外国人医師と私の契約結婚

華藤りえ

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1巻

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 もういい加減、アズサへの思いを断ち切らなければならない時期にきているのかもしれない。
 それなのに、明日にはアズサの偽婚約者となり、彼と同棲する未来が待っている。
 正直なところ、二人きりでどう暮らしていけばいいのか途方に暮れてしまう。

「まあ、嫌いじゃないんだしさ、相手も大人なんだから、それなりに気を配るでしょ。ま、もし、流れでセックスなんてことになったって、避妊さえしてればどうってことないわよ」

 さらりと告げられた言葉に絵麻は目を見張った。

「……世羅っちは、経験があるの?」
「ん? まあ、人生経験の一つとしてやってはみたけど」
「え、彼氏とかいたっけ?」
「いないよ。飲み会のあと、芳賀と。一回だけ」

 ハヤシライスを噴き出しそうになった絵麻は、あわてて水を飲み込んだ挙げ句に咳き込んだ。

「芳賀さん、って……外務省、の」
「そう。……いつだったかなあ。サークルの飲み会でシモネタが爆発してさ」
「いや、知らないから」

 シモネタぐらいでは、天下の高中世羅が恥じらうことはないだろうけど。

「芳賀が、セックスなんてスポーツみたいなもんだとか言いだして。……つい、あのアホの挑発に乗って、じゃあ手合わせするかと……」

 ラブホで、と締められた話に絵麻は目眩めまいがしてくる。
 我が道を行く世羅らしい色気もなにもない展開に、どこからどう突っ込めばいいかわからない。

「えーと、い、痛かったですか?」

 頭の中が混乱しすぎて、定番すぎる質問をした絵麻に、世羅はひょいっと肩を上げた。

「んー。痛かったと言えば痛かった気もするけど、生理的な反応があるからそこまでひどくなかったかな。結構、汗かいて腰にクるもんだわーと思ったくらい。だからといって、芳賀と恋愛的にどーこーなることはなかったけど」

 それは世羅だからではないのかと、失礼にも思ってしまった。
 自分だったら――
 自分だったらきっと落ち着いてなどいられないだろう。アズサとキスすると想像しただけでも、鼓動が速くなりそうなのに、それ以上など考えられるはずもない。
 セックスがわからないと可愛い子ぶるつもりはないし、それなりに知識もある。
 今はその手の情報はマンガやネットでいくらでも手に入るし、愛や恋がなくても身体を重ねることは珍しくない時代だ。
 これまで男性に縁がなかった絵麻からすれば、一夜限りのセックスなどとんでもないことだが。

(いやいや、彼は女として見ないって、頼まれても手を出さないって言ったから!)

 二人の関係は、ザムザウイルスに感染して、苦しんでいる人を助けるためのもの。婚約も結婚も、ただ便宜上必要というものでしかないのだ。
 わかっているのに、心のどこかで期待してしまう自分がいる。結局のところ絵麻は、いまだにアズサに惹かれているのだ。あんなにひどい提案をされたにもかかわらず。
 いつの間に雨がやんだのか、雪のように一片ひとひらずつ舞い散る庭の桜をぼんやりと眺めながら、絵麻は溜息をつく。
 すると、世羅が真っ直ぐに絵麻の顔を見つめて、真剣な声で言ってきた。

「芳賀は電話で締め上げておくとして、なにかあったらあたしに言って。絵麻を泣かせたら、芳賀だろうがハリーファ准教授だろうが、ヒールで股間踏み潰してやるから」

 心強いものの、それだけはやめてと言うべきか迷っていると、世羅の携帯が鳴り、聞き覚えのある声がかすかに聞こえた。――隣家の主婦である世羅の母がなにか用事を言いつけてきたらしい。

