21 / 30
おまけのおはなし
朝陽の射す中で
しおりを挟む『…… ……』
かすれた女の声が聞こえる。
それは甘く懐かしいもので、優しく耳をくすぐっていく。
何を言っているのかなどどうでもいいのだ。
長い黒髪の人にただ柔らかく身体を包まれて、笑顔になれた。
満ち足りた気持ちになれた。
それだけが世界で唯一絶対の信じるべきものだった。
そして、穏やかな陽が射すベッドの上でエドウィンは目を覚ました。
ぼんやりとした頭で重い瞼を開ける。
ほんの一瞬の、目覚める直前に夢を見たのだ。
夢でしかないのに、内容は事実であったことに溜息をつく。
視線の先には、アイナが背を向けて寝ている姿があった。
夜具から出ているアイナの肩がゆっくりと規則正しい呼吸を刻んでいるから、まだ眠っているのが分かる。
手を伸ばしてアイナを包むように後ろからそっと抱きしめた。
おそらくは幼い自分とたいして歳も変わらぬ子どもだった。
もはや相手の顔など覚えてもいない。
覚えているのは、その後に優しく抱きしめてくれた母のぬくもりだけだ。
だから嬉しかった。
あの時の自分にはまだ分からなかったのだ。
なぜ母が「ごめんなさい」と繰り返し謝るのか。なぜ涙を流すのかなんて。
「化け物!」と叫ばれたが、その言葉の意味なんて知らなかった。
「あっちへ行け!」と投げつけられた石は左頬にぶつかったから、痛みなんて感じなかった。
――アイナもいつか、泣くのだろうか。
母と同じように、子どもを抱き締めながら涙を流すのだろうか。
子を産んだことを後悔しながら謝るのだろうか。
そう思ったら、腹の奥から気持ちの悪い感情が出てきそうで吐きたくなる。
アイナを抱く腕に力をこめる。
夜はなかなか眠れないアイナを起こすのは可哀想だと思ったが、アイナの顔が見たくてたまらなくなった。
「……ん」
寝ぼけまなこでアイナが首を動かし少しだけ振り返る。
「おはよう、アイナ」
「お……はよう……エド?」
まだ夢の途中らしいアイナの首元にキスをして、そこに顔を埋める。
腕を回して、腹の大きな膨らみへと手を伸ばした。
産み月のアイナの腹は張っていて、はちきれんばかりだ。
最初は触れて良いのかどうかも分からなかった。そこにまだ見ぬ自分の子どもがいるのは実感が湧かなかったが、エドウィンが触るとポコポコと蹴るようになってから、新しい命がアイナの中にいることがようやく感覚として理解できた。
ゆっくりと腹を撫でるエドウィンの左手にアイナが手を重ねてくる。
「どうしたのです?」
「……アイナは、産むのが怖くないのか?」
化け物の子を産むということが――。
どんな姿かも分からないものなのに。
いつもと少し違う様子のエドウィンに、アイナはまた振り向きほんの一瞬だけ眉根を寄せたが、そのことには触れずに頬を膨らませてちらりと視線を投げる。
「怖いに決まってます」
「え?」
「産む時は覚悟しなさいって脅されたんですよ。モニカなんてもう、それはそれは難産だったんですって! 二日間も叫び続けたって!」
「……わざわざ聞かなければ良いだろうに」
脅されるのが分かっているのに、わざと聞く方が悪いのだとエドウィンは思った。街の知り合いは面白がってアイナをからかうのだから。だがそうは言ってもアイナは初めての出産だ。いろいろと知りたいだろうし、不安だらけだ。
問いから外れた答えを寄こすアイナの首筋に額をくっつけながら、エドウィンは声を押し殺して笑った。
「おや、おはよう」
採ったばかりの野菜をいくつか持ってエドウィンが台所へ行くと、すでに来ていたマティルダが声を掛けてきた。マリアンヌが慌てて台所の奥から顔を出す。
城の男二人じゃ当てにならないと、アイナを気遣ってマリアンヌが城に泊り込んでくれていた。そしてマティルダまでが様子を見に朝早くからやってくる。マリアンヌも慣れたもので、マティルダの分も朝食をちゃんと用意していた。
「お前さんの作る野菜は美味しいけどね。最近は薬草のほうが疎かになってるじゃないか」
マティルダが渋い顔をしてエドウィンに言うと、マリアンヌが苦笑いした。
「エドウィン様はアイナ様に食べさせる野菜のことで頭がいっぱいなんですよ」
「ほ。アイナにはさっさと復帰してもらわないと駄目だね」
横目でエドウィンを見ながら、マティルダがニヤリと笑う。そして跳ねるようにして食堂に行ってしまった。
