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1巻
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1 いきなり婚約成立ってありですか?
金曜日の朝。大学の医学部キャンパスはいつもより騒がしい。
というのも、休み前に診察してもらおうと訪れる患者や、退院準備をする患者の家族が、敷地内中心部にある大学病院の周辺に増えるからだ。
そんな人の多い通りから一本奥に入った道を、結崎絵麻は足早に歩いていた。
春休みで学生がいないため、基礎研究棟や事務棟へ向かうこの道は、人もまばらだ。
水色のシンプルなブラウスに、紺色の膝丈プリーツスカート。その上からオフホワイトの春用トレンチコートを着た絵麻は、仕事の段取りを考えつつ、大きめのショルダーバッグを肩にかけ直す。
医学部の研究室で、教授秘書兼事務員として働く絵麻の一日は、それなりに忙しい。
(今日は、出張していた助手さん達が午後に戻ってくるんだっけ。それまでに、海外駐在研究員の経費精算をして、それから……)
絵麻はほころび始めた桜に目もくれず、頭の中で今日のうちに片づけるべき仕事をピックアップしていく。しかし、考え事に集中しすぎて、古びた研究棟の扉の前で、人とぶつかりそうになってしまった。
「きゃっ、ごめんなさ……」
「おっと。おはよう、絵麻ちゃん。ちゃんと前を見て歩かないと危ないよ?」
喉を鳴らして笑う男性の声には、聞き覚えがあった。顔を上げると、絵麻と同じ研究室に所属する男性医師が目を細めてこちらを見下ろしている。
(うわ、朝から大迫先生……まいったなあ)
「お、おはようございます。大迫先生。今日は、早いですね?」
引きつりそうな顔に笑みを浮かべて取り繕う。
「まあね。いつもより早起きしてきてラッキーだったな。朝から君の顔を見られて嬉しいよ」
そう言って、大迫は絵麻の肩を抱かんばかりに近づいてきた。
(こっちは、大迫さんと会わないように、わざと出勤時間を早くしたのになあ)
臨床医である大迫は、博士号を取るために、絵麻の叔父が教授を務める亜熱帯性ウイルス免疫学研究室に所属している。
出会った時からやたらと馴れ馴れしく接してくる彼が、絵麻は苦手だった。
そうでなくても、中学から大学まで女子校に通っていたため、異性に対する免疫は極端に少ない。
二十四歳になった今でも、彼氏はおろか、デートの経験すらないのだ。
できればもう少し、大迫とは距離を取りたかった。だが、絵麻のスキルでは、大迫のように遠慮のないタイプを上手くあしらうことなどできるはずもなく、いつも相手のペースに巻き込まれてしまう。
「そういえば、この間言っていた教授の持っている医学専門書。あれ、僕の論文に必要なんだ。よかったら今日、絵麻ちゃんが帰る時に一緒に取りに行っても構わないかな?」
他意のない調子で告げられ、絵麻は心の内で頭を抱える。
早くに両親を亡くした絵麻は、教授である叔父に引き取られ、祖父母の住む家で一緒に暮らしていた。
といっても、祖父母はすでに亡くなっているので、今は叔父と二人暮らしである。
しかし忙しい叔父は睡眠をとるために帰宅するようなもので、家にはほとんど絵麻一人だけ。そこに同じ研究室の人間とはいえ、男性を招き入れるのには抵抗がある。
「えーと……。今日、は……」
(困る。……本当に困る! でも、論文に必要だって言われたら断りにくいし……)
飾り気のない、後ろでまとめただけの真っ直ぐな黒髪を、指で撫でながら逃げ道を探す。
「……で、何時にする?」
大迫が答えを催促するみたいに、身を屈めて顔を覗き込んできた。
やけに近い距離感に、しかめ面になりかける。
絵麻からすれば、大迫は叔父の研究室の一員で、秘書兼事務員としてサポートすべき研究者の一人という認識しかない。けれど大迫は、こちらが強く出られないのをいいことに、周囲に誤解を招くような言動を平気でしてくるのだ。
無神経というか、確信犯というか……できれば、あまり近付きたくない相手だった。
その時、背後から冷たい声で名前を呼ばれた。
「結崎」
不意に、どくんと絵麻の心臓が跳ねる。
振り向くと、背の高い男性が不機嫌そうに絵麻を見ていた。
琥珀色の肌と蜂蜜色の髪。日本人よりずっと彫りが深く鼻筋の通った顔立ちは、どことなく品のよさを感じさせる。
叔父である結崎武彦教授の片腕で、この医学部キャンパスでも有名な、外国人医師。亜熱帯性ウイルス免疫学教室准教授のアズサ・サウダッド・ハリーファだ。
「教授室に来客だ。遊んでいる暇があるのなら、すぐに対応してもらいたい」
簡潔にそれだけ伝え、彼は、絵麻達の横を通り過ぎ研究棟へ入っていく。
「は、はい。わかりました!」
