星屑オペラッタ ~もしもケルッツアが異世界に行けなかったら~

境 美和

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行こう!  日帰り旅行で砂漠に出発!!

計画の行方

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・計画の行方・









結論から言って、ケルッツアはかなり動いた。

 五月中旬、ダリル邸を辞してから、彼は暫く学会には出るものの論文発表等は止め、夏場でも薄手のセーターにワイシャツにスラックスという格好でウィークラッチの島を散策する事を日課にした。それは島の森の中や、国立図書館のある側と対極に位置する、岸壁の下までも。表面からの探索を一通り終えると、内側からも探索を開始する。



 王都の西の辺境、ウィークラッチの孤島に遺跡がある事は、国の古い言葉で千の花、を意味する科学大国では半ば常識であった。

 遺跡。用途の分からないいずれも石で出来た洞窟のような造りの建物。

 そういった、遺跡と呼ばれるそれらが、この国には無数にある。

 そして王国の始まりから、既にそれは在ったと言われている。建国神である慈愛の女神プロティシアは、その存在を敢えて残しているのだとも言われている。先に滅びた何某かの痕跡すらも又、女神は愛し、在る事を赦していると。

 故に、女神の慈悲を汲まず、この国の遺跡を壊すことは何人にも許されざる行いであった。

 多くの遺跡は番号を振られ、人の出入りを禁ずる処置が成されている。

 また、周辺の国や部族などにも呼びかけて、援助を図る代わり、そうした遺跡を数多く、保護、または所有権を求める活動もしていた。



 その遺跡、ウィークラッチ島のものは第二十三号遺跡と呼ばれるが、その遺跡に用があって、ケルッツアは遺跡の中に立ち入ることはしないものの、周辺をくまなく散策し続けた。

 その合間、七月の半ば辺り、ダリル家の元当主であるソフィレーナの母に電話で訪問の許可を取り付け、その日の内に、ソフィレーナの外出許可証の、ダリル家側の内定を取り付けた。

『まあ、まあ! まあ!!

 国外に日帰り旅行に行きたいだなんて情熱的ですわね!

 ディス・ファーン殿は、本当に、自分のお立場を良く弁えていらっしゃいますのね』

 電話口でマリアーナ・ド・ダリル――――眩い金髪の所々に白髪がありながらも、老いて尚皺の形も美しい一昔前の美姫からいたく歓迎を受け、訪問当日、普段着よりは幾分華やかな紫色のドレスを着込んだ、銀髪をさらりと流した深窓の令嬢然とする麗しいサラフィーネ・ド・ダリル、ソフィレーナの二番手の姉であるダリル家現当主からもいたく歓迎を受けた。

『私は心より安心致しました。

 よもや、ダリルの娘の髪にロームエッダの花を飾っておいて、よもや。と。

 もう少しで正式な抗議を出す所でしたが、いや、思い留まって本当に良かった。

 弁えていらっしゃるなら、ダリルからは是非もない。

 あとは、王家の印のみですね』

 そんな事を言われたが、ケルッツアは、何が弁えているのか、ロームエッダの花、ダリル家の象徴花をソフィレーナの髪に飾ったことが何かいけない事だったのか、それが何を指すのかも良く判らないまま、取り合えず自身の行いが結果抗議に当たらないことは喜ばしい事だとばかりにその場を辞している。

 サラフィーネの言う通り、ソフィレーナの日帰り国外外出許可証の残る欄は、グルラドルン・ド・シェスラットからの伝手で、王に直接掛け合いに行ったのが七月の終わりの事。

 この国の現国王、エメラルグラーレン・ド・リザは、既に何十年来か、ある意味関係を拗らせるしかなかった友人の訪問、謁見の申し出にいたく喜んだ。

 そして謁見当日、早々に謁見の間ではなく別の客間に場所を移して三十分後には、物凄く渋く苦い粉薬を、少量の水で、直接、無理やりに嚥下した後のような顔をして唸っていた。

