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2010年・秋
第20話「レシートとえくぼ」
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あの一局に敗北してなぜそこまで落胆するのか、改めて冷静に考えるとよくわからない。
大会に出る以上、一局でも多く勝利したいと思うのは至極当然だが、それにしても試合をサボらねばならないほど落ち込むとはどういうことだろう。ZARDの『不思議ね…』を聴きながら、レシートを左手の人差し指と親指でつまみ上げ、右手の同じ二本指で挟んで左から右へと引っ張る無意味な動作を繰り返しながら考えた。
元々のモチベーションの差だろうかと、その動作を十五回ほど重ねたところでふと思う。
春の関東リーグで四連敗した時、自分の実力のなさや不甲斐なさを痛感して心が折れそうになったが、あの大会の際に私を支配していた感情の大部分は、煩瑣や恐怖や諦念といった後ろ向きなものであった。
しかし今回の大会にあたっては、私は前向きな心持ちでいた。絶対に勝たねばなどという、行き過ぎた情熱は抱いていなかったと思う。それでも以前より囲碁が楽しくなり、もっと強くなりたいと真摯に感じるようになったことで、まだ見ぬ打ち手との対局や新しい手の試みなどに対する期待感に駆られ、私の心はリズミカルに揺れていた。さらに、新たに仲間となった浅井に有意義な経験をさせてあげたいなどという部長然とした生意気な感情も付随していた。そういうポジティヴな動機付けがあったからこそ、たった一局の敗北に打ちのめされたのだろう。
むろん、それだけではない。多分、恐怖していた。最終日たる今日、気持ちを切り替えて実力を発揮する自信がなく、昨日よりもいっそう無様な負け方をして終えることを恐れた。負けたからといって、あるいはどんな負け方をしたからといって、誰も責め立てたりはしないというのに。
大会が終われば、皆で近所のファミリーレストランにでも繰り出して笑いながら語らうだろう。井俣と藤山さんと白眉さんが会話の中心となり、永峰さんは興味なさそうに携帯をいじりながらも、時折相好を崩したり彼らに鋭いツッコミを入れたりするのだろう。浅井は黙っていても井俣たちからあれこれと話を振られて、時々言葉に詰まりながらも適切な対応をとるに違いない。
残る私はその場で、おそらく空気と化す。金村さんの計らいで忘れたころに私にも会話が回ってくるも、きっとそれに上手く反応できずに半笑いでごまかすよりなくなる。
そういう瑣末で下らないことを理由に、私はしばしば憂鬱になる男だ。
ルノアールへ行こう。ゆくりなくそう思い、つまんでいたレシートをくしゃっと丸めた。
都内のあちこちにあるチェーン店だが、新宿は特に店舗が多く、適当に歩いていてもすぐ見つかるだろう。
ルノアールは、前に光蟲と何度か行った。光蟲は日頃から様々な喫茶店に足を運んでいるが、彼にとってルノアールは別格だった。何時間居ても追い出されず、絶妙なタイミングで温かいお茶が運ばれてくるあの独創的な空間を、私は光蟲から教わった。
地上に出て、歌舞伎町一番街を通る。
夜になると、客引きを企む兄ちゃんや風俗嬢らしき姉ちゃんなどで不健全に活況を呈している歌舞伎町も、朝は鳴りを潜めている。TOHOシネマズの方面に歩くとちょうど見つけたので、階段を上って中に入った。
「いらっしゃいませ。お煙草は吸われますか?」
店に入ると、推定二十代半ばほどの女性店員が、爽やかな笑顔で喫煙の有無を尋ねてきた。短めでつやのある黒髪と、笑った時に頬にできるえくぼが魅力的な小綺麗な女性だ。
「いえ、吸わないです」
「禁煙ですね。ご案内します」
女性店員が、再び接客用のスマイルを浮かべる。彼女に誘導され、窓際の席に腰かけた。
