トカゲの庭園

内野月化

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おまけのおはなし

朝陽の射す中で

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『…… ……』
 かすれた女の声が聞こえる。
 それは甘く懐かしいもので、優しく耳をくすぐっていく。
 何を言っているのかなどどうでもいいのだ。
 長い黒髪の人にただ柔らかく身体を包まれて、笑顔になれた。
 満ち足りた気持ちになれた。
 それだけが世界で唯一絶対の信じるべきものだった。

 そして、穏やかな陽が射すベッドの上でエドウィンは目を覚ました。
 ぼんやりとした頭で重い瞼を開ける。
 ほんの一瞬の、目覚める直前に夢を見たのだ。
 夢でしかないのに、内容は事実であったことに溜息をつく。
 視線の先には、アイナが背を向けて寝ている姿があった。
 夜具から出ているアイナの肩がゆっくりと規則正しい呼吸を刻んでいるから、まだ眠っているのが分かる。
 手を伸ばしてアイナを包むように後ろからそっと抱きしめた。

 おそらくは幼い自分とたいして歳も変わらぬ子どもだった。
 もはや相手の顔など覚えてもいない。
 覚えているのは、その後に優しく抱きしめてくれた母のぬくもりだけだ。
 だから嬉しかった。
 あの時の自分にはまだ分からなかったのだ。
 なぜ母が「ごめんなさい」と繰り返し謝るのか。なぜ涙を流すのかなんて。
 「化け物!」と叫ばれたが、その言葉の意味なんて知らなかった。
 「あっちへ行け!」と投げつけられた石は左頬にぶつかったから、痛みなんて感じなかった。

 ――アイナもいつか、泣くのだろうか。

 母と同じように、子どもを抱き締めながら涙を流すのだろうか。
 子を産んだことを後悔しながら謝るのだろうか。
 そう思ったら、腹の奥から気持ちの悪い感情が出てきそうで吐きたくなる。
 アイナを抱く腕に力をこめる。
 夜はなかなか眠れないアイナを起こすのは可哀想だと思ったが、アイナの顔が見たくてたまらなくなった。
「……ん」
 寝ぼけまなこでアイナが首を動かし少しだけ振り返る。
「おはよう、アイナ」
「お……はよう……エド?」
 まだ夢の途中らしいアイナの首元にキスをして、そこに顔を埋める。
 腕を回して、腹の大きな膨らみへと手を伸ばした。
 産み月のアイナの腹は張っていて、はちきれんばかりだ。
 最初は触れて良いのかどうかも分からなかった。そこにまだ見ぬ自分の子どもがいるのは実感が湧かなかったが、エドウィンが触るとポコポコと蹴るようになってから、新しい命がアイナの中にいることがようやく感覚として理解できた。
 ゆっくりと腹を撫でるエドウィンの左手にアイナが手を重ねてくる。
「どうしたのです?」
「……アイナは、産むのが怖くないのか?」

 化け物の子を産むということが――。
 どんな姿かも分からないものなのに。

 いつもと少し違う様子のエドウィンに、アイナはまた振り向きほんの一瞬だけ眉根を寄せたが、そのことには触れずに頬を膨らませてちらりと視線を投げる。
「怖いに決まってます」
「え?」
「産む時は覚悟しなさいって脅されたんですよ。モニカなんてもう、それはそれは難産だったんですって! 二日間も叫び続けたって!」
「……わざわざ聞かなければ良いだろうに」
 脅されるのが分かっているのに、わざと聞く方が悪いのだとエドウィンは思った。街の知り合いは面白がってアイナをからかうのだから。だがそうは言ってもアイナは初めての出産だ。いろいろと知りたいだろうし、不安だらけだ。
 問いから外れた答えを寄こすアイナの首筋に額をくっつけながら、エドウィンは声を押し殺して笑った。