絵麻はまだ会話を続けようとする大迫に頭を下げて、ショルダーバッグを抱え直しながらアズサのあとを追いかけた。
研究室に着くと、絵麻はさっそくお茶の準備を始めた。
研究員や学生用の安い特売茶ではなく、冷凍庫で保管していた頂き物の玉露を給湯室で解凍する。そして湯冷まししたお湯を急須に入れて二分ほど待ち、温めていた湯飲みに注ぐ。
ここに来る間に、アズサから聞いた人数分の湯飲みをお盆に載せて教授室へ入ると、三人の男性が応接セットのソファーに座っていた。
小太りの身体に、くたびれた白衣を着た五十代の男性は、教授で叔父の結崎武彦。
来客席には、仕立てのよさそうな三つ揃いのスーツを着こなし、黒髪を後ろに撫でつけた若い男が座っている。
そして、なぜかアズサが来客の隣に腰かけていた。目を閉じ腕を組んで座っているアズサを見て、絵麻は内心首を傾げた。
お茶を置いた瞬間、アズサがうっすらとまぶたを開く。途端に絵麻の鼓動が騒がしくなる。
金色の光彩を持つ藍色の瞳――美しい宝石のような彼の目が、お茶を置く絵麻の指先を見ていた。
アズサ・サウダッド・ハリーファ。
東南アジアに浮かぶ島国・ルクシャーナ王国人の父と、日本人の母を持つ彼は、絵麻が心惹かれている男性でもある。
おずおずと顔を上げると、あからさまに彼が顔を逸らした。
(どうして、ここまで嫌われちゃったんだろう。……わけがわかんないや)
落ち込む気持ちを抑えつつ、秘書の顔で退出しようとした時だった。黙り込んでいた男達の中から叔父が声を上げる。
「絵麻。ちょっと、ここに座りなさい」
自分の座っているソファーの横をぽんぽんと叩かれて、絵麻は戸惑う。
いかに叔父の研究室の秘書兼事務係とはいえ、お客様と同席するのはいかがなものか。
考え込んでいると、いいから、と促されて、絵麻はためらいながら叔父の横に座った。
「こちらは、外務省でルクシャーナ王国との渉外を担当している芳賀遼くんだ」
「はぁ」
渉外担当――つまり外交官がここにいる理由がわからず、絵麻はつい間の抜けた声を出してしまう。
医学部の研究室は留学生も多く、ビザ変更の手続きや留学生の居住地変更の書類を揃えるのは、事務の仕事だ。
しかしそれらに関わるのは入国管理局であって、外交官とは関係がないと思っていたのだが。
「ええと……私、なにか間違った書類を外務省に出したりしましたか?」
「いや、そういうことじゃないよ。絵麻」
武彦が苦笑を浮かべて、絵麻の言葉を否定する。
だとしたら、いったいなんの理由があって自分はこの場に同席しているのだろう。疑問に思って視線を向けた絵麻に、叔父はなにかをためらうように口ごもる。
その様子を、場にそぐわないニヤニヤした顔で見ていた芳賀が、代わりに口を開いた。
「実は、アズサが……ああ、ハリーファ准教授が婚約することになった」
「え……?」
――一瞬、頭の中が真っ白になる。いつかこの日が来ると覚悟していたはずなのに。
「そ、れは、おめでとうございます……」
二十九歳にして医学部の准教授。しかも世界的な学術誌に論文が何度も載るほど優秀な人だ。素晴らしく整った外見もあって、彼に好意を寄せる女性は多い。
ストイックに研究に打ち込んでいる彼に、特定の女性がいたのには驚いたが、寡黙で誠実な彼のことだ。簡単に決断したことではないだろう。
もともと、叶わない恋だとわかっていた。
側にいて彼を見ているだけでいいと思っていた。
だから、ここで自分がショックを受けるのは間違っている。
泣きたい気持ちをぐっと呑み込み、絵麻は顔を上げて芳賀とアズサに視線を向けた。
「では、結婚に向けての書類手続きなどに関することで、私は相席していると解釈してよろしいのでしょうか?」
福利厚生や今後の休暇計画についての相談なら、スケジュール管理も仕事の内とする絵麻が呼ばれた理由も納得できる。
アズサへの恋心を必死に押し隠し、これからの仕事に気持ちを集中させた。すると、それまでずっと目を逸らしていたアズサが長い溜息をついて、絵麻に視線を合わせてきた。
「最後まで話を聞け。……俺が婚約するのは他でもない、君だ。結崎絵麻」
正面からそう断言され、絵麻の思考が停止する。
「……え?」
「俺が婚約するのは、君だ。結崎絵麻」
一言ずつゆっくりと区切りながら、再び告げられた言葉に、絵麻は目を大きく見開く。
「ほぁっ……ッ?」
――絵麻の人生で最高に素っ頓狂な声が喉から飛びだし、教授室に大きく響いた。
2 同棲と偽婚約者の距離感
「どういうこと、ですか」
引きつりそうになる喉を手で押さえ、絵麻はできるだけ冷静に問いかける。
だが、いきなり爆弾発言をしたアズサは、腕を組んで黙り込んだまま、絵麻を見つめるだけだ。
教授室に、気まずい時間ばかりが流れていく。
――どうして? 彼は私を嫌っているんじゃなかったの?
