ネロは不意に奇妙な悪寒を感じて。
「――ぇ?」
「!?」
身体が反射的に動いていた。
「っす、すまない。驚いて……」
今、自分は何をしたのだろうか?
無意識の行動にネロは混乱する。現状を振り返れば、肩にほんのすこし触れたベルテの手を振り払っていたのだが、どうしてそんな事をしたのか分からない。
咄嗟に驚いたと言ったが、驚いたのは自分の行動に対してで、肩に触れられたぐらいで何故こんなに過剰反応をしてしまったのか。
「ネロ」
「っ」
「……どうやら、体調が悪いようだね、食事は日を改めようか」
ベルテが近寄ってくる気配に、足がもつれた。一瞬、身体が強ばるような、逃げたいような気持ちになって、それがどこから湧いてくるモノなのか分からない。ベルテに粗相を働いたことに対してなのか、それとももっと別の何かに対するものなのか。
いずれにしても。
「そう、だな……今日は止めておこう」
ベルテの提案に頷くしかなかった。「大丈夫だ」なんて言葉をいう資格は自分にはない。
きっと様子のおかしい自分をベルテは気遣ってくれたのだ。そう思うのに、ベルテの声がどこかいつもより固く、低く感じて。それが不可解な自分の行動よりもずっとネロの身を縛って、一体ベルテがどんな顔をしているのか、見ることが出来なくて視線を落とした。
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