相変わらずのマティルダ節に溜息をつきつつも、「用が無ければ帰ってくれ」とも言えない。アイナのことを考えれば、経験豊かなマティルダが傍にいてくれたほうが良い。
「今日はアイナ様も朝ごはんを食べられそうかねぇ?」
「ああ、お腹が空いたって言っている」
エドウィンの返事に満足したようにマリアンヌが笑顔になった。
食欲があったりなかったり、アイナの様子はその日によって変わる。身体が思うように動かなくて、眠たそうに一日中ぼんやりしている時もある。
ただ、エドウィンにはどうしてやることもできないのだ。こうしてマリアンヌに、アイナの食べたい物を伝えたり、様子を報告して食事を考えてもらうことしかできない。
「マリアンヌも、子を産む時は怖かったのか?」
七人もの子を産んだ彼女はどうなのだろうと疑問に思った。
「怖くない女なんていやしないよ、エドウィン様。怖くない男もいないだろうけどね」
マリアンヌは目の前の鍋から振り向いて笑う。
「男なんて役に立たないんだ。せいぜい強がって、愛する女を安心させてやることだけだね。それすらもできないのかい?」
呆れたような視線を寄こしてマリアンヌが息を吐く。
今の自分はそんなに情けない顔をしているのだろうかと、エドウィンは思わずたじろいだ。
「アイナに後悔はさせたくないんだ。母みたいに」
「……王妃様は後悔なんかしなかっただろうに。聡明なあのかたが」
マリアンヌが怪訝な顔をしてエドウィンを見つめる。
だが本当にそうならば、あの時なぜ母は泣いて謝ったのか。
マリアンヌの記憶の中には、泣く王妃はいないのかもしれない。
「エドウィン様。まさか後悔しているわけじゃないでしょうね?」
「あ?」
「アイナ様が……産むことを」
ひくりとエドウィンの頬が引き攣る。
「そうじゃ、ない」
短い言葉を出す喉の奥がひりついた。わずかに声がかすれる。
「……なら、なら……いいんだよ」
震える唇を隠すように、マリアンヌは鍋の方に向き直ってエドウィンを見ることはなかった。
うなだれたエドウィンは台所を出てゆっくりと食堂へ向かう。
本当に自分は後悔していないと言えるのだろうか。
初めてアイナから身籠ったことを告げられた時、喜びと共に戸惑いを感じたのも事実だ。自分はどのような顔をしてアイナを見たのだろう?
子を望まないわけではないのだ。
ただ、アイナが傷つくのを見ることが怖かった。
食堂の扉を開けると、窓辺に立つアイナとマティルダの姿が見えた。そしてバードも一緒になって話に花を咲かせていたらしい。
「だいぶ下がってきたからねぇ。いつ産まれてもおかしくないね」
「男の子と女の子、どっちでしょう?」
「賭けるかい? アタシは男の子だと思うんだけど?」
マティルダがニヤリと笑ってバードを見る。
朝食の準備をしていたバードは、「失礼な人ですねぇ」と顔をしかめながら、「じゃ女の子で」と澄まして答えた。
「ほ。お前さんはどっちに賭けるんだい?」
部屋に入って来たエドウィンを見るマティルダの目が弧を描く。
勝手に何を言っているのかとエドウィンは呆れた。
「……賭けに勝ったら、どうなるんだ?」
「そうだねぇ。子どもの名前を付ける権利をもらうってのはどうだい?」
「んな!?」
「駄目ですよ」
アイナが苦笑してマティルダを諌める。
「名前を付けるのはお父様の役目ですもの。ね?」
笑いを堪えるようにしてエドウィンに視線を送った。
「おや。もう決めちゃったのかい?」
「逆ですよ。まだ決められないんです」
数ある候補の中からいまだに悩み続けているエドウィンを揶揄するようにアイナがマティルダに告げ口する。
「それじゃあ、どれだけ立派な名前になるか楽しみさねぇ」
意地悪そうに口の端を上げたマティルダがエドウィンを見上げる。
その言い方はもはや嫌味でしかない。
結局産み月になるまで名前は決められなかったのだ。今だって迷っている。
「楽しみですねぇ」
エドウィンが困った表情をしているのを知りながら、アイナはくすくすと楽しそうにしてマティルダに同調した。
エドウィンはただ呆然として、笑顔のアイナを眺める。
それは今朝の夢の中の母とあまりにも違いすぎて、ひたすら眩しかった。
あの時は、母の涙をぬぐってやれなかったのだ。
幼すぎて理解してあげることができなかったのだ。
母の気持ちも、涙の意味も。
きっとこの後悔は消えない。
――今ならば、できるのだろうか?