「ごめん。弟を迎えに行けって。もうビール飲んじゃったらしいよ、うちの両親。……そうだ、今度、前に言ってたメキシコ料理屋に行こうか?」
「うん、楽しみにしてる」

 昔から面倒見がよくて、さりげなく絵麻をサポートしてくれる世羅に感謝しつつ、彼女を玄関まで見送った。そして、急に静かになった家で絵麻は力なく笑う。

(本当に、どうしたらいいのか……)

 明日には、もう、この家にはいないというのに、まるで実感が湧かない。
 途方に暮れる自分を叱り飛ばし、絵麻は同棲に向けて荷物を準備し始めた。

(とりあえずの品でいいんだから……普段着と、通勤着をいくらかと、化粧品……くらい?)

 考えながら、クローゼットの引き出しから子ぐま模様のパジャマを出し、続いて、ミニチェストから下着を出そうとして手が止まる。
 自分の下着のあまりの女子力のなさに脱力してしまった。
 あー、とも、うー、ともつかない声を出し、絵麻は同棲から連想される単語を頭から追い出そうと必死になる。

(偽の婚約者だから! ないから! そういう関係にならない前提での同棲だからっ!)
「自意識過剰だよ……」

 ラグの上で正座したままうつむく。気にするほうが馬鹿げている。アズサは絵麻のことなんて、なんとも思っていないのだから。
 逃げ出したいのを我慢して、絵麻は淡々と服や必需品を段ボールに詰めていった。
 最後の段ボールにガムテープを貼った頃にはもう深夜で、絵麻はシャワーを浴びるが早いか、布団にもぐり込んだ。
 けれど緊張でなかなか眠ることができない。
 ようやくうとうとし始めたのは明け方近く。そのため、すっかり寝過ごしてしまった絵麻は、玄関のチャイムの音で起こされたのだった。


 スマートフォンのアラームにしては、いつもと音が違うな……と思った。
 何度かその音を聞くうちに、それが家のインターフォンの音だと気づいて飛び起きる。
『朝、迎えが行くから荷物をまとめておくように』と、昨日アズサからメールで指示されていたのを思い出し、一気に青くなった。
 あわててパジャマを脱ぎ捨てる間にも、玄関ではインターフォンが連打され、絵麻は焦って桜色をしたシャツのボタンを二度掛け間違えてしまう。
 昨夜用意しておいた、デニムのスキニーパンツとパステルグリーンのカーディガンを身につけ、急いで洗面所のある一階に下りた。
 するとインターフォンを鳴らすのに飽きたのか、家の引き戸がガタガタ動かされている。

(やばい! ノーメーク! 寝癖!)

 焦って混乱する中、呑気のんきそうな低い男の声が聞こえてきた。芳賀だ。

「あれー。先に行っちゃったかな。 まさかの留守? それとも、逃亡したか?」

 なおも激しくガタガタと動かされ、このままでは玄関の引き戸が外されかねない。絵麻は半分パニックにおちいりながら叫んだ。

「もうすぐ! あと五分したら開けますからっ! 壊さないで!」

 声が聞こえたのか、芳賀が気楽な様子で返事をする。

「ああ、お嬢ちゃん。ちゃんと逃げずにいたか。……エライエライ」
「……芳賀」

 アズサだけでなく芳賀までいるのに驚きつつ、洗面所で顔を洗い手早く髪を整える。
 いつもはバレッタできちんとまとめたり、お団子にしたりするのだが、今は時間がないので、普段使いのシュシュで一つに束ねた。
 少しだけねた前髪をヘアピンで留めたあと、化粧を始める。といっても、ベースとパウダー、珊瑚さんご色のウォータリールージュを唇に塗るだけの、簡単ナチュラルメイクだが。
 半分スリッパが抜けそうになりながら、足早に玄関へ行き引き戸の鍵を外すと、芳賀とアズサがいた。
 Vネックのホワイトトップスに黒のジーンズという普段着姿のアズサを見て、絵麻は一瞬、呼吸を忘れてしまう。
 モノトーンを基調としたコーディネートが、彼の金髪と琥珀こはく色の肌にとても似合っていた。
 大学にいる時は、シャツとネクタイの上に白衣というスタイルの彼だが、今日は目の色と同じラピスラズリが嵌まったシンプルなクロム・ネックレスをつけている。
 アンティーク風の腕時計もおしゃれで……つまり、とても格好よかった。

