半笑いの情熱

sandalwood

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2001年・夏

第47話「愚かな応戦」

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 それ以降、週二回の水泳の授業は地獄だった。
 七月末から夏休みに入ったため、首藤による授業はトータルで五回しかなかったものの、私は毎回、生と死のはざまを彷徨さまよっている気分だった。
 水が苦手な人間にとって、その中で呼吸を封じられることがどれほどの恐怖心をあおるか、彼は分かっていない。いや、むしろそれを承知で行っていたのか。首藤は水に慣れるためという名目で私をひたすら魔物の中に沈めたが、肝心の泳ぎの練習などはいっさいしなかった。

 度重なる調教のおかげで、見事に水に対する恐怖心を植えつけられた。プールを見るだけで鳥肌が立つようになり、ビート板を使って泳ぐことはおろか、中に入ることさえ困難になった。
 中学は、だから水泳の授業がない私立校に進学した。高校では授業はあったものの、事情を説明すると見学の許可がおりた。三年生の時は、ついでに受験勉強をはかどらせようとプールサイドで見学しながら英単語帳を開いていたが、何も注意を受けることはなかった。

 首藤が自分を嫌っていることには、鈍い私とてさすがにこの時点で気付いていたが、ではその要因が何であるかはやはり見当もつかずにいた。時折思考をめぐらせるも、すぐに馬鹿らしくなってやめた。もとより、普段の言動からして賢さとは到底結びつかない男であったので、考えるだけ無駄というものだ。
 特にひどかったのは、トイレの吐水口から出る水はいたって安全に飲めるなどと、胸を張って言っていたことだ。確かに、上水由来であれば飲めなくもないのかもしれないが、それにしてもタンク内の状態によっては危険が伴うし、そもそも工業用などに使われる中水から引いている場合も多く、その場合は論外である。そういう捕足説明もなしに、善悪の分別がどれだけついているか定かでない子どもたちにいい加減なことを吹聴ふいちょうするわけだから、早い話が馬鹿なのだ。馬鹿を相手にするのは疲れる。それに、そんな人間の心をみ取っておもねるような懐の深さは持ち合わせていなかった。

 夏休みまでの期間、水泳以外のシチュエーションではまだ首藤も我慢していたのか、あるいは様子を窺っていたのかわからないが、後に起こるような強硬な手段に出ることはなかった。
 相変わらず、テストを返す時に私にだけ褒め言葉をかけなかったり、授業中に黒板に書かれた問題を解ける生徒がいるか尋ねた際、私以外に挙手する者がいないにも関わらず黙殺して答えを書き始めるといった低次元な嫌がらせはあったものの、その程度でだった。
 吐水口の水が安全だと思っているような馬鹿のすることに、いちいち腹を立てても仕方がないことは小学五年の当時でも分かっていたつもりだ。しかし、わけも分からず冷遇されるのはいささか面白くない。
 そういうわけでこちらもついお付き合いして、くだらない形で応戦したのである。

 一学期最後の授業日、四時間目の算数の授業は総復習形式のテストが行われた。
 普段のテストよりもややヴォリウムがあり苦戦している生徒も多かったようだが、私は公文式での先取り学習と、そろばん教室で培った計算力を頼りにそつなくこなす。いつものようにひと通り見直しをして、一番に席を立つ。
 普段は教卓の上に伏せて出すか、またはちょうど首藤が座っていたら直接手渡すかのどちらかだが、ここで私は大胆な行動に出た。
 首藤は教卓の後ろの椅子に腰かけていたが、私はいっさい彼のほうを見ず、教室の出入口のほうを向いて歩きながら、左手に持った答案用紙を表にして教卓へほうった。

「お前、答案を投げるなよ!!」

 すぐさま、首藤から当然のクレームが入った。
 他生徒たちが鉛筆を動かす手を止め、いっせいに教卓に視線を移す。

「はーい、すいません」
 足を止め、一瞥をくれながらにべもない返事をし、教室を後にする。

 首藤は答案用紙をぐしゃっと握りしめ、小さな両眼りょうめで教卓をにらみつけていた。
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