店を出るまでにこの店員のえくぼをあと何回ほど見られるだろうかとくだらないことを考えながら、今日の欠席は正解だったなと思った。
大会に出る以上、一局でも多く勝利したいと思うのは至極当然だが、それにしても試合をサボらねばならないほど落ち込むとはどういうことだろう。ZARDの『不思議ね…』を聴きながら、レシートを左手の人差し指と親指でつまみ上げ、右手の同じ二本指で挟んで左から右へと引っ張る無意味な動作を繰り返しながら考えた。
元々のモチベーションの差だろうかと、その動作を十五回ほど重ねたところでふと思う。
春の関東リーグで四連敗した時、自分の実力のなさや不甲斐なさを痛感して心が折れそうになったが、あの大会の際に私を支配していた感情の大部分は、煩瑣や恐怖や諦念といった後ろ向きなものであった。
しかし今回の大会にあたっては、私は前向きな心持ちでいた。絶対に勝たねばなどという、行き過ぎた情熱は抱いていなかったと思う。それでも以前より囲碁が楽しくなり、もっと強くなりたいと真摯に感じるようになったことで、まだ見ぬ打ち手との対局や新しい手の試みなどに対する期待感に駆られ、私の心はリズミカルに揺れていた。さらに、新たに仲間となった浅井に有意義な経験をさせてあげたいなどという部長然とした生意気な感情も付随していた。そういうポジティヴな動機付けがあったからこそ、たった一局の敗北に打ちのめされたのだろう。
むろん、それだけではない。多分、恐怖していた。最終日たる今日、気持ちを切り替えて実力を発揮する自信がなく、昨日よりもいっそう無様な負け方をして終えることを恐れた。負けたからといって、あるいはどんな負け方をしたからといって、誰も責め立てたりはしないというのに。
大会が終われば、皆で近所のファミリーレストランにでも繰り出して笑いながら語らうだろう。井俣と藤山さんと白眉さんが会話の中心となり、永峰さんは興味なさそうに携帯をいじりながらも、時折相好を崩したり彼らに鋭いツッコミを入れたりするのだろう。浅井は黙っていても井俣たちからあれこれと話を振られて、時々言葉に詰まりながらも適切な対応をとるに違いない。
残る私はその場で、おそらく空気と化す。金村さんの計らいで忘れたころに私にも会話が回ってくるも、きっとそれに上手く反応できずに半笑いでごまかすよりなくなる。
そういう瑣末で下らないことを理由に、私はしばしば憂鬱になる男だ。
ルノアールへ行こう。ゆくりなくそう思い、つまんでいたレシートをくしゃっと丸めた。
都内のあちこちにあるチェーン店だが、新宿は特に店舗が多く、適当に歩いていてもすぐ見つかるだろう。
ルノアールは、前に光蟲と何度か行った。光蟲は日頃から様々な喫茶店に足を運んでいるが、彼にとってルノアールは別格だった。何時間居ても追い出されず、絶妙なタイミングで温かいお茶が運ばれてくるあの独創的な空間を、私は光蟲から教わった。
地上に出て、歌舞伎町一番街を通る。
夜になると、客引きを企む兄ちゃんや風俗嬢らしき姉ちゃんなどで不健全に活況を呈している歌舞伎町も、朝は鳴りを潜めている。TOHOシネマズの方面に歩くとちょうど見つけたので、階段を上って中に入った。
「いらっしゃいませ。お煙草は吸われますか?」
店に入ると、推定二十代半ばほどの女性店員が、爽やかな笑顔で喫煙の有無を尋ねてきた。短めでつやのある黒髪と、笑った時に頬にできるえくぼが魅力的な小綺麗な女性だ。
「いえ、吸わないです」
「禁煙ですね。ご案内します」
女性店員が、再び接客用のスマイルを浮かべる。彼女に誘導され、窓際の席に腰かけた。
店を出るまでにこの店員のえくぼをあと何回ほど見られるだろうかとくだらないことを考えながら、今日の欠席は正解だったなと思った。
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