 もうニ十分近く唸っているばかりの向かいの様子に、ケルッツアは、タキシードの胸の内ポケットからお気に入りの銀の懐中時計で時間を確認したあと、首を傾げる。

『なあ、エルグ。そんなに難しいものなのか?』

 思わず聞いたケルッツアに返った声は、物凄く不味い風邪薬に苦しんだ後のような響きだった。



『難しい。難しいぞケルズ。――――ダリル家の末姫の日帰り国外外出の事もそうだが、お前にも、国外外出には許可証が居る事を忘れているのではないか?』

『そういえば……そうなのか?』



 ケルッツアがちらりと投げた視線に、居るのだ、と王、エメラルグラーレン・ド・リザは頭痛でも起こったか、見事な金髪の頭を乱暴に左右に振る。纏っているローブの前を寛げた。

『お前は何といっても、遺跡に関して通じた所もあるが、異世界に行くとして失敗し、遺跡を一つ壊した前科者でもあるのだぞ。

 私は良いとして、前科のついたお前に厳しい者も多い。

 それにお前は”賢者”だ。”賢者”とダリル家が結び付けば妄想癖の輩が何を騒ぐか

 ……お前はもう少し自分の立場というものを自覚してくれ』

 難しい顔で唸るエメラルグラーレンに、ケルッツアはあっけらと言い返す。

『空耳は空耳だろ』

 しかしエメラルグラーレンは、空耳ではないから女神は外出許可を出しているのではないか?! となおも渋い顔。

『空耳で済むわけがないだろうケルズ? それにお前にも女神側にも意図がなかったとしても、空耳が力を持つこともある! ……が、まあ。

 これであるならば、頃合いか』

 エメラルグラーレンは、一つ息をつくと、急に造りの良い椅子に泰然と座りなおした。

『そうだな、ケルズ。ウィークラッチのあの透明の膜。あれをどうにか出来たら、こちらも相応のものを出そう――――飲めるか』

 透明の膜。ウィークラッチの遺跡は、度々発動しては、ウィークラッチ島を中心にほぼ円状に周囲の海域を巻き込んで彼の島を孤立させる。電波のズレる音がその合図だった。

 中に閉じ込められた者は、再度電波のズレるような音がしない限り、ウィークラッチ周辺から出られなくなる。辺りの景色に変わりはないが、一定区域から先は透明な膜のようなものが強固に様々なものを内に、外にと押し返す。

 時間の指定があるでなし、発動すれば三日は解かれる事のない不可解な透明の膜のような何かは、国立図書館側としても、また、国の側としても、まったくもって厄介だった。

 だから、ケルッツアは、電話した先の、グルラドルン・ド・シェスラット、及び、この国の現国王、エメラルグラーレン・ド・リザが、ケルッツアの求める物――――ソフィレーナの外出許可証の交換条件としてこの膜の消失か制御を挙げてくるだろうことも、ほぼといえば、ほぼ。実際には勘で見通していた。

『ああ。いいよ。

 なんだ、消滅か?それとも膜は時間制にでもするか?』

 何食わぬ顔でそう告げたケルッツアは、既にこのために遺跡技術解析チームと呼ばれる組織から、散々嫌味を言われつつも第二十三号遺跡、ウィークラッチ島の遺跡の出入り許可を得ていた。まだ誰にも行っていないが、完全とは言えないものの遺跡技術を半ば解読済みでもある。

『…………。完全なる制御、である。』

 対するエメラルグラーレンは重々しくそう告げた。途端、ケルッツアは露骨に嫌な顔をする。

 それを見咎めたエメラルグラーレンは苦笑した。

『そう、嫌そうな顔をするなケルズ。お前のいる島が有事に使われる事のないよう、こちらも務める。

 が、手数は多い方が良いのもまた、事実なのだ』

 ケルッツアは、有事、戦争時の技術の駒に数えられることに浮かない顔をしたが、相応のもの、恐らくは居るという自身の国外外出許可証とソフィレーナの国外外出許可証を手にする為、仕方がないとひそかに諦めた。有事の事はあまり考えたくはないが、王にお願いをするとはそう言う事だという事もまた、ケルッツアは弁えている。

 九月に入っても、ケルッツアは、ソフィレーナとの日帰り国外旅行を勝ち取る為、彼女に業務の大半を押し付ける形になってしまったことを反省しつつも、完全なる解読が済むまでは探索を止めなかった。

『ドクター。どうしちゃったんですか?