まったくわけがわからない。わかれというほうが無茶である。
なぜなら、アズサが絵麻を嫌っているだろうことは周知の事実だからだ。
例えば、研究室のメンバーでランチに行くことになっても、絵麻がいる時は必ず、「急用ができた」と言って姿を消す。アズサが雑談している談話室に絵麻が入っていくと、会話を打ち切って実験に戻ってしまう……など。
仕事以外で二人が会話することはなく、その会話も必要最低限で切り上げられる。
最初は偶然かと思っていたが、何度も重なるうちに、彼から避けられていることを自覚した。
そう思ったのは絵麻だけでなく、周囲も同じように『アズサは絵麻を避けている』あるいは『嫌っている』という認識を持つようになった。
そこまではっきり自分を嫌っている相手から、「婚約したい」でも「婚約してほしい」でもなく、「婚約する」と断言された絵麻は、困惑するしかない。
どれほどの時間がたったのか。黙って成り行きを見守っていた外交官の芳賀が、大げさに肩をすくめた。
「これじゃあ、いつまでたっても話が進みそうにないな。ここからは俺が引き取る」
芳賀が宣言すると、アズサは再び絵麻から視線を外してしまった。
そんなアズサを気にした様子もなく、芳賀は人差し指を回して少し考える仕草を見せる。
「……さて、どこから話そうかな」
額に落ちてきた黒髪を吐息で吹き飛ばし、芳賀が絵麻のほうを見た。
「まずは、ここで行っている研究についてだ。もちろん理解しているよな?」
馬鹿にするような声音に、思わず眉をひそめて絵麻はうなずく。
「ルクシャーナ王国に昔から存在する風土病――ザムザ病が人体に及ぼす影響と、免疫機能の研究。そして、病の原因であるウイルスの解析です。また、薬学部や分子生物学教室、製薬会社との産学連携による新薬開発も同時に進めています」
この研究室に在籍する教授秘書として当然の説明をしてみせると、芳賀がパンパンパンと手を叩いて絵麻を評価する。
「正解。――ではザムザ病については?」
その瞬間、絵麻は表情が強張るのを感じた。まるで絵麻の知識を疑い、確認してくるような言動に怒りを覚える。だが、芳賀は叔父の客で、これは秘書の仕事だと自分に言い聞かせ、個人的な感情をぐっと堪えてうなずく。
「ザムザ病は、発熱や発疹など、症状は『はしか』に似ていますが、人体への影響はより強力な病です。ルクシャーナの人々は、大抵子どもの頃に罹患しますが、もともと免疫を持つか、病への耐性があるので数日で回復します。そのため、最近まであまり注目されてきませんでした」
冷静にと思いながらも、抑えたはずの怒りがふつふつと沸き上がってくる。
気持ちを落ち着かせるため、一呼吸置いてから、絵麻は再び説明を始めた。
「ですが、近年、成人してからザムザ病に罹ると重症化する傾向が強いとわかり、治療が遅れた場合は死に至ることも多く、特効薬が望まれています」
ザムザ病は、かつて考古学研究でルクシャーナを訪れていた絵麻の父の命を奪った。
絵麻の人生を一変させたザムザ病のことを、忘れた日はない。
この病で苦しむ人が一人でも少なくなるように、絵麻のように悲しむ遺族がいなくなるように……。その手助けをしたくて、絵麻は叔父の武彦が教授としてザムザ病を研究する、この研究室の秘書となったのだ。
そんな絵麻に対して、芳賀は再び手を叩いて、「正解」と笑う。
彼の失礼な態度に、客とわかっていても、絵麻はいらつき始めていた。
たとえ雑用でも、絵麻なりに努力してザムザ病と向き合ってきたことを、芳賀に馬鹿にされた気がしたからだ。
これ以上ここにいたら、秘書らしからぬ態度を取ってしまいそうだった。
「……お話が進まないようですし、もう失礼してもよろしいですか?」
立ち上がろうとした絵麻の行く手を、白衣に包まれた長い腕が遮る。アズサだ。
彼の制止に驚いて、浮きかけた絵麻の腰が再びソファーに沈む。
「ハリーファ准教授?」
「つまり……君は、私の研究についても、当然、理解していると考えていいんだな?」
言われたことを理解した瞬間、絵麻の頭に血が上る。芳賀のみならず、同じ研究室にいるアズサにまで、絵麻のこれまでの努力を蔑ろにされた気がした。
「当たり前です!」
思わずきつくなってしまった口調に、アズサが微かに目を見張る。だが、それに気づけないほど絵麻は感情的になっていた。
(知らないわけ、ない。……ずっと、見てきたんだもの)
アズサは、母国であるルクシャーナ王国固有の珍しい病を治す手立てを探すため、日本に留学したのだそうだ。そして、ザムザ病を引き起こすザムザウイルスの研究が、世界で一番進んでいた、この亜熱帯性ウイルス免疫学教室に所属した。
なぜなら、アズサもまた、絵麻と同じように肉親――母親をザムザ病で失っていたから。
肉親を病で失う悲しみや、その原因をなくしたいという決意が、絵麻には誰よりよくわかる。
だから、嫌われているとわかっていても、つい目で彼を追いかけてしまっていた。
研究室の秘書として、可能な限りの手助けをしてきたつもりだったけれど、彼にしてみれば、研究への理解があるかどうかでさえ、確認を必要とする程度の存在でしかなかったのだ。そんな自分の無力さが悔しい。
今にも溢れそうになる涙を堪え、絵麻は目の前にいる二人の男をじっと見つめる。