ぶつけられる石から身を呈して守ってやることを。
愛する女の涙をすくってやることを。
顔を傾けてゆっくりと左の手を見る。
朝の陽を受けた橙色の鱗が鈍く光る。
その手をギュッと握った。
化け物には化け物なりのやり方ができる。
アイナも、生まれてくる子どもも、この手を伸ばして守ってやろう。
きっとこの強い力はそのために存在する。
誰よりも近い場所で、この腕の中でいつまでも守ってやるのだ。
そう己に誓えば自然に笑みがこぼれてきた。
エドウィンはアイナの背に腕を回す。椅子を引いてアイナをゆっくり座らせて、それからバードが給仕する朝食のために自分の席に着いた。
************************************************
「いいかい? あんたたち」
マリアンヌが庭の片隅で低い声を出しおごそかに告げる。
ジーナトクスは真剣な顔をしてコクコクと頷いた。
デュースはゴクリと唾を飲み込んで、剣呑な目をするマリアンヌに顔を向けた。
「アイナ様の陣痛が始まったら、とにかくエドウィン様を一番遠いところへ引きずっていくんだよ」
「……レグザスの背中に縛りつけて空に放り投げたらどうだ?」
「いいかも知れないね」
マリアンヌがフッと鼻で笑う。
「とにかくね、出産の間は一番あのかたが邪魔になるから」
随分と容赦ない言い方ではあるが、それが事実だから仕方ない。
情けないとは思いつつ、デュースにもエドウィンの行動が想像できて苦笑いする。男なんて皆そんなものだ。
「あの馬鹿力を押さえることなんて俺にもできないだろうけどな」
「やるんだよ、デュース! お菓子でもなんでもいいから釣って、とにかく追っ払っておくれ」
マリアンヌが叱るように檄を飛ばす。
「……子どもじゃないんだから」
ジーナトクスが呆れたように返した。
もはやマリアンヌの頭の中はアイナの出産のことでいっぱいだ。そしてエドウィンのことは不安に揺れる幼子のようにしか思えないのだろう。
「アイナ様のお産はあんたたちにかかってるんだ。わかったね?」
大袈裟な『エドナ城の母』の念押しに、デュースとジーナトクスは笑いながらも声を揃えて、「了解!」と威勢よく返事したのだった。
0
お気に入りに追加
138
あなたにおすすめの小説
初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と叫んだら長年の婚約者だった新妻に「気持ち悪い」と言われた上に父にも予想外の事を言われた男とその浮気女の話
ラララキヲ
恋愛
長年の婚約者を欺いて平民女と浮気していた侯爵家長男。3年後の白い結婚での離婚を浮気女に約束して、新妻の寝室へと向かう。
初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と愛する夫から宣言された無様な女を嘲笑う為だけに。
しかし寝室に居た妻は……
希望通りの白い結婚と愛人との未来輝く生活の筈が……全てを周りに知られていた上に自分の父親である侯爵家当主から言われた言葉は──
一人の女性を蹴落として掴んだ彼らの未来は……──
<【ざまぁ編】【イリーナ編】【コザック第二の人生編(ザマァ有)】となりました>
◇テンプレ浮気クソ男女。
◇軽い触れ合い表現があるのでR15に
◇ふんわり世界観。ゆるふわ設定。
◇ご都合展開。矛盾は察して下さい…
◇なろうにも上げてます。
※HOTランキング入り(1位)!?[恋愛::3位]ありがとうございます!恐縮です!期待に添えればよいのですがッ!!(;><)
「お前を妻だと思ったことはない」と言ってくる旦那様と離婚した私は、幼馴染の侯爵から溺愛されています。
木山楽斗
恋愛
第二王女のエリームは、かつて王家と敵対していたオルバディオン公爵家に嫁がされた。
因縁を解消するための結婚であったが、現当主であるジグールは彼女のことを冷遇した。長きに渡る因縁は、簡単に解消できるものではなかったのである。
そんな暮らしは、エリームにとって息苦しいものだった。それを重く見た彼女の兄アルベルドと幼馴染カルディアスは、二人の結婚を解消させることを決意する。