 この頃の業務のサボりっぷりは、ちょっと私、見過ごせませんよ?』

 九月に入ってすぐの事、朝のお茶の時間に、あらかじめダリル家に口止めをお願いしているため何も知らされていないソフィレーナがそう小言を漏らしたが、ケルッツアとてこればかりは譲れない。

『うん。うーん。君には悪いと思っているのだけど、ちょっと、どうしても叶えたい事があってね。その為のピースを捜してるんだ』

 薄手のセーターを着こんだケルッツアは苦笑気味に、譲れないんだ、と付け加えた。

 ソフィレーナは、いつものワイシャツと茶色いベストにスラックスという助手然とした格好で不思議そうに小首を傾げ、その美しい栗色の前髪の下、優しげな眉の線を困ったように八の字にした。

『それは、とても大事な事?』

 返るケルッツアの声は頑なだった。

『とても、とても大切な事だ。

 ……それに、もしかしたら君に少し珍しいものを見せてあげられるかもしれない』

 そう言って嬉しそうにするケルッツアに、ソフィレーナは途端頬を赤らめ、美しい前髪の中に目元を隠してしまった。

『私に? 

 …じゃあ……。

 もう少し、総館長業務の代理、頑張るわ』

 そんなやり取りが国立図書館最上階総館長の作業部屋で行われて少し。

 九月中頃には、遺跡技術解析チームが立ち会う中、ケルッツアはウィークラッチ島の透明の膜の完全な制御に成功した。







*****







 九月中旬ウィークラッチ島の透明の膜が制御されたことは、瞬く間に国中を駆け巡った。

 その立役者に元天才学者、今は世間的に見てはまだまだ落ちこぼれとして知られるウィークラッチ島の国立図書館の総館長がいることは、人々の口の端に上った。

『凄い!!!

 これが、ドクターのなさりたかったことだったんですね……!』

 当然のように助手であるソフィレーナも、まるで我が事のように驚き喜んでいたが、ケルッツアとして見れば交換条件を満たしたに過ぎない。それでもソフィレーナの喜びように誇らしさを感じてもいた。



 透明の膜が制御されてから程なく、国立図書館総館長、ケルッツアの元に、燃えるような赤髪を短髪に刈り上げた大柄長身のグルラドルン・ド・シェスラット文化庁長官が訪れた。気楽な様子でやってきたグルラドルンは、手に一つ造りの良い鍵付きの細長い箱を持っていた。その訪問は唐突で、折しも助手のソフィレーナが下階に出張中の事だった。

 それでも喜ぶケルッツアはグルラドルンを自身の作業部屋へと招き入れた。

 グルラドルンは、通された部屋に入るなり、ほい、とケルッツアに箱を差し出す。

 その箱は、ケルッツアが忘れもしない、ある大切なものが入っている箱に相違なかった。

「エルグからケルズに渡してってさ。

 もう大丈夫だろうからって」

 渡されたそれに、ケルッツアは、これもあったか、とばかり、放心。その箱の中の物を箱の上から撫でた。その箱には、もう二十二年前、異世界に行くとして失敗した際、自殺しようとした時に使った金の柄に蒼の宝玉が美しいナイフが入っていた。

