半笑いの情熱

sandalwood

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2001年・冬

第89話「正夢」

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 目の前のテーブルには、絵の具セットの他に新しい画用紙と、露命を絶たれた芸術の欠片が散らばっていた。
 この後の授業に出ることを禁じられ、代わりに図工室に残って再度課題に取り組み、テーマに沿った、かつ健全で適切な絵を描くよう首藤に指示された。自分以外に誰もいない図工室に、三時間目の開始を告げる無機質なチャイムが響く。
 
 私は、どこを見るでもなく佇み、放心していた。感情も五感も働かなかった。椅子に座っているのはもはやただの形骸けいがいで、池原悦弥という人間ではなかった。
 筆を持ち、パレットに残っていた茶や赤の絵の具を付け、でたらめに画用紙に手を動かしてみる。脳はそれらの色を識別せず、ただのモノクロな点や線が表れるだけだった。ばらばらになった絵も図工室の中の何もかもも、すべて色を失っていた。

 いつの間にか三時間目だけでなく給食の時間も終わったらしく、校庭には低学年や中学年と思われるたくさんの生徒たちが、ボール遊びやら雲梯うんていやらジャングルジムやらに興じながら対極の笑みを並べている。
 彼らを見て、物体は再び感情を取り戻し、池原悦弥に戻った。モノクロだった景色にも、徐々に色が返還される。
 
 完全に色が戻った直後、私はテーブル上のパレットを両手に取り、渾身の力で床に叩きつけた。長方形のパレットは脆く、すぐさま真っ二つに割れる。
 続けて、水の入った筆洗バケツも投げ捨てた。中の水が床だけでなく、自身の着ている服にも飛び散る。そして、太さの異なる三本の筆をまとめて投げ、チューブ式の絵の具を一つずつ床に投げ打った。筆は、折れることなく床に転がっている。最後に、でたらめな点や線が描かれた画用紙を、昨日の漢字テストの答案のようにぐしゃぐしゃに丸めて捨てた。床に触れると、かしゃりと、人を馬鹿にしたような音がかすかに耳に入った。
 机の上の投げられる物をすべて投げ終え、またしばし放心する。校庭で遊ぶ生徒たちの耳障りなはしゃぎ声が聞こえてくる。
 
 思い出した。あの時見た夢と同じだった。

 学芸会初日、生徒たちの芝居に退屈して居眠りした時に見た夢で、まさにこの映像に直面した。床は水びたしになり、赤や茶の絵の具が散乱し、大惨事の様相だ。正夢だったとでもいうのだろうか。
 
 私は、床にくずおれた。両眼りょうがんから、静かに雫が落ちる。
 どうして自分が、自分だけがこんな仕打ちを受けなければならないのだろうか。どうして私のすることは何もかも認められず、掣肘せいちゅうされ、虐げられるのだろうか。ここまで心の内に抑え込んでいた感情が溢れ出し、それは抱えきれずに涙という目に見える物質に変化してこぼれ落ちた。雫は容易く制止できず、拭えども拭えども生産され、流れていく。

 ひとしきり泣き終えると、胸中に烈火のごとき怒りと憎悪が湧き出てきた。

 歯を食いしばりながら、図工室を出て、階段を上がり、三階の五年二組の教室に戻る。
 案の定、教室には誰もいなかった。朝の会で、午後は四・五・六年生合同でドッジボール大会を行うという話があったので、きっと体育館だろう。隣やその隣、そもそもこの三階に人の気配はなかった。
 隅のロッカーから、掃除用のモップを取り出した。
  


「ふざけるなぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
 


 大声を上げ、モップを振り回しながら教室内を走り回った。
 まず、教卓に無防備に置かれていた、首藤の業務用のノートパソコンを払いのけた。パソコンは、がしゃんと耳を貫くような音を立てて落下する。すぐさま、それを首藤本人だと思って思い切り、何十回と踏みつけた。プールで調教されたことや、レクリエーションに出なかっただけで暴力をふるわれたことや、算数の授業を追い出されたことや、有馬に対して不埒な依頼をした時の首藤の歪んだ笑顔や、学芸会の練習時の諸々や本番での仕打ちや、ガムテープで固定された流刑地や、良識を逸脱した漢字テストや、今日の図工室での一件などが順番にフラッシュバックし、それらの忌々いまいましい記憶が原動力となった。
 
 再起不能になったであろうと思われるほどにノートパソコンを踏みつけた後、再びモップを振り回して生徒たちの机と椅子をなぎ倒した。机は、中に教科書やら何やらが入って重さを増しており容易に倒れないものもあったが、その場合はモップを置き、直接机を持って投げ飛ばした。また、ガムテープで固定された私の席も、モップで繰り返しはたき続けると解放され、他生徒のものと一緒くたになった。
 
 全てが憎く、全てに怒りを覚えた。首藤も上村も高杉も有馬も倉橋も吉田も柿澤もその他のクラスメイトたちも、一人残らず叩きのめしてしまいたいと思った。首藤という最低な人間と、その男に従い一人の生徒を追放する愚かしい人間たちに、私はこれまで何度となく傷つけられた。無視や他愛ない嫌がらせであれば堪え忍ぶこともできようが、学芸会本番ではクラス全員にめられ、そして流刑地へと追放された。このクラスにとって百害あって一利なしの害虫だと全員から見なされたのだ。そうまでされるほどの悪行を、私が何かしてきたとでもいうのか。挙げ句の果てには、何の罪もない作品までも犯された。苦労して創り上げた一枚を、大切な母の姿を描いた一枚を破り捨てられ、私だけでなく母をも侮辱された気がして怒り心頭に発した。許せなかった。



「てめえら全員くたばれぇぇぇぇぇぇ!!!!!!」



 猛烈に叫び、生徒たちのランドセルをロッカーから取り出してぶん投げた。一つずつ、一人残らず放り投げる。どれだけ繰り返しても、怒りは鎮まるどころかいっそう燃え立つばかりだった。もはや、私の思考は崩壊していた。ただただ、目の前の全てを破壊することしか頭になかった。
 
 ランドセルを投げ終え、机の中の教科書やらノートやら筆箱やらも手当たり次第に放り、窓に打ち付ける。窓は強化ガラスなので、その程度ではびくともしない。椅子を持ち、窓を打ち破ろうと投ずるも、ここまで動き回って体力が消耗していたため、窓には届かず手前であっさりと落下した。
 それでもなお、私の破壊行為はおさまらない。肩で息をしながらも、掃除用ロッカーを再度開ける。ちりとりやらほうきやらバケツやらを床に叩きつけ、そしてまたモップを手にたけり狂った。黒板やら壁やら散乱した机やらに見境なく振りかざしながら、私は言葉にならない叫びを上げて暴れ続けた。
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