(こんな私服を着るんだ……)

 プライベートなアズサの姿にドキドキして、つい、見惚みとれてしまう。
 これから偽の婚約者として同棲するのだから、私服を目にするのは当たり前だ。
 それでも大学以外の場所でアズサと会うのは照れくさくて、絵麻の頬は勝手に上気してしまう。

「お嬢ちゃん、アズサだけじゃなくて俺も見ろ……いてっ」

 スーツからジャケットとネクタイを外しただけの格好をした芳賀が、なぜかアズサにスネを蹴られていた。

「無駄口を叩くな。すぐ荷物を車に運べ。……俺は、引っ越しが終わり次第、研究室に戻りたいと伝えたはずだ。忘れたのか、芳賀」
「覚えてるよ」

 叔父の武彦は、土曜日の今日も大学に出勤している。昨夜、叔父は「絵麻が出て行くのを見送るのは、なんだか娘を嫁にやる父親みたいで泣いちゃいそうだから」と話していたので、早々に仕事に行ってしまったらしい。

「えーと、その、こんなところではなんですので、ひとまず中でお茶でも……」

 引き戸を大きく開けて、ダイニングのほうを手で指した時だった。
 無表情のアズサが顔をしかめ、長い溜息をついた。

「必要ない」

 きっぱりと言われ、絵麻の笑顔が凍りつく。
 服装が変わっても、アズサの対応は研究室にいる時とまるで同じで、極力絵麻と関わりたくないという態度がありありと出ている。

「まあまあ、女には細々こまごまとした準備があるんじゃなーい?」

 アズサのあまりの塩対応に、さすがの芳賀も若干困ったような顔を見せる。

「とりあえず、今、必要なものだけでいいと伝えてあった上、一晩も時間があったのに、準備を終えていないのか?」

 まるで不出来な院生を叱る時みたいな口調に、絵麻は頭を横に振った。
 結婚を前提とした婚約者同士の同棲といっても、それ自体が偽りのため、いつ終了するかわからない。
 だから、必要最低限の服と好きな本にCDがいくらか。それと、仕事用のスーツやバッグを段ボールに詰め、玄関横の和室に積んでいた。
 家具は備え付けのものがあると芳賀から聞いていたので、業者に頼んで運んでもらう必要もない。
 今、必要なものだけでいいのは、きっとそう遠くない未来、ここに戻ってくるから。
 ――これは、ちょっと変わったルームシェア。
 そう自分に言い聞かせて、絵麻は真っ直ぐアズサを見る。

「準備は、終わっています」

 長いのか短いのかわからない沈黙のあとでそう告げると、アズサは絵麻からつっと視線をらした。

「わかった。面倒なことはさっさと済ませよう」

 そっけなく言われて、唇を噛む。
 面倒なこと――

(そうだよね。ハリーファ准教授にとって、これは日本に残るために仕方なくやることだもの)

 惹かれている相手に拒絶されながら、婚約者として生活する毎日を思い、胸が切なく痛んだ。それをぐっとこらえて、絵麻はアズサに背を向け、荷物を運び出す用意を始めた。


 芳賀がレンタルしてきたワンボックスワゴンに、四個の段ボールを積み終え、絵麻は最後に奥の和室で仏壇に手を合わせる。

(行ってきます。おじいちゃん、おばあちゃん。――お父さん、お母さん)