 感慨に浸っているケルッツアにかけられる声はあっけらとして優しい。

「お前さ、エルグと連絡着くたび返してくれって……ここ数年まで自殺諦めてなかっただろ。

 エルグ言われる度に参ってたんだよねー。 それがここ数年そんな話しなくなったって、年終わりには飲みたいっても言ってたから考えといて。

 いやーにしても、我らが女神様のご配慮に感謝しなくちゃねえ?」

 グルラドルンの言葉に、ケルッツアは浸っていた感慨から帰ってくると、ちょい、と首を傾げる。

「われらが……ああ、ソフィレーナさんのお母さんに? え、なんで?」

 純粋に分からないケルッツアに、グルラドルンはお前知んなかったの? とあっけら話を続けた。



「あのねーもう二十云年前。お前が異世界行くの実行した日、ホントは王都の教会まで加護を貰いに行く予定が入ってたんデス。んで、その当番がマリアーナ様。

 ケルズは女神に加護を貰ってから、遺跡行ってもらう手筈だった……んだけど、姫君折悪くお風邪を召されてしまってねー……移したら悪いから、って中止になったんだよ」

「うん? うんまあそれは知ってたけど……でも儀式はしただろ? 遺跡の前で…」



 ケルッツアはおぼろな記憶を辿ってそう答えたが、それは形だけ、とグルラドルンはにべもない。

「あん時お前ロザリオ貰ってなかっただろ」

 言われたケルッツアはやはりおぼろな記憶を辿り、何か貰った覚えがない事を告げた。

 二十二年前、その儀式にも立ち会っていたグルラドルンは、ホントはね、と続ける。



「ぼくもあの時は気づかなかったけど、お風邪で辛い中マリアーナ様が御心込めたロザリオが用意されてたんだ。その一品をくすねた阿呆が居て、まあそんな阿呆だから別件で家宅捜索されてあっさりロザリオ見つかったんだけど。

 返ってきたそれを見て、我らが女神は御慈悲が深い方だからねえ? 少し気に止めていたらしくて。

 で、女神様側の親切的な事情もあって、ケルズが助手を軒並み拒否ってる時に、私の可愛い花を少し預けてみましょうか。 って。

 カビ研究に余念のない末の皇女様がケルズの助手に任じられましたとさ」

「そう、だったの? でも春のお茶会ではそんな事」



 ソフィレーナがどうして国立図書館の総館長助手になったのかの裏話を聞かされて、驚くケルッツアに、グルラドルンはあんな所で言うわけないじゃん、と逆に驚き返していた。

「春の宴はどこに何の目や耳があるか分かったもんじゃないからねー」

 そういうものか、とケルッツアは約五カ月前の事を思い返し、そういえば、とグルラドルンに応え返す。

「まあ……クラウェンド皇君とは、あまり話したくなかったかな」

 ソフィレーナの身内とはいえ、クラウェンドは軍と通じている、それだけであまり愉快な話はきけそうにない、というのがケルッツアの判断だった。

 グルラドルンはシニカルな笑みを浮かべ、うんうんと大きく頷いている。

「ケルズって、そういう鼻も効くのが嬉しい所だよねー」

 そう言って鍵はこれ、と箱の鍵をケルッツアに渡した。

 ケルッツアは早速箱を作業机に置いて、箱の鍵穴に渡された鍵を差し込んだ。かちり、と音がして、懐かしい色の赤茶けた砂が僅かにこぼれ出る。箱を開けると綿敷きの箱の中には、記憶と違えない、流砂を模した金の柄に蒼くきらめく宝玉が美しいナイフがあった。

 流民、蒼の流砂の使途の伝統的な自殺方法には必ず必要なナイフが、ケルッツアの目の前に戻ってきた。

「これは、あの遺跡の中で、ケルズの目の前で鞘に納めて、綿敷きの箱に入れて蓋と鍵した、あのまま保管してたものだよ。

 まあ中身はエックス線で取ってあるけど。

 だーれも、エルグでさえも、蓋は開けてないんだ」

 ケルッツアは、大切に保管されていた自身の誇りの体現ともいえるナイフを褐色の手で取り出すと、鞘から刀身を抜いてみる。そこには二十二年前の輝きが褪せることなくあった。

