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六章
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和室の真ん中で、女性が泣いていた。
彼女は白いワンピースを着ていたが、それは所々生地が掠れていたり解れて(ほつれて)いたりして、ずいぶんと昔から着続けているように思えた。何度も何度も洗濯する度に、生地が傷んできたのだ。
私は彼女のすぐ側に立っていた。
彼女の傍らにティッシュの箱があった。彼女はそこから一枚、ティッシュを引っ張り出すと鼻水をかんだ。
声を押さえつつ、彼女は肩を震わせて泣いていた。
ノースリーブのワンピースから伸びる白い肩や、細く繊細な黒髪が、とても美しい。ずっと見ていたかった。
どんな顔をしているのだろう、どうしたら、こちらを見てくれるのだろう。
思わず手を伸ばした。
彼女の黒髪に触れたかった。
「え?」
自分の手を見て、目を疑った。
なんだこの手は。ゴツゴツしていて筋ばっていて、まるで男の手だ。右の小指の爪の近くに、小さなほくろのある、男性の手だった。
私は女じゃなかったか?
………いや、最初から勘違いをしていたのかもしれない。男なのだ。
でなければこの、下半身にいきり立つこのよく解らない物体は何だ。この女を今すぐ押し倒して、めちゃめちゃにしてやりたい、この欲望は何だ。
こんなに攻撃的な気分になるのは、きっと生まれて初めてだ。私は舌なめずりをしながら、再び彼女の頭に手を伸ばした。
「おかあさん」
手を引いた。振り返れば、和室の入り口に小さな男の子が立っていた。私は逃げ場を探して後退るが、どうやら男の子には私が見えていないようだった。
「どうしたの?どこか痛いの?」
男の子は彼女に駆け寄ると、隣にチョコンと正座して彼女に抱き付いた。彼女はそれを受け止め、男の子の頭を優しく、優しく撫でた。そしてか細い声で
「ごめんね、ショウヘイ。お母さん弱くて、ごめんね」
と言った。
男の子のTシャツにはいつか流行った戦隊ものの絵が描かれていて、背中にはロボットがポーズをとっていた。
彼女の腕に抱かれ、その絵が描かれたTシャツの生地が歪む。歪む。
歪む……………。
………
………………
………………………
気だるい。
毎回見ている夢が、いつの間にか段々と正中へと近付く内容になっていく。他人の事情を知るなんてことは実に不本意だが、よくよく考えてみれば実在する人ではないかもしれない。
しかし「ショウヘイ」と呼ばれていた男の子は、ほかならぬ「あの子」なのだが。
夜中だった。
暗闇の中でモゾモゾと体を動かして寝返りを打つと、自分の腕に何かがしがみついてきた。半分眠っている頭でそれが何か考え、誰かの手だと気付いた。
タオルケットを捲ってみる。
小さい男の子が、私の腕にしがみついていた。添い寝でもしてるつもりだろうか。
「なんでこんな夢ばっかり見せるの。私には何にも出来ないよ?」
喋るために口を開く。それだけでも億劫だ。
どうしてこんなに体が重いのだろう。そうか、これも夢か。
男の子は何も応えなかった。代わりに手の力を強め、体を密着させてきた。氷のように冷たかった。
眠気の成せる技、私は男の子の小さくて華奢な体を抱き締めて、しっかりとタオルケットをかけてやった。そのまま目を閉じて朝まで眠った。
………………………
………………
………
先日の夢は妙に現実味があった。いつも見るときは人形のような、機械のような規則正しい泣き声を上げている女性が、あの夢では全く違うものだった。
後から現れた男の子も、今までとは違う変化だった。………何者かに後ろから抱き付かれることを除いて、だが。あれは本当に怖かった。
夢の男の子は、私がよく見かける男の子だった。これは確かだ。着ている服、年頃、何より顔が一致する。
あの女性は、男の子━━ショウヘイ、と呼ばれていたな━━の母親らしい。じゃなきゃ自分から「お母さん」なんて言わないだろうし。
二人が親子ということは解った。
まあ、そんなことよりも何故男の子、ショウヘイくんが「幽霊」として現れるのか、そちらのほうが気になる。
そしてショウヘイくんのお母さんは今、どこにいるのだろう。
何故私の前に現れるのだろう。
さて、この話はそこそこに、先に進めさせていただきたい。
あの妙にリアルな夢から数日後、藤木さんと映画を見に行った。
ちなみにその数日の間にもいつもの夢を見たが、いつも通りの、女性がただ機械的に泣いてるだけのものだった。
緊張していて、朝からほとんど立って過ごした。
約束の時間は15時だったが、あまりにも気が急いていたために準備を始めたのは10時、終わったのは11時。馬鹿みたいだ。生娘じゃあるまいし…………って、生娘だったわ。
