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序章
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暑くて、寒かった。
彼には自分の現状が理解出来なかった。拭っても拭っても、額を流れる汗は止まらない。赤い汗が滴り落ちる。
ここは何処なのか、どうして自分はここに居るのか。そして何より、どうしてこんなに取り乱しているのか。自分の荒い息遣いが、遥か遠くに聞こえる。
身体が震えている。奥歯がカチカチと鳴って脳を揺らす。もうダメだ、逃げよう。
そう決意して、立ち上がろうとする彼の肩を掴んで、悪魔が耳元に唇を寄せてきた。そして身の毛もよだつような冷たい声で、
「ダメですよ。もっとグチャグチャにしてください」
と囁いてきた。その言葉にハッとして、彼は自分の目の前にある物体を見下ろした。
白い顔が、無表情で、目を見開いて、こちらを見ている。
その顔の美しいこと。半開きになった薄い唇から覗く白い歯だったり、生気を失って濁った黒い瞳は、この世のものとは思えないほど美しく整っている。しかし、もう死んでいるのだ。
彼女の胸には大きな穴が空いており、そこから夥しい量の血液が流れ出た形跡がある。傷口は赤と白が入り交じった、なんとも形容しがたい不愉快な光景だ。
恐らくは刃物で、恐らくは、彼の右手にある包丁で、彼女は殺された。彼は殺したくなかった。悪魔がやらせた。
彼は悪くない。だが、どうしても彼女の目がこちらを見ているのが怖くて堪らない。まるで責められているような、苦しい気持ちになる。美しい女性に見つめられてるというのに、彼は激しい恐怖しか覚えなかった。
「はやく、やれよ」
悪魔の声が低くなる。脅しているような響きだ。お前がやらないのなら、俺がやるぞ。いいのか?
「……っうぁぁあぁああああ!」
叫ぶと同時に、涙がポロポロと溢れた。拭えば拭うほど涙は溢れ、視界が薄くぼやけた。涎と鼻水が飛び散る。
彼は手に持っていた包丁で、彼女の顔を刺した。頭蓋骨に当たり、あまり深くは刺さらなかったが、見開いた右の目玉を串刺しにすることは出来た。包丁を抜き、刃に刺さったままの目玉を指で摘んで取り除いた。
頭の芯は痺れており、あまり現状を理解することは出来なかったが、目玉を摘む彼の動作は冷静そのものに見えた。彼の中で何かが崩壊したのか、じわじわとその唇が笑みの形を作り出す。
崩壊してからは早かった。彼は奇妙に笑いながら、その手の包丁で女性の体を何度も貫いた。
胸を刺し、腕を刺し、あれほど愛おしく思い慈しんできた白く華奢な手の指は、全て切り落とした。その1本を悪魔が彼の口に含ませる。彼は大人しくそれを受け入れ、くちゃくちゃと咀嚼する。
不愉快な気持ちと恍惚とが入り混じった言い様のない感覚に、彼は混乱した。だが、どうしても止められなかった。
一番刺しやすい腹部を重点的に刺した。最初は着ていた洋服に数カ所赤い穴が空いてた程度だったのが、今やそこには赤黒い液体が溢れ出す一つの大きな穴がぽっかりとあって、内臓は何度も刺されるうちに原型を失い、ぐちゃぐちゃに入り混じってそこにあった。
彼が正気に戻って、口の中の指を吐き出した頃には、悪魔は既にその場から立ち去っていた。しかし彼は、悪魔に指図されなくても次に取るべき行動は解っていた。
自分の携帯を取り出し、3桁の数字をダイヤルして通話ボタンを押す。呼び出し音が一回鳴った後、女性の声が
「はい、警察です」
とだけ告げた。
彼はニヤニヤ笑いながら泣いた。怖くて堪らない。もう嫌だ。
「あの……、人を、殺してしまったんですが」
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