君の声が聞きたくて

第１章 misterioso

６

　「お兄さんも、早く乗って？」
　「あ、ああ……、うん……」

　仕方ない。同乗しないかと誘ったのは俺だし、彼を一人放っておけないと思ったのも事実だ。
　俺は一つ息を吐き出すと、タクシーに乗り込んだ……のは良かったんだけど、まさか彼のアパートが、俺のマンションとは全く逆方向だったとは、全くの想定外だった。
　ただ、彼のアパートに向かって走り出したタクシーを止めるわけにもいかない。

　しかも、だ。
　運転手にアパートの住所を告げた途端に、彼は大欠伸を一つしたかと思うと、数秒後にはそれは気持ち良さそうな寝息を立てて、俺の肩に凭れかかって来た。


　嘘だろ……、この状況で、しかも初対面の男の肩に凭れかかって寝るかね、普通……


　内心呆れ返りながらも、キャップを外した彼の髪から香る甘い匂いと、フワリとした猫っ毛に首筋を撫でられると、そう悪い気はしなくて……いや、寧ろそうだな、初恋の時のような、何とも言えない胸の高鳴りを覚えた。


　相手はれっきとした男なのに。




　やがて俺達を乗せたタクシーは、人気ひとけも街灯すら疎らな住宅街の一角に止まった。

　「お客さん、着きましたよ」

　運転手に言われて、俺は彼の肩を揺すった。すると彼は瞼を何度か擦った後、キョロキョロと窓の外に視線を巡らせた。

　「着いたって……」

　俺が言っても、まだ夢見心地なのか、彼はボーッとしたままだ。

　「どこ？　良かったら送るよ？」

　ここまで来たんだ、メーターの数字を気にしたって仕方ない。タクシーは待たせておけば良い。俺は彼の腕を引いて、タクシーを降りようとした。



　でも、

　「大丈夫……、一人で帰れる……」

　彼は覚束無い足でタクシーを降りると、前髪を掻き上げ、手に持っていたキャップを目深に被った。

　「ありがと……、助かった……」

　ドア越しに彼が頭を軽く下げる。

　「いや、俺は別に……。あ、それより君、名前は？」
　「俺？　俺は、智……大田智樹……」

　それだけを言うと、彼は踵を返し、ゆったりとした足取りで歩を進め始めた。

　「俺は桜木翔真。また、あの場所で会えるかな……」

　なんでそんなことを言ったのか……、正直俺にも分からない。


　でも彼の……大田智樹の歌がもう一度聞きたいと思ったのは本音で……


　「ふふ、運が良ければね？」


　ついでに、振り向いた彼の、ほんの一瞬見せた笑顔に、心を撃ち抜かれたのも事実で……



　それが、智樹との始まりだった。