君の声が聞きたくて

第２２章 subito

８

　一度は革張りの椅子に深く沈めた森岡先生が立ち上がり、俺のすぐ真横の椅子まで移動すると、強引に俺の椅子の向きを変え、今度は俺の鼻先を指で摘んだ。

　「但し忘れるなよ？　過ぎた時間は二度と戻ることはないんだ。お前が何度過去を振り返ろとしてもな？　分かるよな？　お前が生きてんのは現在いまなんだからな？」

　時折（は失礼か……）真剣な表情を俺に向ける森岡先生。


　つか、ほっぺたといい、鼻といい、さっきから痛てぇんだよ……


　心の中で悪態を付きながらも、森岡先生の言った「現在いま」のその一言が、俺の胸に深く突き刺さった。
　ただそれは、身を裂くような痛みを伴うわけでもなく、全ての傷を癒して行くような……そんな温かさを感じさせる物だった。


　過去ではなく、今この瞬間を俺は生きている。

　この先もきっとその瞬間は、様々な色や形に変化しながら続いて、その度に泣いたり笑ったりを繰り返しながら、その一瞬一瞬を生きて行けば良いんだって……


　その事に漸く気付いた時、俺の目の前にパッと明るい光が射したような気がした。

　「俺……さ、こんなだから、きっとまた同じこと繰り返すと思うんだ。過去を振り返っては、後悔だってするだろうし……。でもさ、すげぇ時間かかるかもしんないけどさ、前に進んで行けたら良いなって……」


　そうだ、焦る必要なんてない。


　「もしかしたら亀より遅いスピードかもしんないけどさ」


　今は不安しかないけど、それでも俺は俺のペースで、ゆっくり、一歩ずつ前へ……


　「それで良いのかな？」

　スン……と鼻を鳴らし見上げた先で、森岡先生が大きく頷いて、俺の頭をクシャッと掻き混ぜる。

　「良いんじゃねぇか、それで。お前はお前なんだから、変に変わろうとせずに、ありのままの自分で前に進みゃ良いんだよ」

　言いながら森岡先生が席を立ち、革張りの椅子に再び身を沈める。その時、さっきまで何度も間近で見て来た筈の指に、キラリと光るリングの存在に気が付いた。