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十章
10-7
しおりを挟む 初めて会った相手にする話ではなかった。ユウさんは言葉を失っている。そりゃそうだ。ここは相談所でもメンタルヘルスでもなければただの居酒屋だ。
気持ちが不安定だからか、やけに人の視線を感じる。まるで店中の客が自分に注目しているような。この店に客は二人しかいないのに。
漢梅サワーを飲み干し、カバンから財布を取り出す。長居は無用だ。お通し込みで千円いかないのはありがたい。店内の空気を悪くしてしまった以上、もう二度と来れないが。
別に救いを求めているわけじゃない。ただ、心に溜まった毒を吐き捨てたかっただけ。被害者ぶってはいるが、姫川琉璃からすればわたしだって先輩と同罪なのだ。わたしが元彼にアポイントをとらなければ、ここまで世間を騒がすことはなかった。彼女の芸能生命を奪うこともなかった。
悔しい。
悔しい。悔しい。悔しい。
「……梅茶漬け、お待ち」
「え?」
黒い焼き物の茶碗に、白米と薬味、真ん中にちょこんと載った梅干し。梅と出汁のいいにおいが鼻孔をくすぐる。
「あの、これは……」
「ゆき……あちらの客からだ」
ユウさんの視線を追うと、カウンターの死角から青年がひょっこりと顔を出した。
「どうも」
青年につられて、わたしも会釈する。
「ここのお茶漬け、シメなのに食べごたえがあっておすすめなんですよ。さっきからうるさくしちゃってたお詫びも兼ねて」
驚いた。声ははきはきして、身なりも整っていて、絵に描いたような好青年だった。おまけに声が大きかったという自覚もある。大学生だろうか。
ナンパ……ではないか。わたしの知っている「あちらのお客様から一杯」とは違う。
「漢梅サワーを飲んでたので梅は食べられると思ったんですが、もしかして苦手でした?」
「あ、いや」
改めてお茶漬けと向き合う。
小盛りのご飯の上に、白ごまと梅干し。千切った海苔は炙ってあるのか、香ばしい。
おいしそう。食欲が湧くなんていつ以来だろう。
「いただくわ。ありがとう」
「いえいえ」
青年はにこりと微笑み、カウンターの奥に戻った。
「いただきます」
小さなレンゲでご飯と出汁をすくう。ふぅふぅと冷ましてから、ゆっくりと一口。
昆布と鰹の風味が広がる。見た目に反し、しっかりとした味付け。でも濃すぎずさっぱりして、クセがない。ほのかに漂う梅の香りが爽やかだ。ご飯もふんわりしている。
優しい味って、こういうのを指すのだろうか。
今度は梅干しをほぐし、しっかり混ぜ込む。口の中で唾がぎゅっと出てきた。食べると強い酸味が舌を刺激する。それを白出汁が包み込み、旨みを重ねている。白ごまのつぶつぶ食感も楽しい。
「おいしいです」
「そうか、よかった」
「特にこの梅干しが、酸っぱいんだけど甘みもあって」
「ああ、それは駅前の漬物屋で買っているんだ。自分でも作ったことはあるんだが、ここの味には勝てなくてな」
ユウさんが屈託のない笑みを見せる。年相応で、可愛らしい。
「ちなみに、お通しをお茶漬けに入れてもうまいぞ」
ごくり、と喉が鳴る。
言われた通り、残った身欠きにしんを投入し、軽く混ぜる。
三度、口の中へ。
ぶわっ、と味の波が押し寄せてくる。
ご飯の甘み、梅干しの酸味、出汁の滋味に、にしんのコクと塩味が加わって、舌を通じて脳へと味を刻み込んでいく。口内が空っぽになるのが惜しくて、レンゲを運ぶ手が自然と動いてしまう。
そうだ、わたしはお腹が空いていたんだ。
空っぽの胃袋に、お茶漬けを次々にくべていく。
額にうっすらにじむ汗が心地よい。身体だけでなく心も温まっていく感じがした。
