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2010年・春
第2話「物好きな男」
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光蟲冬茂とは、今期に履修したフランス語の授業で出会った。
彼は私と同じくらいの中背――百七十センチ前後――で、細身の私と比べるとそれなりに肉付きはよく、黒縁のメガネをかけてややうっとうしい前髪をした、一見すると真面目そうな青年である。
私の所属学科は第二外国語の履修が必修ではなかったが、せっかく外国語教育に定評のある大学に通っていながら英語しか勉強しないというのは、学業に対して興味関心の薄い私でさえももったいない気がした。一方、光蟲の所属する文学部哲学科は第二外国語が必須だったが、必修言語はドイツ語とラテン語で、フランス語は対象外だった。ゆえに、私も彼もフランス語は自発的に履修していたことになる。
フランス語の初級コースにはコミュニケイションとグラマーの二科目があり、私たちは両方とも受講している。どちらも履修者十名にも満たずこぢんまりとしていた。グラマーは水曜日、コミュニケイションは金曜日の、それぞれ五限に開講された。
所属学科の勉強には今ひとつ熱意を抱けなかったが、半ば暇つぶしで履修したフランス語の授業はそれなりに面白く、良い気分転換になった。自由に馴染めず日々を持て余していた自分にとって、なかなか学ぶ機会のない第二外国語を学ぶことは、充実した大学生活をわずかでも堪能しているかのような錯覚に浸るにはちょうど良いものであった。
「ラーメン食べ行こう」
コミュニケイションの初回授業が終わって席を離れようとした矢先、隣に座る光蟲から声をかけられた。
ちょうど、夕食には麺類を食べようと考えていたところだったので了承した。
初対面の相手と食事に行くなど、これまでの人生においてほとんどないことで、特に二人でとなれば初めてのことだ。普段ならば面倒だとか煩わしいだとか何かしらネガティヴな感情を引き起こしそうなものであるが、この時そうした気持ちが発露しなかったことを、光蟲と並んでメインストリートを歩きながら意外に思った。また、決して話しやすい雰囲気を醸し出しているとは言えない私に気軽に声をかけてきた彼は、なかなかに物好きな男なのだろうと直感した。
今日、こうして授業の後に声をかけられることはむろん予想外ではあったものの、そろそろか、という予感はあった。
幼いころから友達は数えるほどしかいなかったが、その時々――小学校や中学校や高校――で、それなりに親しい同性は存在した。プライヴェートで遊ぶような濃い仲ではなく、例えば学校内で昼食を摂ったり、試験前に図書室で勉強をしたり、下校したりといった行動を共にすることが時々あるぐらいの、ほどほどの仲の良さを維持している同性である。そうした存在を自発的に求めたことはなかったが、不思議なことに都度タイミングよく獲得してきた。
大学に入ってからはまだそれらしい人間には出くわしていなかったが、少なからず意外性や好奇心を付随させて履修したフランス語の授業で、何か新たな展開が待ち受けているかもしれないという漠然とした予感を抱いていたのである。
彼がその時々で舞い込んでくるそれなりに親しい同性の一人ではなく、生涯追い続けたいと切望する存在であることに気付くのは、でも少し先のことだった。
光蟲冬茂を一言で表現するならば、「変人」という言葉がふさわしい。
夜のしんみち通りのくたびれて退廃的な雰囲気は、彼によく似合う。あの程度で退廃的などという言葉を想起するのが適切かどうかはわからないが、いずれにしても、一般的な大学生の「若い」とか「爽やか」といったイメージ――それも私が恣意的に創造した虚構かもしれない――とは結びつかない男だった。
彼の行きつけのラーメン屋は古びた内装だが、客が途切れることはなく、適度な活気を帯びていた。天井付近に設置されたテレビに映る野球中継――巨人対カープで、巨人が先制点を奪って流れに乗っていた――に、客の誰もが適当な関心を払いながら視線を投げかける様が、店の雰囲気に合っていて好ましいと感じる。
「へぇー、悦弥くん社会福祉学科なのかぁ。現役で受かるんだからすごいよなぁ」
今日会ったばかりの相手を下の名前で躊躇なく呼ぶのは普通ならいささか奇異に感じようものだが、違和感なく自然に受容できた。
光蟲は私と同学年だが、一浪していた。
「いやいや、推薦だからね。一般であの試験をパスできるほうがすごいよ」
「まあ試験なんてある意味運だからね。マーク式だから、鉛筆転がしたって受かるやつは受かるっしょ」
運ばれた味噌ラーメンは思いのほかヴォリウムがあり、食欲をそそられる。
「上智って、一般でも面接ある学科多いでしょ? 社会福祉学科しかり。俺こんなだから、面接あるところはハナから無理だったんだよね」
そう言うと、光蟲は生ビールをぐびぐびと音を立てて飲んだ。
こんなだから、と今日会ったばかりの人間に言われて、どんなだよと紋切り型のツッコミを入れるほど愚鈍ではなく、ラーメンを啜りながら半笑いで受け流す。やや太めの麺が、食道を軽快に通過していく。受け流しながら、でもきっとその通りだろうなと妙に納得した。
「やっぱ同じ店のビールでも、金曜日に飲むとさらに美味く感じるね」
彼のジョッキは二杯目だが、中身はすでに空になっている。
「次の日休みだと気が楽だよねぇ」
遅れて、私も一杯目の生ビールを飲み干した。
「まだ飲む?」
「そうだね。じゃあ、レモンサワーでも飲むかな」
「すいませーん。生一つとレモンサワー一つ、あと餃子と半チャーハンも」
光蟲がアルバイトらしき店員を呼んで、慣れた様子で追加注文する。
