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1.カルテの森と眠るドクター
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淡々としていながらも、よく通る声だった。
はっきりとした語尾は外科医だからか、神野自身の癖なのか。
「脊椎内視鏡がない時代のカルテなら手書きも当然だろうが、……同僚は困っただろうな。英文とドイツとラテンの単語が入り交じっている」
「え、ラテン語もですか?」
入力が終わり神野を見ると、彼は苦笑を隠そうともせず腕を組んだ。
「今は電子カルテ入力で病名表記もルールで決められているから、めったに目にしないが。……ここまでミミズ文字じゃわからないよな。と言うか、この山が全部こいつのか」
「そうです。……今朝、メールで依頼がきて、この十件を今週中にと」
しょんぼりとしてしまう。
神野はパソコンの横に積まれている束を示した指で、腕時計を弾きつつあきれていた。
「今日は金曜日だが」
「……そうです」
残業どころか、休日出勤も覚悟する。
一枚を解読するのに一時間はかかっている。それも神野の助けがあってこそだ。
地道な作業は嫌いじゃないけれど、先が見えなさすぎるのは辛い。
ため息を我慢する朱理の頭上に、神野がぽんと手を置いた。
「よし、次を読み上げるぞ」
子どもにするように朱理の頭を何度か軽くたたいてから、神野は二件目のカルテに指を伸ばす。
「でも……神野先生にもお仕事が」
「別に。仕事があったらここで昼寝していない。ほら、手をどかせ。古くても医療情報なんだ。破れたら、あのやかましい医情の課長から怒られるぞ」
ううっ……とうなりながら、朱理はカルテと神野を交互に見る。
急に現れた救いの手を取っていいのか、悩ましい。
「神野先生は、心臓血管外科医じゃなかったんですか」
担当科が違うことを理由に断ろうとする朱理の声を無視して、神野はカルテを押さえている朱理の手をぺちぺちと叩く。
「知ってたのか。だが、この程度のカルテなら研修医でも読める。多分、辞書があれば」
「最後の方、かなり怪しい発言が聞こえました……」
「なめるな。昼寝場所代を支払ってやるから入力しろ。魔女め」
「……魔女じゃなくて、烏丸朱理です」
強引に手伝おうとする神野になんとか一矢報いたくて、マスクの下で唇をとがらせる。
すると彼は目を大きくし、それからとてもうれしそうに笑った。
「朱理」
どきんと心臓が大きく跳ね、それから身体中の血が熱くなっていく。
男性から初めて名前を呼び捨てにされ、気恥ずかしさに耳まで赤くなりそうだ。
どぎまぎした朱理が肩をすくめ、手が浮いた隙をついて神野がカルテを取り上げる。
「二件目、いくぞ」
(卑怯だと思う……)
うらめしいやら照れるやらでたまらない。
だけど内心を知られるのもむずがゆい。
高まる鼓動と、胸を甘苦しくする感情にどう対処すればいいかわからず、朱理は神野が解読する声通りにキーボードを打ち続けた。
はっきりとした語尾は外科医だからか、神野自身の癖なのか。
「脊椎内視鏡がない時代のカルテなら手書きも当然だろうが、……同僚は困っただろうな。英文とドイツとラテンの単語が入り交じっている」
「え、ラテン語もですか?」
入力が終わり神野を見ると、彼は苦笑を隠そうともせず腕を組んだ。
「今は電子カルテ入力で病名表記もルールで決められているから、めったに目にしないが。……ここまでミミズ文字じゃわからないよな。と言うか、この山が全部こいつのか」
「そうです。……今朝、メールで依頼がきて、この十件を今週中にと」
しょんぼりとしてしまう。
神野はパソコンの横に積まれている束を示した指で、腕時計を弾きつつあきれていた。
「今日は金曜日だが」
「……そうです」
残業どころか、休日出勤も覚悟する。
一枚を解読するのに一時間はかかっている。それも神野の助けがあってこそだ。
地道な作業は嫌いじゃないけれど、先が見えなさすぎるのは辛い。
ため息を我慢する朱理の頭上に、神野がぽんと手を置いた。
「よし、次を読み上げるぞ」
子どもにするように朱理の頭を何度か軽くたたいてから、神野は二件目のカルテに指を伸ばす。
「でも……神野先生にもお仕事が」
「別に。仕事があったらここで昼寝していない。ほら、手をどかせ。古くても医療情報なんだ。破れたら、あのやかましい医情の課長から怒られるぞ」
ううっ……とうなりながら、朱理はカルテと神野を交互に見る。
急に現れた救いの手を取っていいのか、悩ましい。
「神野先生は、心臓血管外科医じゃなかったんですか」
担当科が違うことを理由に断ろうとする朱理の声を無視して、神野はカルテを押さえている朱理の手をぺちぺちと叩く。
「知ってたのか。だが、この程度のカルテなら研修医でも読める。多分、辞書があれば」
「最後の方、かなり怪しい発言が聞こえました……」
「なめるな。昼寝場所代を支払ってやるから入力しろ。魔女め」
「……魔女じゃなくて、烏丸朱理です」
強引に手伝おうとする神野になんとか一矢報いたくて、マスクの下で唇をとがらせる。
すると彼は目を大きくし、それからとてもうれしそうに笑った。
「朱理」
どきんと心臓が大きく跳ね、それから身体中の血が熱くなっていく。
男性から初めて名前を呼び捨てにされ、気恥ずかしさに耳まで赤くなりそうだ。
どぎまぎした朱理が肩をすくめ、手が浮いた隙をついて神野がカルテを取り上げる。
「二件目、いくぞ」
(卑怯だと思う……)
うらめしいやら照れるやらでたまらない。
だけど内心を知られるのもむずがゆい。
高まる鼓動と、胸を甘苦しくする感情にどう対処すればいいかわからず、朱理は神野が解読する声通りにキーボードを打ち続けた。
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