 遺影を順番に見ながら、一人一人にごめんなさいと告げる。
 みんなが生きていたら、家族総出で阻止されただろう。
 きっと内心では同じ心境であろう叔父も、月曜日にはルクシャーナ王国に旅立ち、しばらく戻ってこないと聞いた。アズサの帰国を引き延ばすため、ルクシャーナ王国王太子の主治医になるらしい。

(一人に、なるんだな)

 思わず目の縁に浮かんだ涙を指でぬぐい、から元気の笑顔を作った。
 大丈夫、自分で決めたことだ。前向きに気持ちを切り替えて、外に出て玄関に鍵をかける。
 その鍵をぎゅっと手の内に握りしめ、ショルダーバッグの奥にしまった。

「お待たせしました」

 できるだけ明るく笑いながら、芳賀と、その隣で腕を組んで黙りこくっているアズサに声を掛ける。
 一瞬、アズサの瑠璃るり色の目が大きくなり、そのまま見つめられた。

「あの、なにか?」

 食い入るように見つめてくるアズサに、絵麻は自分になにかおかしいところでもあるのか、と問い返す。けれど、アズサはすぐ顔をそむけ言葉をにごした。

「いや……」

 押し黙られ、それきり会話が途切れてしまう。
 運転席に芳賀が、助手席にアズサが乗り、絵麻は後部座席へと追いやられる。特に会話することもなくじっと車窓から街を眺める。
 古い家屋かおくが多いこの地域では、桜を植えている庭や公園も多く、春風が吹くたびに薄いピンクの花びらが舞う。
 頭上に広がる空は蒼く、薄雲がちぎれた綿菓子のように浮かんでいた。
 この景色が好きで、桜の季節は少し早起きをして、一つ先のバス停まで歩いたりしていたのを思い出す。
 次にここへ戻ってこられるのはいつになるだろうかと、絵麻がぼんやり考えているうちに、車は大学の医学部キャンパス近くの、とあるマンションの駐車場へ辿たどり着いた。
 嫌いでも、無関心でも、女性に対する配慮はあるらしい。絵麻はアズサと芳賀に荷物の大半を取られ、残された一番小さな段ボールだけを持って、マンションの裏口をくぐる。

「う……わ」

 中に入った途端、思わず感嘆の声をらす。
 ガラス張りで、吹き抜けになった天井と、大理石でできたタイル張りのエントランス。大輪の薔薇ばらが飾られた、ラグジュアリーホテルのようなフロント。
 革張りのソファーと猫脚のテーブルが置かれた小さなホールには、銀を基調とした上品な噴水盤まである。
 芳賀によると、ここはアズサの住むマンションで、二十四時間三百六十五日、休日なしで、管理会社から派遣されたコンシェルジュがフロントに待機しているそうだ。
 とてもではないが、絵麻の給料では手を出せないハイグレードなマンションに加え、これから住む部屋は最上階だと聞いて目眩めまいがしてしまう。

「結婚前提の同棲にはピッタリでしょ?」

 エレベーターを降りて荷物を抱えた芳賀に言われ、絵麻は思わずこめかみを指で押した。
 准教授とはいえ、研究職であるアズサの給料はそこまで高くないはずだ。どうやってここの家賃をまかなっているのか……
 絵麻の表情から不安を読み取った芳賀が、にやりと口の端を上げた。

「家賃やらの生活費は気にしないでいいよ。ちゃんと困らないよう手続きしてあるからさ」

 外交官のお仕事モードで言われ、恐縮してしまう。
 一方のアズサはといえば、それを当然のように受け入れていた。

(そういえば、彼って王子様なんだっけ……)

 今更ながらに思い出し、ますますこの同棲生活を上手うまくやっていく自信がなくなってしまう。
 淡々と暮らそう。
 大学で仕事をして、ごはんを食べて。それぞれの部屋にこもって過ごせばいい。
 そう考えて部屋の玄関をくぐると、荷物を置いた芳賀のスマートフォンが鳴った。