「おや、おはよう」
 採ったばかりの野菜をいくつか持ってエドウィンが台所へ行くと、すでに来ていたマティルダが声を掛けてきた。マリアンヌが慌てて台所の奥から顔を出す。
 城の男二人じゃ当てにならないと、アイナを気遣ってマリアンヌが城に泊り込んでくれていた。そしてマティルダまでが様子を見に朝早くからやってくる。マリアンヌも慣れたもので、マティルダの分も朝食をちゃんと用意していた。
「お前さんの作る野菜は美味しいけどね。最近は薬草のほうが疎かになってるじゃないか」
 マティルダが渋い顔をしてエドウィンに言うと、マリアンヌが苦笑いした。
「エドウィン様はアイナ様に食べさせる野菜のことで頭がいっぱいなんですよ」
「ほ。アイナにはさっさと復帰してもらわないと駄目だね」
 横目でエドウィンを見ながら、マティルダがニヤリと笑う。そして跳ねるようにして食堂に行ってしまった。
 相変わらずのマティルダ節に溜息をつきつつも、「用が無ければ帰ってくれ」とも言えない。アイナのことを考えれば、経験豊かなマティルダが傍にいてくれたほうが良い。
「今日はアイナ様も朝ごはんを食べられそうかねぇ?」
「ああ、お腹が空いたって言っている」
 エドウィンの返事に満足したようにマリアンヌが笑顔になった。
 食欲があったりなかったり、アイナの様子はその日によって変わる。身体が思うように動かなくて、眠たそうに一日中ぼんやりしている時もある。
 ただ、エドウィンにはどうしてやることもできないのだ。こうしてマリアンヌに、アイナの食べたい物を伝えたり、様子を報告して食事を考えてもらうことしかできない。
「マリアンヌも、子を産む時は怖かったのか?」
 七人もの子を産んだ彼女はどうなのだろうと疑問に思った。
「怖くない女なんていやしないよ、エドウィン様。怖くない男もいないだろうけどね」
 マリアンヌは目の前の鍋から振り向いて笑う。
「男なんて役に立たないんだ。せいぜい強がって、愛する女を安心させてやることだけだね。それすらもできないのかい?」
 呆れたような視線を寄こしてマリアンヌが息を吐く。
 今の自分はそんなに情けない顔をしているのだろうかと、エドウィンは思わずたじろいだ。
「アイナに後悔はさせたくないんだ。母みたいに」
「……王妃様は後悔なんかしなかっただろうに。聡明なあのかたが」
 マリアンヌが怪訝な顔をしてエドウィンを見つめる。
 だが本当にそうならば、あの時なぜ母は泣いて謝ったのか。
 マリアンヌの記憶の中には、泣く王妃はいないのかもしれない。
「エドウィン様。まさか後悔しているわけじゃないでしょうね?」
「あ?」
「アイナ様が……産むことを」
 ひくりとエドウィンの頬が引き攣る。
「そうじゃ、ない」
 短い言葉を出す喉の奥がひりついた。わずかに声がかすれる。
「……なら、なら……いいんだよ」
 震える唇を隠すように、マリアンヌは鍋の方に向き直ってエドウィンを見ることはなかった。
 うなだれたエドウィンは台所を出てゆっくりと食堂へ向かう。
 本当に自分は後悔していないと言えるのだろうか。
 初めてアイナから身籠ったことを告げられた時、喜びと共に戸惑いを感じたのも事実だ。自分はどのような顔をしてアイナを見たのだろう? 
 子を望まないわけではないのだ。
 ただ、アイナが傷つくのを見ることが怖かった。