彼らの働きかけによって、エリームは苦しい生活から解放されるのだった。
晴れて自由の身になったエリームに、一人の男性が婚約を申し込んできた。
それは、彼女の幼馴染であるカルディアスである。彼は以前からエリームに好意を寄せていたようなのだ。
幼い頃から彼の人となりを知っているエリームは、喜んでその婚約を受け入れた。二人は、晴れて夫婦となったのである。
二度目の結婚を果たしたエリームは、以前とは異なる生活を送っていた。
カルディアスは以前の夫とは違い、彼女のことを愛して尊重してくれたのである。
こうして、エリームは幸せな生活を送るのだった。
【R18】もう一度セックスに溺れて
ちゅー
恋愛
--------------------------------------
「んっ…くっ…♡前よりずっと…ふか、い…」
過分な潤滑液にヌラヌラと光る間口に亀頭が抵抗なく吸い込まれていく。久しぶりに男を受け入れる肉道は最初こそ僅かな狭さを示したものの、愛液にコーティングされ膨張した陰茎を容易く受け入れ、すぐに柔らかな圧力で応えた。
--------------------------------------
結婚して五年目。互いにまだ若い夫婦は、愛情も、情熱も、熱欲も多分に持ち合わせているはずだった。仕事と家事に忙殺され、いつの間にかお互いが生活要員に成り果ててしまった二人の元へ”夫婦性活を豹変させる”と銘打たれた宝石が届く。
裏切りの代償
志波 連
恋愛
伯爵令嬢であるキャンディは婚約者ニックの浮気を知り、婚約解消を願い出るが1年間の再教育を施すというニックの父親の言葉に願いを取り下げ、家出を決行した。
家庭教師という職を得て充実した日々を送るキャンディの前に父親が現れた。
連れ帰られ無理やりニックと結婚させられたキャンディだったが、子供もできてこれも人生だと思い直し、ニックの妻として人生を全うしようとする。
しかしある日ニックが浮気をしていることをしり、我慢の限界を迎えたキャンディは、友人の手を借りながら人生を切り開いていくのだった。
他サイトでも掲載しています。
R15を保険で追加しました。
表紙は写真AC様よりダウンロードしました。
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
私はお母様の奴隷じゃありません。「出てけ」とおっしゃるなら、望み通り出ていきます【完結】
小平ニコ
ファンタジー
主人公レベッカは、幼いころから母親に冷たく当たられ、家庭内の雑務を全て押し付けられてきた。
他の姉妹たちとは明らかに違う、奴隷のような扱いを受けても、いつか母親が自分を愛してくれると信じ、出来得る限りの努力を続けてきたレベッカだったが、16歳の誕生日に突然、公爵の館に奉公に行けと命じられる。
それは『家を出て行け』と言われているのと同じであり、レベッカはショックを受ける。しかし、奉公先の人々は皆優しく、主であるハーヴィン公爵はとても美しい人で、レベッカは彼にとても気に入られる。
友達もでき、忙しいながらも幸せな毎日を送るレベッカ。そんなある日のこと、妹のキャリーがいきなり公爵の館を訪れた。……キャリーは、レベッカに支払われた給料を回収しに来たのだ。
レベッカは、金銭に対する執着などなかったが、あまりにも身勝手で悪辣なキャリーに怒り、彼女を追い返す。それをきっかけに、公爵家の人々も巻き込む形で、レベッカと実家の姉妹たちは争うことになる。
そして、姉妹たちがそれぞれ悪行の報いを受けた後。
レベッカはとうとう、母親と直接対峙するのだった……
幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。
スタジオ.T
青春
幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。
そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。
ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる