極上の女

伏織綾美

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五章

5-2

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誰かの叫び声が聞こえた。
飛び起きて周囲を見回す。いつも通りの自分の部屋だ。

隣の母の寝室からは、小さないびきが聞こえる。

そうか、今のは私が叫んだんだな。


暗い色のカーテン越しに、外の光が入って部屋を明るくしている。もう夜ではなかった。

午前5時。東の空に昇りだした太陽が、人気のない住宅街を鈍く照らす。日中のあわただしさが嘘のように静かで、美しい瞬間だった。


さっきまで見ていた夢のせいで早鐘のように動いてた心臓が、徐々に緩やかになっていく。冷や汗をかいたせいで、パジャマが湿ってる。


気持ちが悪い。
どうしてこんな夢を見るのだろう。
あの女性は一体何処の誰なんだ。

そして今回はまた別の展開があった。背中に乗ってきたのは何だったのか。


白い腕、小さな手………まさか、あの男の子だろうか?だが、いつも見るときは、とても幽霊とは思えないほど健康的な見た目なのだが。それとさっきの夢とを比べると、同一のものとは思えない。

二度寝してもいい時間帯だが、どうもそんな気分にはなれなかった。というか、完全に目がさめてしまった。


思わず、大きな溜め息を吐いた。うんざりする。いくら同じ夢ばかりを見せても、私には何もしてやれない。他人のために何かしてやる余裕なんかないのだ。


ここは一つ、ドラマチックに頭を抱えて悩ましく叫びたいところだが、残念ながら私の心はそこまで健康じゃない。そんなことをしても、何にもならないことは、とうの昔に悟っている。
枕元の充電器スタンドから携帯を取って、ポチポチとゲームを始めた。所詮夢や幽霊だ。どうでもいい。












………
………………
………………………


結局あのまま、ギリギリまでゲームしてた。風呂に入るのも朝食を摂るのも面倒くさくて、身だしなみ以外はほとんどすっぽかしてきた。

そのせいか、店に出勤した際小木さんに「寝てないの?」と心配された。


「いつも顔真っ白だけど、なんか今日は真っ青だよ」

「それ、どっちにしろ不健康じゃないですか」


小木さんなりに私を心配しているようで、今日はあまり冗談を言ってきたり、ちょっかい出してきたりはなかった。
いつもは隙あらばエプロンの紐をほどいたり、接客中に客の後ろで変な顔をしてくる。


別に具合が悪いわけじゃないし、むしろ機嫌はいい。ゲームソフトのコーナーの方を見る度に、昨日のことを思い出してニヤついてしまう。とても楽しかった。

必死に自分を抑えてるつもりでも、やっぱり舞い上がってしまう。向かい合って食事をしてる時の藤木さん、帰り道に手を繋いだときの藤木さん、とにかく彼のことが頭から離れない。


顔色が悪いのにニヤニヤしている私がよほど不気味なのか、昼近くになって、小木さんがさりげなく私のエプロンのポケットに体温計を忍ばせてきた。先方のTシャツの襟首から、中に落として返してやった。

わざとらしく反応する小木さんに、こちらもわざとらしく大笑いしてやった。


そうやってふざけている私達の横を、出勤してきた堀さんが気配もなく通り抜けて行った。いつものことなので気にしなかった。


「あれ?」しかし小木さんは違った。「今日は出張って言ってたのに」と。そういえば、確かにそんなことを言っていた。私がビンタした後に。

本人に質問しようにも、休憩スペースに入ったまま出てこない。寝てても起こしたら不機嫌になるし、事務処理などの仕事をしてても話し掛けたら不機嫌になる。本当に七面倒くさい奴だ。




と、この件は急に客が増えたのでなおざりになった。私らが一々考えても、時間の無駄だ。


それから数時間して、私の退勤時間が近付いた頃に、堀さんはいつものエプロン姿でレジの所まで出てきて、私を呼び出した。ちょうど、客足が途絶えたタイミングだった。


「吉沢さん、ちょっと顔貸して」


前々から思っていたが、言葉の選び方がおかしい。本人にそんなつもりはないのだろうが、たまにその物言いに腹の立つこと山の如しだ。


堀さんの後に続いて休憩スペースに入り、勧められてソファーに座る。

なんだろう、ついに馘(くび)か?もしそうだとしたら、堀さんの個人的理由で解雇されるたとしか思えないだろうなあ。どうしてくれよう。


「えっ」


予想外なことに、いきなり両手を掴んで引っ張ってきた。そして忌々しげに私の掌を睨み、鋭く舌打ちをした。


「昨日は真っ直ぐ家に帰ったの?」

「なんでそんなことを訊くんですか?」


堀さんの手を無理矢理振りほどいて、訳が解らないまま質問した。だが彼は答えてくれず、また別の問いかけをした。


「あの人に何かされたの?」

「あなたに関係ありますか?何なんですか?」




思い切り罵れたら気持ち良かろうが、どう言ってやればいいのかが解らなかった。物言いはキツイし、いまだに私が触った物は綺麗に拭いてからじゃないと使わないし、あからさまに無視されることが多い。

そこまでされてるのに、目の前に居る、このボサボサ頭で無愛想なこの人を、嫌えない自分が居る。だって、本当は良い人なんだもの。
私が仕事でミスをしても、きちんとフォローしてくれるし、ほとんど無視していても、気付いたら私のロッカーの上にジュースの缶が乗ってたりする。


「私が触った物は、そんなに汚いんですか」

「…………」

「私が嫌いなら、早く馘にしてください」


こぼれそうになる涙を必死に堪えながら、はっきり言った。唇を真一文字にして、どう言ったらいいのか解らないといった様子の堀さん。

しばし答えを待ったが、何も言おうともしない。呆れた。腕時計を見たらもう既に18時を越えていたので、堀さんを放っといて、帰り支度を始めた。



上着を着て、携帯で母からのメールを確認して、カバンを持ってさあ出ていこうという時になって、やっと


「馘にはしないよ」


と、背後から声を掛けられた。先ほどの刺々したものとは打って変わって、穏やかで優しい声だった。


「君が心配なだけだから。何かあったら言って。電話してくれてもいいから」


息が止まりそうだった。いや、実際止まってた。

なんだこれは、どういうことだ。私に気があるのか?いやいや、まさか有り得ない。そうだとしても、いわゆる飴と鞭の「鞭」の使い方が異常だ。


「嫌です」


あまり深く考えずに、きっぱりと断った。そのまま早足で店から出ていった。









………
………………
………………………



頭の回転が早く計算や統計が得意な母は、地元のチェーン店の本社経理をたった一人で担当しているそうで、元々帰宅が遅い。なので夕食は私が買ってくるか、作っている。

今日も駅ビルのスーパーで半額の弁当を買ってから帰った。少し暗くなった空を見上げながら、意味の解らないつぶやきばかりが蠢く頭の中を空っぽにしたくて、軽く息を吐いた。何も良くならない。


途中、前の歩道を歩いていた高校生のカップルが邪魔でぶつかりそうになると、女のほうがこちらに気付き、男にぴったりと身体を寄せて道を空けた。

その顔を見れば、女の方も私を見ていて、羨ましいでしょとばかりにニヤニヤしていた。誰がお前の不細工な彼氏なんか羨むか。気色悪い。殺してやりたい。


多少悔しいのは確かだ。私はちゃんと学校にすら行けなかったし、今の今まで恋愛に現を抜かす余裕も無かった。頑張って働いて、貯金して、それで今やっと落ち着いてきたのだ。

しかも自分の心の健康も保てていない。多分何かの疾患はあろうが、病院に行くお金も無かった。


背後から聞こえるカップルの(とくに女の)堪に障る笑い声を聞いて、近くにある自販機を蹴りつけたい衝動に駆られながらも、私は早足で歩き続けた。心の中は全く前に進めていなかった。


自分のこともちゃんと面倒見切れてないのに、恋愛なんかしていいのだろうか?

手首を切ったり、死のうとしたりした過去があって、いまだに身体的精神的にきつい時は幻覚を見たりすることもあると知ったら、藤木さんはどんな顔をするだろうか。


「………私が一番気持ち悪い」


左の手首には、もう二年以上何もしていないのに、傷痕が白くはっきりと残っていた。今までは別に恥じることではないと思ってそのままにしていたが、本当は隠したほうがいいのかも知れない。


一人心地で考えていると時間の流れが早く感じるもので、家に着いた頃には既に日は落ちていて、真っ暗だった。街灯を頼りにカバンから鍵を取り出し、玄関のドアを開けて入った。


「おかえりなさい」


明かりを点けようとスイッチに手を伸ばしたら、別の物に触れた。冷たくて、柔らかい。


「おかえりなさい」


男の子の声だった。私が触ってるあたりから聞こえる。あれ?生きてる?


「あのさ、ここ君んちじゃないんだよ」


色々と思うところはあるが、とりあえず一番伝えておきたい旨を述べた。だがそれには無反応で、


「ママが帰ってこない」


と言われた。別の家に帰ってるからじゃないかなぁ。


「おうちはどこ?一緒に交番行く?」





触っているのは腹だと仮定して、男の子の腕を掴もうと手を少し動かした。それに反応してか、男の子はサッと身を引いた。そしてバタバタと騒がしく、廊下を走って階段を掛け上がっていく足音がする。

それが少し頭にきたので、今日こそは捕まえて追い出してやろうと思い、買い物袋をそこら辺に放り出して、土足のまま家に上がろうとした。だが、それを制止するかのように、来客のチャイムが鳴り響く。タイミングが良すぎてまた少し腹が立つ。


私は玄関の明かりを点けると、鍵を掛け忘れていたドアを開いた。


「こんばんは」

「…………どうも」


スーツ姿で、手には紙袋を持った藤木さんが居た。


「これ。仕事の取引先の方から貰ったやつ。お母さんと一緒に食べて」


何やら、少し照れているように見えなくもない。はにかんだ笑みを浮かべつつ、その紙袋をこちらに差し出してくる。

それを受け取ろうとした瞬間、頭上からドスンドスンと音がし始めた。ビックリして手を引っ込めた私に、藤木さんが首を傾げた。


「クッキー、嫌いだった?」

「い、いえ、クッキー大好きです。……………ごめんなさい、うるさくて」


何やら二階で運動会でもしているような、走り回る足音がしている。藤木さんが居なければ、すぐにでも取り押さえに行けたのに。


だが藤木さんは私の発言に、キョトンとした表情になった。





「うるさいって、何が?」





悪寒がした。なるほど、やはり幽霊か。もしくは私の幻覚か。

だめだ、上手く誤魔化さないと。
頭がおかしい不良品だって知られたら、きっと私を嫌う。

だが困ったことに、上手く誤魔化す術が思い付かない。ちゃんと伝えたい、でも口に出すのは怖い。

そんな私の様子を見て、彼は心配そうに顔を覗き込んでくる。無理矢理笑顔を作ってみた。


「すいません、耳鳴りがひどいみたいです」


強ち嘘ではない。耳鳴りなら常に聴いている。ギリギリ聴こえるぐらいの小さな耳鳴りが、幾ら叫んでも耳を塞いでも消えない。
子供の頃からずっとそれは変わらない。


「大丈夫?」そう言いながら、彼の大きな手が私の頬に触れる。指先が冷たかった。


「何かあったらいつでもうちにおいで。夜中でも、朝でも、僕が居るときはいつ来てもいいよ」


細い指先が、そっと耳の後ろを撫でる。掌が頬を包む。心地良かった。

ありがとう、と言い掛けたところで、素早くキスされた。


「じゃあ、おやすみ」


そう言って、さっさと帰って行った藤木さんだった。私は玄関のドアを閉め、鍵を掛け、靴を脱いで、夕食の入った袋を持ってリビングに向かった。いつの間にか足音は消えていた。

食卓に袋を置いたところで、やっと我が身に起こったことを把握できた。

キスされた。

そう自覚した途端、顔が熱くなった。








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