居間でテレビを見ながら、何度も自分の顔を手鏡で確認した。我ながら綺麗なものだった。白い肌に少し太めに描いた眉、切れ長の目尻に僅かばかりの赤いシャドウを乗せた。目元の自己主張が強い化粧なので、頬や唇にはほとんど色を乗せずにバランスを取った。
「うん、かわいい」
かわいいけど、にっこり笑うと娼婦みたいに媚びた雰囲気になる。それでも綺麗だった。
少し、気にしすぎなのかもしれない。
服装を確認した。紺の細かい水玉模様のワンピースに、ニーハイ丈の黒いソックス。子供っぽい。
楽しみではあるが、少しだけ、行きたくないなとも考えた。準備するだけでこのザマだ。緊張していて、お腹だって痛む。やっぱり私なんかが呑気に男と映画だなんて、烏滸がましいのではなかろうか。
そんなことをしていい権利が、自分にはないような気がする。
「だめだ………」
自分の弱い心に、精神を蝕まれてドン底まで落ちて行きそうだった。深く考え込んではだめだ、悪いことばかり頭に浮かんでしまう。
その考えついた「悪いこと」は次第に暗くどろどろした感情になり、全身を張り裂かんばかりに増殖する。
己の限界までそうなってしまうと、私の場合、毎日ちょっとしたことで泣き出したり、仮病で仕事を頻繁に休んだりしてしまう。
社会生活をする上で、そういった行動は非常にまずい。しかも精神的なものであるため、職場で腫れ物扱いされること請け合い。そんなの絶対に嫌だ。
気を取り直して、テレビを見ることにした。
そのままテレビを見ながらソファーにだらしなく座って過ごしていたら、15時ぴったりに来客のチャイムが鳴った。眠くてうとうとしていた私は、それが最初何の音なのかが解らなく、テレビから視線を外してボーッと天井を見た。
「あっ」
二度目のチャイムが鳴って、ようやく思い出した。急いでテレビを消して、床に放り出していたカバンを手に取って玄関に向かう。
「こんにちは」
「よだれついてるよ、ほっぺた」
玄関のドアを開けて開口一番、頬のよだれを指摘された。複雑である。
慌てて手で頬を拭う私を、藤木さんはニコニコしながら見ていた。できれば、見るな、と言ってやりたかった。
「寝てた?」
「いや、うとうとしてました……」
「ごめんね、午前中は仕事だったんだ」
彼は黒いシャツにベージュのパンツ姿だった。何とも素敵なのだが、こういうときに気の利いたことが言えるほどの余裕がなかった。
「行こうか」
「はい」
「あ、鍵ちゃんと閉めて」
「あっ、あー……はい」
何が何だか解らないまま出発しようとして、家の施錠を忘れた。
なんかもう、グダグダだ。
………
………………
………………………
シリーズもののファンタジー映画だった。前評判もよく、客入りも上々のようだ。劇場はほぼ満席で、自分達の席に向かうだけで何人かの足をうっかり踏みそうになるほどである。
ようよう座って売店で買った飲み物を置こうにも、隣の小さな女の子がやたら触ってきてこぼしそうなので、仕方なく自分の膝の間に挟んだ。馬鹿みたいだったが、他にどうしろと。と、途方にくれていた私の飲み物を藤木さんが横から取り上げて、二人の間にあるドリンクホルダーに入れた。彼の分の飲み物は、置き場が無いので手に持ったままだ。
「いいですよ、使ってください」
「大丈夫だよ」
そう微笑みかけてくる藤木さんの顔は、いつも通り綺麗だった。が、薄暗いせいか目がギラギラしてるように見えて、なんだか恐かった。気のせいなんだけども。
やがて完全に暗くなり、映画が始まった。この映画のシリーズは母と揃って、最初から熱心に見続けているほどの筋金入りのファンなので、私は一秒も見逃すまいとスクリーンを見詰め続けた。隣の女の子も椅子に正座をして、身を乗り出して見ていた。
「…………」
藤木さんはというと、多分映画を見ていた。
多分というのは、途中何度か、……いや、頻繁に藤木さんの座っている方から視線を感じたからだ。あまり意識をして自意識過剰な妄想が始まりそうだったので、出来るだけ気にしないよう努めた。
もしかしたら気のせいなのかも知れない。
そう思ったが、映画が終わってエンドロールが流れだした頃にふと藤木さんのほうを見ると、
「…………」
見ていた。寒気がした。
まるで別人のようだった。冷たく鋭い視線でこちらを見ている。口元だけが優しい微笑みを浮かべていて、それが一層不気味に思えた。
私は見なかったフリをして、スクリーンに目を向けた。頭から冷水を浴びたようとはまさにこのこと、一瞬で楽しい気持ちが吹き飛んだ。
あんな表情、普段の藤木さんからは想像がつかない。それどころか、正常な人間ができる表情とは思えない。
エンドロールが終わり、辺りが再び明るくなった。
「行こっか」
そう言って、こちらに手を差し出す藤木さん。いつもの優しい笑顔だった。
「何か食べに行こう」
「はい」
穏やかな彼の声に、あれは気のせいだ、と妙に納得した。暗闇のせいで少し恐く感じただけだろう。
。
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