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第十二話

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 気を取り直すように喉を鳴らし、ゆっくりと呼吸をしつつ光子は頬から手を離した。
「祖母が人喰い鬼の手鏡は、なるべく森から離さないようにと言っていたんです。関係ないかもしれませんが、なるべく森からは出したくないんです」
「ほぉほ、マサがねえ。マサが言うんならそうなんだろうな。じゃあそちらにうちの鑑識送るから、森からは出さんよーにしよか。ただし何かあったら遠慮なく回収すっから、頭に置いといてん。今すぐ準備させるからちょっと待ってて」
「わかりました」
 光子はしっかりと頷き、ハルがそれを見てにかりと笑った。
「グッドラック、光子嬢。何もないことを祈る。また会おう」
 軽く手を振りながら、ハルはカツカツと部屋から出て行った。続いて立ちあがった源次郎はテーブルを回り、突っ伏している拓也の肩を優しくぽんぽんと労りを込めて叩く。
 それに拓也ははっと顔を上げた。
「あ、父さん。俺はこれからどうすんだ?」
 ひそ、と訪ねる。人喰い鏡の異変調査及び鈴木光子の勧誘、それが拓也の仕事だった。しかし鑑識に回すとなった今、拓也のする事は結果を待つことだけになる。ふと、もしかしてここでこの仕事は終わりということになるのでは、という予感がよぎった。光子は拒否し、調査は鑑識へ、胸にすっきりとしない気持ちが残る。
 その予感を肯定するかのように、待機だね、と源次郎もひそりと声をひそめた。
「鑑識結果が出たらそれを聞いて、よっぽどの結果でない限り、この件は終わりだろうね。高校には引き続き通って貰うことになるよ。様子見にね」
「そっか……」
 頷きつつ、もやりとした感情を隠さない。初任務として彼女と接触してきたが、少々腑に落ちない結果だ。うまく言葉には出来ないが、形としては理解出来る終了でも、何か引っかかる。もやもやと、視界のはじの光子が気になる。
 そんな拓也に源次郎は優しく微笑んだ。
「納得出来る終わり方ばかりじゃないのが現実だけど、でも大丈夫、期待してるよ、柴田巡査部長」
 ぽんぽんと再び拓也の肩を叩きつつ朗らかに微笑む養父に、拓也は複雑な顔をして頷いた。
「ご期待にそぐえるよう、これからも切磋琢磨しますので、ご指導のほうよろしくお願いしますよ。柴田警視」
 おやすいご用さ。源次郎はにっこりと嬉しそうに笑い、頷き返した。
「それじゃ、僕も僕のお仕事をしますか。静江さんよろしくね」
「はい!」
 源次郎は光子にも微笑んでまたねと言い、部屋を出た。静江はハルと源次郎の言葉を反芻するように頷いて、小さくガッツポーズをし、頑張るぞ、とポットの元へと小走りで駆け寄る。
「コーヒー淹れ直すね!光子ちゃん、見せられるところ少ないけど、ビルの中歩いてみる?」
「あ、いえ、今日はそのコーヒーを戴いたら帰ります」
 拓也にはその言外に、疲れたので、と見えた。それが正解と裏付けるように光子は椅子に静かに腰をおろし、誰にもばれないようにとこっそりと短い溜息をついていた。
 俺も疲れた。拓也はどっと椅子の背もたれに体重をかける。ハルは本当に嵐のような女性だ。
 再び酸味の強いコーヒーを飲み干し、カップは置いといて、という静江の言葉に甘えて廊下に出る。先程せんべいを強奪して行ったこども達はすっかり移動を終えたらしく、別の会議室でなにやら講義をしている大人の声がひっそりと響いていた。
「そういえば、研修、なんてあるんですね」
「あるよ。俺も一ヶ月ぐらい前までやってた。静江ちゃんは今研修中」
 へえ、光子が驚いて頷く。柔らかくなった態度に、拓也は純粋に嬉しさを覚え饒舌になる。
「特殊な世界だから実力に合わせて長さが決まるけど、最低一年は座学だったり現場実習だったりの研修がある。小早川汐織とかは、研修前の本当に初歩なお勉強会。光子ちゃんがもしうちに入ったら、多分ちょっとした勉強だけですぐ研修に入れると思うぜ」
「はあ……まあ、入りませんけど」
 おっと、と拓也は肩を落としつつ口を一文字に結んだ。饒舌が過ぎた。ツンとした光子の雰囲気がまた復活している。頑固だ。拓也は天井を仰いだ。
 このツンツンをなんとか崩せないだろうか。ふとそう考えている自分に気付いたのと、静江がにこにこうきうきとした声で光子に話しかけるのはほぼ同時だった。
「私ね、研修は光子ちゃんのが初めてなんだよ」
 静江は噛みついてくる光子を一度しか見ていないからなのか、それともただ性格なのか、にこにこと会話を続ける。人なつっこい静江の笑みに、光子のツンとした態度も力が抜けたようで、そうなんですか、と少々おどおどとしながら会話が続く。
「前までは、普通の派出所のお巡りさんだったの。あんまり力強くないから、私は拓也くんみたいにはなれないと思う。光子ちゃんは力強いんだよね?凄い、研修も短いと思うよ!」
 いいなあいいなあ、飛び跳ねるんじゃないかと危惧するほど静江はにこにこと笑って、尊敬のオーラを惜しみなく光子に向ける。静江に力が無いわけではないが、常時はっきり何かが見えるまでにはまだ成長していない。初めて出会ったときに、幽体離脱をしていた拓也をはっきりと見た光子は、静江には輝いて見えるようだ。