「悪い、仕事の電話だ。……ついでにレンタカーも返してくるからあとはよろしく」

 ひらひらと手を振りながら、スマートフォンを操作して芳賀が部屋から出て行く。
 待ってください、と引き止める前に、絵麻の目の前でぱたりとドアが閉まり、室内にアズサと二人で残されてしまった。
 もう少し落ち着くまでいてくれると思っていたのに、突然二人きりにされても困る。
 この状態で、絵麻は次になにをすればいいのかわからない。
 荷物を持ったまま緊張で固まっていると、アズサに長い溜息をつかれた。彼は、絵麻の手から荷物を取り上げ、スリッパを目で示す。

「玄関に突っ立っていられても時間の無駄だ。とりあえず、中を案内する」
「あ、はい」

 先に廊下を進まれ、絵麻はぎこちない動きで彼の後ろをついていく。
 最初に案内された先はリビングだった。部屋の一角が全面ガラス窓になっており、街の先にある海まで見渡せる景色のよさに、絵麻は感嘆の声をらしてしまう。
 フローリングに敷かれているのは、ウサギのようにふわふわした毛足の白いラグ。さらに、黒くつやびかりするテレビとテレビ台、落ち着いたデザインのソファーセットが置かれていた。
 システムキッチンのカウンターテーブルには、バーに置いてあるような回転椅子が二つ。
 作り付けのガラス棚には、絵麻が見たこともない、高そうなお酒が並んでいる。
 ガラスドアがついたラックにはパソコンやオーディオ機器があり、全体的にスマートな印象だ。
 家具はモノトーンで統一されているが、窓際に木製のラックが置かれ、いろいろなサボテンが置いてあるのは、芳賀の茶目っ気なのか、アズサの趣味なのか。
 聞いてみたいが、勇気がなくて黙っていると、事務的にアズサが説明を始めた。
 室内は4LDKで、廊下に面して二部屋、リビングからつながる二部屋がある。現在、廊下側の二部屋がアズサの領域らしい。一つは書斎、もう一つは寝室だそうだ。

「だから、残り二部屋は君が自由に使えばいい。リビングとキッチン、その他の部分は共用になる。掃除は週に一度業者が入るから、必要最低限で構わない」

 淡々と説明されながら、アズサがリビングからつながる部屋の扉を開ける。そこから見えた内装に驚いた。
 ガーリーな明るい色合いの部屋だ。童話に出てくるような可愛いドレッサーと、レースの天蓋てんがいがついたセミダブルのベッド。
 絵麻に用意された部屋は、パステルカラーと優しいデザインの家具で統一されていた。
 あまりにも好みな室内に、思わず表情がゆるんでしまう。
 スタイリッシュで機能的なリビングとは真逆の雰囲気が不思議で、思わず絵麻はアズサに尋ねていた。

「家具は、備え付けって……聞いていましたが、これは最初からマンションに?」

 持っていた荷物を床に置いて、絵麻のパソコンをインターネットに接続し始めたアズサが、ディスプレイを見ながら答える。

「こちら側の事情で巻き込んだのだから、せめて部屋くらいは落ち着けるように、君の希望を取り入れるべきだと思って、俺が……」

 キーボードを打つ手を止め、口に手をあてたアズサが顔をしかめた。

(どういう、こと……?)

 我ながら子どもっぽいと思うが、昔からお姫様が住むような乙女チックな部屋に憧れていた。けれど、住んでいるのが純和風の日本家屋かおくであることと、それを愛する祖父母の手前、自室を変えてしまうのは気が引けて、夢見るだけで終わっていた。
 部屋の模様替えを悩んでいると、アズサに話したのは、もう随分前のことだ。
 それなのに、覚えていてくれたということだろうか。
 絵麻はにわかに鼓動が騒ぎ出すのを感じながら、アズサの横顔を見つめる。すると、彼は唇を引き結んで、キーボードを叩き始めた。