すると芳賀が、突如として姿勢を正し、真面目な顔をした。
「了解。なら本題に入ろうか。……ご存じの通り、結崎教授やアズサの研究が功を奏し、ザムザ病に対抗する新薬の治験が終わり、承認を待っているところだ」
治験とは、できたばかりの薬が本当に問題がないか、実際に患者や健康な人間に対して行うテストだ。
新薬開発としては治験の合格が一つの山場で、新薬として厚生労働省に承認されれば、病に苦しんでいる患者が利用することができる。
「このまま順調にいけば……遅くても一、二年後には新薬として承認されるだろう。だが、ここにきてちょっとやっかいなことが起こった」
「え……」
結崎家とアズサにとって、ザムザ病の対抗薬が完成することには特別な意味がある。
まさか、重大な副作用が見つかって、新薬としての承認が得られなくなったのだろうか……
嫌な考えに絵麻は表情を強張らせた。
「ああ、お嬢ちゃんが考えているようなことじゃない。薬としては問題ない。問題は……ザムザウイルスとアズサに縁のある、ルクシャーナ王国に関することだ」
手を振って絵麻の考えを否定した芳賀が、淡々と説明し始めた。
ルクシャーナ王国は東南アジアにある島国で、観光以外の資源が乏しいと言われてきた国だ。
しかし近年、海底資源の調査や採掘などの技術向上に伴い、ルクシャーナ王国領海に、豊富な海底油田や希少金属資源があることがわかった。それにより、ルクシャーナはにわかに世界の注目を浴びることとなった。
様々な国の総合商社や資源カンパニーが先を争って国を訪れ、一気に国際化が進んだ。
ところが、そんな中、ルクシャーナ王国の王太子、イムラーンがザムザウイルスに感染し――ザムザ病を発症してしまったという。
ルクシャーナ国王は、王太子に万が一のことがあった場合に備え、急遽、留学中の第二王子を国に呼び戻し、国内の有力貴族の娘と結婚させることを決定した。
「そのルクシャーナ王国の第二王子殿下が、アズサ。正式には、アズサ・サウダッド・ハリーファ・アミル・アルサーニ。お嬢ちゃんの目の前にいる男だ」
「殿……下?」
あまりに途方もない話すぎて、絵麻は理解が追いつかない。
お盆を胸に抱いて、ただ馬鹿みたいに目と口をぽかんと開いてしまう。
(どっ……どこから、どう、突っ込めばいいのか……わか、わからなすぎ、る)
目の前にいる芳賀とアズサに抱えているお盆を投げつけて、頭を抱えてうずくまり、そのまま人事不省に陥りたい。
混乱のあまり、そんなことを考えながら、絵麻は喉を鳴らして唾を呑む。
「まあ、いきなりアズサが王子だと言っても信じられないだろう。だから資料を揃えてきた。目を通せ」
まるで自分の部下にするような気安さで、芳賀が脇に置いていたビジネスバッグから書類の束を取り出し、絵麻の前に投げる。
テーブルの上に散らばった書類には、ルクシャーナ王国領事館発行の王室家系図や、公的な印が押された英文の写真付き経歴書が見て取れた。
さらに、駄目押しでアズサがポケットから差しだしてきたパスポートを見て、絵麻はこの信じられない現実を受け入れた。
――Diplomatic.
外交旅券――つまり一般人ではなく公人であることが、パスポートの表紙に金で刻印されていた。
秘書兼事務として、様々な手続きをすることはあっても、絵麻は今までアズサのパスポートを見たことはなかった。
緊張に震える指先で中を開くと、アズサの名前の前に、王族であることを示す『H.R.H.』と記してある。
おそらく、研究室に所属する他の医師や院生も知らないだろう。叔父は知っていたのかもしれないが、こんなこと……お忍びで一国の王子が研究員をしていたなんて、他言できるはずもない。
(でも待って? それならどうして、私と婚約するなんて話になるの?)
「あの、それだったら、ええと、殿下は、帰国して婚約されるということですよね? ……その、王様の選んだ女性と」
絵麻以外の男性陣が、同時に溜息をついて、こめかみを押さえたり、気まずそうに窓の外を見たりした。
「留学した時点で、ルクシャーナ王室とは絶縁状態だ。……今更、王族としての役割を果たす気などない。第一に俺は医師以外の生き方を考えていない。この王命に従うくらいなら、結崎……絵麻。君と結婚したほうがましだと計算した」
胸にナイフを刺されたような痛みを覚え、絵麻は息を止めた。
馬鹿にするにもほどがある。望まない結婚をするくらいなら、絵麻としたほうがましだなどと。
同時に、どんなに嫌われているとわかっていても、絵麻はアズサに惹かれており、彼に対する諦められない思いが鼓動を騒がせるのも事実で。
(好きになっても仕方がない、諦めなければならない。そう考えていた矢先に、こんな関係を突きつけられるなんて)
絵麻は自分がどうしたいのかわからない。
「父……ルクシャーナ国王ジャーレフ・サウダット・ハリーファ・アルマリクから、研究者を辞め、即時結婚し、王族として復帰せよと申し渡された時、すでに婚約者がいるから帰国しないと告げた。だが、こんな話を公にはできない。そこで旧知の芳賀に相談したところ、君が最適だという判断に至った」
淡々と告げるアズサに、絵麻は震える唇を噛みしめた。
「……そんな……どうして、私なんですか」