 言い得ぬ感動に、ケルッツアは大切にその輝きをまた鞘に戻し、グルラドルンに笑いかけた。

「ありがとう、とエルグに伝えてくれ。

 年末の飲み会にも、参加する、って」

 その返答に、グルラドルンはにっこりとし、了解、と軽く手を上げた。

 グルラドルンはそれから、ご褒美だって、といって薄紫と黄緑色の二枚の上質紙をケルッツアに渡すと、コーヒーを一杯飲んでから帰っていった。

 二枚の上質紙は、それぞれ薄紫色のものがケルッツア自身の国外外出許可証。黄緑色の物がソフィレーナの国外外出許可証だった。日帰りだとしても取るのが難しい許可証を前に、ケルッツアは、やっとここまで来た、とばかりにっこりする。

 つい先ほどまで話していた過去の事に思いを馳せた。

 あの日、異世界に行けなかったあの時、自身が壊した遺跡の中、ケルッツアは迷わず腰から金の柄のナイフを取り出し首を掻っ切て自殺するつもりだった。

 それは遺跡まで立ち会っていたグルラドルンに力づくで止められ、金の柄のナイフは国王預かりとなった。

 放せと喚いたケルッツアに、グルラドルンは絶対的に命じたのだった。

『王の臣下にして賢者。今をもって大罪人たる、ケルッツア・ド・ディス・ファーン。

 ……これよりお前に、我らが王よりの勅命を下す。

 お前を本日より、ウィークラッチ島は国立図書館の総館長に任ずる。

 お前の大切な流民のナイフは、本日この時より我らが王の預かり。時が来れば返すと我らが王は――――エルグは言ってるよ。

 汝、心に刻め。

 我が王の赦し得るまで、汝はこの国に仕えるべし。

 其、汝に科せられた罰なり。

 汝、心に刻め。

 我が王の赦し得るまで、汝は国立図書館は総館長の任を全うせよ。

 其、我が王の与えし』

 この時の、周りの色が一段と色あせた感覚は、今のケルッツアには懐かしい。当時のケルッツアは、これが恩恵か、とうなだれていた。

『ああ、……分かったと……――――き、恐悦至極だと、我らが王にお伝え願いたい。

 恩と罪から逃げるなどあ蒼の、いいや。いいや!いいや!!!

 ちがう。

 ぼ、……ぼ僕は、しない』

 そうして生かされる生に、自分は流民として、蒼の流砂の使途として失格だろうと、そう心に刻んで生きてきた。それでも恩と罪から逃れることはするまいと、これ以上の生き恥を晒しはしまいと、分を弁えて生きてきた、とケルッツアは思い返す。

 なのに。



『お願いですから!

 もっと自信を持ってください!!!!』



 澄み切った切願に揺れる濃い紫水晶の虹彩に淡く栗色のけぶる眸が、一対逸らされることなく向けられていた。その真摯な眸は、ソフィレーナが助手になってから暫くして、しばしば向けられるものだった。

 分相応の生き方をしている、その事に世間が何を言おうとも仕方がないと、出来ないとの確信に逃げ込んでいたケルッツアに、ソフィレーナだけは、何度も何度もそんなことはない、と力強く否定してきた。その否定に心のどこかで救われていたケルッツアは、今は彼女の鼓舞さえあればなんでも出来そうな気がする、とさえ思えていた。

 初顔合わせの日に書類の不備で名前と性別を間違えた時は、そしてその事で酷く冷めた目で見られた時は、こんな日が来るなんて思わなかった、とケルッツアは独白する。

 初顔合わせの日、自身の作業部屋に居たソフィレーナの姿に、ケルッツアは年甲斐もなく、こう思ったのだ。



(このひとが、僕のメルリッツになってくれたら、嬉しい)