 並べられたそれらの言葉は、全部光子の地雷だ。しかし、子犬が一生懸命しっぽを振って見上げてくるような静江の純真な瞳は、拓也のときのようにきつと睨めない。光子の顔が照れを含みつつも、複雑げに歪む。
 いいぞ、もっとやれ!ツンを崩せ!拓也は静江へ、心の中でエールを送る。それを受け止めているかのように、静江はエレベーターに入ってもなおもにこにこと、惜しげもない尊敬のまなざしを光子へ向けた。
「ねえねえ、光子ちゃんも何か道具を使うのかな?どんなことに使う?拓也くん、光子ちゃんに吹っ飛ばされちゃったけど」
「……静江さん、それ余計」
 あまり思い出したくないことだ。ハルに笑われて余計である。
「ああ、ごめん!……だけど、拓也くん力も強いし面倒見もいいから、さっきいた小さな子達には人気なのよ!光子ちゃんも凄いからきっとすぐに……あ、そっか!入らないんだっけ!」
「え、ああ、はあ、いえ」
 苦さより恥ずかしさが先に立ってきた頃、光子はもごりとありがとうございますと俯きつつ礼を言い、その後で微かに首を振った。
 がこん、とエレベーターが一階に到着し、静かに開く。
「……こんなの、ちっとも凄くないです……」
 ぽつりとした呟きは、ドアが開く音にかき消されそうだった。俯く光子のつむじを拓也と静江は二人で見て、顔を合わせる。きょとんとした静江は首を傾げ、拓也は肩を竦めて再び光子を見る。
 静江はもう一度強く言った。光子ちゃんは凄いわ。
「人を救えるかもしれない力を持っているのは、とても自慢出来ることだと思う」
 車とってくるね、静江はそう一言残し小走りで走っていく。光子は俯いたまま、さっきよりももっと小さな声で、はいと返事を返した。
 二人で歩道のはじで待つ。オフィス街を歩く人々の殆どは、スーツ姿のサラリーマンだ。まだ昼食の時間にも差し掛からない休日のこの時間、歩く人はとても少なく、初夏のビル風がたまにびゅうと強く吹くばかりである。
「吉本さんはとても優しい方ですね」
「んんん」
 拓也は苦笑した。
「静江さんは優しすぎてちょっと危ない」
 え?拓也のその言葉の意味を光子が聞き返すと、話をすればと拓也は一方を指差した。
 見れば静江がきゃあきゃあ騒ぎ、足をもつれさせながら猛スピードで帰って来ていた。その頭には、たい焼きのようなフォルムの座布団ほどはある魚がかぶりついている。昆虫の羽が生えた可愛らしいそれに、光子はぎょっとする。
「拓也くん!やっちゃった!取って!」
「全くもう……」
 拓也が呆れて溜息をつくと、慌てながら走ってくる静江につられて、慌てふためいた光子が取り外す方が早かった。クッションの様に大きい魚は、きゅぽんと可愛らしい音を立てて外れ、いけません!と短く光子が叱ると、そっぽへびちびちと飛んで行った。
 空に消えていくそれをぽかんと見送り、呆気に取られたままの二人に、拓也はぱんと手を叩いてこちらを振り向かせる。はっと意識を取り戻した二人が、光子はあけっぱなしだった口を手で押さえ、静江は気まずそうに眉を寝かせた。
 拓也が咎めるように眉根を寄せる。
「静江さん、また優しくしたでしょ。ああいうのはむやみやたらに優しくすると危ないって、俺も父さん達も言ってるじゃんか」
「ごごごごめん……木に風船がひっかかってるかと思って……」
 涙ぐんでいる静江と呆れ顔の拓也では、もうどちらが年上かは分からない。ぐずぐずと崩れる語尾に、拓也は項垂れた。
「見分けまだつかないか……研修覚悟するといいよ……」
「はあい……光子ちゃん、ありがとうね」
 静江は目に見えてしょぼくれながら、再び駐車場の方へと歩いて行った。その背中を苦笑しながら見送りつつ、拓也はまだ呆然とする光子に同意を求めるように肩をすくめた。
「な?危ないだろ?優しいのはいんだけど、対処出来ないんだ。静江さんをスカウトしたのは警察官で力を持ってたから、ってのもあるけど、殆んどはあれが理由」
「は、はあ……」
 光子は、まだ少し感触の残る両手をじっと見た。誰かにひっついた何かを取るのは、先日夏美にもやったばかりだ。しかし、夏美の時とは違う、静江はありがとうと言った。
 ありがとうと、真っ直ぐと光子を見て言ったのだ。
「そこが静江さんのいいとこでもあるんだけどさ、やっぱり怖いし……って、えええ!」
 ほたりと光子の瞳からしずくが静かに落ちて、次は拓也がぎょっとする番だった。光子はすぐさま両手で目を押さえて、すいません、としっかりした声で呟いた。押さえた両目からもう涙がこぼれることはないが、一つ目のしずくをばっちりと見てしまった拓也は慌てふためき、上着から何処かで配っていたポケットティッシュを素早く差し出した。
 目を押さえている光子にもわかるよう、ティシュ!と肩を叩きながら押しつけるが、光子は首を振って断る。
大丈夫ですと、数度深呼吸してから顔をあげた。目は潤んではいるが、もう何かがこみ上げてくる様子は無い。黒曜石のように黒い瞳に、拓也の中でまた言い知れぬ感情が沸き起こる。
「この力で祖父母以外にお礼を言われたのは初めてだったので、あと、力を褒められたのも初めてで、動揺しました。もう大丈夫です。気にしないでください」
 ふう、と息を吐いて背筋がぴんと延びていく。コンタクトレンズの広告が入ったポケットティッシュは、結局光子に受け取られなかった。
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