目頭が熱くなる。
アズサの前でなど泣きたくはない。
「理由くらい、知りたいと思うのはわがままですか?」
きっと肯定的な理由でないだろうことはわかっているのに、尋ねずにはいられない。ほんの少しでもアズサからの好意があって欲しいと願ってしまう自分が情けない。
「それは……」
絵麻を見たアズサが目を見張り言葉を失う。すぐに彼に代わって芳賀が身を乗り出してきた。
「その一、ザムザウイルスの研究内容を知っていて、口が堅く信頼のおける人間であること。その二、周囲には本当に婚約したと思わせたい。国王側だって、アズサの発言が、嘘か真実かの調査くらいするだろう。だが、本当に関係を結ばれても困る。その点、お嬢ちゃん……恩師の姪御さんには手を出さないだろうと考えた。その他もろもろ理由はあるが、アンタ以上の適任者はいないと判断したというわけ」
空いた左手で指を折りながら告げられる。それを肯定するように隣で叔父がうなずいた。
「……なに、それ……」
「すまない。絵麻。……けれど、ザムザウイルスの対抗薬が承認されても、その後の医療関係者フォローや、学術的な追跡研究にアズサ君の協力は不可欠だ。今、彼にいなくなられるのは辛い」
金曜日の朝。大学の医学部キャンパスはいつもより騒がしい。
というのも、休み前に診察してもらおうと訪れる患者や、退院準備をする患者の家族が、敷地内中心部にある大学病院の周辺に増えるからだ。
そんな人の多い通りから一本奥に入った道を、結崎絵麻は足早に歩いていた。
春休みで学生がいないため、基礎研究棟や事務棟へ向かうこの道は、人もまばらだ。
水色のシンプルなブラウスに、紺色の膝丈プリーツスカート。その上からオフホワイトの春用トレンチコートを着た絵麻は、仕事の段取りを考えつつ、大きめのショルダーバッグを肩にかけ直す。
医学部の研究室で、教授秘書兼事務員として働く絵麻の一日は、それなりに忙しい。
(今日は、出張していた助手さん達が午後に戻ってくるんだっけ。それまでに、海外駐在研究員の経費精算をして、それから……)
絵麻はほころび始めた桜に目もくれず、頭の中で今日のうちに片づけるべき仕事をピックアップしていく。しかし、考え事に集中しすぎて、古びた研究棟の扉の前で、人とぶつかりそうになってしまった。
「きゃっ、ごめんなさ……」
「おっと。おはよう、絵麻ちゃん。ちゃんと前を見て歩かないと危ないよ?」
喉を鳴らして笑う男性の声には、聞き覚えがあった。顔を上げると、絵麻と同じ研究室に所属する男性医師が目を細めてこちらを見下ろしている。
(うわ、朝から大迫先生……まいったなあ)
「お、おはようございます。大迫先生。今日は、早いですね?」
引きつりそうな顔に笑みを浮かべて取り繕う。
「まあね。いつもより早起きしてきてラッキーだったな。朝から君の顔を見られて嬉しいよ」
そう言って、大迫は絵麻の肩を抱かんばかりに近づいてきた。
(こっちは、大迫さんと会わないように、わざと出勤時間を早くしたのになあ)
臨床医である大迫は、博士号を取るために、絵麻の叔父が教授を務める亜熱帯性ウイルス免疫学研究室に所属している。
出会った時からやたらと馴れ馴れしく接してくる彼が、絵麻は苦手だった。
そうでなくても、中学から大学まで女子校に通っていたため、異性に対する免疫は極端に少ない。
二十四歳になった今でも、彼氏はおろか、デートの経験すらないのだ。
できればもう少し、大迫とは距離を取りたかった。だが、絵麻のスキルでは、大迫のように遠慮のないタイプを上手くあしらうことなどできるはずもなく、いつも相手のペースに巻き込まれてしまう。
「そういえば、この間言っていた教授の持っている医学専門書。あれ、僕の論文に必要なんだ。よかったら今日、絵麻ちゃんが帰る時に一緒に取りに行っても構わないかな?」
他意のない調子で告げられ、絵麻は心の内で頭を抱える。
早くに両親を亡くした絵麻は、教授である叔父に引き取られ、祖父母の住む家で一緒に暮らしていた。
といっても、祖父母はすでに亡くなっているので、今は叔父と二人暮らしである。
しかし忙しい叔父は睡眠をとるために帰宅するようなもので、家にはほとんど絵麻一人だけ。そこに同じ研究室の人間とはいえ、男性を招き入れるのには抵抗がある。
「えーと……。今日、は……」
(困る。……本当に困る! でも、論文に必要だって言われたら断りにくいし……)
飾り気のない、後ろでまとめただけの真っ直ぐな黒髪を、指で撫でながら逃げ道を探す。
「……で、何時にする?」
大迫が答えを催促するみたいに、身を屈めて顔を覗き込んできた。
やけに近い距離感に、しかめ面になりかける。
絵麻からすれば、大迫は叔父の研究室の一員で、秘書兼事務員としてサポートすべき研究者の一人という認識しかない。けれど大迫は、こちらが強く出られないのをいいことに、周囲に誤解を招くような言動を平気でしてくるのだ。
無神経というか、確信犯というか……できれば、あまり近付きたくない相手だった。
その時、背後から冷たい声で名前を呼ばれた。
「結崎」
不意に、どくんと絵麻の心臓が跳ねる。
振り向くと、背の高い男性が不機嫌そうに絵麻を見ていた。
琥珀色の肌と蜂蜜色の髪。日本人よりずっと彫りが深く鼻筋の通った顔立ちは、どことなく品のよさを感じさせる。