「いや、結崎教授に、指摘、されて……しただけだ」

 どこか歯切れ悪く告げられ、ふくらみかけた気持ちがたちまちしぼむ。
 叔父に言われたのなら、彼が従わないはずがない。

(昔言ったことを覚えていてくれたのかとか、ちょっと、期待しちゃった)

 がっかりしそうな自分に気づき、絵麻はあわててアズサに背を向ける。

「そ、そうですか。あとで、叔父さんにメールでお礼を言っておかなくちゃ、ですね」

 持ってきた箱のガムテープをはがし、荷物を探す振りをしながら、気持ちを切り替えようと努力する。

「必要ないだろう。どうせすぐ研究室に戻るから、俺から報告しておく。君は――ここを片づけるのに専念すればいい」
「そう、ですか……」

 胸の中にわだかまる気持ちをぐっと呑み込み、絵麻は淡々と手を動かした。
 そんな絵麻を見つめていたアズサが、なにか言いたそうにしていたことにも気づかず、絵麻は片づけに没頭したのだった。


 パソコンの設定など、アズサでなければできない作業を終えた途端、もう用はないとばかりにアズサは研究室へ出かけてしまった。
 残って荷物の片づけをしていた絵麻だが、当面の必需品しかなかったために、二時間ほどで終わってしまう。このままなにもせずにいるのも鬱々うつうつとしそうで、絵麻は玄関や台所など、共用部分の掃除にはげんでいた。
 無心で床をみがいているうちに、手元が暗くなっているのに気づいてふと考える。

(そういえば、アズサさんは、ごはんとかどうしているんだろう……?)

 同じ職業、職場であることから、帰宅時間も叔父と同じだろうと予想はつくが、食事についてはまるでわからない。
 今までは、叔父の食事も絵麻が作って冷蔵庫に入れていた。しかし、アズサは身内ではない。勝手に台所を使って彼の食事も用意するのは、出しゃばりすぎだろう。
 恋人や、本当の婚約者なら、食事を用意するぐらい許されるかもしれないが、アズサにとって絵麻は、嫌々、仕方なく、同棲しているにすぎない相手だ。
 余計なことをして、今後の生活がますます息苦しくなってしまうのは、本来の目的――薬の完成まで婚約者のふりをして時間をかせぐこと――のさまたげになりかねない。
 絵麻はそう判断して、財布を入れているバッグを片手にマンションを出た。周囲の散策がてら外食することにする。
 大学の近くにある小規模な商店街では、買い物を終えた主婦や外食しようと店を探す者の姿が目につく。
 しばらくその中を歩いていたが、幸せそうな家族や恋人連れの多い中、一人ぼっちでいる自分が居たたまれず、絵麻はいつのまにか大通りの裏手に入っていた。
 店じまいを始めた雑貨店などがつらなる小道の突き当たりに、緑の植木鉢に囲まれたテラス席が見えて、なんとなくそちらを目指す。
 そこは、三色の国旗がなければイタリア料理を扱っているとわからないほど、地味なしつらえのレストラン兼居酒屋だった。
 窓から中の様子をうかがうと、隠れ家的な雰囲気なのが見て取れる。
 黒板に手書きされたメニューについている価格も手頃だ。
 初めての店ということもあり、カウンターに座った絵麻は、無難そうなシェフのおまかせを頼む。
 やがて、ペペロンチーノパスタとチーズピザのハーフセットと、グラスワインが運ばれてきた。

(本当なら、こういうお店って、女友達や、恋人と来たりするもの……だよね)

 薄暗い照明の店内に、オペラの名曲をポップにカバーした有線放送が流れている。そんな中、絵麻は、顔を寄せ合って語り合う人達を横目に、一人寂しくフォークでパスタをつつく。
 しかし、パスタでお腹が落ち着き、おいしいピザで白ワインを飲んでいるうちに、少しずつ気分が浮上してきた。

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