あっという間に茶碗の中身はなくなった。出汁まで飲みきって、完食だ。
「おいしかったですか?」
後ろに立っていたのは、梅茶漬けをご馳走してくれた青年だった。会計を済ませたのか、開いた財布とレシートを片手に握っている。
「ええ、とても。久しぶりに食事を楽しんだわ」
「それはよかった」
わたしの顔は自然とほころんでいた。一杯のお茶漬けで、これほどに気持ちが軽くなるなんて。
やっぱりこのままじゃ終われない。
先輩の言うことが間違っていないとしても、自分の目指す道とは違うのだ。誰もがわたしを否定したって、わたしは自分を信じたい。信じる道を、信じたい。
わたしは自然と、手を差し出していた。
青年は一瞬戸惑う様子を見せたが、おごったことへの感謝と受け取ったのか、握り返してくれた。ああ、酔ってるな、わたし。上半身が少しふらついた。
「おっと」
手を連結していたため、青年もバランスを崩してしまい、財布を落としてしまう。
「ごめんなさい、すぐに拾うね!」
いけない。これじゃあ若い子に絡んでいるだけのやっかいな酔っ払いだ。わたしは身を屈め、椅子の下に滑り込んだ長財布に手を伸ばす。すぐ近くには、お札入れから飛び出したと思われる名刺もあった。
「ごめんね、これで全部?」
「はい、ありがとうございます」
長財布と名刺をそれぞれ差し出す。青年はにこやかに受け取って、もう一度会釈をしてから店を出ていった。
「口ではああ言っていたが、完全に吹っ切れてはいないか」
青年を見送るユウさんの目は、なぜか心配そうだった。
わたしが尋ねるのは少々野暮なようだ。彼にも辛い過去があるのだろうか。あるいは今も、しがらみに囚われているのかもしれない。次にこの店で会うことがあったら、もっと話してみたいな。
食の好み。
学校のこと。あるいは仕事のこと。
他のおすすめメニュー。
それと。
どうして、あなたが望海すみかの名刺を持っているのか。
気持ちが不安定だからか、やけに人の視線を感じる。まるで店中の客が自分に注目しているような。この店に客は二人しかいないのに。
漢梅サワーを飲み干し、カバンから財布を取り出す。長居は無用だ。お通し込みで千円いかないのはありがたい。店内の空気を悪くしてしまった以上、もう二度と来れないが。
別に救いを求めているわけじゃない。ただ、心に溜まった毒を吐き捨てたかっただけ。被害者ぶってはいるが、姫川琉璃からすればわたしだって先輩と同罪なのだ。わたしが元彼にアポイントをとらなければ、ここまで世間を騒がすことはなかった。彼女の芸能生命を奪うこともなかった。
悔しい。
悔しい。悔しい。悔しい。
「……梅茶漬け、お待ち」
「え?」
黒い焼き物の茶碗に、白米と薬味、真ん中にちょこんと載った梅干し。梅と出汁のいいにおいが鼻孔をくすぐる。
「あの、これは……」
「ゆき……あちらの客からだ」
ユウさんの視線を追うと、カウンターの死角から青年がひょっこりと顔を出した。
「どうも」
青年につられて、わたしも会釈する。
「ここのお茶漬け、シメなのに食べごたえがあっておすすめなんですよ。さっきからうるさくしちゃってたお詫びも兼ねて」
驚いた。声ははきはきして、身なりも整っていて、絵に描いたような好青年だった。おまけに声が大きかったという自覚もある。大学生だろうか。
ナンパ……ではないか。わたしの知っている「あちらのお客様から一杯」とは違う。
「漢梅サワーを飲んでたので梅は食べられると思ったんですが、もしかして苦手でした?」
「あ、いや」
改めてお茶漬けと向き合う。
小盛りのご飯の上に、白ごまと梅干し。千切った海苔は炙ってあるのか、香ばしい。
おいしそう。食欲が湧くなんていつ以来だろう。
「いただくわ。ありがとう」
「いえいえ」