叔父である結崎武彦教授の片腕で、この医学部キャンパスでも有名な、外国人医師。亜熱帯性ウイルス免疫学教室准教授のアズサ・サウダッド・ハリーファだ。
「教授室に来客だ。遊んでいる暇があるのなら、すぐに対応してもらいたい」
簡潔にそれだけ伝え、彼は、絵麻達の横を通り過ぎ研究棟へ入っていく。
「は、はい。わかりました!」
絵麻はまだ会話を続けようとする大迫に頭を下げて、ショルダーバッグを抱え直しながらアズサのあとを追いかけた。
研究室に着くと、絵麻はさっそくお茶の準備を始めた。
研究員や学生用の安い特売茶ではなく、冷凍庫で保管していた頂き物の玉露を給湯室で解凍する。そして湯冷まししたお湯を急須に入れて二分ほど待ち、温めていた湯飲みに注ぐ。
ここに来る間に、アズサから聞いた人数分の湯飲みをお盆に載せて教授室へ入ると、三人の男性が応接セットのソファーに座っていた。
小太りの身体に、くたびれた白衣を着た五十代の男性は、教授で叔父の結崎武彦。
来客席には、仕立てのよさそうな三つ揃いのスーツを着こなし、黒髪を後ろに撫でつけた若い男が座っている。
そして、なぜかアズサが来客の隣に腰かけていた。目を閉じ腕を組んで座っているアズサを見て、絵麻は内心首を傾げた。
お茶を置いた瞬間、アズサがうっすらとまぶたを開く。途端に絵麻の鼓動が騒がしくなる。
金色の光彩を持つ藍色の瞳――美しい宝石のような彼の目が、お茶を置く絵麻の指先を見ていた。
アズサ・サウダッド・ハリーファ。
東南アジアに浮かぶ島国・ルクシャーナ王国人の父と、日本人の母を持つ彼は、絵麻が心惹かれている男性でもある。
おずおずと顔を上げると、あからさまに彼が顔を逸らした。
(どうして、ここまで嫌われちゃったんだろう。……わけがわかんないや)
落ち込む気持ちを抑えつつ、秘書の顔で退出しようとした時だった。黙り込んでいた男達の中から叔父が声を上げる。
「絵麻。ちょっと、ここに座りなさい」
自分の座っているソファーの横をぽんぽんと叩かれて、絵麻は戸惑う。
いかに叔父の研究室の秘書兼事務係とはいえ、お客様と同席するのはいかがなものか。
考え込んでいると、いいから、と促されて、絵麻はためらいながら叔父の横に座った。
「こちらは、外務省でルクシャーナ王国との渉外を担当している芳賀遼くんだ」
「はぁ」
渉外担当――つまり外交官がここにいる理由がわからず、絵麻はつい間の抜けた声を出してしまう。
医学部の研究室は留学生も多く、ビザ変更の手続きや留学生の居住地変更の書類を揃えるのは、事務の仕事だ。
しかしそれらに関わるのは入国管理局であって、外交官とは関係がないと思っていたのだが。
「ええと……私、なにか間違った書類を外務省に出したりしましたか?」
「いや、そういうことじゃないよ。絵麻」
武彦が苦笑を浮かべて、絵麻の言葉を否定する。
だとしたら、いったいなんの理由があって自分はこの場に同席しているのだろう。疑問に思って視線を向けた絵麻に、叔父はなにかをためらうように口ごもる。
その様子を、場にそぐわないニヤニヤした顔で見ていた芳賀が、代わりに口を開いた。
「実は、アズサが……ああ、ハリーファ准教授が婚約することになった」
「え……?」
――一瞬、頭の中が真っ白になる。いつかこの日が来ると覚悟していたはずなのに。
「そ、れは、おめでとうございます……」
二十九歳にして医学部の准教授。しかも世界的な学術誌に論文が何度も載るほど優秀な人だ。素晴らしく整った外見もあって、彼に好意を寄せる女性は多い。
ストイックに研究に打ち込んでいる彼に、特定の女性がいたのには驚いたが、寡黙で誠実な彼のことだ。簡単に決断したことではないだろう。
もともと、叶わない恋だとわかっていた。
側にいて彼を見ているだけでいいと思っていた。
だから、ここで自分がショックを受けるのは間違っている。
泣きたい気持ちをぐっと呑み込み、絵麻は顔を上げて芳賀とアズサに視線を向けた。
「では、結婚に向けての書類手続きなどに関することで、私は相席していると解釈してよろしいのでしょうか?」
福利厚生や今後の休暇計画についての相談なら、スケジュール管理も仕事の内とする絵麻が呼ばれた理由も納得できる。
アズサへの恋心を必死に押し隠し、これからの仕事に気持ちを集中させた。すると、それまでずっと目を逸らしていたアズサが長い溜息をついて、絵麻に視線を合わせてきた。
「最後まで話を聞け。……俺が婚約するのは他でもない、君だ。結崎絵麻」
正面からそう断言され、絵麻の思考が停止する。
「……え?」
「俺が婚約するのは、君だ。結崎絵麻」
一言ずつゆっくりと区切りながら、再び告げられた言葉に、絵麻は目を大きく見開く。
「ほぁっ……ッ?」
――絵麻の人生で最高に素っ頓狂な声が喉から飛びだし、教授室に大きく響いた。
2 同棲と偽婚約者の距離感
「どういうこと、ですか」
引きつりそうになる喉を手で押さえ、絵麻はできるだけ冷静に問いかける。
だが、いきなり爆弾発言をしたアズサは、腕を組んで黙り込んだまま、絵麻を見つめるだけだ。
教授室に、気まずい時間ばかりが流れていく。
――どうして? 彼は私を嫌っているんじゃなかったの?