 食堂の扉を開けると、窓辺に立つアイナとマティルダの姿が見えた。そしてバードも一緒になって話に花を咲かせていたらしい。
「だいぶ下がってきたからねぇ。いつ産まれてもおかしくないね」
「男の子と女の子、どっちでしょう?」
「賭けるかい? アタシは男の子だと思うんだけど?」
 マティルダがニヤリと笑ってバードを見る。
 朝食の準備をしていたバードは、「失礼な人ですねぇ」と顔をしかめながら、「じゃ女の子で」と澄まして答えた。
「ほ。お前さんはどっちに賭けるんだい?」
 部屋に入って来たエドウィンを見るマティルダの目が弧を描く。
 勝手に何を言っているのかとエドウィンは呆れた。
「……賭けに勝ったら、どうなるんだ?」
「そうだねぇ。子どもの名前を付ける権利をもらうってのはどうだい?」
「んな!?」
「駄目ですよ」
 アイナが苦笑してマティルダを諌める。
「名前を付けるのはお父様の役目ですもの。ね?」
 笑いを堪えるようにしてエドウィンに視線を送った。
「おや。もう決めちゃったのかい?」
「逆ですよ。まだ決められないんです」
 数ある候補の中からいまだに悩み続けているエドウィンを揶揄するようにアイナがマティルダに告げ口する。
「それじゃあ、どれだけ立派な名前になるか楽しみさねぇ」
 意地悪そうに口の端を上げたマティルダがエドウィンを見上げる。
 その言い方はもはや嫌味でしかない。
 結局産み月になるまで名前は決められなかったのだ。今だって迷っている。
「楽しみですねぇ」
 エドウィンが困った表情をしているのを知りながら、アイナはくすくすと楽しそうにしてマティルダに同調した。
 エドウィンはただ呆然として、笑顔のアイナを眺める。
 それは今朝の夢の中の母とあまりにも違いすぎて、ひたすら眩しかった。

 あの時は、母の涙をぬぐってやれなかったのだ。
 幼すぎて理解してあげることができなかったのだ。
 母の気持ちも、涙の意味も。
 きっとこの後悔は消えない。

 ――今ならば、できるのだろうか?

 ぶつけられる石から身を呈して守ってやることを。
 愛する女の涙をすくってやることを。

 顔を傾けてゆっくりと左の手を見る。
 朝の陽を受けた橙色の鱗が鈍く光る。
 その手をギュッと握った。

 化け物には化け物なりのやり方ができる。
 アイナも、生まれてくる子どもも、この手を伸ばして守ってやろう。
 きっとこの強い力はそのために存在する。
 誰よりも近い場所で、この腕の中でいつまでも守ってやるのだ。

 そう己に誓えば自然に笑みがこぼれてきた。
 エドウィンはアイナの背に腕を回す。椅子を引いてアイナをゆっくり座らせて、それからバードが給仕する朝食のために自分の席に着いた。



************************************************
「いいかい? あんたたち」
 マリアンヌが庭の片隅で低い声を出しおごそかに告げる。
 ジーナトクスは真剣な顔をしてコクコクと頷いた。
 デュースはゴクリと唾を飲み込んで、剣呑な目をするマリアンヌに顔を向けた。
「アイナ様の陣痛が始まったら、とにかくエドウィン様を一番遠いところへ引きずっていくんだよ」
「……レグザスの背中に縛りつけて空に放り投げたらどうだ?」
「いいかも知れないね」
 マリアンヌがフッと鼻で笑う。
「とにかくね、出産の間は一番あのかたが邪魔になるから」
 随分と容赦ない言い方ではあるが、それが事実だから仕方ない。
 情けないとは思いつつ、デュースにもエドウィンの行動が想像できて苦笑いする。男なんて皆そんなものだ。
「あの馬鹿力を押さえることなんて俺にもできないだろうけどな」
「やるんだよ、デュース! お菓子でもなんでもいいから釣って、とにかく追っ払っておくれ」
 マリアンヌが叱るように檄を飛ばす。
「……子どもじゃないんだから」
 ジーナトクスが呆れたように返した。
 もはやマリアンヌの頭の中はアイナの出産のことでいっぱいだ。そしてエドウィンのことは不安に揺れる幼子のようにしか思えないのだろう。
「アイナ様のお産はあんたたちにかかってるんだ。わかったね?」
 大袈裟な『エドナ城の母』の念押しに、デュースとジーナトクスは笑いながらも声を揃えて、「了解!」と威勢よく返事したのだった。
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