青年はにこりと微笑み、カウンターの奥に戻った。
「いただきます」
小さなレンゲでご飯と出汁をすくう。ふぅふぅと冷ましてから、ゆっくりと一口。
昆布と鰹の風味が広がる。見た目に反し、しっかりとした味付け。でも濃すぎずさっぱりして、クセがない。ほのかに漂う梅の香りが爽やかだ。ご飯もふんわりしている。
優しい味って、こういうのを指すのだろうか。
今度は梅干しをほぐし、しっかり混ぜ込む。口の中で唾がぎゅっと出てきた。食べると強い酸味が舌を刺激する。それを白出汁が包み込み、旨みを重ねている。白ごまのつぶつぶ食感も楽しい。
「おいしいです」
「そうか、よかった」
「特にこの梅干しが、酸っぱいんだけど甘みもあって」
「ああ、それは駅前の漬物屋で買っているんだ。自分でも作ったことはあるんだが、ここの味には勝てなくてな」
ユウさんが屈託のない笑みを見せる。年相応で、可愛らしい。
「ちなみに、お通しをお茶漬けに入れてもうまいぞ」
ごくり、と喉が鳴る。
言われた通り、残った身欠きにしんを投入し、軽く混ぜる。
三度、口の中へ。
ぶわっ、と味の波が押し寄せてくる。
ご飯の甘み、梅干しの酸味、出汁の滋味に、にしんのコクと塩味が加わって、舌を通じて脳へと味を刻み込んでいく。口内が空っぽになるのが惜しくて、レンゲを運ぶ手が自然と動いてしまう。
そうだ、わたしはお腹が空いていたんだ。
空っぽの胃袋に、お茶漬けを次々にくべていく。
額にうっすらにじむ汗が心地よい。身体だけでなく心も温まっていく感じがした。
あっという間に茶碗の中身はなくなった。出汁まで飲みきって、完食だ。
「おいしかったですか?」
後ろに立っていたのは、梅茶漬けをご馳走してくれた青年だった。会計を済ませたのか、開いた財布とレシートを片手に握っている。
「ええ、とても。久しぶりに食事を楽しんだわ」
「それはよかった」
わたしの顔は自然とほころんでいた。一杯のお茶漬けで、これほどに気持ちが軽くなるなんて。
やっぱりこのままじゃ終われない。
先輩の言うことが間違っていないとしても、自分の目指す道とは違うのだ。誰もがわたしを否定したって、わたしは自分を信じたい。信じる道を、信じたい。
わたしは自然と、手を差し出していた。
青年は一瞬戸惑う様子を見せたが、おごったことへの感謝と受け取ったのか、握り返してくれた。ああ、酔ってるな、わたし。上半身が少しふらついた。
「おっと」
手を連結していたため、青年もバランスを崩してしまい、財布を落としてしまう。
「ごめんなさい、すぐに拾うね!」
いけない。これじゃあ若い子に絡んでいるだけのやっかいな酔っ払いだ。わたしは身を屈め、椅子の下に滑り込んだ長財布に手を伸ばす。すぐ近くには、お札入れから飛び出したと思われる名刺もあった。
「ごめんね、これで全部?」
「はい、ありがとうございます」
長財布と名刺をそれぞれ差し出す。青年はにこやかに受け取って、もう一度会釈をしてから店を出ていった。
「口ではああ言っていたが、完全に吹っ切れてはいないか」
青年を見送るユウさんの目は、なぜか心配そうだった。
わたしが尋ねるのは少々野暮なようだ。彼にも辛い過去があるのだろうか。あるいは今も、しがらみに囚われているのかもしれない。次にこの店で会うことがあったら、もっと話してみたいな。
食の好み。
学校のこと。あるいは仕事のこと。
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https://kakuyomu.jp/works/1177354054894176653
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