まったくわけがわからない。わかれというほうが無茶である。
なぜなら、アズサが絵麻を嫌っているだろうことは周知の事実だからだ。
例えば、研究室のメンバーでランチに行くことになっても、絵麻がいる時は必ず、「急用ができた」と言って姿を消す。アズサが雑談している談話室に絵麻が入っていくと、会話を打ち切って実験に戻ってしまう……など。
仕事以外で二人が会話することはなく、その会話も必要最低限で切り上げられる。
最初は偶然かと思っていたが、何度も重なるうちに、彼から避けられていることを自覚した。
そう思ったのは絵麻だけでなく、周囲も同じように『アズサは絵麻を避けている』あるいは『嫌っている』という認識を持つようになった。
そこまではっきり自分を嫌っている相手から、「婚約したい」でも「婚約してほしい」でもなく、「婚約する」と断言された絵麻は、困惑するしかない。
どれほどの時間がたったのか。黙って成り行きを見守っていた外交官の芳賀が、大げさに肩をすくめた。
「これじゃあ、いつまでたっても話が進みそうにないな。ここからは俺が引き取る」
芳賀が宣言すると、アズサは再び絵麻から視線を外してしまった。
そんなアズサを気にした様子もなく、芳賀は人差し指を回して少し考える仕草を見せる。
「……さて、どこから話そうかな」
額に落ちてきた黒髪を吐息で吹き飛ばし、芳賀が絵麻のほうを見た。
「まずは、ここで行っている研究についてだ。もちろん理解しているよな?」
馬鹿にするような声音に、思わず眉をひそめて絵麻はうなずく。
「ルクシャーナ王国に昔から存在する風土病――ザムザ病が人体に及ぼす影響と、免疫機能の研究。そして、病の原因であるウイルスの解析です。また、薬学部や分子生物学教室、製薬会社との産学連携による新薬開発も同時に進めています」
この研究室に在籍する教授秘書として当然の説明をしてみせると、芳賀がパンパンパンと手を叩いて絵麻を評価する。
「正解。――ではザムザ病については?」
その瞬間、絵麻は表情が強張るのを感じた。まるで絵麻の知識を疑い、確認してくるような言動に怒りを覚える。だが、芳賀は叔父の客で、これは秘書の仕事だと自分に言い聞かせ、個人的な感情をぐっと堪えてうなずく。
「ザムザ病は、発熱や発疹など、症状は『はしか』に似ていますが、人体への影響はより強力な病です。ルクシャーナの人々は、大抵子どもの頃に罹患しますが、もともと免疫を持つか、病への耐性があるので数日で回復します。そのため、最近まであまり注目されてきませんでした」
冷静にと思いながらも、抑えたはずの怒りがふつふつと沸き上がってくる。
気持ちを落ち着かせるため、一呼吸置いてから、絵麻は再び説明を始めた。
「ですが、近年、成人してからザムザ病に罹ると重症化する傾向が強いとわかり、治療が遅れた場合は死に至ることも多く、特効薬が望まれています」
ザムザ病は、かつて考古学研究でルクシャーナを訪れていた絵麻の父の命を奪った。
絵麻の人生を一変させたザムザ病のことを、忘れた日はない。
この病で苦しむ人が一人でも少なくなるように、絵麻のように悲しむ遺族がいなくなるように……。その手助けをしたくて、絵麻は叔父の武彦が教授としてザムザ病を研究する、この研究室の秘書となったのだ。
そんな絵麻に対して、芳賀は再び手を叩いて、「正解」と笑う。
彼の失礼な態度に、客とわかっていても、絵麻はいらつき始めていた。
たとえ雑用でも、絵麻なりに努力してザムザ病と向き合ってきたことを、芳賀に馬鹿にされた気がしたからだ。
これ以上ここにいたら、秘書らしからぬ態度を取ってしまいそうだった。
「……お話が進まないようですし、もう失礼してもよろしいですか?」
立ち上がろうとした絵麻の行く手を、白衣に包まれた長い腕が遮る。アズサだ。
彼の制止に驚いて、浮きかけた絵麻の腰が再びソファーに沈む。
「ハリーファ准教授?」
「つまり……君は、私の研究についても、当然、理解していると考えていいんだな?」
言われたことを理解した瞬間、絵麻の頭に血が上る。芳賀のみならず、同じ研究室にいるアズサにまで、絵麻のこれまでの努力を蔑ろにされた気がした。
「当たり前です!」
思わずきつくなってしまった口調に、アズサが微かに目を見張る。だが、それに気づけないほど絵麻は感情的になっていた。
(知らないわけ、ない。……ずっと、見てきたんだもの)
アズサは、母国であるルクシャーナ王国固有の珍しい病を治す手立てを探すため、日本に留学したのだそうだ。そして、ザムザ病を引き起こすザムザウイルスの研究が、世界で一番進んでいた、この亜熱帯性ウイルス免疫学教室に所属した。
なぜなら、アズサもまた、絵麻と同じように肉親――母親をザムザ病で失っていたから。
肉親を病で失う悲しみや、その原因をなくしたいという決意が、絵麻には誰よりよくわかる。
だから、嫌われているとわかっていても、つい目で彼を追いかけてしまっていた。
研究室の秘書として、可能な限りの手助けをしてきたつもりだったけれど、彼にしてみれば、研究への理解があるかどうかでさえ、確認を必要とする程度の存在でしかなかったのだ。そんな自分の無力さが悔しい。
今にも溢れそうになる涙を堪え、絵麻は目の前にいる二人の男をじっと見つめる。
すると芳賀が、突如として姿勢を正し、真面目な顔をした。
「了解。なら本題に入ろうか。……ご存じの通り、結崎教授やアズサの研究が功を奏し、ザムザ病に対抗する新薬の治験が終わり、承認を待っているところだ」
治験とは、できたばかりの薬が本当に問題がないか、実際に患者や健康な人間に対して行うテストだ。
新薬開発としては治験の合格が一つの山場で、新薬として厚生労働省に承認されれば、病に苦しんでいる患者が利用することができる。
「このまま順調にいけば……遅くても一、二年後には新薬として承認されるだろう。だが、ここにきてちょっとやっかいなことが起こった」