 そんな事を思ったのはケルッツアが生きてきた中でただ一度の事だった。

 そんな不思議な感慨に押されつつも、手元の資料では助手は男だったから、間違えて入ってきたのだろうとどもりも酷くそう聞いたら、どうもそうではないという。その内人が来て、間違った資料だという事にやはりどもりも酷く驚いている間に、彼女の目が恐ろしく冷たくなったことに、自分の願いは叶わないと知った時、それが相応だと諦めたというのに。助手になってからも暫くは顔を合わせないように計算されて動かれていたことに悲しさを覚えていたというのに。

 ある時、散策から帰ってきた時、ソフィレーナが総館長作業部屋で帰り支度をしていた事には驚いた。

 その時は、ゴミを捨ててくれたことが嬉しくて、そんなようなことを告げた気がする。ともかく何か会話がしたくて、作業部屋に彼女がいることが嬉しくて、慣れない感慨を自分でも不可思議におもっていた。

『今夜は冷えますから、夜更かしには気をつけて下さいね』

 柔らかな声と見たこともない程綺麗な眸で、そう言われたことが、それがとてもとても嬉しくて身体が熱くなったことは、正直に言って、ケルッツアの数少ない忘れられない体験に近かった。

 そんなことは、ケルッツアが今まで生きてきた中であまりない事だった。

 母と呼ぶべき流民に褒められれば多少は感じた事であったし、初めて流民のナイフを貰えた、認められた事はとても誇らしい気分でいっぱいになった。その時も嬉しくて身体が熱くなったけれど、同時に背筋も伸びた。

 大学の卒業まで漕ぎつけたことや発表する論が認められた事、最年少で博士号より前に賞を取った事は純粋にワクワクした。大道芸が受けた時や、暴論極論と揶揄されるだろう理論が綺麗な収束を見せる事を纏めた時と似た感覚だった。こうしてああすれば、ほら上手くいくんだ。当たり前の事が認められた達成感と充足感。

 けれど、彼女に感じたのはそれとは違う種のものに思えた。

 その一回だけで、ともかく身体が熱くて、心が熱くて熱くて、そわそわと辺りを歩き回ったり妙に浮かれてしまった。それを堪らなく不思議に思った事も覚えている。

 それからは、自分の相応を知る度に、彼女が怒る事をちょっとだけ嬉しく思っていた。でも怒った顔ばかりは嫌で、なんとか話を変えて笑わせるのに躍起になったりもした。好きだという博士にも合わせてあげたくもなった。

 周りの音なんて雑音でしかないのに、相応の扱いと甘んじるとソフィレーナは怒る。元からいる友達も、自身の相応にあんまりいい顔はしないのは知っているしそれなりに友達の人柄に感謝したけれど、ソフィレーナがその側に居る事は何にも増して嬉しかった。

 その内に、頭の中の煩いものが、何を言っているのか、どうすればいいのか、整然としてくる錯覚に、何度か襲われることが多くなった。

 何とかだけれど、纏めて論が出来ても、出来なくても。相応の扱いに変わりはない。それが自身の分なのだから仕方がない事だというのに。なのにそれにもソフィレーナは怒ってくれた。



(ただ、僕の相応を知るだけの学会に参加してた時も、ついてきてくれて、そうして、不相応だと怒ってくれてたんだ)



 ケルッツアの感慨は止まらない。

 それに浮かれて、頭の中のものも、自然の営みの声も、判然と聞こえ始めたのは何時だったか。

 それは既に失われた感覚に近しいものだった。異世界に行こうと決意する前まで、絶好調だった時期と同じ程度まで回復したのだとすら、時に錯覚した。

 それでも、異世界に行けなかった事と、自殺出来なかった事が堪らなく尾をひいていて、相応の扱い、自分の、分を動かす事は出来なかったというのに。

 老いた体にいっぱいいっぱいの感慨を抱えて、ケルッツアは一言漏らした。

「僕は、ソフィレーナさんさえいてくれたら」

 それでも今度は、年齢が引っかかるのだ。彼女は若く、将来も有望。

 だから、旅行した先で頼むことは疾うに決めていた。

 それが自分の分別なのだと、ケルッツアは揺るぎなかった。
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