私の腹はそれなりに満たされていたが、彼はラーメンだけでは足りなかったのだなと、思わず頬が緩む。
カープの下位打線のタイムリーヒットで、店内がほんの少しどよめいた。
彼は私と同じくらいの中背――百七十センチ前後――で、細身の私と比べるとそれなりに肉付きはよく、黒縁のメガネをかけてややうっとうしい前髪をした、一見すると真面目そうな青年である。
私の所属学科は第二外国語の履修が必修ではなかったが、せっかく外国語教育に定評のある大学に通っていながら英語しか勉強しないというのは、学業に対して興味関心の薄い私でさえももったいない気がした。一方、光蟲の所属する文学部哲学科は第二外国語が必須だったが、必修言語はドイツ語とラテン語で、フランス語は対象外だった。ゆえに、私も彼もフランス語は自発的に履修していたことになる。
フランス語の初級コースにはコミュニケイションとグラマーの二科目があり、私たちは両方とも受講している。どちらも履修者十名にも満たずこぢんまりとしていた。グラマーは水曜日、コミュニケイションは金曜日の、それぞれ五限に開講された。
所属学科の勉強には今ひとつ熱意を抱けなかったが、半ば暇つぶしで履修したフランス語の授業はそれなりに面白く、良い気分転換になった。自由に馴染めず日々を持て余していた自分にとって、なかなか学ぶ機会のない第二外国語を学ぶことは、充実した大学生活をわずかでも堪能しているかのような錯覚に浸るにはちょうど良いものであった。
「ラーメン食べ行こう」
コミュニケイションの初回授業が終わって席を離れようとした矢先、隣に座る光蟲から声をかけられた。
ちょうど、夕食には麺類を食べようと考えていたところだったので了承した。
初対面の相手と食事に行くなど、これまでの人生においてほとんどないことで、特に二人でとなれば初めてのことだ。普段ならば面倒だとか煩わしいだとか何かしらネガティヴな感情を引き起こしそうなものであるが、この時そうした気持ちが発露しなかったことを、光蟲と並んでメインストリートを歩きながら意外に思った。また、決して話しやすい雰囲気を醸し出しているとは言えない私に気軽に声をかけてきた彼は、なかなかに物好きな男なのだろうと直感した。
今日、こうして授業の後に声をかけられることはむろん予想外ではあったものの、そろそろか、という予感はあった。
幼いころから友達は数えるほどしかいなかったが、その時々――小学校や中学校や高校――で、それなりに親しい同性は存在した。プライヴェートで遊ぶような濃い仲ではなく、例えば学校内で昼食を摂ったり、試験前に図書室で勉強をしたり、下校したりといった行動を共にすることが時々あるぐらいの、ほどほどの仲の良さを維持している同性である。そうした存在を自発的に求めたことはなかったが、不思議なことに都度タイミングよく獲得してきた。
大学に入ってからはまだそれらしい人間には出くわしていなかったが、少なからず意外性や好奇心を付随させて履修したフランス語の授業で、何か新たな展開が待ち受けているかもしれないという漠然とした予感を抱いていたのである。
彼がその時々で舞い込んでくるそれなりに親しい同性の一人ではなく、生涯追い続けたいと切望する存在であることに気付くのは、でも少し先のことだった。
光蟲冬茂を一言で表現するならば、「変人」という言葉がふさわしい。
夜のしんみち通りのくたびれて退廃的な雰囲気は、彼によく似合う。あの程度で退廃的などという言葉を想起するのが適切かどうかはわからないが、いずれにしても、一般的な大学生の「若い」とか「爽やか」といったイメージ――それも私が恣意的に創造した虚構かもしれない――とは結びつかない男だった。
彼の行きつけのラーメン屋は古びた内装だが、客が途切れることはなく、適度な活気を帯びていた。天井付近に設置されたテレビに映る野球中継――巨人対カープで、巨人が先制点を奪って流れに乗っていた――に、客の誰もが適当な関心を払いながら視線を投げかける様が、店の雰囲気に合っていて好ましいと感じる。
「へぇー、悦弥くん社会福祉学科なのかぁ。現役で受かるんだからすごいよなぁ」
今日会ったばかりの相手を下の名前で躊躇なく呼ぶのは普通ならいささか奇異に感じようものだが、違和感なく自然に受容できた。
光蟲は私と同学年だが、一浪していた。
「いやいや、推薦だからね。一般であの試験をパスできるほうがすごいよ」
「まあ試験なんてある意味運だからね。マーク式だから、鉛筆転がしたって受かるやつは受かるっしょ」
運ばれた味噌ラーメンは思いのほかヴォリウムがあり、食欲をそそられる。
「上智って、一般でも面接ある学科多いでしょ? 社会福祉学科しかり。俺こんなだから、面接あるところはハナから無理だったんだよね」
そう言うと、光蟲は生ビールをぐびぐびと音を立てて飲んだ。
こんなだから、と今日会ったばかりの人間に言われて、どんなだよと紋切り型のツッコミを入れるほど愚鈍ではなく、ラーメンを啜りながら半笑いで受け流す。やや太めの麺が、食道を軽快に通過していく。受け流しながら、でもきっとその通りだろうなと妙に納得した。
「やっぱ同じ店のビールでも、金曜日に飲むとさらに美味く感じるね」
彼のジョッキは二杯目だが、中身はすでに空になっている。
「次の日休みだと気が楽だよねぇ」
遅れて、私も一杯目の生ビールを飲み干した。
「まだ飲む?」
「そうだね。じゃあ、レモンサワーでも飲むかな」
「すいませーん。生一つとレモンサワー一つ、あと餃子と半チャーハンも」
光蟲がアルバイトらしき店員を呼んで、慣れた様子で追加注文する。
私の腹はそれなりに満たされていたが、彼はラーメンだけでは足りなかったのだなと、思わず頬が緩む。
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