「え……」
結崎家とアズサにとって、ザムザ病の対抗薬が完成することには特別な意味がある。
まさか、重大な副作用が見つかって、新薬としての承認が得られなくなったのだろうか……
嫌な考えに絵麻は表情を強張らせた。
「ああ、お嬢ちゃんが考えているようなことじゃない。薬としては問題ない。問題は……ザムザウイルスとアズサに縁のある、ルクシャーナ王国に関することだ」
手を振って絵麻の考えを否定した芳賀が、淡々と説明し始めた。
ルクシャーナ王国は東南アジアにある島国で、観光以外の資源が乏しいと言われてきた国だ。
しかし近年、海底資源の調査や採掘などの技術向上に伴い、ルクシャーナ王国領海に、豊富な海底油田や希少金属資源があることがわかった。それにより、ルクシャーナはにわかに世界の注目を浴びることとなった。
様々な国の総合商社や資源カンパニーが先を争って国を訪れ、一気に国際化が進んだ。
ところが、そんな中、ルクシャーナ王国の王太子、イムラーンがザムザウイルスに感染し――ザムザ病を発症してしまったという。
ルクシャーナ国王は、王太子に万が一のことがあった場合に備え、急遽、留学中の第二王子を国に呼び戻し、国内の有力貴族の娘と結婚させることを決定した。
「そのルクシャーナ王国の第二王子殿下が、アズサ。正式には、アズサ・サウダッド・ハリーファ・アミル・アルサーニ。お嬢ちゃんの目の前にいる男だ」
「殿……下?」
あまりに途方もない話すぎて、絵麻は理解が追いつかない。
お盆を胸に抱いて、ただ馬鹿みたいに目と口をぽかんと開いてしまう。
(どっ……どこから、どう、突っ込めばいいのか……わか、わからなすぎ、る)
目の前にいる芳賀とアズサに抱えているお盆を投げつけて、頭を抱えてうずくまり、そのまま人事不省に陥りたい。
混乱のあまり、そんなことを考えながら、絵麻は喉を鳴らして唾を呑む。
「まあ、いきなりアズサが王子だと言っても信じられないだろう。だから資料を揃えてきた。目を通せ」
まるで自分の部下にするような気安さで、芳賀が脇に置いていたビジネスバッグから書類の束を取り出し、絵麻の前に投げる。
テーブルの上に散らばった書類には、ルクシャーナ王国領事館発行の王室家系図や、公的な印が押された英文の写真付き経歴書が見て取れた。
さらに、駄目押しでアズサがポケットから差しだしてきたパスポートを見て、絵麻はこの信じられない現実を受け入れた。
――Diplomatic.
外交旅券――つまり一般人ではなく公人であることが、パスポートの表紙に金で刻印されていた。
秘書兼事務として、様々な手続きをすることはあっても、絵麻は今までアズサのパスポートを見たことはなかった。
緊張に震える指先で中を開くと、アズサの名前の前に、王族であることを示す『H.R.H.』と記してある。
おそらく、研究室に所属する他の医師や院生も知らないだろう。叔父は知っていたのかもしれないが、こんなこと……お忍びで一国の王子が研究員をしていたなんて、他言できるはずもない。
(でも待って? それならどうして、私と婚約するなんて話になるの?)
「あの、それだったら、ええと、殿下は、帰国して婚約されるということですよね? ……その、王様の選んだ女性と」
絵麻以外の男性陣が、同時に溜息をついて、こめかみを押さえたり、気まずそうに窓の外を見たりした。
「留学した時点で、ルクシャーナ王室とは絶縁状態だ。……今更、王族としての役割を果たす気などない。第一に俺は医師以外の生き方を考えていない。この王命に従うくらいなら、結崎……絵麻。君と結婚したほうがましだと計算した」
胸にナイフを刺されたような痛みを覚え、絵麻は息を止めた。
馬鹿にするにもほどがある。望まない結婚をするくらいなら、絵麻としたほうがましだなどと。
同時に、どんなに嫌われているとわかっていても、絵麻はアズサに惹かれており、彼に対する諦められない思いが鼓動を騒がせるのも事実で。
(好きになっても仕方がない、諦めなければならない。そう考えていた矢先に、こんな関係を突きつけられるなんて)
絵麻は自分がどうしたいのかわからない。
「父……ルクシャーナ国王ジャーレフ・サウダット・ハリーファ・アルマリクから、研究者を辞め、即時結婚し、王族として復帰せよと申し渡された時、すでに婚約者がいるから帰国しないと告げた。だが、こんな話を公にはできない。そこで旧知の芳賀に相談したところ、君が最適だという判断に至った」
淡々と告げるアズサに、絵麻は震える唇を噛みしめた。
「……そんな……どうして、私なんですか」
目頭が熱くなる。
アズサの前でなど泣きたくはない。
「理由くらい、知りたいと思うのはわがままですか?」
きっと肯定的な理由でないだろうことはわかっているのに、尋ねずにはいられない。ほんの少しでもアズサからの好意があって欲しいと願ってしまう自分が情けない。
「それは……」
絵麻を見たアズサが目を見張り言葉を失う。すぐに彼に代わって芳賀が身を乗り出してきた。
「その一、ザムザウイルスの研究内容を知っていて、口が堅く信頼のおける人間であること。その二、周囲には本当に婚約したと思わせたい。国王側だって、アズサの発言が、嘘か真実かの調査くらいするだろう。だが、本当に関係を結ばれても困る。その点、お嬢ちゃん……恩師の姪御さんには手を出さないだろうと考えた。その他もろもろ理由はあるが、アンタ以上の適任者はいないと判断したというわけ」
空いた左手で指を折りながら告げられる。それを肯定するように隣で叔父がうなずいた。
「……なに、それ……」
「すまない。絵麻。……けれど、ザムザウイルスの対抗薬が承認されても、その後の医療関係者フォローや、学術的な追跡研究にアズサ君の協力は不可欠だ。今、彼にいなくなられるのは辛い」
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